JOYSOUND 音楽ニュース
powered by ナタリー
「JOYSOUND X1」公式サイト「ジョイオンプー」LINEスタンプ販売中

新型コロナ感染で急逝した江崎マサルが見た夢と、突然プロデューサーを失ったhy4_4yhの決意

約3年前2021年11月11日 10:04

江崎マサルが新型コロナウイルス感染のため2021年8月31日に亡くなった。55歳だった。江崎はヒップホップユニットhy4_4yh(ハイパーヨーヨ)のプロデューサーとして知られるほか、自身もアーティストとして長く活動を続け、今年に入ってからは「エザキマサル卍」名義での連続配信リリース企画をスタートさせたばかりだった。

この記事では16年以上にわたり江崎と活動をともにしてきたhy4_4yhの2人に話を聞きながら、彼の遺した足跡を振り返る。また2人にはhy4_4yhの今後についても語ってもらった。

取材・文 / 大山卓也 撮影(hy4_4yh) / つぼいひろこ

感染判明から8日後、容体が急変し帰らぬ人に

今回のhy4_4yhへの取材は江崎が亡くなってから約2カ月後の某日に行われた。yukarinとchanchalaの2人はこの間どんな思いで過ごしていたのだろうか。

「Pちゃん(江崎の愛称)に伝えたい感謝がまだまだあったなって痛感してるし、今も後悔ばっかりの毎日です。こないだもメソメソしながらでかい公園を徘徊してました。Pちゃんが亡くなってからほぼ毎日chanchalaと一緒に過ごしてるんですけど、そういう時間の中で『Pちゃんだったらこんなときどうしてたかな』みたいなことを常に考えてますね」(yukarin)

「私は躁鬱が激しくなって、起きたときはハイなのにすぐにドーンって落ちちゃったりで、yukarinが毎日家に来てくれるおかげでなんとかなってる感じです。生と死みたいなことだけずっと考えてしまう。今は夜も1人で眠れなくなっちゃってお母さんの足元で寝るようになりました」(chanchala)

江崎はここ数年、静岡の実家と都内の自宅を行き来しながら平日は実家で母親の介護、週末に自宅で音楽制作を行う日々を続けていた。8月24日に新型コロナウイルス感染が判明した際にはまだ軽症だったこともあり、静岡の実家から車で数分のところにある別宅での自宅療養を選択。保健所の指示を受けつつ8月31日午後までは家族やメンバーとも連絡を取っていたが、その後病状が急変し、9月1日に別宅を訪れた家族がソファの上で亡くなっている江崎を発見したという。

「31日の昼頃にPちゃんに電話をかけたら出たんですけど、めちゃくちゃ息苦しそうで。『自分はしゃべれる状態じゃないけど週末のイベントの件で担当の人に連絡してほしい』っていうのだけどうにか聞き取れて『わかりました』と言って電話を切ったのがPちゃんとの最後の会話でした。次の日の朝スタッフさんから『江崎が亡くなりました』と連絡が来たときは『えっ!』ってもう頭が真っ白になってしまって。亡くなったソファのすぐそばに、ギターと私たちのグッズの湯呑みが置いてあったと聞きました」(yukarin)

“ちょっと妖精みたい”な江崎マサルの、これまでの道程と知られざる素顔

ここからは江崎の経歴を振り返ってみたい。本名は江崎博洋(ひろみ)。静岡県藤枝市にて生まれ育った江崎は、その端正な顔立ちが芸能プロダクションの目に止まり、俳優を目指して上京。「加藤永二」という芸名で根津甚八主演「ゴト師株式会社 悪徳ホールをぶっ潰せ!」(1993年)や渡辺美奈代主演「麗霆゛子 レディース!!」(1994年)などの映画・Vシネマ作品に出演した。

しかしもともとミュージシャン志望だった彼は早々に俳優業に見切りをつけ、共演者の紹介で出会った葉加瀬太郎プロデュースのもと1995年にロックバンド「STROBO LOADIES(ストロボローディーズ)」を結成する。

江崎はボーカルと作詞作曲を担当しその才能を開花させるも、バンドは音源リリース直前で惜しくも解散。その後はソロアーティストに転身し「ザ・エザキマサル」名義で2001年にメジャーデビューを果たした。当時の衣装はなぜか文豪をイメージした着流し姿。自身の音楽を“SFロック純文学”と呼び、1stアルバム「ビート文豪 処女作集 ~我が愛しのロミ篇」をはじめソロで計5枚のCDをリリースしている(※ザ・エザキマサルの音源はこちらのサイトで今も試聴可能)。

