誰よりもアーティストの近くでサウンドと向き合い、アーティストの表現したいことを理解し、それを実現しているエンジニア。そんな音のプロフェッショナルに同業者の中村公輔が話を聞くこの連載。今回は1960年代にキャリアをスタートさせ、半世紀以上にわたって第一線で活躍する内沼映二に登場してもらった。筒美京平と組んで南沙織、郷ひろみ、近藤真彦、少年隊といったアイドルのヒット曲を世に送り出したほか、角松敏生、石川さゆりら確固たるオリジナリティを持つアーティストと長年にわたりタッグを組んでいる内沼の話を2回に分けてお届けする。
日本もフリーのエンジニアが増えると思って独立
──内沼さんは1965年にテイチク株式会社に入社され、その後日本ビクターに移籍されたんですよね。
そうですね。アメリカのRCAというレコード会社の作品を日本ビクターの洋楽部門で取り扱っていたんですけど、日本ビクターがRCA事業部という部署を作ることになって、テイチクから日本ビクターに移籍しました。そこで当時RCAレーベルからリリースしていたアーティストは、ほとんど僕が担当していましたね。
──その後、1979年に独立して株式会社ミキサーズラボを立ち上げました。
RCAが事業部から、日本ビクターとアメリカのRCAの合弁会社RVC(RCA Victor Company)になったんですね。僕はそこの録音セクションの管理職になってしまったのですよ。現場の仕事は当然やってるし、管理職の仕事もけっこうきつくて、両方やるのは無理だなと思って。当時35歳ぐらいでしたけど、やっぱりエンジニアを続けたいな、だったら独立しようと。ちょうどその頃の欧米では、それまでレコード会社所属だった人たちがどんどん独立してフリーランスのエンジニアになっていった時期なんですよ。日本も絶対そのような形態になると思ったので、後輩で当時ヤマハにいた清水(邦彦)とミキサーズラボを作りました。
──ミキサーズラボを始めた頃はどのようなアーティストを担当しましたか?
ビクター関係だけじゃなく日音という制作会社の仕事もけっこうやっていたから、数が多すぎて全部は覚えてないなあ。日音だと南沙織とか郷ひろみとか、RCAのほうは西城秀樹とか、アイドル系が多かったですね。ちょうどその頃に筒美京平さんと知り合って、京平さんが手がけたアーティストの作品をやらせてもらいました。京平さんが作家としてデビューして10年くらいからですね。
レコーディングが終わると、汗で塩が付いていた
──1970年代のサウンドを聴くと、例えば郷ひろみさんなどは、かなり音が近い、オンマイクのように感じます。The Beatlesのエンジニアを務めたジェフ・エメリックはマイクを楽器に近づけすぎて上司に怒られたそうですが、問題にならなかったんでしょうか?
高級なコンデンサーマイクをバスドラムに使ったら怒鳴られるなんてこともありましたよね。でも僕は新しいもの好きなんで、海外でカッコいいサウンドが出てくると、どのように録ったんだろうと実験していました。その当時マンダムのCMソング(1970年発表のジェリー・ウォレス「マンダム~男の世界」)のタムの音に衝撃を受けて、「これどうやって録っているんだろう?」っていろいろ試して、それがオンマイクを使うきっかけでしたね。コンデンサーマイクをバスドラムに使うこともトライしましたよ。上の人には内緒で(笑)。
──コンデンサーマイクが日本のスタジオに入ってきたのはいつ頃なんでしょうか?
僕がテイチクに入った頃にはもうありましたよ。その頃には乾電池式のNEUMANNのU87があって。その前はSONYのC-37Aしか見たことなかったんだけど。僕はNEUMANN だとU67が好きで、歌録りはほぼ100%これを使っていますね。キングレコードは菊田(俊雄)さんの好みでU47が大量に入ってました。そう考えるとレコード会社によって違いがあって、ビクターはM49系が多く、東芝はM269系というように、機材も各社それぞれ個性がありましたね。
──当時は現在と比べて、レコーディングのノウハウはほとんど出回っていなかったと思いますが、どのように海外のサウンドを解析していったんでしょうか?
とにかく音を聴いて、あとは録音しながら実験することもたくさんありましたね。セッティングの段階で「今日はこのマイクを使ってみよう」「明日はこのマイクにトライしてみよう」という挑戦の結果が、自分の蓄積になっていきました。
──その頃にはマイクをたくさん立ててミックスするシステムはもうあったんでしょうか?
