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アーティストの音楽履歴書 第34回 鈴木慶一のルーツをたどる

鈴木慶一の履歴書。
約4年前2021年03月19日 11:05

アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回は、音楽活動50年を超えた今も精力的に作品を発表し続ける鈴木慶一のルーツに迫った。

取材・文 / 村尾泰郎

The VenturesとThe Beatlesに魅了された子供時代

物心ついたときには家に蓄音機と家具調ステレオがあって、SP盤もレコードも聴けたんだよ。ウチのジイさんは蓄音機で長唄を聴いてたし、一緒に住んでいた叔父さんはステレオでジャズを聴いてた。あと「ホームクラシック」という家庭で聴くクラシックがあって、「森の鍛冶屋」とか「森の水車」とかが入っているSP盤なんだけど、子供の頃はそれをよく聴いてた。鳥の鳴き声とかいろんな音が入ってて、そういう音が好きだったみたい。短波放送のノイズも好きだったしね(笑)。

ポップスを聴くようになったきっかけは、4歳上の従姉妹のお姉さん。彼女が坂本九とかが歌う日本語に翻訳したアメリカンポップスを聴かせてくれた。そして、The Venturesに出会う。最初に買ったレコードが「Pipeline」のシングルで中1のときだった。「テケテケテケ♪」っていうエレキの音は大発明だと思ったね。ギターの音で波が崩れるのを表現するんだから。でも、B面の「The Lonely Sea」のほうが好きだった。曲の頭に船の音が入ってて、それがいいんだ。ピーター・パンのタイガー・リリーのボートのようでね。そして、同じ頃にThe Beatlesも聴くようになる。「I Feel Fine」を初めて聴いたときはイントロにたまげたね。今でいうフィードバックなんだけど、「これはなんの音だろう?」と思って。やっぱり、子供の頃から音響が好きなんだよ。高校に入る頃には、家にあったテープレコーダーを使ってFENで流れる曲を録音したり、録音したものを加工したりしてた。今でいう宅録だね。家に親父(俳優の鈴木昭生)が芝居で使っていた6mmのテープ(オープンリール)が置いてあって、三味線の音が入ってたりするんだよ。音楽の業界では“ハブ巻き”と言われてたような気がするが、テープの頭は逆に巻いておくというしきたりがあるらしい。それをデッキでかけると逆回転になるんだ。その音を聴いて「なんだこれは!」と驚いたのと、The Beatlesが曲に逆回転を使うようになったのがほぼ同じ時期だった。今から思えば、すごい偶然だよ。

あがた森魚と出会い音楽活動を本格化

本格的に曲を作り始めたのは高校の頃。作ってはテープレコーダーに録音してた。意識していたわけではないのに、できた曲は不思議とアジアっぽいんだよね。The Mothers of Inventionの「Freak Out!」をマーティン・デニー風にしたような曲になっていた(笑)。高校では演劇部に入って音響担当をやってたんだけど、作った曲を部長の田中に聴かせたら気に入ってくれたり、その頃作った曲をすべて使って、卒業記念の学祭でミュージカルをやったこともあった。高校を出てぶらぶらしていた頃は、音響技師になろうかな、と思ったりもしてたんだよ。そんなときにあがた森魚くんに会ったんだ。

お袋が働いていた会社であがたくんがバイトしてて、非常階段でギターを弾いたり、クリスマス会で歌ったりしてたらしい。それでお袋が「うちの息子も家でギターばっかり弾いていて外に出ないから、ちょっと遊びに来てよ」って家に呼んだ。そのとき、家がわかりにくいかもしれないんで、「The Mothers of Inventionの『Freak Out!』が大音量でかかっている家です」と伝えてもらってね。また「Freak Out!」だ。カッコつけてたんだよ(笑)。それであがたくんが家に遊びに来て、江戸川乱歩の話とかいろんな話をしてるうちに、お互いに自分で作った曲をギターで弾き出して交流が始まった。実はあがたくんが家に来る前に、彼が出演するコンサートがあるのを知って観に行ったんだよ。でも、どれがあがたくんなのかわからなかった。そのコンサートに出たやつで「いいな」と思ったのが2人いて、その1人があがたくんだったのが家に来たときにわかるわけだ。目の前で演奏しているのを見てね。もう1人は斉藤哲夫くんだった。

その後、あがたくんとは一緒に演奏したり曲を作ったりして、それが次第にバンドになっていった。あがたくんの「赤色エレジー」はウチのピアノでイントロを作ったんだ。家ではドラムが叩けないから、あがたくんが通ってた明治大学でも練習した。明治にLed Zeppelinのカバーバンドみたいなのがいて、彼らにアンプを借りたりしてね。練習している間、ずっとこっちを見てたよ。「こいつら、どれくらいやれるんだろう」みたいな感じで。私が最初に人前で歌ったのはジャックスファンクラブ主催の1970年5月3日に代々木区民会館で行われた「ホスピタル21」でだった。そのときの編成は、私、あがたくん、「蓄音盤」(1970年に自主制作で発表されたあがたの1stアルバム)に参加する小野太郎、そして、私の高校の同級生ではちみつぱいの「月夜のドライブ」とか「煙草路地」といった曲を書いた山本浩美と、やはり同級生の山本明夫だった。

