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Chappoのデビュー物語(前編)|細野晴臣のひと言でバンド結成

Chappo
約1か月前2024年03月11日 10:01

音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く新連載「あの人に聞くデビューの話」がスタート。多種多様なデビューの形と、それにまつわる物語をじっくりと掘り下げていく。記念すべき第1回のゲストはカクバリズムから昨年12月に1stシングルをリリースした新人バンドChappo(シャッポ)。2人に出会いからデビューに至るまでの4年間を語ってもらった。

取材・文 / 松永良平 撮影 / 相澤心也

ミュージシャンは、どうやって“デビュー”するのか? それはプロデューサーにスカウトされて、レコード会社と契約して……みたいな決まり文句を今も信じている人はもうそんなにいないだろう。というか、昔からデビューに決まった形なんてなかったはず。100のミュージシャンやバンドがいれば、100通りのデビューの仕方がある。そして重要なのは、デビューはそのとき一度しかできないということ。その道筋は常に多種多様で、なおかつ誰にとっても1回限り。それは来週デビューするバンドでも、半世紀前にデビューしたシンガーでも変わらない。全部違うのに、ある意味、全員が同じで対等だ。つまり、同じ質問なのに答えがすべてが違う連載ができるじゃんか。「あなたはどうやってデビューしたんですか?」。そこには、自分を信じ、誰かを信じるという決意や葛藤、才能を認め、世の中に伝える方法を探す悪戦苦闘など、数々のプロセスが存在する。ミュージシャンが音楽を志すきっかけが“原点”だとしたら、デビューは最初にして最大の“ドア”だ。自分1人の力では開かない難攻不落のチェックポイント。そこには運も実力も偶然も必要。この連載では、そんな人生のドアが開いた瞬間の気持ちを、いろんな人のいろんな言葉で聞いてみたいと思った。

その記念すべき第1回に登場してもらったのは、2023年12月13日にリリースしたデビューシングル「ふきだし」(カクバリズム)が各所で売り切れ続出の話題を呼んだ2人組バンド、Chappo。メンバーはともに20代前半の福原音、細野悠太。その名前に聞き覚えがある人も少なくないだろう。彼らは2019年10月に東京・恵比寿ザ・ガーデンホールで細野晴臣と一緒に演奏をしていたから。名字でお察しがつくだろうが、悠太くんは細野さんのお孫さんだ。

だが、ガーデンホールでのライブからデビューまで4年がかかったように、彼らの道のりは順風満帆というわけでもなかった。コロナ禍もあったし、「音楽をやっていく」と宣言したわりに、23年までライブもしたことがなければ、正式なバンド名すらなかったのだから。だが、偶然の出会いと不思議な縁を引き寄せるように、Chappoは産声を上げた。そして、そのデビューまでのストーリーの末端には、実は僕も関わっている。

なので、第1回に出てもらうのは、Chappoしかなかった。この取材は、彼らにとってのロングインタビューデビューでもある。

おじいちゃんのスタジオに突然来たヤバいやつ

──まずは2人の出会いを知りたいです。

細野悠太(B, etc.) 音くんと初めて会ったのは、19年の春。僕が大学で入っていた音楽サークルでの新歓イベントです。

──そもそも悠太くんと音くんは大学も違うし、学年も違いますよね。

細野 学年では僕が2年で、音くんは1年生。初めてしゃべったのはそのときだよね?

福原音(G, etc.) 開口一番「あ、ヤバいやつじゃん」って言われたんです。

細野 (笑)。

福原 つまり、自分のおじいちゃん(細野晴臣)のスタジオに突然やって来た謎の男として。

細野 だって、意味がわからないよね(笑)。

──そのエピソードについては、2人が細野さんのラジオ番組「Daisy Holiday!」(InterFM / 2019年8月25日放送)に初めて出演したときに、音くんが語っていましたね。音くんが大学に受かって上京する前から大好きだった1940年代のブギウギについて細野晴臣さんなら深い話ができると思い、アポなしで細野さんのスタジオを訪ねたという。しかも、その場で細野さんと話して意気投合し、「自分の生まれ変わり」とすら思わせたんだからすごい。

福原 細野さんとはそういう出会いがあったんですが、孫である悠太くんがいる他大学の音楽サークルのイベントに僕がなぜ行ったかというと、会いに行くのを勧められたからなんです。

──それは細野さんに?

福原 細野さんの娘さん、つまり悠太くんのお母さんに。

──お母さんとも仲よくなっていた!