ちなみに当時行きつけの楽器店は渋谷のイシバシ楽器だった。原宿界隈で過ごすことも多く、カフェバー「OH! GOD」やレストラン「ZEST」によく足を運んでいたが江崎は酒もタバコもやらないため、バンドの打ち上げでワイワイ騒ぐ仲間を眺めながらいつも紙にイラストや歌詞を書いていた。店にあった「アダムス・ファミリー」のピンボールが得意でよくプレイしていたという。

その後も江崎はあふれんばかりのクリエイティビティを存分に発揮し、2004年頃からはソロと並行して4人組ロックバンド「AMIDA」、すわひでおとのユニット「すわマサル」「SMフレンズ」、琉球音楽アコースティックバンド「島グニーズ」といったグループを作り、フロントマンとして精力的な活動を続けた。そして2005年からhy4_4yh(前身ユニット含む)のプロデュースを手がけ、こちらはその後16年以上続く彼のライフワークとなった。

「Pちゃんは自分の話をマジでしないんです。本名も年齢もPちゃんの口からは聞いたことはなくて、亡くなってからご家族に教えてもらいました(笑)。ちょっと妖精みたいな感じでしたね」(yukarin)

なるほど“妖精”とはよく言ったもので、筆者もライブや取材の現場で彼とはたびたび顔を合わせているが、気さくで柔和な笑顔と裏腹にどこかミステリアスな雰囲気が記憶に残っている。生前遺したエッジイな作品群が示すとおり、彼は単なる人のいいお兄さんではなかった。その穏やかな表情の奥には底知れない才能と隠しきれない狂気がいつも渦巻いていたように思う。

「それは間違いないです(笑)。誰よりもPちゃんが一番ヤバかったです。どう伝えたらいいのかな。Pちゃんが亡くなったあとご家族と一緒に自宅にお邪魔して掃除とかしてたんですけど、棚を開けたらものすごい量の小銭が出てきて、500円玉貯金の缶と小銭でいっぱいの紙袋がすごい量あったんですよね。とにかく収集癖がすごかったみたいで、ギターがたくさんあるのはわかるんですけど、棚に『クイックルワイパー』が死ぬほど入ってたり、ケーブルだらけの棚があったり、マジでなんなんだという感じでした(笑)」(yukarin)

「一番ヤバかったのが、冷蔵庫を開けたらおびただしい量のペットボトルがぎっしり入ってたことですね」(chanchala)

「だいたいお茶なんだけど全部賞味期限が切れてたよね。野菜室はPちゃんが大好きだった『つぶらなカボス』っていうジュースで埋まってて、それも全部賞味期限が切れてる。たぶん買ったことを忘れちゃうんでしょうね。Pちゃんは飲み物をめちゃくちゃ飲む人で常に水やお茶を飲んでて、ひどいときはズボンのポケット全部にペットボトルが入っててその重さでズボンが下がってました(笑)」(yukarin)

江崎がhy4_4yhに託し続けた思い

こうした浮世離れしたエピソードからも江崎のユニークな才能の一端を垣間見ることができるかもしれない。そんな彼がhy4_4yhに託し続けた思いとはどんなものだったのか。江崎は生前こう話していたという。

「『hy4_4yhは絶対売れる』『今よりも絶対よくなる』っていつも言ってましたね。私たち以上にhy4_4yhへの愛情と執着がすごかった。その代わりパフォーマンスに関してはクソ厳しかったです。褒められたことはほぼないし、打ち上げとかもしたことなくて。『ライブ終わってああ楽しかったとか言ってる場合じゃない。次につなげないといけないのにヘラヘラすんな』って言われて、終わったらいつも車の中で反省会でした」(yukarin)

「でもPちゃんがいなくなってから自分たちがいかに愛されて育ったのかをことごとく思い知らされてます。例えばPちゃんは2人がバイトしなくていいようにって、ずっとお給料を出してくれてたんですよね。自分らそんなに売れてたわけじゃないのに」(chanchala)

hy4_4yhは江崎の個人事務所に籍を置き、長年にわたりインディペンデントな形で活動を続けてきた。江崎は作家としてAKB48、まなみのりさ、織田裕二ら他アーティストへの楽曲提供のほか、CM音楽や舞台音楽、ゲームミュージックなども数多く手がけており、その収入と自身のポケットマネーでhy4_4yhの活動費をまかなっていたという。hy4_4yhの才能と成功を誰より強く信じていたのが他ならぬ江崎自身だった。

