今から10年前の2009年11月、18歳の男子7人からなるバンド、ズットズレテルズが現時点での最初で最後のアルバム「第一集」をリリースした。当時の10代が作ったとは思えないほど本格派のファンクサウンドは音楽ファンの間で衝撃をもって迎えられたが、アルバム発売時にはバンドはすでに解散。所属していたメンバーがその後に各所で活躍したこともあって、ズットズレテルズは2000年代以降の数少ない“伝説のバンド”として名が知られるようになった。
この記事では、数カ月の短い活動期間ながら今もなお語り継がれるズットズレテルズの足跡について、OKAMOTO'SやRyohu(KANDYTOWN)を長年取材してきた音楽ライターの三宅正一が改めて振り返る。
オリジナリティの塊だった「第一集」
ズットズレテルズが「第一集」をリリースしてから、ちょうど10年の月日が流れた──。
1曲目「僕の果汁」からほとばしる、濃厚な漆黒のファンクネスと、どこまでもフリーかつフリーキーなラップにいきなりぶっ飛ばされる。演奏やラップの感触は初々しく楽しいのだけれど、そこにはリスナーが思わず気圧される迫力も充満していて、当時10代だった彼らが明らかに名盤から珍盤まで多種多様なレコードをディグり、毎日のように楽器やマイクと戯れていたことがよく伝わってくる。「バジャイナ バジャイナ」で展開するアフロビート、エトランゼが目的のない旅をしながら描いたような広大なサウンドスケープを現出させる「地球のへそ」、まるで「普通にジャムセッションするとこういう曲ができるっす」という面持ちでオーセンティックな音楽力を浮き彫りにする「Nis!」や「ズレテルリズムアンドブルウス」といったインストナンバー、深淵なサイケデリアを現出させながらチルアルトする「真っ赤な目っから」、痛快なスピードファンクで駆け抜ける「HがAとかYからYo!」と、このアルバムを形成している音楽的な要素と意匠は枚挙にいとまがない。
当時からズットズレテルズを音楽的に分解する固有名詞として、BUDDHA BRAND、P-FUNK周辺、フェラ・クティ、Grateful Deadなど数多くのアーティスト名が挙がっていて、実際に「そのフレーズやトピックはあきらかにアレ」という引用も垣間見える部分もあるにはあるのだが、その手付きは無邪気にして見事、そしてオリジナリティの塊だった。
当時は確かにズットズレテルズのようなグルーヴを体現する日本の若いバンドは稀有だった。だから、彼らはときに“アンファンテリブル”とさえ呼ばれた。しかし、今の日本の音楽シーンにズットズレテルズのようなバンドが突如現れたら、驚きというよりも大きな歓迎と興奮をもって迎えられるだろう。もし10年前の彼らにそのことを伝えたら「え、10年経ってやっとそういう状況ですか?」と一笑に付される気もするが、間違いなく言えることは自分たちがただひたすらにカッコいい、面白いと感じる音楽だけをシンプルに鳴らしていたズットズレテルズが残した2009年の記録は、2019年もフレッシュに息づいているということだ。
噂が広まるきっかけとなった「閃光ライオット」
2008年、ズットズレテルズはドカットカット(YUSHI / MC)、リョフ(Ryohu / MC)、セイマン(ラキタ / Vo, G)、ひでちゃん(G)、ヒゲメガネ(ハマ・オカモト / B)、スコポン(オカモトレイジ / Dr)、皿・粉(オカモトショウ / Per)の7人によって、新宿Red Clothにて開催された、約半数のメンバーが通っていた高校の卒業式のアフターパーティに出演するために結成されたという。つまり、生まれながらに一回性のバンドになるはずだったが、その予定はメンバーが「閃光ライオット」の存在を知ったことで少し軌道修正される。10代限定のアーティストのショーレースであり、当時は若きバンドやシンガーソングライターがデビューをつかむ登竜門として最も有名だった「閃光ライオット」で優勝すれば100万円の賞金を獲得できる。彼らがそのキャッチーさを面白がり、その場のノリで出場を決めたのは想像に難くない。結果的にズットズレテルズは優勝こそ逃したものの、決勝進出を果たし、この時点で「得体の知れないすごくヤバい10代のバンドがいる」という彼らについての噂が広まるきっかけとなった。