福原 地方から上京して一人暮らしだったこともあり、「ご飯を食べていったら?」と声をかけてもらったり、親切にしてもらいました。そもそも、細野さんからも、初めて会って話したときに「僕には孫がいて、(福原とは)気が合うんじゃないかなあ」と言われていたんです。ちょうどその3日後くらいに、悠太くんのサークルで新歓イベントが予定されているとお母さんからもメールをもらい、それで会いに行くことになったんです。

──お母さんも2人が気が合いそうだと思っていたんでしょうね。

福原 なのに、悠太くんは僕を見て開口一番「あ、ヤバいやつ」って言ったんです(笑)。

──悠太くんからしたら、自分以外の家族と急に仲よくなっているヤバいやつという認識?

細野 普通に考えてヤバいじゃないですか(笑)。おじいちゃんのスタジオにいきなり来て、初対面なのに1940年代のブギウギ音楽について長時間しゃべった若い男って、どういう人なんだろう?って思ってました。

福原 ただ、その日に僕が来ることは悠太くんもお母さんに聞いて知っていたので、「セッションやっていったら?」と誘ってくれました。

細野 でも、あのときは僕とは一緒にセッションしなかったよね。

福原 あんまり記憶にないんですよ。「Cissy Strut」(The Meters)とかでギターを弾いたのは覚えてるけど、悠太くんと一緒だったのかどうか……?

──音くんが大学に受かって愛媛県松山市から上京したのは2019年の春ですよね。なぜそれを僕も覚えているかというと、僕が働いているレコード店、ハイファイ・レコード・ストアですでに出会っていたから。

その時点では名前も知らなかったんだけど、すごく印象に残っていました。でも、それから半年くらいお店には現れなくて。そしたらある日、友人のグラフィックデザイナー、岡田崇さんがお店に来て、「こないだの『Daisy Holiday!』は聴いた? 『恐るべし10代!』って企画で、すごい若い子がいて」と教えてくれて。「へえー」って言ってたら、なんとそのとき音くんがお店の中にいたんですよ。

福原 あのときずっと松永さんに話しかけようとしてたんですけど、そのうち自分の話が始まって。

アパートで夜な夜なブギウギの勉強会

──会わないうちに細野さんと親しくなっていたり、恵比寿ガーデンホールで細野さん、悠太くんと一緒に演奏したこと(細野晴臣[Dr]、細野悠太[B]、福原音[G]という編成でSanto &Johnny「Sleep Walk」をカバーした)も知らずにいたんです。めちゃめちゃびっくりしました。やっぱり2人は気が合った、ということだったんですね。

細野 最初は普通に会ってしゃべってたんです。

福原 そうだね。19年の夏くらいには、悠太くんが夜10時くらいに僕のアパートに1人で来て、始発で帰る感じだった。一緒にタコライス作ったり。

細野 揚げ餅とかね。そのうち音くんが「ブギウギとは」みたいな講義を始めて、僕は聞き役になるという感じの関係が1年くらいは続いたかな。

福原 僕は最初(悠太が)怖かったです。だって、しゃべんないんですよ。しゃべんないのに、僕の部屋には来るんです。好かれてるのか、なんなのかわからない。お見合いじゃないですけど、普通に友達らしく友達になったわけじゃないから。「一緒にいて楽しいのかな?」と思うんだけど毎週来てましたね。

細野 大学の授業みたいな感じでした。ブギウギの歴史を最初から面白くしゃべってくれるんで、それが面白くて通っていた感じもあります。

──その頃は、悠太くんはおじいちゃんである細野晴臣の音楽とも、まだ距離があった?

細野 はい、まだ全然。おじいちゃんの曲は、あんまり聴いてなかったですね。

福原 僕は“勉強会”ということにして、悠太くんに自分のウィルスを感染させようとしてました(笑)。一緒に映画を観に行ったりもして。そうやっていろいろ話してるうちに、だんだん細野さんの音楽について話すようになってきたんです。でも、悠太くんはおじいちゃんのことを全然知らなかったんですよ。「え? ユーミンのバックで弾いてるの?」とか「え? 日本で初めてラップしたとか言われてるの?」みたいな反応なんです。そういうことを1個1個、悠太くんに教えていくのが楽しかった。

細野 おじいちゃんを理解するうえで「こいつの話は聞いておいたほうがいいな」と思った部分は、僕にもあったかもしれないです。

──確かに、家族関係の中で、自分のおじいちゃんに直接音楽の話を聞くという場面は生まれにくい。

細野 そうなんです。あんまり音楽の話はしてこなかった。

──恵比寿ガーデンホールで行われたイベント(細野晴臣 音楽活動50周年イベント「細野さん みんな集まりました!」DAY4 / 「細野さんと語ろう!~デイジーワールドの集い~」19年10月14日)に出演した経緯は?

