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アーティストの音楽履歴書 第24回 荘子it(Dos Monos)のルーツをたどる

3年以上前2020年08月02日 9:07

アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回はオルタナティブなヒップホップを生み出し続けるヒップホップグループ・Dos Monosの荘子it(Rap, Trackmaking)に、アーティストとしてのルーツを聞いたほか、自身のルーツとなった楽曲で構成されたプレイリストを作成してもらった。

取材・文 / 宮崎敬太

脳内で「バトル・ロワイアル」の主人公がBUMP OF CHICKENを奏でてた

意識して音楽を聴き始めたのは小学4年のとき。4つ歳上の兄がいて、当時はいつも兄の部屋で遊んでいました。我が家では遊具の類を兄に買い与えていて、弟の僕はおさがりばかりだったんですよ。その兄の部屋にMDコンポがあって。僕は兄の編集したMDを聴きながら、マンガを読んだり絵を描いたり。子供の頃は絵を描くのが一番好きだったので、音楽は視覚コンテンツの付随品的な存在ではあったけど、音楽を聴くようになったのはこの頃からですね。

兄はガサツな人間なので、MDに曲名とかを全然書かないんです(笑)。だから誰の曲かわからないまま聴いてました。そのせいか当時はアーティストやジャンルのこだわりみたいなものは全然なくて、ジャニーズのアイドルとかも含めてとにかく音楽ならなんでも大好きでしたね。「ミュージックステーション」や「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」とかもよく観てたし。テレビやCM、映画とかで、兄のMDで聴いてた曲やアーティストを答え合わせしていくような感じで。ちなみにそのMDに入っていたのは、BUMP OF CHICKEN、Mr.Children、ASIAN KUNG-FU GENERATION、X JAPAN、Janne Da Arc、L'Arc-en-Ciel、浜崎あゆみなど邦ロック~J-POPが中心でした。音楽に関しては超ミーハーな兄の趣味なので、そこまでディープでコアな音楽とかは一切なかったと思います。

中でも僕が特にハマったのがBUMP OF CHICKEN。ほかのバンドはどちらかというと情緒や詩的なエモーションを歌ってたけど、バンプの歌詞には小学生でも感情移入できる明確なストーリー性があって、絵本を読むみたいな感じでどっぷりハマりました。あと当時、マンガ版の「バトル・ロワイアル」が大好きだったんですよ。あのマンガの主人公はギタリストのバンドマンで、何かを奏でているシーンがあるんですが、どんな音かはわからなくて。だから僕は脳内でバンプの曲に変換してました(笑)。「バトル・ロワイアル」の主人公はリアルに同級生で殺し合うっていう、すごく過酷な状況に追い込まれるんですが、そんな中でバンプのようにファンタジーな歌詞を書いて、確固たる希望のビジョンを持ちながら前向きに未来に向けて歌ってる、みたい想像をしてましたね(笑)。兄が持っていたマンガやゲームはそのほかにも「ひぐらしのなく頃に」とか「月姫」とか、とにかく凄惨な描写のものが多くて、小学生の自分には刺激が強く、人格形成にかなり影を落としました(笑)。現実にもかなり乱暴者な兄だったので、幼少期はかなりいじめられて、服従させられていましたから、いろんな意味で影響大です(笑)。

初めて買ったCDももちろんバンプ。でもどの作品かは定かじゃなくて。兄がすでに何枚か持っていたので、被らないように買ったのは覚えてるんですけど……さっき調べたら、時期的にはおそらく「プラネタリウム」のシングルだった可能性が高いですね。あと近所の図書館で1stアルバムの「FLAME VEIN」のCDを借りたら、兄のMDに入ってない曲とかがあったのも覚えてます。兄が自分用に編集した際に削られていた曲があったことに衝撃を受けました(笑)。それが小6くらい。

友達の家で鳴らしたギターの音に衝撃を受ける

うちの両親はすごく教育熱心で、小3から塾に通わされていました。最初は真面目に行ってたんだけどだんだん苦痛になってきて、小5の頃にはサボってばかりいました。僕の人生でもっとも成績がよかったのは小4。あとは落ちるばかりでしたね(笑)。中学は私立の中高一貫校に進学したんですけど、本当は小学校の友達がいる地元の公立に行きたくて。親に「受験したくない」って言ったら嫌われると思ったので、無理して塾に通っていたのをよく覚えています(笑)。結局、嫌々受験したらそこそこの学校に受かってしまったという感じです。