ミキサーのチャンネル数が少なかったので、たくさんのマイクは立てられなかったですね。テープレコーダーも16trが導入されたばかりでした。16tr使えると言っても無尽蔵に使えるわけがなく、でも僕はマルチモノ的な音像は好まないので、まとめられるものはステレオミックスとして録る感じで。あとでどうにかできるなんて考えられませんでしたね。当時のチャンネル数だと録音の時点でドラムは2chにまとめる必要があって、ほぼ完成品の音で録らなくてはいけない。だからコンソールに座って本番が終わると、汗でフェーダーに塩が付いているっていうくらい緊張感を持ってやってましたよ。それが24trになり48trになって、キックやスネアなどドラムをバラバラに録れるようになってからだいぶ気が楽になりましたね。
──エフェクターは録音の時点であらかじめかけていたのでしょうか?
かけ録りですね。ドラムは2chにまとめているからあとでバランスを変えられないので、エフェクトは全部決め打ちですね。ストリングスも当時は6 / 4 / 2 / 2の編成(1stバイオリン6人、2ndバイオリン4人、ビオラ2人、チェロ2人)が多かったですけど、それもまとめて2trに、時にはリバーブも込みで録ってました。ですから録音した音が完成形で、ミックスでは各セクションのバランスを少しいじるくらいしかできませんでした。
──ミックスで音を変えられないということは、録音する前に作曲家とサウンドのイメージを綿密に打ち合わせしていたのでしょうか?
京平さんとやっていたときはそうでした。あの頃、日本盤が発売されるのは早くても海外発売の2、3カ月後なんですけど、京平さんは特別ルートがあったらしく情報は早かったですね。僕も情報遅れにならないように、原宿のメロディハウスとか青山のPIED PIPER HOUSEに行っていろいろ聴いていたのですけど、悔しいかな京平さんは僕が知らないアルバムを参考資料として持ってくるんですよ。そういうのはカセットにダビングしてもらって、求めるサウンドイメージを共有していましたね。
ロンドンのトライデントスタジオに憧れ
──1970年代当時、目標にしていたサウンドや気に入っていた洋楽のアルバムはありますか?
次から次へとカッコいいアーティストがたくさん出てきた時代ですね。僕が一番好きだったのはエルトン・ジョンです。彼はロンドンのトライデントスタジオでレコーディングしていたんですけど、音がダントツによかったので、そこのエンジニアがやったほかのアルバムを探して聴いたりもしていました。ケン・スコット(The Beatles「The Beatles(ホワイトアルバム)」でキャリアをスタートさせ、ジェフ・ベック「Truth」やデヴィッド・ボウイ「The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars(ジギー・スターダスト)」などを担当)とかロビン・ジェフリー・ケーブル(Genesis「Trespass(侵入)」やカーリー・サイモン「No Secrets」などを担当)とか。ケン・スコットは音が派手で、彼のサウンドは研究しましたよ。ビクターの後輩に梅津(達男)ってエンジニアがいたんですけど、彼と2人でトライデントに行こうって話して。でもビクターの上司に話したら「お前ら2人がいなくなったら仕事が回らなくなる」と言われて休暇がもらえませんでした(笑)。その後、ラボを作ってからは行きましたけどね。
──内沼さんが手がけた作品で、エルトン・ジョンと同じ音ができたなと思った作品はありますか?
正直言って、ないですね(笑)。南沙織の「傷つく世代」(1973年発表)だったかな、京平さんが手がけた。それのイントロがエルトン・ジョンの「Have Mercy On The Criminal(罪人にあわれみを)」(1973年発表の「ピアニストを撃つな!」収録)とモチーフがほぼ同じで、それは張り切ったのですが、同じにはならなかったですね。まあ、京平さんは「いいんじゃない」って言ってましたけどね。京平さんは、ピーンと感じたサウンドをうまく自分の作品に反映させる。しかしメロディはまったく違うし単なるコピーじゃない、“京平作品”にしてしまう。そういうところがすごいんですよ。
1980年代に入って24trに
──その後、1980年代に入ってから杏里さんの「Bi・Ki・Ni」(1983年発表)などでは、各マイクの分離がよくなってクリアなサウンドになった印象があるんですが、何か変化があったんでしょうか?
