アーティストの音楽履歴書 第18回 後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)のルーツをたどる

アーティストの音楽履歴書 第18回 後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)のルーツをたどる

後藤正文手書きの履歴書。

アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回はASIAN KUNG-FU GENERATIONのフロントマンであり、インディレーベルonly in dreamsの主宰者でもある後藤正文にルーツを聞いた。

ユニコーンの影響で初めて手にしたギター

最初に音楽に興味を持ったきっかけは、小学生の頃にカーステレオで流れていた曲ですね。サザンオールスターズ、井上陽水、マイケル・ジャクソンなどがカセットに入っていて、じいちゃんちに行くときなんかにずっと聴いてました。中でもサザンは両親が大ファンということもあってめちゃくちゃ印象に残ってます。特に「KAMAKURA」(1985年発売)というアルバムはよく車の中で流れていて。今聴いてもめちゃくちゃ凝ったサウンドデザインのアルバムなんですけど、当時から「すごいカッコいい」と思ってました。親の車のカーステだからどれだけ音の再現性があったかはわからないですけど(笑)。

テレビの歌番組もよく観てました。ジャニーズが好きで、少年隊の「stripe blue」(1987年発売)なんてぶっちぎりで曲がよくて。光GENJIもデビュー曲の「STAR LIGHT」(1987年発売)から衝撃的にカッコよかった。のちに「あれは飛鳥涼(ASKA)の仕事だったのか」と知るわけですが、その頃はそんなことは関係なくミーハーに飛び付いてました。

初めて自分で買ったCDはTHE BLUE HEARTSの「青空」(1989年発売)。小6か中1の頃、父親が忘年会の抽選会でAIWAのCDラジカセを当てて俺にくれたんですよ。それがめちゃくちゃうれしくて。さらにCDを1枚買ってもらえることになって選んだのが「青空」ですね。本当は「リンダリンダ」とか「TRAIN-TRAIN」みたいな激しい曲がよかったんですけど、すみや(静岡を中心にしたチェーン店)に置いてあるシングルCDが「青空」だけだったので。アルバムは高いから「買って」とは親に言い出しづらくて。THE BLUE HEARTSを知ったのはたぶん、「はいすくーる落書」の主題歌(「TRAIN-TRAIN」「情熱の薔薇」)として聴いたか、友達に教えてもらったか。最高でしたね。どんな人たちかはまったく知らなかったですけど。

バンドへの興味ということではユニコーンが大きかったです。友達に「服部」(1989年発売)を借りたんですけど「すごいヘンなバンドだな」と(笑)。メンバー全員歌ってるし、「人生は上々だ」なんてどんどんキーが上がって、最後は歌えなくなるっていう。ジャケットは爺さんの写真だし「なんだこれは?」と思いつつ、自分のツボを妙に刺激されたというか。本屋でユニコーンが載ってる「PATiPATi」を立ち読みしたり、表紙のときは買ったりして、どんどん興味が湧いてきて。特に民生さんが好きで「奥田民生ショウ」という本も読みました。その頃は「民生」って呼んでましたけど(笑)。ただのファンですね。民生さんの影響で、中学のときにギターを触ってみたことがあるんですよ。「ヒゲとボイン」(1991年発売)に「風」「風 II」という曲が入っていて。「ダウンタウンのごっつええ感じ」でメンバーが替え歌を歌ってるのを観たときに「これなら難しくないし、弾けるかも」と思ったんです。バンドスコアを買って、親父のギターを弾いてみたんだけど、ネックが反りまくってて全然弦が押さえられなかったんですよ。「これは指が千切れる」と思って、ミュージシャンになるという発想は、弦高が高すぎるMORRISのアコギに弾かれました(笑)。ひょうきんな野球少年だったし、その後もバンドをやろうなんて思ったこともなかったですね。

洋楽に目覚めた高校時代

高校生になるとどんどん洋楽の情報が入ってきました。静岡って実はパンク王国で、90年代の初めにはBad Religion、Green Day、NoFXなどがけっこう流行っていて。野球部の友達から教えてもらった、にら子供というバンドも面白かったですね。曲は「野方一丁目クソババァ Fuck off」とかなんですけど(笑)。「こういう世界があるんだな」と思いました。