中学では最初野球部に所属してました。今の僕からは想像もつかないけど、小学生の頃からずっと野球をやってたんです。とはいえ野球に熱心というよりは、単に勉強から逃げて遊び呆けてた感じでした。明確に人生が変わったのは、中2のときに友達の家でエレキギターを弾いた瞬間。お金持ちの家だったので、無駄に置物みたいなギターとアンプがあったんで、「ちょっと弾かせてよ」みたいな(笑)。最初「ジャラーン」ってなんの加工もされてない音が出ると思ったんです。でも「ギャーン」ってものすごくカッコいい音がアンプから鳴った。アンプのゲインが目一杯上がってたんですね。初めて聴いた生のエレキギターの、それも自分が弾いた音に衝撃を受けて、貯めてたお年玉で2万円くらいのギターを買いました。

ちょうど同じ頃、隣のクラスにガキ大将みたいなやつがいて、そいつがギターを買ったらしいという情報を入手したんです。で、なんの面識もなかったけど、こっちから「一緒にバンドをやろう」ってコンタクトして。それがDATSのMONJOE(Vo, Syn)くんなんですよ。同じクラスに現在Dos Monosを一緒にやってるTaiTanもいた。あいつの実家にはドラムセットがあって、帰宅部で暇そうだったからバンドに入れたんです(笑)。ベースも仲いい子に声をかけて4人でバンドを組みました。

僕はエレキギターの音がカッコいいバンドをやりたかったんです。そしたらある日、TaiTanが彼の兄から譲り受けた1枚のCDを貸してくれて。それがNirvanaの「Nevermind」でした。Nirvanaのギターの音色が、僕が友達の家で初めてギターを弾いたときの音にそっくりで。今思えば、あの音はまさにグランジのギターだった。パンクとハードロック/ メタルの中間くらいで、激しいディストーションに生っぽいロウな質感が混じった音。あの体験が自分の音楽観を決定的に変えたと思います。それまで聴いてた音楽とは全然違っていてワケわかんなかったけど「こういうバンドをやりたい!」と思いました。

初めてNirvanaを聴いたときのことを今でもよく覚えてるんですが、家のパソコンでTaiTanから借りた「Nevermind」のCDを再生したらWindows Media Playerが立ち上がって。「Smells Like Teen Spirit」や「Come as You Are」を聴きながら、スクリーンセーバーみたいなうねうねした波形をずっと眺めて妙に高揚した気持ちになりましたね(笑)。

最初に組んだのもNirvanaのコピバンでした。MONJOEくんがギターとボーカルで、僕はギター。いざ弾いてみると、Nirvanaの曲ってめちゃくちゃ簡単なんですよ。とはいえ、今思い返せば演奏自体の難易度が高い曲ではなく、簡単な曲のほんのちょっとの弾き方やリズムの加減で少しでもカッコよく、オリジナルになるように工夫していたのがよかったのかもしれません。それで次にハマったのがTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTやROSSO、BLANKEY JET CITY。Nirvanaよりは演奏がほんのちょっと難しくて、次にトライするのにちょうどよかった(笑)。あとどっちのバンドもすごくハードでルーディなのに、歌詞はイメージに反して繊細で物語性もあるのが好きでした。このへんで「バトル・ロワイアル」の主人公の音楽のイメージがバンプから上書きされました(笑)。やはり一貫して、ハードでカッコいい音楽性とファンタジーなものを愛でてしまう感性が混ざってる感じが好きだったのかもしれません。男子校のホモソなノリの中で、オタクっぽくならずにカッコよく振る舞いたい、っていう中でのリアリティがありましたね。余談ですが、うちの学校にはミッシェルやブランキーのコピバンをやる伝統があって、その先輩たちのライブをを観て、後輩もハマってコピバンを始めるんです。昨年、THE NOVEMBERSと共演する機会があって、ギターのケンゴマツモトさんと雑談してたら実は彼が中高の先輩で、しかもその伝統を始めた世代だったことが判明したんです。全然知らなかったので、めちゃくちゃびっくりしました。

