ミュージックビデオの監督など、あらゆる形で音楽に関わる映像作家たちに注目するこの連載。今回は氣志團、マキシマム ザ ホルモン、フジファブリック、フレデリック、でんぱ組.incなどさまざまなジャンルのアーティストのミュージックビデオを手がけるスミス監督に話を聞いた。
武蔵野美術大学で学んだのち、竹内芸能企画にて竹内鉄郎に師事し、映像作家としての地位を確立したスミス。独特の視点や切り口で描かれる映像に定評がある作風はどのように生まれたのか。そして、“弟子”を募集するなど後進の育成にも尽力する彼の思いとは。
監督だったら全部人にやってもらえる
幼い頃から体が小さかったのもあって、世の中で生き残っていくために人より面白くあることをがんばっていた気がしますね。本が好きで布団の中で読んでいて、親によく怒られていました。特に小学校の頃は漢字が好きで、誕生日には漢和辞典を買ってもらったりしてましたね。漢字は“へん”と“つくり”の組み合わせでできるのが面白くて。「この字は画数多いな。24画もある!」とかそういうことにワクワクしてました。当時から人とは違うものを探すのが好きだったのかな。面白く思われるのが好きだから、人と違う考え方をしようっていうマインドがあったと思います。
子供の頃に観た映像作品で印象に残っているのは、マイケル・ジャクソンの「Thriller」のミュージックビデオと、映画の「幻魔大戦」と「湯殿山麓呪い村」。図書館にレーザーディスクが観られる視聴覚室があって、そこで観た記憶があります。「Thriller」はメイキング映像込みで30分くらいなんだけど、子供ながらに面白かったですね。その頃はちょうどSFXや特殊メイクが流行っていて、「こうやって作ってるんだな」と思いながら観てました。
映像作家になることを意識したのは高校時代。演劇の脚本を書いて、演出をして……それまではマンガ家になりたいとか、お笑いをやってみたいとかそういうのはありましたけど、どれもモノにならず。努力し続けることができなかったんです。絵を描いてもクラスにはほかにもっとうまい人がいるし、音楽をやるにも楽器を練習しなきゃいけないし……でも演劇の演出をしたときに、「あ、監督だったら全部人にやってもらえるな」と思って。そのときの劇の出来栄えは人には言えないレベルでしたけど。
最後の糸だと思ってしがみついた竹内芸能企画
大学で学んだことは……映像が芸術と広告の2つに分かれるということですね。大学の仲間の作品を見て「僕自身って表現したいことがない」と思ったんです。自分の思いを伝えたいというより、面白いものでみんなを驚かせたいという考えが強かった。そこで自分は広告に向いているのかなと思ったのと、芸術の才能は大したことがないと自覚したんです。
ちょうど大学在学中に「ターミネーター2」とクエンティン・タランティーノの「レザボア・ドッグス」が日本上陸して。その2作に衝撃を受けました。あと、大学に図書館というかビデオライブラリがありまして。そこがレーザーディスク借り放題だったんで、学生時代はけっこう映画を観ました。一番影響を受けたのは大林宣彦監督の「転校生」。この映画のストーリーは思春期の男女が入れ替わるという内容なんですが、実際にはそんなことは起き得ないじゃないですか。でも物語の中では、思春期特有の「自分ってなんなんだろう」という疑問を描いていて。入れ替わりという起き得ない出来事なのに、誰もが通る感情をしっかり描いてるから共感できる作品になっていて「映像の可能性ってこういうことなんだな」と。
大学時代の課題をやるときに考えていたのは、楽をすること。当時から視点と切り口だけでなんとかしていた部分がありました。進路を考える頃にはCM文化が全盛期だったから広告もいいなとか思ってましたね。ただ、就職活動をしている人が周りにほとんどいなくて。やり方がわからなくて、新聞の求人を見て応募したりはしたんですが、箸にも棒にも引っかからず、卒業後はバイトしてました。デザインと言うほどでもない、イラストレーターをちょいちょいちょいっていじるようなバイトをして、夜はレンタルビデオ屋を徘徊するという底辺の生活をしてました。「いつか俺は本気を出す」とか思いながら、親の車でレンタルビデオ屋を回って……今考えても、どうするつもりだったんですかね。大学卒業したあと、4月から8月までそんな生活してました。
