音楽偉人伝 第1回 西城秀樹(前編)

音楽偉人伝 第1回 西城秀樹(前編)

西城秀樹

日本の音楽史に残るアーティストの功績を音楽的な側面からたどる本連載。初回で取り上げるのは、5月16日に死去した西城秀樹だ。“ヒデキ”が歌謡曲史に残した爪痕を、2回に分けて振り返っていく。

ヒデキがヒデキになる前夜

2018年5月16日、デビューから40年以上にわたって活躍を続け、日本の歌謡界に数々の名シーンを刻んできたスター・西城秀樹が、この世を去った。享年63歳。5月26日に営まれた告別式には1万人以上のファンが詰めかけ、彼の棺は「ヒデキ! ヒデキ! ヒデキ……!」のコールに見送られながら斎場をあとにした。ヒデキという名前の有名人は何人もいるが、“ポール”と言えばマッカートニー、“マイケル”と言えばジャクソンのように、日本人の多くが“ヒデキ”と聞いて思い浮かべるのは、西城秀樹だと言っていいだろう。彼のような人はもう二度と現れない……その活躍を見届けてきた人ならば誰しもがそう思うスーパースター。間違いなく彼はそうだった。

1971年1月、ザ・タイガースが解散。1960年代末からティーンエイジャーを熱狂させてきたGS(グループサウンズ)のブームは、その象徴でもあったグループの解散によって完全に終焉を迎える。そして取って代わるように、グループの顔からソロへと転身していった沢田研二や、GS全盛の頃に“歌って踊る”という別カテゴリでジャニーズから送り出されたフォーリーブスなどが人気を爆発させたが、GSの消滅によって空いた席はまだ埋まっていなかった。そんな時期に相次いでデビューしたのが、野口五郎、西城秀樹、郷ひろみの3人。ほどなくして“新御三家”と呼ばれるようになる彼らがそれぞれの個性を光らせながら、1970年代の歌謡界を賑わせていくことになる。

“ワイルドな17歳”をキャッチフレーズにヒデキがデビューしたのは1972年3月。デビュー曲「恋する季節」はヒットメーカー・筒美京平の作曲によるもので、もともとは人気GSのザ・カーナビーツに書かれていたものを蔵出しした曲。そう言われると確かにGSっぽくあり、続いてデビューした郷ひろみ「男の子女の子」に比べれば、新しさはあまり感じられない。しかし洋楽を聴いて育ち、地元の広島では小学生の頃からドラマーとしてステージに上がっていたヒデキのボーカルには独特のリズム感があり、ともすれば時代遅れの青春歌謡にもなりかねないこの曲を見事にエンタテインさせている。なお、特撮ドラマ「帰ってきたウルトラマン」の主人公は郷秀樹という名前だったが、この番組の放映が始まったのは郷ひろみも西城秀樹もまだデビューしていない71年4月であり、関係性はない。

出遅れたからこその爆発力?

手探りの中で駆け出していったヒデキだったが、1972年11月の3枚目のシングル「チャンスは一度」あたりでそのキャラクターが見えてくる。デビュー後すぐさまヒットを飛ばした郷に感化されてか、この曲から振付……と言うよりアクションが付いてくる。サビ頭のシャウトなどから、その後の“ヒデキ像”の典型を見ることができるだろう。

そして、翌73年5月に発表した「情熱の嵐」ではそれをさらにバーストさせ、初のオリコンベストテン入り。この頃ヒットしていた映画「黒いジャガー」のテーマ(アイザック・ヘイズ「Theme from Shaft」)を彷彿とさせるようなパーカッシブでファンキーなサウンドも圧巻だが、なんと言っても「君が望むなら~」のあとに続く「ヒデキ!」の合いの手……公開収録のテレビ番組で見られたファンのコールが楽曲のパワーを増幅させた。考えてみれば、この合いの手は近代アイドルのライブにおけるミックスの原型とも言え、その熱気は女性ファンだけでなく、子供たち(当時の筆者)にまで広がっていく。

新御三家の中ではほんの少しばかり出遅れた感のあったヒデキだったが、次作「ちぎれた愛」では2人よりも先に週間チャートでナンバーワンを獲得した。しかし初出場が有力視されていた大みそかの「NHK紅白歌合戦」は落選。絶唱タイプと分類できるダイナミックなボーカルと、そこで生かされる絶妙なビブラートやシャウト、そして持ち前のリズム感覚は、当時のNHKで放送するにはあまりにも規格外だったのかもしれない。