辺境プログレ、ジャズロック……アバンギャルドに傾倒した高校時代

ギターを始めてからは野球部も辞めて、とにかくずっと弾きまくってました。そしたら徐々にテクニックも身に付いてきて、その都度新しい音楽にチャレンジしていくような感じでした。当時はジョン・メイヤー、デレク・トラックス、ジョン・フルシアンテ(Red Hot Chili Peppers)が現代の3大ギタリストと言われてましたね。でも、デレク・トラックスは渋すぎたし、ジョン・メイヤーはサッカーでいうとクリスティアーノ・ロナウドみたいにキラキラしすぎていてなんか違った(笑)。そこでものすごく影響を受けたのがジョン・フルシアンテ。ジョンの影響でプログレも聴き始めました。しかも、あの人は昔Frank Zappa Bandのオーディションを受けたりもしてるんで、ジョンのルーツをたどる中でザッパやキャプテン・ビーフハートも知って、どんどんアバンギャルドな音楽にハマっていきました。

話は前後しますけど、実は小学生のときに聴いてた兄のMDの中にも、Red Hot Chili Peppersが1曲だけ入ってたんです。小学生のときに観た映画「デスノート」の主題歌が「Dani California」で、高校でレッチリを聴くようになって「あ、知ってる」って(笑)。兄が編集したMDは誰のどの曲か全然わかんなかったけど、それが逆に楽しかった。今でこそ、僕は情報を網羅してデータベース的に整理して音楽を聴くタイプと思われることも多いんですが、そういう知的な芽生えはかなり遅くて。当時はもっと行き当たりばったりで、感覚的に好きとか、面白さを重視してました。今も根本は変わってないです。

オリジナル曲を作り始めたのは高校に上がってから。きっかけはパソコンとギターをつなぐオーディオインターフェースにバンドルされてた「Ableton Live」というソフトのデモ版。ドラムやベースが打ち込めるから「1人で曲が作れるじゃん」って気付いて。特に説明書を読まず闇雲にいろいろやってるうちに徐々にやり方がわかってきました。当時作った曲は、バンドの自主制作CDに収録して近所のライブハウスで売ってましたね。

バンドの音楽性も僕がKing Crimsonとかに影響を受けたこともあり、徐々にプログレッシブな感じになっていって。あと当時はThe Mars Voltaの存在も大きかったです。僕はオマー・ロドリゲス・ロペスがジョン・フルシアンテやRadioheadのジョニー・グリーンウッドの次くらいに好きな現役のギタリストだったので、影響を受けまくってましたね。同時期に人気になってたBattlesも好きだったけど、僕はThe Mars Voltaのうねうねした感じのほうがより好みでした。自分のバンドでも変拍子を取り入れたりもしたんだけど、だんだんメンバーの演奏力がデモのアイデアに追い付けなくなってきて、高2くらいでとうとうバンドの限界を感じました(笑)。

当時はひたすらインターネットで音楽を掘りまくってました。King Crimsonをきっかけにプログレにハマって、最初はGenesisとかYesとかPink Floydみたいなイギリスの王道のバンドを聴いてたけど、徐々にイタリアのAreaとかOsannaやフランスのMagma、ベルギーのAksak Maboulみたいなバンドを知って、いよいよのめり込むようになって。僕が好きなのは、クラシカルな様式美を追求した感じじゃなくて、ドロドロうねうねした土臭いグルーヴのあるプログレなんです。そういう流れでCanとかクラウトロックも聴いてました。あとジャズロックをやってた頃のマイルス・デイヴィスとか、オーネット・コールマンとかジミヘン(ジミ・ヘンドリックス)とか。プログレにしろ、ジャズにしろ、ロックにしろ、ブルースにしろ、僕が感覚的に好きなのは亜流や雑種と言われるものが多かった気がします。それまで順当に聴いてきた流行りの音楽より、ネットで見つけた昔の音楽のほうが全然面白いじゃん!とようやく気付いた感じでした。この頃は毎晩のように急速に好みの幅が広がっていって、翌日の学校で、TaiTanや没とかとめちゃめちゃ情報共有してました。人生で一番音楽を掘っていた時期でした。