映像制作会社の竹内芸能企画に入ったのは、会社見学に行く友達についていったのがきっかけでした。竹内芸能企画は和光大学の映像サークルが会社になったような感じで、けっこうダラッとした雰囲気というか。見学に行ったら及川光博のMVの素材撮りのためにミニチュアの撮影をしてたので、それをちょっと手伝ったりして。社長の竹内鉄郎に「遊びに来るんだったらいつでも来れば」と言われたので、「これはもう最後の糸だ。しがみつかなかったらビデオ屋徘徊が止まらない」と思って。当時、千葉の実家から会社のある用賀まで毎日通って、何かあったらちょっとでも参加するという感じでした。1カ月くらいそんな感じで過ごしていたら、会社に住み込んでいたアシスタントの子が夜逃げをしまして。その頃に「誰かMac使える人いる?」みたいな感じになって、「あ、僕、使えます! 持ってます!」と挙手して……本当は何もできなかったんですけどね。そのアシスタントが抜けた穴を埋める感じで無事就職しました。
2年弱くらいアシスタントをやってたんですけど、今思えば口だけで使えないタイプでした。ちょっと肩を叩かれつつも「もうちょっとやります」みたいな感じで続けていたら、優秀な人間が入ってきたので社長に「お前、ディレクターになれ」と。アシスタントをやってるとレコード会社の人と直接連絡を取り合うことも多いので、知り合いになれるんです。そうすると名前も覚えられて、小さい仕事がもらえるようになる。アシスタントとして撮影現場を仕切れるようになるとスタッフとも仲良くなるし、徐々にディレクターに移行していきました。
本当に起きてないことも映像にしていい
当時のMVの流行は外国のように見せることだったんですが、師匠の竹内鉄郎は平気で侍だったり忍者だったり、日本のモチーフを使っていて。その影響で映像の見方も大きく変わったし、「団地をロケ地にできないか?」「制服って面白い」と、もっと日本の見え方を面白くできないかなというアイデアはありました。あとは、音楽とストーリーをシンクロさせられないかなと思ってて。当時はビジュアリックなものが格好良いとされていたけれど、アーティストと関係ない人が出てきて何かをするとか、演技をしながら歌うみたいな作品が日本ではあまりなかったので、そういう作品を撮れないかなと。
竹内芸能企画はMV制作がメインの会社だったので、それも自分にちょうどよかったですね。CMだと15秒か30秒で“強烈な何か”を語らなきゃいけないし、下積みから始めてディレクターに上り詰めていくこともちょっと難しそうだった。映画を撮るにしても、長い時間のものは飽き性の自分には合わないなと思って。MVだったら新人レベルのディレクターでもお金と曲を渡されて、「これで何か面白いことやってください。5分以内で」と依頼される。長くても1カ月くらいで作品を作り終えて、次の制作に移ることができる。その制作スパンも性に合ってたと思います。
監督としてのデビュー作は多分、ウルフルズの「明日があるさ」のMVのメイキング(2001年4月リリースの「明日があるさ(ジョージアで行きましょう編)~風吹けば初志貫徹~」収録の「メイキング・オブ・明日があるさ(昨日編)」)でした。「明日があるさ」が大ヒットしたので、撮影が終わっているのにメイキング映像を撮ろうという話になって。MVの前日にメンバーがダンス練習をしたという設定にしました。撮影日は振付をしていたパパイヤ鈴木さんが午前中しかスケジュールがなくて、しようがなく、パパイヤさんが途中で怒って帰るというストーリーを考えたんです。パパイヤさんが帰ったあとに、アシスタントとメンバーが揉めて、アシスタントが怒って銃乱射してみんな死んで終わるという。全然メイキングじゃないですよね。
それからいくつかMVは撮っていたんですが、自分にとって大きかったのは氣志團の「One Night Carnival」。どっちが先だったか忘れちゃったけど、販促用にVHSを配布したいという話もあって、ヤンキー映画の予告編みたいなアーティスト紹介映像を撮ったんです。今で言うトレイラー映像ですね。そのあとに2002年に代々木公園でのフリーライブを撮ったり、ワンマンGIGのエンディングで流す映像を作ったり。氣志團のMVはたくさん手がけていますが、それには綾小路翔さんといろんな「モノの捉え方」が近かったことが背景にあると思います。2人とも曖昧な認識でイメージしてる、例えばお互い観たこともないのに「『ハリーポッター』みたいなやつ」というだけでイメージが共有できる。勘所が合ってたんです。僕が長けている点というとあれですけど、相手がやりたいことがなんなのかを見分ける能力だと思います。アーティストのやりたいことを全部叶えようとしたらとっ散らかるし、予算も合わないし、時間も足りなくなる。やりたいことを全部やればいいかっていうとそうでもないんです。だから話を聞いたうえで、本当にやりたいことはどういう部分なのかちゃんとすくい上げて、自分なりに解釈して形に落とし込んでいく。それが得意だったのかもしれません。