「閃光ライオット2009」の決勝大会にはズットズレテルズのほかに、GLIM SPANKY、関取花、ブライアン新世界、挫・人間、The SALOVERSといった面々が出場している。ちなみに下北沢GARAGEの楽屋の壁に今でも貼られているポスターがある。それはヒゲメガネ=ハマ・オカモト主催によるイベントのもので、2009年8月2日に下北沢GARAGEで、8月14日に新宿red clothにて2公演開催することを告知しているのだが、ポスターにクレジットされているメンツがまた興味深いのでぜひ画像をチェックしてほしい。特にred cloth公演ではOKAMOTO'Sとズットズレテルズ、ドカット=YUSHIとリョフ=Ryohuが所属していたクルーであり、KANDYTOWNの前身でもあるBANKROLLが一堂に会しているのは第三者でも感慨深いものがある。
時系列を整理すると、ステージ上で解散を発表した「閃光ライオット2009」の決勝大会は8月8日に行われているので、ヒゲメガネ主催のイベントの2公演はちょうどその前後に開催されたことになる。そして、同年11月11日に「第一集」をリリース。そういった流れを踏まえても本当にレアなイベントだったのだなと思う。
10年前と現在を結ぶ轍
その後、ズットズレテルズは2012年に開催された「JAPAN JAM 2012」におけるOKAMOTO'Sのステージにゲスト出演する形で1日限りの復活を果たすが、2015年2月にドカットが急逝。現時点でズットズレテルズが再び活動する予兆はまったくないが、2016年1月に「第一集」の12inch、さらに今年9月には「僕の果汁」の7inchがアナログリリースされ、リスナーの待望論はそのたびに高まっている向きがあるのもまた事実である。
筆者も幾度となくハマ、レイジ、ショウ、Ryohuに直接「またズレテルズをやる可能性はないの?」と聞いた記憶はあるが、一様に未来について明言しない。含みを持たせているとかそういうことではなく「それは神のみぞ知る」というニュアンスに近い。ドカットのいないズレテルズは考えられないという側面もきっとあるだろうし、メンバーが勢ぞろいするのは現実的に難しいという事情もあるだろう。
突き詰めればメンバーにとっては確かにかけがえのない記憶と記録だけれど、それを“伝説”と称されてしまうと、こそばゆいというのが正直な実感だろう。いや、しかし、今改めて現時点では最初で最後のアルバム「第一集」を聴いて、盤に閉じ込められたその無軌道な享楽と衝動に満ちた男の子たちの音楽愛に触れると、やはり彼らはあまりに特別なバンドだった、と痛感せざるを得ない。
OKAMOTO'Sもまた今年CDデビューとハマ・オカモトの加入から10周年というメモリアルイヤーを迎え、1月にそのロックバンドとしてのイズムを濃密に凝縮すると同時にダイナミックに解放した8thアルバム「BOY」をリリースし、6月には初の日本武道館公演を大成功させた。精神的支柱であり続けるYUSHIの遺志を受け継ぎ東京を代表するヒップホップクルーとなったKANDYTOWNは3年ぶりとなる2ndアルバム「ADVISORY」を作り上げ、音楽的な更新とさらに増幅した存在感を力強く示した。
例えばそう、10年前に偶発的な要因が重なって生み出された「第一集」と、10年後の2019年現在にそれぞれ明確なアイデンティティをもって作り上げられた「BOY」と「ADVISORY」の轍は離れがたく結ばれている。
※記事初出時、本文中に事実誤認がありました。訂正してお詫びいたします。
文 / 三宅正一