そういう音源を聴きながら自宅で1人、本当にずっとギターを弾いてました。フランシス・フォード・コッポラの映画「カンバセーション…盗聴…」に出てくる、レコードをかけながらサックスを練習してる孤独な中年男性、みたいな。もうまさにそんな感じ(笑)。高3になると大学受験があるから、バンドは2年生のときに解散しました。そこからは1人で曲を作ってましたね。それまでは、ギターの影響で生演奏にこだわりがあったんですが、エイフェックス・ツインやスクエアプッシャー、フライング・ロータスなどにハマっていったのも重なり、フランク・ザッパが晩年に出した「Jazz from Hell」みたいな感じの、オーケストラぐらいいろんな要素がごちゃっと打ち込みで詰め込まれたような音楽を作り始めて。1人で黙々とイマジネーションのままに作れるDTMの快楽にのめり込んでいきました。

自分のアイデアを実現できるサンプリング

僕はとにかく勉強が大嫌いだったんですよ。小3で親に強制的に塾に通わされて以来、いかにサボるかってことを延々と考えてた。中高の成績も最悪で、いつも学年で下から2番目。最下位は留年とか退学しなきゃいけなかったから、僕の下の人は毎年いなくなって、なんとか毎年1人ずつ追い抜いて切り抜けてました(笑)。そんな感じですから、高尚な芸術や文学なんかにも一切関心がなかったんですが、高2のとき、BSでたまたま特集してたヒッチコックの映画を立て続けに観たことが人生の大きなターニングポイントになりました。それまでも普通にマンガやアニメやゲームと同列で映画は好きだったんですが、かなり衝撃を受けて。ヒッチコックくらい昔の映画って、ラストの意外な大どんでん返しとかが飽和してたその当時の流行の物語作品に比べると、サスペンスのくせに脚本のレベルで大して驚くようなことが起きず、あらすじに書いてあることがほとんどで、「え、もう終わり?(笑)」って感じでした。でもその代わり、つかみどころのない違和感みたいなものが強烈に印象に残ったんです。それ以来、違和感の正体を突き止めたい欲望に突き動かされて、過去の名作映画を掘るのにどっぷりハマったんです。全然マメじゃないのでちゃんと数えてはいないですが、1年で数百~千本くらい観漁って、徐々にゴダールや鈴木清順やオーソン・ウェルズとかが大好きになって、あっという間に映画監督になりたいと思うようになりました。

映画にハマることで知的な芽生えもありました。いわゆる芸術や哲学みたいなものにも興味が出てきたりして。高3のときは音楽の大学に行くか、映画が学べる大学に行くか、真剣に悩んだけど、最終的に僕にとっての音楽は独学で充分楽しめるもので、勉強するものではないという結論に至り、きちんと勉強して突き詰めたい映画学科のある大学に進学することにしました。ちなみに僕が行った大学は面接がメインなので、普通の受験勉強がほとんど必要なかったことも大きいです(笑)。ただ、教育熱心だった親には猛烈に反対され、最近になってようやくほんの少しだけ許され始めた感じがあります(笑)。

大学では実作メインの学校の監督コースだったにも関わらず、いわゆる技術ではなく、映画とはどういうものか、芸術としてどんなことが表現できるのか、みたいな思想的、芸術論的な勉強ばかりしてました。さっきも言ったけど、僕にとって音楽は聖域みたいな感じで、とにかく楽しいだけのもの。でも大学の頃はすっかり頭でっかちになっていって、「ただ楽しいだけの音楽より、現実の世界にコミットした文学や映画のほうに価値がある!」と本気で考えていました。僕にとって芸術とは世界を反映するもので、政治や社会運動とかとは別の形で世界の本質を提示するものなんです。一方で、音楽は極端なことを言うと空気の振動でしかない。もちろん歌詞とかがある場合はあるけど、僕の中でそれらは音楽にとって副次的な要素だった。だから映画や文学と、音楽は完全に別種のものでしたね。「あらゆる芸術は音楽の状態に憧れる」という有名な言葉がありますが、そんな純粋無垢な音楽なんてものはくだらない!というところまで一度はいきました(笑)。本当に中二病ならぬ“大二病”ですよ(笑)。それまでの人生で勉強を毛嫌いしてた反動もあって、大学ではとにかく猛烈に勉強するようになりました。