氣志團とは、MV制作ではアーティストがやりたいことをどうやって具現化していくのか、お客さんが喜ぶものがどういうものなのか考えながら作ることができたと思います。一方で氣志團のレコード会社の担当の方とのつながりで手がけるようになったフジファブリックに関しては、ある程度自分で世界観を作ることができましたね。この音楽が好きな人たちが好きな世界観というものを考えて。春夏秋冬をテーマにしたシングルをリリースすることが事前に決まっていたので、それをもとに映像的にどう見せていくべきかを試行錯誤しました。
僕、“見間違え”が好きなんです。柳の下の幽霊みたいな。一瞬観たときに「オバケがいる!」と思って、もう一度見ると柳だったみたいな錯覚ですね。実際にいたかどうかはさておき、映像としては頭に残ってるわけだから頭にはインプットされているわけです。だから錯覚だったとしても、見えていることと同じなんですよね。そういうものを映像化したいというのがあります。フジファブリックの「銀河」とかは、リアルな出来事ではなく脳内妄想を映像化していて。そういった作風の影響は中学のときに観た「エンゼル・ハート」があると思います。ミッキー・ローク主演のミステリー映画なんですけど、セックスシーンで天井から血がドバドバドバって滴り落ちてくるシーンがあったんです。ただこれが実際に起きていることではなくて、イメージ映像として挿入されていたんですね。それを観たとき「本当に起きてないことも映像にしていいんだ」と。それまでは起きたことを描くのが映像作品の原則だと決め付けていたけど、脈絡がなくても入れたいという映像を入れていいんだと思うようになりました。
映像作家の仕事は「聴く人と演奏する人の間の翻訳」
MVの映像作家は、演奏する人と聴く人がいて、その間を翻訳する仕事だと思います。切ない曲だったら、どういう映像であれば聴いた人が切なく感じるかを考える。「お母さんが死んで娘が泣いてる」という具体的な映像だったら、そのエピソードに感情移入できる人しか楽しめないMVになってしまう。でも「すれ違った男と女が一瞬目を交わすだけ」といった映像なら、そこから聴き手のイメージが無限に広がる。MVを撮るときは、曲の世界を狭めずに物語を作ることを意識するようにしています。
僕の作品は踊らせることが多いと言われるんですが、踊ってる人がいると音楽が流れてることがはっきりわかるんですよね。リズムも表現できるし、どういう曲なのかを一番伝えやすい。あとは、踊ることは日常生活においては変わった動作だと思うんです。振付はコレオグラファーにお願いすることもあるし、自分でも振り付けます。ただ、ダンスビデオにするつもりはないんです。踊りというか“動き”というものにとどめておきたいところもあります。だって本格的なダンスを観たいんだったらMVで観る必要はないですし、音楽を聴かせたいというのが主だから。
キャスティングは、個性的な人が普通のMVにあまり出ていないなと思って、そういう人を積極的に起用したいと思っています。ほかの人が作るMVに出てくるのはいつも外国人だったり、ビジュアル的なカッコよさの延長でしかなかった気がして。違和感を生むために登場する人がいなかったので、そういう存在を出したいと思ったのが最初ですね。例えば制服の女の子でも「日本人にも見えなくもないけど、あまりこういう顔立ちの人はいないよね?」みたいな人をキャスティングする。
今までで一番うれしかったのはヒロトさんとマーシーさん(ザ・クロマニヨンズ)に会えたことですね。中学の頃にバンドブームがあって、その中でもTHE BLUE HEARTSの曲は一番聴いていたので、よもや仕事をすることになるとは思いませんでした。一番遠いところにたどり着いたという感じがありました。「お前、将来、わかってるか? がんばれよ」と中学時代の自分に教えてやりたいですね。
スミネムの相方・夢眠ねむのこだわりは“食べ物”