高校時代はオールディーズもよく聴いてました。当時流行っていたアメカジから50'sファッションにハマって、ジーンズやスニーカーに凝り始めて。GOWESTのデニムを静岡で買ったりしてたんですけど、その流れで「監獄ロック」「Johnny B. Goode」などが入ったテープを聴いてたんですよ。テープに「Moon River」も入っていて、めちゃくちゃいい曲だなと思ってました。ただ、その頃も自分でバンドをやるという発想はまったくなかったです。パンクは不良っぽくてカッコいいヤツというか、特別なコミュニティにいる人間がやるものだと思ってたし、自分は相変わらず野球部ですからね。音楽は好きだったけど、ただ聴いてるだけでした。

中学まではまったく勉強に苦労しなかったんですが、高校に入るとどんどん成績が下がって。高校の勉強は努力しないとダメじゃないですか。予習、復習なんてまったくやらなかったし、部活がきつくて授業中はほとんど寝てて。中学の先生に「お前は高校生になったら落ちこぼれるぞ」と言われてたんですが、その通りになりましたね。夏の高校野球の予選が終わって「さあ、どうしよう」と。学力的に大学は無理だったし、ファッションが好きだかったら「文化服装学院に行きたい」と親に言ったら、絶対にダメって猛烈に反対されて(笑)。いろいろ考えて、唯一ちょっと成績がよかった生物に賭けようと思って、じいちゃんが農家だったり、じいちゃんの兄弟が農学部の教授だったこともあって適当に農学部に行こうと決めたんですけど、怠け癖が直らず、浪人決定。新聞奨学生として東京の立川に引っ越して、予備校に行くことになりました。

Oasis、ベック、Teenage Fanclubに傾倒した浪人時代

新聞配達はめちゃくちゃ大変でしたけど、そのおかげで東京に出てこられたので今となってはすごく感謝してますね。風呂ナシ、トイレ共同だけど、家賃はタダだし、まかないもあったし、月に5万くらい使えるお金があって、CDもけっこう買えるようになりました。音楽に詳しい友達もできたし、夜中に「BEAT UK」(1990年にフジテレビ系列で放送が始まった洋楽情報番組)を観て「こんなにカッコいい音楽があるのか!」と刺激を受けて。

一番デカかったのは、Oasis、ベック、Teenage Fanclubですね。Oasisは友達に教えてもらいました。最初に聴いたのは、1stアルバムの「Definitely Maybe」(1994年発売)。「Rock 'n' Roll Star」で始まって、3曲目で「めちゃくちゃいい!」と電気が走って。まあ2曲目の「Shakermaker」は、イギリス人じゃないとよさがわからない曲だと思うんですよ。「Rock 'n' Roll Star」はともかく、2曲目が「Shakermaker」なんて、アルバムを売る気あるのかよ!と思いましたけど(笑)、3曲目の「Live Forever」が流れ始めて、リアム・ギャラガーが歌い出した瞬間、完全にヤラれました。ベックは「Loser」ですね。1stアルバムの「Mellow Gold」(1994年発売)はわかりやすいアルバムじゃないけど、「Loser」を聴いたとき「めちゃくちゃ変わった音楽だな」とインパクトがあって。ずっと続いているフォーキーな音楽への興味は、ベックの影響でしょうね。Teenage Fanclubは「Bandwagonesque」(1991年発売)から聴き始めました。彼らはとにかく曲がよくて、「やっぱり洋楽は強いな」と。

浪人時代はライブにも行ってましたね。新宿にあったLIQUIDROOMでReefの初来日、CLUB CITTA'ではFoo Fightersの初来日を観ました。その頃はCLUB CITTA'に洋楽のバンドがよく来てたんですよ。南武線で立川から川崎まで行くので、めちゃくちゃ遠かったな(笑)。RadioheadやWilcoを聴き始めたのも同じ年だし、あの1年は自分の音楽人生にとってめちゃくちゃ重要ですね。初めてエレキギターを買ったのも浪人生のとき。立川の質屋で、アンプとギターのセットを買って。4万8000円くらいだったのかな? よくわからないメーカーだったんですけど、歪んだ音が出せるアンプで、部屋で鳴らしてました。