「いつもホワイトボードに今後の予定を書いてくれてたんですけど、そこには日本武道館ワンマンと紅白歌合戦出場の2大巨頭がずっと書いてありましたね。いまだに叶ってないですけど」(chanchala)

大きな目標を抱きながらも志半ばにしてチームの最重要人物を失ったhy4_4yh。これまで江崎が作った道の上を全力疾走していた2人は、これから自分たちで進む方向を見つけねばならない。彼女たちは今後どうしていくつもりなのだろうか。

「とにかくPちゃんが遺した曲がたくさんあるから、なんとか2人で形にしてリリースし続けたいと思ってます。わしらの代ではやりきれないほど、2代目hy4_4yhを作らなきゃいけないくらい曲があるので(笑)」(chanchala)

「とりあえず来年3月まではPちゃんの遺した会社でやらせてもらえることになったんで、それまでに自分らYouTubeがんばって登録者数増やしてグッズもたくさん売って、なんとか続けていけるようにしたいです」(yukarin)

江崎は過去のインタビューでhy4_4yhの目標について聞かれ「やっぱり若いうちだけやって終わりっていうんじゃ寂しいんで、30代になったときに芸能の枠で食べているかどうかってところだと思います」(洋泉社MOOK「アイドル最前線2013」)と語っていた。2人は今まさにその言葉通り、“若いうちだけ“ではない活動のあり方を考え始めている。

「これが遺言になると思うんですけど、hy4_4yhのグループLINEでPちゃんが『(テレビ朝日系「フリースタイルティーチャー」への出演により)yukarinにフリースタイルバトルのオファーが絶対に来ちゃうのでこれからも練習続けてください』『chanchalaはウクレレでYUKIさんの「JOY」をカバーしてください』って書いていて」(chanchala)

「実は今年に入ってからソロの活動もやっていこうってPちゃん言ってたんです。実際chanchalaがウクレレの曲を配信リリースしてるし、私も10月に出す予定だったんですけどPちゃんが亡くなってしまったんでソロデビューできずにいて。なのでそういう活動も少しずつやれたらいいなと思ってます」(yukarin)

yukarinの夢に現れた江崎が話したこと

hy4_4yhは短い休止期間を経て11月14日、東京・LOFT9 Shibuyaでのトーク&ミニライブから活動を再開する。そして2022年2月22日には東京・新宿LOFTで江崎逝去後初のワンマンライブを行うことも2人で話し合って決めたという。

「とりあえずバンドメンバーのスケジュールは押さえました。長く一緒にやってる人たちなので少ないギャラだけどなんとかお願いして」(chanchala)

「今までグッズもPちゃんがデザインして作ってくれてたし、イベントタイトルもPちゃんが考えてたし、気が付くと自分らは何もしたことがないんですよね。甘やかされて育ちました。何も教えずに逝きやがって(笑)。『こんなに大変なことをPちゃん1人でやってたんか、ホントごめんなさい』って今めっちゃ思ってます」(yukarin)

チームを構成する大きなピースが欠けた今、hy4_4yhがこれまでと同じように活動していくのは正直困難かもしれない。普通なら解散してもおかしくない状況だが、しかし彼女たちは自分の足で歩き続けることを選んだ。

「どうなるかわからないけど1つひとつやっていくしかないですよね。売れるとか売れないとかじゃなくとにかくやり続ける。今までみたいなペースは無理かもしれないけど、誠実に音楽をやるとかちゃんと生きていくとかそういうことが一番大事なんじゃないかなって。Pちゃんは最後まで止まらなかった人だから私たちもここで終わるわけにはいかないし、せっかく生きてるんだからこういう経験を経て今まで以上に伝えられることがあるかもしれないと思う。hy4_4yhはうちらが辞めますって言わなければ終わらないし永遠に続いていくから」(yukarin)

「そう、それがPちゃんの教えですね。Pちゃんはいろんなユニットを何個も組んでるけど、どれも解散って言ってないんです。ふわっとやらなくなっただけで今もずっと続いてるんですよね(笑)」(chanchala)