おそらくレコーダーが24trになった頃だと思います。アナログテープの24trレコーダーを回している時期で、セパレーションというか、音像がよりハッキリ作れるようになったかもしれないですね。24trになってからはいろいろなことができるようになりましたね。
──ドラムのオーバーヘッド(※ドラムセット全体のサウンドを収音するためにセット上部に立てるマイク)がかなり少なめで、オンマイクの比重が高いように聞こえるのですが、タムの音は近めでも深みのある音に聞こえます。このあたりのサウンドはどのように作っているんでしょうか?
あー、痛いところ突かれちゃったな。オーバーヘッドはホント少なかったですね。24trで録っていますけど、タムとオーバーヘッドを分けられるほどまだトラック数に余裕がなかったので。タムもオーバーヘッドもシンバルも個別にマイクを立ててはいましたけど、チャンネルが足りなくて、まとめて同じトラックに録音していたんです。当時バスドラム、スネア、タムはVALLEY PEOPLEのKepex(※1)というノイズゲートをかけて余韻を削るのが流行っていて、タムと一緒のトラックにオーバーヘッドを録音しているもんだから、タムのない箇所を削ろうと思うとオーバーヘッドもなくなってしまうことがよくあったんです。反面、サウンド自体はクリアになったのですが、ドラマーからもシンバルが聞こえないと言われたこともありましたね。その後トラック数に余裕が出てきてようやく解消されました。でも時代とともに流行も変わるので、その後はノイズゲートをかけることがほとんどなくなっていたかな。
※1. 不要なノイズを除去するために用いられるノイズゲートの代表格。本来は楽器の音が鳴っていない箇所の雑音を減らすために開発されたエフェクトだが、過剰に効かせることで楽器の余韻を短くするサウンドが流行した。リバーブの余韻にかけることで、残響音が急にストンとなくなるゲートリバーブもこのエフェクトを使った効果。
──なるほど。オーバーヘッドでも録音はしているけど、タムが鳴ったときだけゲートが開いて両方の音が鳴るので、空気感も深みのあるサウンドになっていたんですね。オーバーヘッドの分量が常に少ないと思っていたので、オンマイクであの音を作れるのが不思議に感じていました。1980年代に入って音作りもだいぶ変わってきたと思いますが、その頃に参考にされたエンジニアはいますか?
ウンベルト・ガティカ(Chicago「Chicago 17」や、マイケル・ジャクソンらが参加した「We Are The World」などを担当)っていうロサンゼルスのエンジニアが作る、どっしりした重厚なロックサウンドが好きで、どうやってんだろうってChicagoを研究しました。ドラムス各々の音が太く、キレがいいのは当然ですが、ドラムのリバーブ(デジタルリバーブ・EMT250)の使い方がうまいんですよ。角松敏生の「ALL IS VANITY」(1991年発表)は僕とウンベルト・ガティカが半分ずつミックスしているアルバムなんです。あれはもう、絶対負けたくないって気持ちでやりましたね。
音楽に貪欲な角松敏生が持ちかけたリミックス
──角松敏生さんは近年海外でも再評価が進んでいますよね。僕がエンジニアリングを担当しているアーティストもリファレンスに「AFTER 5 CLASH」(1984年発表)などを持ってくることが増えています。今また若い人に新しい音楽として聴かれるのはなぜだと思いますか?
やはり、ひと言で言うと「カッコよさ」だと思いますね。角松さんはその時代最先端のビートやアレンジの研究に時間を費やしていました。結果としてカッコいいサウンドが構築できたのではないかな。彼はアイデアに困るとアメリカに行って向こうのスタジオを見て回って、戻ってくると「こんなことやってたからやってみよう」って持ちかけてくる。サウンド的にはかなり面白いことをやっていたと思いますよ。例えば、角松さんがリミックスをやろうよって言い出したんです。きっかけはアルバム「GOLD DIGGER~with true love~」(1985年発売)を担当したフランス人エンジニアのマイケル・ブラワーがリミックスした「TOKYO TOWER」(1985年発売)でした。あの作品が衝撃的で、我々もリミックスを作ろうとしたのです。マイケルの手法や、角松さんがアメリカに行って習得したアイデアと、アナログテープのエディットテクニックを駆使してできたのが「T's 12 INCHES」(1986年発表)なんですけど、今聴いてもよくできたと思います。
──どうやって作ったんですか?