ノエル・ギャラガーに学んだ作曲術

予備校の授業にはあまり出てなかったんですよ。最初は行ってたんだけど、成績がよかったから、また怠け癖が出てきて「こんな感じで適当にやってたら、どっか受けるだろう」と。ダメですね(笑)。関東学院大学を受験したのはまったくの偶然。Oasisのアルバムを貸してくれた友達に「横浜の端の大学を受験する。遠いし、寂しいから、一緒に受けてよ」と言われて、「いいよ」って(笑)。学校の名前すら知らなかったんだけど、なぜか自分だけ受かっちゃったんです。「まあ、ここでいいか」という感じだったし、高校を卒業してからは行き当たりばったりですね。ただ、立川で浪人しなかったら音楽をやってなかっただろうし、関東学院大学を受験しなかったら、アジカンのメンバーとも会えてなかったわけで。結果的にはよかったんですけど、すごく不思議な感じがします。
大学に入ったらメンバーを集めてバンドをやろうと決めてたし、思い立ったら早かったですね。最初のライブからオリジナル曲をやっていたし、学園祭のときはすべて自分で作ったオリジナル。そのときは曲を書くメンバーがもう1人いて。そいつはその後デザイナーになって「The Future Times」やレーベルのロゴを作ってくれてます。ほかのアーティストのカバーをあまりやらなかったのは、人のマネをしてもしょうがないだろうなと思ってたから。例えばOasisのカバーをやっても、あんなふうにカッコよく歌えないじゃないですか。「Live Forever」もそうだけど、リアム・ギャラガー以外の人が歌っても大してカッコよくならないし、ああ言う感じにならないので。憧れはありましたけどね。チンピラみたいな兄弟がロックバンドで突き抜けていくっていう。

ただ曲を作ることに関しては、ノエル・ギャラガーの影響をめちゃくちゃ受けてます。コードが3、4つあれば曲を作れることを教えてくれたのはノエルなんですよ。ライブの映像を観ればわかりますけど、弦を押さえている左手がほとんど動かないんです。add9、sus4系のコードを弾いて、ベースが動くというアレンジが基本になっていて。ユニコーンよりもはるかに簡単だし、「これなら俺にもやれる!」と勘違いしちゃったんですよね(笑)。「え、こんなに簡単なコードだけで、こんなにいい曲を書けるの?」のオンパレードだし、ノエルの曲の構造を自分なりに調べて、「こういう組み合わせになってるのか」と少しずつ理解できたことが、自分の曲作りにつながったんですよね。

新宿のレコード屋でブートレグのビデオを買って、ノエルがギターで何をやってるのかを何度も繰り返して見たりして、いろいろ研究してましたね。途中で間違えて録画ボタンを押してしまって、いいところで「郁恵・井森のお料理BAN!BAN!」が入ってしまう事件もありましたけど(笑)。歌詞の書き方もそう。「ティッシュ(tissue)」と「イシュー(issue)」、「ステイ(stay)」と「アウェイ(away)」みたいに語尾をそろえると、メロディが気持ちよく聴こえるんだなとか。当時は韻を踏むということも知らなかったんだけど。頭韻、脚韻も知らないし、文学とかにも明るくなかったから手探りでした。

その後、「ノエルだけに頼ってたら、これ以上はどこにも行けない」と思い始めて。その時期に聴いたのが、Weezer。僕が最初にガツンと来たのは「Pinkerton」(1996年発売)だったんですけど。友達にパワーコードの弾き方を教えてもらって、さっそく曲作りに取り入れました。その頃は「ほかのバンドとは違う曲を作らなくちゃいけない」という気持ちが強かったんです。アジカンはテクニックで聴かせられるバンドではないし、曲が面白くないとダメだろうなと。Weezerは構成がヘンな曲が多くて、すごく参考になりました。日本のバンドからも刺激を受けてましたね。メロコア以外の日本のバンドにはそこまで惹かれなかったんですけど、BEAT CRUSADERSやPENPALSに勝手に共感していて。そのあたりからですね、現在のアジカンのスタイルに近付いてきたのは。