最後にyukarinが話してくれたのは先日見たという夢の話だった。

「Pちゃんが亡くなったあと私がすごく落ち込んでた日があって、もうステージに立つの無理かもなって思っちゃったんです。でもその日の夢にPちゃんが出てきまして。Pちゃんが運転してて私は助手席に乗ってて、あっ、私死んだPちゃんと今しゃべってる!と思って『このままずっと話してたい』って言ったら『うれしいねえ!』って答えてくれて、『できるかな?』って聞いたら『できるさ! ずっと歌ってたらいいんだよ!』って言われて。夢はそこでバンって終わって目が覚めて、まだ眠かったけど夢って忘れちゃうから一応メモしておこうと思ってスマホを見たら、そのときの時刻が8:18=ハイパーだったんです。これまでもライブを8月18日にやったりしてPちゃんその数字は大事にしてたから、これは私の妄想じゃなくてPちゃんが本当に夢に出てきてくれたのかもと思って。それから考え方が変わったというか、どんな形であれ歌っていればそれはPちゃんと話せていることになるかなって思うようになりました。今もすごく話したいことたくさんあるけど、Pちゃんが作ってくれた歌が全部の答えだから、寂しくないかって思ってます」(yukarin)

江崎マサル a.k.a. エザキマサル卍 ディスコグラフィ

ザ・エザキマサル

  • 「ビート文豪 処女作集 ~我が愛しのロミ篇」2001年10月24日
  • 「ビート文豪 主題歌 BE-AT BUNGO根津ェ」2002年2月21日
  • 「ザザザのザ」2002年5月22日
  • 「ラヴ ゲノム」2006年12月6日

AMIDA

  • 「AMIDEMO」2004年

<メンバー:江崎マサル(Vo)、峰将典(G)、田口智則(B)、阿部徹(Dr)>

すわマサル

  • 「自首盤SM00121世紀のミュージックシーンに自ら出頭!すわマサル自首します!!」2005年6月3日
  • 「すわマサル誕生」2005年9月28日
  • 「不条理戦士☆怒ENKAマン」2006年5月31日
  • 「CDらしきもの。SM001」2006年12月1日

<メンバー:エザキマサル(Vo)、すわひでお(Vo)>

島グニーズ

  • 「嬉~うれし~」2008年7月7日
  • 「ナビイ・ロード」2009年7月20日
  • 「島ヤカラー」2010年7月19日

<メンバー:えざきまさる(Vo)、シアトルリセス(Vo)、ゲレン大嶋(三線)、目木とーる(G)、ほか>

えざきまさる

  • 「我は音の子~初号盤」2009年8月19日

SMフレンズ

  • 「No.9 中坊サンバ」2011年7月8日
  • 「ヘルメット」2011年7月8日

<メンバー:エザキマサル(Vo)、すわひでお(Vo)、backy(B)、目木とーる(G)、ほか>

エザキマサル卍

  • 「LOVE GENOME」2021年3月31日
  • 「そのWAY→その上」2021年5月19日
  • 「1991 NICE!」2021年7月7日

(※すべて配信シングル)

JOYSOUND
JOYSOUND.COMカラオケ歌うならJOYSOUND

関連記事

RHYMESTER「King of Stage Vol. 15 Open The Window Release Tour 2023 - 2024 at 日本武道館」ジャケット

RHYMESTERの17年ぶり日本武道館ワンマンが映像作品化、追加副音声に岡村靖幸が参加

4か月
RHYMESTER(撮影:オオイシユウスケ)(c)starplayers

RHYMESTERの武道館ワンマンOA決定、金沢公演のドキュメントも交えて

7か月
RHYMESTER

17年ぶり武道館大成功のRHYMESTER、50代でもいまだ成長途中「もっとラップうまくなりたいのよ」

9か月
hy4_4yh「Keep Running」配信ジャケット

hy4_4yhが約2年ぶり新曲リリース、亡きプロデューサー江崎マサルの制作途中データをもとに

9か月
マイナマインド

マイナマインド、hy4_4yh、ミームトーキョー、WAY WAVEの実力派4組が競演

約1年
RHYMESTER

RHYMESTERの17年ぶり武道館公演に岡村靖幸、スチャ、横山剣、SOIL、ナルバJQ、ハイパヨ、Reiら

1年以上
RHYMESTER

RHYMESTERアルバムにRei、Nulbarich・JQ、hy4_4yh参加 全国ツアー&武道館公演も決定

1年以上
NO IMAGE

hy4_4yhが宇多丸「アトロク」に捧げるシングル発表、故・江崎マサルが最後に仕上げた1曲

3年近く
NO IMAGE

hy4_4yh、プロデューサー江崎マサルの死を乗り越えてワンマンライブに挑む

約3年