楽曲のオリジナルのマルチチャンネルテープから「ドラムのこの部分を使おう」という感じで2chハーフインチのピースを大量に作っていき、できたピースをつぎはぎしてつないでいくんです。今みたいにPro Tools(※AVIDのDAWソフト)じゃないから、本当に大変でしたよ。昼に始めて、次の朝になっても1曲の編集が終わらなかったからね。すごいキツかったけど楽しかったな。
──デジタル録音したものをポン出しで再生できるサンプラーが導入される前にリミックスの手法を実践していたんですね。サンプラーはいつ頃から使い始めましたか?
僕はサンプラーを使い始めたのは非常に早かったですよ。最初はAMSのものを使ってたんですけど、Publisonっていうフランスのサンプラーがあって、これが優れものでね。当時確か300万円近くしたんだけど買っちゃって、もうサンプリングしたくてしたくてしょうがなくて(笑)。
──ドラムの修正で、例えば1発のスネアだけをサンプラーで差し替えるような使い方もされていたんでしょうか?
ありました。特にリミックスでは、オリジナルとは別物のサウンドが必要だったこともありかなり使い込みました。
──日本ではスイッチの切り替えでボーカルテイクを選ぶ手法がありましたよね。あれは日本独自のものなんじゃないかと思っているんですが。
ボーカルセレクターでしょ? そうそう、これは日本独自のものだから、アメリカ人が見ると「何をやってるんだ?」ってビックリするよね。これの導入も早かったな。現在でも大活躍ですよ。今はPro Toolsで無尽蔵に録れてしまうので、テイクを選ぶときにボーカルセレクターで切り替えながら聴いて、いいテイクが決まったら後はデジタル編集でやるようにしていますけども。だから今の歌い手さんは本当に恵まれていますよね。いくらでもトラックを使えるから。
──確かにそうですね。
昔はボーカル用に1つか2つのトラックしか空きがないから、それで録らなきゃいけなかった。そう考えると、昔のアイドルは歌が下手じゃなかったんだなと思うよね。ピッチなんて直せなかったし、せいぜいディレイで少しタイミングを変えてあげるくらいだったから。浅田美代子の「赤い風船」(1973年発表)ってあるでしょ。あれは全部6mmのテープに歌を入れたんですけど、今聴いても決して下手じゃないなって思いますね。あとこの前、オメガトライブのデビュー35周年を記念してリミックスをやることになって(2019年発表の杉山清貴&オメガトライブ「OMEGA TRIBE GROOVE」)。それで昔のアナログテープを聴いてみたら、ほとんどが24trなんですけど、驚いたことに杉山くんのボーカルが1trしかないんですよ。多くても2trで。それだけ杉山くんの歌がうまかったんだなって思いましたね。
<後編に続く>
内沼映二
1944年生まれ。1965年にテイチク株式会社に入社し、日本ビクターを経て1979年に株式会社ミキサーズラボを設立。これまで石川さゆり、近藤真彦、鷺巣詩郎、C-C-B、杏里、角松敏生、冨田勲、西城秀樹、郷ひろみ、南沙織、ピンク・レディー、和田アキ子、SPEED、福山雅治、ゆず、MISIAら数々のアーティストのレコーディングに携わるほか、「ジャングル大帝」「踊る大捜査線」などの劇伴のエンジニアリングも担当。1994~98年、2007~15年の通算12年にわたり、一般社団法人日本音楽スタジオ協会の会長を務め、現在は名誉会長。
中村公輔
1999年にNeinaのメンバーとしてドイツMile Plateauxよりデビュー。自身のソロプロジェクト・KangarooPawのアルバム制作をきっかけに宅録をするようになる。2013年にはthe HIATUSのツアーにマニピュレーターとして参加。エンジニアとして携わったアーティストは入江陽、折坂悠太、Taiko Super Kicks、TAM TAM、ツチヤニボンド、本日休演、ルルルルズなど。音楽ライターとしても活動しており、著作に「名盤レコーディングから読み解くロックのウラ教科書」がある。
取材・文 / 中村公輔 撮影 / 吉場正和