夢眠ねむちゃんとのユニット・スミネムは2012年に始まって、共同監督という形で活動してます。もともとはSILLYTHINGというバンドのMVを撮るときに、ねむちゃんをキャスティングした縁で知り合いました。その後、ねむちゃんがさよならポニーテールのMVを作らないかと打診されたときに、映像監督の知り合いが僕くらいしかいなかったみたいで、それを手伝うことになって一緒にやり始めた感じです。彼女には僕と違う視点があるので、アイデアをバーっと出してもらって、それをもとに構築していくのが楽しいですね。ねむちゃんは食べ物への執着が強くて。スミネムの打ち合わせはいつもロイヤルホストでやるんですけど、毎回結局「食べ物をどう出すか」になるんですよね。「まんじゅうを出したい」「肉まん出したい」とか。
スミネムではあまりねむちゃんの言うことを否定しないようにしてるんです。一緒にブレストをしていると、ちょっとプロっぽく「それは無理だよ」と現実的なことを言いそうになってしまう。でも、それを言ったら自分1人で作るのと変わらないから、まずはねむちゃんのアイデアを1回受け止めて考えていくようにしています。でもスミネムは今、活動が止まっているのでなんとかしたいんですよね。スミネムへのオファーお待ちしてます。
映像の世界はインディーズ化していく
今はYouTubeで当たり前のようにMVが流れていますが、MVが観られているというより曲が聴かれているという感じがするんです。だって音のない映像を何億回も観ることはおそらくないですよね? 100万再生くらいまでは観て面白いと思われているかもしれないけど、それを考えると悲しいなと思って。MVに興味があると言っても、凝った作品を観たいのかと言えばそうではない気がしますし。YouTubeで動画を観る前に出てくる15秒の広告と同じような扱いになってしまう危険性も感じています。作る側も音楽を宣伝する側も「ここが面白いんですよ、観てください!」とやってるわけですけど、観る側は本当に映像が必要なんだろうかという疑問が出てきてしまう。
ただ、音楽同様に映像の世界もこれからインディーズ化していくだろうから、変わってくるとは思います。レコード会社を挟まずに、アーティストとクリエイター同士で物事が進むことが増えていく気がする。今の若いアーティストはYouTubeを観て育ってきているのもあって「こういうのが作りたい」というイメージもあるし、映像に対する意識が違いますね。映像的な才能があれば自分で作ればいいし、ちゃんと信頼してる人に委ねるという方法も自分たちで選択できるようになると思います。
そのうえでどんな人が映像監督に向いているのかを考えると、今作られている映像に文句がある人ですかね。あとは自分のビジョンを人に伝えて、どうやって動いてもらえるか考えられる人。例えばMVを撮るときにイス1つ用意してもらうにも、スタッフに「どういうものを用意するんですか?」と聞かれたときに具体的に指示を出さなきゃいけない。自分の中にビジョンがあるかどうかが大事なんです。今はいろいろ発達しているので、1人で全部やれちゃうことも増えてはいます。監督、照明、美術、主演すべてを担って、自分の世界を作れるバイタリティのある人もいますし、それもいいと思います。でも、それだと自分の世界から抜け出すことはできない。そこから抜け出すには人を使うか、とんでもないアイデアを思い付くしかない。
今、“最後の弟子”を募集してるんです。最近の若い人は自分で映像を作って、YouTubeにアップして成功する人も多いと思うんですけど、昔の自分みたいなクヨクヨした人もいるわけですよ。そういうやつを掬いあげたいなと。僕は竹内芸能企画に入って、この世界との距離が急にギュッと縮まった。入ってから活躍できるかは実力次第だし、もちろん大変だけど、即現場に入って仕事ができるチャンスを作ってあげようと。それと若い人と仕事をすることへの欲もあります。1人でやってると、どんどんどんどん世界が狭まってしまうので。
・弟子募集要項
スミスが印象に残っている映像作品
THE BACK HORN「世界樹の下で」(2002年)
師匠の竹内鉄郎が撮った作品です。当時は僕もディレクターになっていたので別の仕事をしてたんですが、ロケの場所をいろいろ探していることを断片的に聞いて、「どうやって作るのかな」と思ってたんですよね。でも完成したものを観たらすごくよくて、こんな視点でMVが作れるのかと思いました。
くるり「ばらの花」(2001年)
これはカメラマンの佐内正史さんが撮ってるんですが、それこそ本当に“何もない”感じなんですよ。でもMVとしてちゃんと成立してて、すごいなと。
取材・文 / 中野明子 撮影 / 梅原渉 撮影協力 / aid STD.(https://www.aid-std.com/)