とはいえ、曲作りは趣味でずっとやってました。もっとも大きな影響を受けたのはマッドリブです。当時の僕はプログレやジャズが好きで、そういうものの影響下でDTMで曲を作ってはいたけど、打ち込みだけだといまひとつ物足りなくて。かといって演奏力がある友達も周りにはいないし、一度は大学の音楽学科の人とバンドを組んだりもしたけど、アイデアが形になり切らなくて、僕がやりたい音楽はどうやったら実現できるんだろうって。そんなときに1つの指標になったのが、マッドリブがMFドゥームというラッパーとMadvillain名義で制作した「Madvillainy」というアルバムでした。マッドリブはこのアルバムでフランク・ザッパとかをサンプリングしてトラックを作ってるんです。自分の好きな音楽をサンプリングして新しい音楽を作る、ということにものすごい可能性を感じて、そこからそれっぽいトラック作りを始めました。サンプリングヒップホップって、作業としては映画の編集によく似ているし、表現手法としてめちゃめちゃ自分に合ってることにすぐに気付きました。

それが大学の頃なので、僕がヒップホップにハマったのはすごく遅くて。いろいろ通って、最後にやっとハマった音楽ジャンルくらいの感じです。Radioheadみたいなロックの流れからフライング・ロータスとかのLAビートシーンを知って、そのルーツをたどる形でJ・ディラやA Tribe Called Questみたいな90’sのヒップホップを知る、みたいな感じでした。日本のヒップホップも全然興味なくて、それこそSIMI LABで初めてカッコいいと思ったくらい。あと大学時代は、SIMI LABともつながりがある菊地成孔さんの存在もすごく大きかった。エクスペリメンタルなジャズに出自を持つ音楽をやりつつ、一方では映画評論とかもしていて。菊地さんのように人文知的な教養と音楽をミックスさせた人がやっていけてることがかなり支えになったんですよ。個人的なセンスの部分は全然違うと思うけど、ああいうのはまさに僕のやりたいことに近かった。でもこの頃はまだ映画に重きを置いていました。

じゃあ、なんで今映画を作ってないんだって話なんですが、それは僕が本当に集団作業が苦手だからです(笑)。大学時代も映画学科の理論コースとか文芸学科の人たちとは話ができるんだけど、映画学科の撮影コースや演技コースの人たちとは衝撃的にわかり合えなかった。やりたいことが同じ映画だからこそお互い引けない、みたいな。本来ならそういう意見の対立を調整したり、あるいは、昔の映画監督みたいに独裁でやらなきゃいけないのかもしれないけど、そういうのができないんですよね。1回、“人でなしスタイル”にチャレンジしてみたけど、あまりにも自分の本質と違いすぎてあきらめました(笑)。かといって妥協してなあなあで制作したくない。そうなると何もできない。

そうやって悩んでいたときに、軽いノリで中学時代からの友達であるTaiTanと没とDos Monosを組んだんです。自分でアイデアを考えて、自分でコンセプトを決めて、自分でトラックを作る。それを許してくれる2人がいるからこそ、僕は音楽を作ることができると思っていて。だから自分的には「ミュージシャンです」と胸を張れるような感じじゃない。卒業制作を作る前にデモを形にして、没が見つけてきたDeathbomb Arcというアメリカのレーベルにメールしたら、「カッコよかったよ! うちからアルバムを出そう」というレスポンスがすぐに返ってきました。その段階ではまだ映画監督になるという可能性も自分の中にはあったんです。でもDos Monosとしての活動がどんどん大きくなってきて今に至るっていう。だから、映画監督になりたいというモチベーションのまま音楽を作り続けてる、フワフワした状態が今でも続いています。音楽を作るのは楽しいし、自分の音楽は大好きだけど、こんなに楽しいだけでいいんだっけ?みたいな感じは常にあります。

僕はこれまでの人生で闇雲にインプットばかりしてきて、まだほんの一部しかアウトプットできてない。音楽的な面でもそうだし、さっき言った芸術や思想に関することにしても。これからは音楽に限らず、もっといろいろな形で自分の中に溜まったものを出していきたい気もするし、反対に、もしかすると、やっぱり永遠に音楽ばかりやり続けるかもしれないですね(笑)。

荘子it

1993年生まれ、東京都出身。2015年に中学生時代の友人であるTaiTanと没と共にDos Monosを結成。2018年にアメリカのレーベル・Deathbomb Arcと契約を結ぶ。2019年3月に1stアルバム「Dos City」を発表。2020年7月に2ndアルバム「Dos Siki」をリリースした。Dos Monosとしての活動と並行して、他アーティストのプロデュースや楽曲提供も行なっている。

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