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音楽偉人伝 第10回 忌野清志郎(RC時代中編)

5年以上前2019年05月07日 10:02

日本の音楽史に爪痕を残すアーティストの功績をたどる本連載。5人目に取り上げるのは忌野清志郎だ。ロック界のカリスマ、巨星、レジェンド、頂点……彼を形容する言葉はさまざまなものがあるが、いかにしてそう言われるまでになったのか。山あり谷ありの彼の生き様を、まずはRCサクセション(RC)時代からお届けしよう。書き手は、80年代にRCの衣裳係やマネージャー、ファンクラブ会報誌の編集などを務め、彼らのごく身近で過ごしてきた片岡たまき。
今回は中編、数々のトラブルで活動が低迷した70年代半ばから、運命的な出会いによってバンドが生まれ変わり、ヒットをつかむ80年代前半までの足取りだ。

新宿ロフトで観たときはお客が5人

1976年1月、前作から3年、満を持してシングル「スローバラード」がリリースされた。清志郎の振り絞るようなボーカルが圧巻の名曲は、今でこそRCサクセション(以下RC)の代表曲だが、この時代には世間から見向きもされず数カ月で廃盤となる。清志郎は「売れるなんてまぐれに等しい」と腐った。4月には、1年前からお蔵入り状態だった3枚目のアルバム「シングル・マン」もようやくリリースにこぎ着けたが、話題にも上らなかった。清志郎は、アルバムジャケットと同じような奇妙なファッションで過ごしていたという。その上、前歯が1本欠けていた。10月、6枚目のシングル「わかってもらえるさ」をリリース。「わかってもらえるさ いつかそんな日になる ぼくら何もまちがってない」と歌ってはみたものの、ヒットの予兆はかけらもなかった。

1975年は、事務所の独立トラブルに巻き込まれて仕事を干されたが、リンコは芸大でベースを勉強、清志郎は近所の子どもピアノ教室に通うなど地道な努力を怠らなかった。以前より交友のあった井上陽水との共作曲「帰れない二人」「待ちぼうけ」が、陽水のアルバム「氷の世界」に収録され、そのミリオンヒットによって、清志郎の手元には多額の印税が転がり込んだ。清志郎は、金に糸目を付けず高価な楽器を購入。すぐに使い果たしてしまうほど、サウンドへの探求心は深まるばかりだ。

この頃、PAシステム導入の波が音楽業界に押し寄せ、以前から感じていたアコースティック編成のパワー不足を克服すべく、清志郎はエレキ楽器に持ち替えることを決意。慣れない楽器に悪戦苦闘するうちに、バンド自体も揺らぎ始め、77年、ギタリスト破廉ケンチがバンド脱退。幼なじみとの決別に精神的なつらさも加わり、文字通りの“暗黒時代”だった。

ギタリストやドラマーも入れ替わり、数少ないライブも散々なありさま。当時、私が新宿ロフトで観たときはお客が5人だった。それでも渋谷ジァンジァンでのライブは席がどうにか埋まる程度。偶然、真後ろの席に着いたカップルがチャボ夫妻(仲井戸麗市・おおくぼひさこ)で、うれしくて浮き足立った。が、途中「RCは終わったな」と、捨て台詞を吐いて帰っていくお客が数人いて、後ろのチャボはどう思っただろうかと、悲しくてたまらなかった。RCには何1ついい話題もなく、このまま消えてしまうのだろうか……。客席が明るくなっても席を立てず、ただただ悔し涙が落ちた。

チャボを説得し尽くした清志郎

1978年、どん底にあえいでいた清志郎の前に、3人の救世主が続けざまに現れた。

1人目は、旧知の仲だったカルメンマキ&OZのギタリスト、春日“ハチ”博文。彼は突然、渋谷・屋根裏のライブに顔を出し、飛び入りで強引にギターを弾いた。清志郎はそのギタープレイに感動し、その場でバンドへと誘う。春日はライブの惨状に唖然とし、清志郎にアドバイスを始めた。徐々にバンドに加わるようになり、「MCはもっと元気よくアグレッシブにするように」と、ギターは自分に任せて、清志郎にハンドマイクで歌うことを勧める。清志郎は、パーマネントなメンバー集めにも着手。盟友・仲井戸“CHABO”麗市を誘い、チャボはフォークデュオ“古井戸”とかけもちでライブに出演するようになった。

この頃、清志郎は本人名義の「栗原清志とオールスターズレビュー」(新井田耕造、Gee2wo、梅津和時も参加)というセッションバンドでライブを何回か演っている。曲目はRCと変わりないのだが、疾走感がまるでない。楽曲を生かすアレンジ能力、その大切なエッセンスが欠けているのだろうか。セッションバンドというその場の組み合わせでは、自らをバンドマンと呼ぶ清志郎のよさが発揮できないのだろうか。数年の試行錯誤から、すべてを背負い込んだ清志郎に力みも感じた。

同じ頃、2人目の救世主となる人物、真剣に結婚を考える女性と出会う。しかし相手の父親に猛反対され、バンドが無名だと話にもならない世間の壁を、我が身をもって痛感する。私小説のように歌詞へと昇華させる清志郎は、その時の出来事を「誰かがBedで眠ってる」の中で、「誰かとBedで眠りたい 親父の前で そうすれば わかってくれるだろう どんなに激しく結ばれてるかが」と赤裸々に歌い、「Oh ! Baby」では一転して「いっしょに暮らそう ぼくとふたりで ふさわしい家を さがして住もう」と甘くささやき、「きみのパパもママもいつか わかってくれるさ だから涙ふきなよ さあ、まかせとけよ ぼくに」(「ラプソディー」)と彼女を安心させる……。逆境も歌にしてしまう表現者の神髄だ。これまでの怠惰な生活から脱却し、彼女のために、自分自身が変わることを決意する。自己満足的な曲作りをやめ、シンプルで誰もがわかる歌を作ろうと。