細野 あんまり覚えてないんですよ。いきなりあんなに大きい会場に引っ張り出されて。

福原 決まったのは2週間くらい前だったね。

細野 やる曲も当日決まって、1回だけリハしました。おじいちゃんと一緒に演奏したのは、あの日が初めてでした。

細野晴臣のひと言でバンド結成

──とにかく、あの日、初めて2人は人前で一緒に演奏した。そこがChappoの原点の1つ、と言えますね。ほどなくコロナ禍になっていくので、そこで中断はしてしまうんですけど。「この2人で一緒にバンドをやる」という話は、いつ頃からするようになったんですか?

福原 ガーデンホールの出番が終わったあと、細野さんにも「2人で(バンドを)続けたら?」と言われていたんです。それで「やらねば!」というスイッチが入り、一方的にみんなを集めたんです。渋谷の喫茶店・茶亭 羽當に、ドラマーの海老原颯くんも含めた3人。僕は音楽をやるなら悠太くんとやるのが自然だろうと思ってました。海老原くんはジャズも本格的に叩けるいいドラマーで話が合った。

細野 19年の12月だったよね。

福原 田舎で喘息持ちで病弱でゲホゲホしながらYouTubeで40年代の音楽を浴びるように観ていた自分からしたら、音楽はとても聖なるものでした。自分がそれをやるようになるとは思ってなかったんです。だけど上京して、細野さんや悠太くん、岡田さんたちと出会って、音楽をやっていく道もあるのかと思った。だったら、悠太くんと一緒にやるのは自然な成り行きなのかなという話を細野さんにもした気がします。

細野 けっこう熱い話をされた記憶があります。ノートに今後の目標を音くんが書いていた。

福原 「悠太くんとやるなら言い訳はできない。大変なものにならないといけない。自分にそれができるのか? そんな才能あるのか?」と、完全に気負っていたんです。ちょうどその年の11月に六本木で「細野観光」の展示があったのを2人で観に行ったときに、YMO結成前に細野さんが書いたノートを見た影響もありました。

──「マーティン・デニーをディスコにして全世界で400万枚売る」という目標が書かれたノートですね。

福原 その影響もあって自分でもノートを書いたんです。あれくらい熱いことを、僕もイラスト付きで書いて。それを2人にも見せました。

細野 あれは大学2年の終わりくらいで、僕は留年がヤバかったんですよ。そのタイミングで音くんが「バンドやろう」って言ってくれたから、「これはいいかも。就職しないで済むかな」と(笑)。結局、大学は中退してしまいましたけど。

カクバリズムとのファーストコンタクト

──そして、19年12月31日に、音くんはカクバリズム代表の角張渉くんと会ってますよね。恵比寿の中華レストラン・エイトで。

福原 松永さんが本(「ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」)を出してすぐ、出版記念のトークイベントをHMV record shop渋谷で高城(晶平 / cero)さんとやったじゃないですか。あの日、僕も誘ってもらって観に行ったら、トークを聞きに来ていた角銅(真実)さんを紹介してもらって。でも、その時点では、僕は高城さんや角銅さんがミュージシャンだとも知らなかった。ceroのライブが大晦日にあるからというので行くことになり、そのまま年越しの打ち上げに誘ってもらったんです。その打ち上げに角張さんがいました。

──あの夜、僕もいましたけど、音くんは角張くんと同じテーブルにいて、けっこう話が盛り上がってましたよね。

福原 角張さんは今と変わらず、ひたすらしゃべってました(笑)。最初に「レーベルの社長」として紹介されたので、「大人、怖いな。でも、松永さんもいるから困ったら助けを求めよう」と思っていたんですが、角張さんの話が面白かったんです。東京に来たばかりの年で、1人で寂しい年越しをするはずが、不思議な夜になりました。

──そこがカクバリズムとのファーストコンタクトになってはいたんだけど、その矢先に、全世界がコロナ禍でロックダウンしてしまいました。

福原 コロナ禍には、ずっと(悠太と)電話してましたね。僕も地元の愛媛に帰っている期間が長かった。東京に戻って、スタジオでの練習ができるようになってからは、ずーっと練習でした。僕がやりたいグルーヴを悠太くんと海老原くんに指示して、ひたすら同じリズムで10分くらい3人で合わせる、みたいなことをして。そのうちサークルの先輩が企画したコンピレーションに少し参加しました。

──それが初音源ですよね。バンド名はJingle Workshop。20世紀の先進的ミュージシャン、レイモンド・スコットのプロジェクトにあやかったものでした。でも、その時点では、まだバンドらしさがあまりなくて、やりたいことはあるんだろうけどおぼろげな感じだった。もう少しはっきりしてきたのが、先輩が撮った映画のために提供した曲で、それが「フキダシ」のB面になった「オープニング」でした。