NUMBER GIRL、eastern youth、サニーデイに影響を受けて日本語詞に転向

大学の卒業が近付くにつれて、「バンドを続けたい、プロになりたい」という気持ちがだんだん盛り上がってきました。「こんなにいい曲なんだから、もっとワーキャー言われてもいいんだけど」と思ってたんだけど、下北沢SHELTERの夜の部にも出られない状態で。卒業と前後して、東京のバンドの企画に呼ばれるようになって、そこから少しずつ軌道に乗り始めました。
日本語で歌詞を書き始めたのも、この頃。eastern youth、NUMBER GIRL、サニーデイ・サービスとか、日本語で歌うカッコいいバンドがどんどん出てきたんです。それまでは英語で書いてたんですけど、下手な英語の歌なんか誰も聴いてくれないし、そもそも何を歌ってるかわからない。伝えたいことがあったんじゃなくて、日本語で歌わないとサバイブできないから、やるしかなかったんです。詞を書くようなタイプではなかったし、どうやって自分のポエジーみたいなものを見つけたのか謎ですけどね。デビューしてから「文学的な歌詞」なんて言われても、「はい?」という(笑)。小説もあまり読んでなかったですからね。喜多(建介。ASIAN KUNG-FU GENERATIONのギタリスト)くんに薦められて村上春樹を読んだりしたけど、それまでは全然興味がなかったから。

その頃は「インディーズで1枚出して、そのままメジャーに突き抜けたい」と思ってました。今と違って手軽に楽曲を発表できるインフラもなかったし、「リリースするかどうかはレーベルが決める」という時代。「とにかく誰か見つけてくれ。スタートラインに立たせてくれ」っていう。同時にインディーズへの憧れもあって、よく「自分でレーベルを作りたい」と言ってました。KOGA RECORDSやUNDER FLOWERとか、日本にもインディレーベルがあったし、カッコいいバンドもたくさんいて。2010年にonly in dreamsを立ち上げて、インディレーベルを作りたいという夢はようやく実現しましたね。

自分がやりたいことを形にしている今

「25歳くらいまでに声がかからなかったら、やめようかな」とあきらめかけていた頃に、今のマネージャーと出会って、メジャーデビューが決まりました。決して早いデビューではなかったし、土俵際ギリギリでしたね。デビューしたあとも、いろいろな音楽を聴いて影響を受けてます。ニューウェイブリバイバルの頃に「ファンクラブ」(2006年発売)を作ったり、海外のインディロックを聴きまくって「マジックディスク」(2010年発売)につながったり。The Streetsやカニエ・ウェストを聴いて、「これからは言葉の時代だ」なんて言って「新世紀のラブソング」(2009年発売)でラップをやったりね。世界の潮流で何が流行ってるのかが気になるし、リスナーとしてもそういうアーティストが好きなんです。ベックなんてまさにそうですよね。Foo Fightersみたいに、スタイルを確立したうえでアップデートしていくのもいいなと思いますけど。その両方を実現させたくて、アジカンとソロの両輪になったんじゃないかな。

最近リリースしたソロ曲「Nothing But Love」に限らず、曲を作ってるときは「ラッパーの言葉遣いに肉薄したい」というテーマがあります。ラップミュージックは世界的な音楽になりましたよね。ただ自分はバンドマンなので、そこに無闇に乗っかってもなという気持ちがあって。例えば、生音の“なまり”と打ち込みのビートを融合させたいなって。その上で、自分なりの歌い方を考えてみようと。「Nothing But Love」のビートは、シモリョー(the chef cooks me)が打ち込んだデモを、skillkillsのドラマー・さとしくんが生で叩いていて。かなりヨレていて難しいんだけど、そのグルーヴを完璧に表現できるんですよね。同じくシモリョーが編集したギターのフレーズを井上陽介くん(Turntable Films、Subtle Control)が演奏して、それもすごくて。ベースもシモリョーが手弾きで打ち込んでいるし、すべて人力なんですよね。今、素晴らしいミュージシャンの助けを借りて、自分がやりたいことを形にしているところです。

後藤正文(ゴトウマサフミ)

1976年生まれ、静岡県出身。1996年にASIAN KUNG-FU GENERATIONを結成し、2003年4月にミニアルバム「崩壊アンプリファー」でメジャーデビュー。2004年にリリースした「リライト」を機に人気バンドとしての地位を確立させる。バンド活動と並行してGotch名義でソロ活動も展開。the chef cooks me、Dr.DOWNER、日暮愛葉らの作品にプロデューサーとしてするなど多角的に活躍している。2018年に新進気鋭のミュージシャンをフックアップすべく、新人音楽賞「APPLE VINEGAR -Music Award-」を立ち上げた。文章にも定評があり、これまでに著作に「ゴッチ語録」「凍った脳みそ」「何度でもオールライトと歌え」などを刊行。

取材・文 / 森朋之

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