79年は、8thシングル「ステップ!」、5年ぶりの日仏会館ワンマンコンサート、多くのイベントに出演。秋、古井戸の解散によって3人目の救世主、仲井戸麗市が正式にRC加入。

なかなか決心のつかなかったチャボを清志郎は説得し尽くした。電話をし、何回も留守電にメッセージを残した。The Rolling Stonesの「悲しみのアンジー」をバックに流しながら残したメッセージで、「俺はRCサクセションに入ることを決めたんだ」とチャボは言う。清志郎はなんとしてもチャボとバンドがやりたかった。意を決したときの清志郎は執拗だ。チャボがいればRCの完成形が夢ではないことを直観的にわかっていた。

春日は長期海外レコーディングに旅立ち、6人(忌野清志郎、仲井戸麗市、小林和生、小川銀次、新井田耕造、Gee2wo)のRCで新たなる船出をした。このときこそ、清志郎が探し求めていたピースが埋まった瞬間だった。

RC、破竹の快進撃が始まる

1980年1月21日「雨あがりの夜空に」発売。屋根裏ライブ4日間、観客動員記録を塗り替え、4月、久保講堂、満員のワンマンコンサート。サポートメンバーにサックスの梅津和時、そして“ソウルシスター“金子マリがゲストで登場した。宿題のノートの上に清志郎の声がポトンと落ちてから実に8年。あのときの予感は的中したのだった。

6月にリリースされた久保講堂ライブ盤「RHAPSODY」は、旬のRCをそのままに、かつスピーディに世に出すことに成功。レコード会社とメンバー間の目論見は、見事にリスナーを射抜いた。同アルバムリリース時に、小川銀次が脱退、Gee2woが正式メンバーとなり、新生RCサクセションが固まった。実力のあるメンバー、それを後押しするスタッフ、頂点を目指しひたすら走る一体感ほど強力なものはないだろう。

次々にタイプの違った曲をリリースし、楽曲の幅を見せつけ、同年10月、「トランジスタ・ラジオ」のヒット。70年代半ばの難解で内に向かった暗さを一掃し、わかりやすく晴れ晴れとした曲。学生時代の空気を鮮やかによみがえらせる歌詞が素晴らしい。

Woo 授業をさぼって 陽のあたる場所に いたんだよ

寝ころんでたのさ 屋上で タバコのけむり とてもあおくて

内ポケットにいつも トランジスタ・ラジオ

彼女 教科書ひろげてる時 ホットなナンバー 空に溶けてった

(「トランジスタ・ラジオ」より)

また、音楽評論家吉見佑子氏が労を尽くした「シングル・マン再発売実行委員会」も実を結び、あの時代にそっぽを向かれて廃盤になってしまった名盤が再発へ。清志郎の売れたいという強い意志と思い切ったバンド変革によって、RCサクセションは長い暗黒時代から、ものの見事に脱け出し、宝石を覆っていた曇りは落ちて、暗黒時代に書き溜めた輝く楽曲たちが次々にリリースされていった。

82年2月、資生堂のキャンペーンソング「い・け・な・いルージュマジック」が、オリコン週間シングルチャート1位を獲得。ド派手にメイクをした坂本龍一とのキスシーンが物議を醸した。「ルージュマジック」に引っかけた清志郎のアドリブ演出は、キワモノとトリックスターの微妙な線を綱渡りする。

全国ツアー、レコードリリース、すべてが順調な80年代前半。ファンは清志郎やチャボの真似をしてコスプレに熱中。RCは社会現象とまでいえる一大ブームとなる。文化人と交流が始まったのだが、清志郎は「文化人みたいな仲間に入れられるのはあんまり好きじゃない。オレはただのバンドマンだからさ」と歯に衣を着せなかった。フジテレビ系「夜のヒットスタジオ」に出演した際は、清志郎が演奏中に噛んでいたガムをテレビカメラに向かって吐きかけ、抗議の電話が殺到。父親には「プロレスみたいでカッコよかった」とほめられたそうだ。生放送にとってはこの上ない危ないキャラクターと認識されると同時に、広く知られる存在となっていった。

この数年間、RCは休みなく疾走してきた。休んでしまうコワさも知っていたからだ。RCが“金のなる木“となった今、群がる連中もきっといただろう。メンバーも分別のつく年代に差しかかっていた。長年の夢を叶えて順風満帆に見えた清志郎は、世間的な活況とは裏腹に、どういうわけか心身ともにダウナーになっていったという。

1982年、事務所に入社した私は、全国ツアーに衣装係として同行し、当時のRCを取り巻く異常な熱狂ぶりを目の当たりにしていた。年100本を数えるライブをこなし、その間中、地方公演で宿泊するホテル、新幹線、空港、はたまた会場の楽屋の窓から、昼夜問わずファンに覗かれ、形がない檻の中で清志郎はとても窮屈そうに見えた。

<つづく>

文 / 片岡たまき 編集 / 木下拓海 

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