細野 あの頃、とにかくずっと一緒にやってたんです。今日は練習の日、今日は曲作りの日、みたいに。

福原 具体的には僕が東京に帰ってきた2020年の後半から、毎週末の金土日はほとんどスタジオに一緒に入って。

細野 何か曲ができたらおじいちゃんにも聴いてもらって意見をもらうという流れになりました。経過報告をする感じで。

福原 ありがたいことにびっくりするくらいちゃんと意見をくれるんです。言ってもらってうれしいのと同時に、厳しく言われることもあり……。でも(チャック・ベリーの)「Memphis Tennessee」を僕らがやっていたら、細野さんがやったバージョンのデモをデータで送ってくれたりして。細野さんが気にかけてくれているということを意識しながらやっているところもありました。

角張渉に渡したデモ音源

──でも、「細野さんの音楽を乗り越えねば」みたいな変な気負いにもなってはいない印象でした。

福原 そこには僕の変化もあった気がします。やっぱり最初は、自分の好きな音楽を“聖なるもの”として捉えていたから。でも細野さんの姿勢を通じて、音楽って自由にやっていいものだと感じるようになってきた。そもそも自分でどんどんやらないと話にならないし、今はやるのが楽しい、という段階に入ったんです。でも、地下のスタジオで週3で必死に練習してグルーヴを求めてるのに、その成果はごく近しい間柄にしか聴かせてなかった。「この先いったいどうするの?」と心配され始めた時期が2022年の後半くらいでした。

細野 将来のこともあるからね。

福原 すでに細野さんには「音楽でやっていきます」と明確に宣言をしていたんです。状況的には煮詰まりかけていたけど、このまま音楽を作り続けたい気持ちはあった。ただ、僕も大学の卒業が近付いてきて、何かを決めなきゃいけない。そんな時期に、「Daisy Holiday!」にmei eharaさんがゲスト出演するので、角張さんが一緒にスタジオに来るという機会があった。そのときに、細野さんが「うちの孫が音くんっていう変な子と一緒にバンドをやってるんだけど」って言ったら、角張さんが「音くん、知ってます!」って即答したという(笑)。

──19年の大晦日の出会いが、ここで生きた(笑)。

福原 あの夜、連絡先は交換していたんですけど、そのあといっさいやりとりはなかったんですよ。でも、このやりとりがきっかけになって、角張さんに僕らの音源を聴いてもらうことになったと悠太くんからLINEが来て。率直な感想は「絶対にイヤだ。怖い!」でした(笑)。でも、その次の週もスカートの澤部(渡)さんがゲストなので、角張さんが立ち会いでスタジオに来ると聞いて、これはもう逃げられないなと観念しました。

──この頃、悠太くんは「Daisy Holiday!」の収録にほぼ毎回立ち会って、アシスタント的なこともしていたんですよね。

細野 はい。それで連絡先を交換してやりとりさせてもらいました。

福原 それで、録り溜めてあったデモから3曲くらいピックアップして渡すことにしたんです。1回会っただけの僕のことを覚えてもらっていたのもうれしかったので、翌週の放送終了後にスタジオに行って、「ダメダメだと思うけど聴いてください」って直接音源を渡しました。その後、悠太くんと2人でジョナサンに行って「きっとダメだろう」と凹みました。

──そのとき渡した3曲は?

細野 覚えてる?

福原 歌ものの「ツービート」、映画用に作った「オープニング」と、ジャズソングのカバー「You Came A Long Way From St. Louis」でした。音源を渡してから1週間もしないうちに「超よかったです」って連絡が来て(笑)。すごくアガる文章で「え? 本当に? ありがとうございます!」となりました。角張さんは「ツービート」を褒めてくれて、「オープニング」もインストバンドとしていい、と言ってくれてました。そのやりとりのあと、僕と悠太くんが福岡までブレイク・ミルズを観に行ってたとき、「今週どこかでランチしませんか?」というお誘いが角張さんから来て、ソワソワしたのを覚えてます。悠太くんは「やった! おいしいもの食べちゃお」みたいな感じでした(笑)。でも、結局悠太くんは来られなくて、中華レストランに僕1人で行ったんですが、料理が来る前に「うちからリリースしませんか?」と言われました。

<後編に続く>

Chappo(シャッポ)

福原音(G, etc.)、細野悠太(B, etc.)からなる2人組バンド。2019年12月に結成。4年弱にわたる創作期間を経て、2023年9月13日に東京・BASEMENT BARにて初ライブを行う。同年12月に、1st 7inchシングル「ふきだし」をカクバリズムからリリースした。

松永良平(マツナガリョウヘイ)

1968年、熊本県生まれの音楽ライター。大学時代よりレコード店に勤務し、大学卒業後、友人たちと立ち上げた音楽雑誌「リズム&ペンシル」がきっかけで執筆活動を開始。現在もレコード店勤務の傍ら、雑誌 / Webを中心に執筆活動を行っている。著書に「20世紀グレーテスト・ヒッツ」(音楽出版社)、「僕の平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」(晶文社)がある。

※高城晶平の「高」ははしご高が正式表記。

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