そしてヒデキはローラをつかんだ

デビュー3年目の73年、ヒデキの魅力はさらに爆発していく。ブラスファンクの要素を採り入れた「激しい恋」、ドラマチックなメロディと欧州的な様式美を聴かせる「傷だらけのローラ」というインパクトの強いヒットを立て続けに発表した。特に後者はエンタテインナー・ヒデキの真骨頂として、西城秀樹の歴史のみならず、日本歌謡界において燦然と輝く名曲となる。

そして74年には、日本人ソロアーティストとして初めてのスタジアムライブを大阪・大阪スタヂアムで開催(以降、10年連続で実施)。人気テレビドラマ「寺内貫太郎一家」へのレギュラー出演や、映画「愛と誠」での映画初主演など、俳優としても活躍した。75年には「傷だらけのローラ」のフランス語盤となる「Lola」がフランスやカナダなどで発売され、カナダでは最高2位をマーク。この年の11月には、日本人ソロアーティストとしては初となる日本武道館公演も行った。

この武道館公演も含め、ヒデキは毎年のようにライブアルバムを発売していたが、それらの作品で聴くことができる洋楽カバーも見事。「HIDEKI LIVE'76」でのBadfinger「Without You」、「BIG GAME HIDEKI '78」でのFoghat「Fool For The City」、「BIG GAME'79 HIDEKI」でのKing Crimson「Epitaph」といった洋楽ファンが唸るものから、QueenやKissなどリアルタイムのヒット洋楽まで。無論、ヒデキのパフォーマンスは“ご愛嬌”のレベルではまったくない。

「ザ・ベストテン」2週連続9999点

男性女性に限らず、そして昔も今も変わらず、十代でデビューしたアイドルがやがて立ち向かわなければならないのが、“いかにして大人のエンタテインナーになっていくか”だ。新御三家の人気に煽られてデビューしていったほとんどがここで挫けていったが、当の御三家はそれぞれのやり方で、大人への道を切り開いていった。

ヒデキが20歳のときに発売したシングル「君よ抱かれて熱くなれ」は、作詞が阿久悠、作曲が三木たかしという、ヒデキにとって初の顔合わせとなる作家陣によって編まれたものだが、これもまた大人化計画の一手。このチームでのシングルのリリースは1年半ほど続くが、その間には、思いっきり背中の開いたセクシーな衣装と劇画的なセリフも話題となった「ジャガー」や、男女が会話するように歌われるバラード「ラスト・シーン」、「ブーメラン ブーメラン……」のリフでインパクトを残した「ブーメラン・ストリート」、アダルトな情景描写も冴え渡ったファンキー歌謡「ボタンを外せ」など、ヒデキのキャリアにおいて意義深いものが連発される。

TBS系で音楽番組「ザ・ベストテン」の放送が始まった78年、この年のヒデキは、元日発売の「ブーツをぬいで朝食を」を皮切りに5枚のシングルを発売した。75年発表の「恋の暴走」あたりからちらほらと歌詞の中に出てきた二人称「あなた」もこの時期にはすっかり板に付いてきた感じで、78年発表の5曲のうち4曲がその世界観で表現の幅を広げている。中盤以降では、ヒデキの初期ヒットを手掛けていた馬飼野康二が曲を編み、端から端まで“ヒデキ”と言っていい情熱的なナンバー「炎」や、ファンの間でもっとも人気の高いバラードとなった「ブルースカイ ブルー」など、名曲を生み出した。“ワイルドな17歳”のキャッチフレーズでデビューしたヒデキも、このときは23歳。ワイルドで激情的な楽曲だけでなく、しなやかな大人のバラードまでをも歌いこなすエンタテイナーとなっていたのだ。

そして翌79年、2月に発売した「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」が自身最大のヒットに。この曲は、Village People「Y.M.C.A.」の独自和訳カバーで、“Y・M・C・A”の文字を手振りで表す振付と共に幅広い年齢層に受け、「ザ・ベストテン」では4桁の得点ボードに9999点の満点を2週にわたって表示させるという、あとにも先にもヒデキしか成し得ていない偉業を達成。星条旗をデザインしたジャンプスーツで歌い踊るヒデキの姿をその目に鮮明に焼き付けているファンも多いかもしれない。この曲でヒデキは、2大賞レースの1つ「日本歌謡大賞」の大賞を受賞。カバー曲ではエントリーできない「日本レコード大賞」では30枚目のシングル「勇気があれば」で金賞を受賞し、1年を締めくくった。そして、時代は1980年代へと突入していく。

<つづく>

文 / 久保田泰平 編集・構成 / 木下拓海 画像提供 / ソニー・ミュージックダイレクト

公式twitterアカウント「@JOYSOUND_PR」をフォローして最新情報を入手しよう! JOYSOUND公式 facebookファンページ JOYSOUND CHANNEL