B.Y.G(渋谷のロック喫茶)で斉藤くんとあがたくんが企画したライブがあって、そこに出ているうちに、あがたくんのバックをやっていた私、斉藤くんのバックをやっていた渡辺勝、そして、松本隆さんの弟の裕さんのバンドから引き抜いた本多信介が中心になってはちみつぱいになっていく。松本裕さんは後の「火の玉ボーイ」(1976年に発表された「鈴木慶一とムーンライダース」名義のアルバム)のエンジニアだ。1971年に中津川の「全日本フォークジャンボリー」に3人で行って演奏していたら、ステージの袖で観ていた和田博巳が「ベースで入れてくれ。今は持ってないけど買うから」って言ってきたり、渡辺が所属していた立教大学の作詞作曲研究会にいた武川雅寛くんがバイオリンで入ったり、B.Y.Gでオーディションをやってかしぶち哲郎くんが入ったりしてバンドになったんだ。そして、「俺がマネージャーやるよ」と言ってくれたのが石塚幸一くんで、彼はその後、風都市(はっぴいえんど、はちみつぱい、あがた森魚、シュガー・ベイブなどが所属していた70年代初頭に設立された音楽事務所)を立ち上げるメンバーの一人だ。

ニューウェイブに傾倒した70年代後期

あの頃はやりたい音楽とか目標なんてなくて、「音を出したい」という気持ちが最優先だった。音楽の趣味なんて少しでもかぶってりゃいい。The Bandみたいになればいいな、くらいは思ってたけどね。「火の玉ボーイ」を作った頃は、Queenとか10ccなんかを聴き出してブリティッシュロックに片足を突っ込んでた。このアルバムはアメリカンなサウンドもあれば中国風のメロディの曲もあるし、和楽器も初めて使った。いろんな要素が入っている作品が好きなんだよ。このアルバムの無国籍っぽさというのは、同じ時期に作っていたあがたくんの「日本少年」(1976年発表)のレコーディングに参加したときに、細野晴臣さんのアレンジに触れて刺激を受けたんだ。

70年代は新しい音楽を聴くことが重要だった。ボズ・スキャッグスが「Silk Degrees」(1976年発表)でおしゃれに変身したのには驚かされたね。ホーンサウンドにThe Bandとは違った洗練があったんだよ。メロディハウスという原宿のレコード店で薦められたCafe Jacques「Round The Back」(1977年発表)。加藤和彦さんのラジオ番組でかかったルイス・フューレイの「Hustler's Tango」(1975年発表)。そういうしゃれのめしたポップミュージックにも夢中になったし、Genesisとかプログレを聴くようにもなる。そういった音楽に影響を受けているのがムーンライダーズの「ヌーベル・バーグ」(1978年発表)だった。当時「ニュー・ミュージック・マガジン」でライターをやっていて、毎月いろんな音楽を聴いていたのも大きかったね。大竹くん(のちに編集長になる編集者の大竹直樹)がXTCの「Drums and Wires」(1979年)を教えてくれてXTCにハマったりもした。

初期のムーンライダーズで大きな影響を受けたのはニューウェイブだった。はちみつぱいでは、バンドメンバー全員で影響を受けたムーブメントというのがなかったんだよ。でも、ニューウェイブでファッションから音楽まですべて変わった。パンク / ニューウェイブの嵐の中、「モダーン・ミュージック」(1979年発表)は当時聴いていた音楽をすぐに音に出していた。The PoliceとかCrashとかね。インプットとアウトプットが同時進行だった。そして、「カメラ=万年筆」(1980年発表)を出したときはすべてやり切ったと思ったんだ。だから次の「マニア・マニエラ」(1982年発表)を作るときは、モデルになるものが何もないところからスタートして、作詞を糸井重里さんとか太田螢一くんとか佐藤奈々子さんやサエキけんぞうくんとか、外部の人に依頼した結果、何にも似てない音楽になった。このアルバムでムーンライダーズのサウンドが初めて確立されたと思う。でも、レコード会社から「求めていたものと違う」と言われて、自分たちで発売中止にしてしまう。自信作だったからカッとなったんだろうね。それで「青空百景」(1982年発表)を作るんだけど、今度はThe BeatlesとかThe Rolling Stonesとか、いろんなところからの引用だらけの作品にした。

「MOTHER」でポップミュージックを目指す

86年にバンド結成10周年を迎えて「DON'T TRUST OVER THIRTY」を出し、アルバム以外にも映像作品を出したり、3時間以上におよぶライブをやったり。1年の間にありとあらゆることをやって、その結果、くたびれ果てて何人か倒れてしまった。それでバンドはしばらく休止状態になり、メンバーはソロ活動に入る。そこで私はゲーム音楽の「MOTHER」(1989年発表)を依頼されて作ることになった。当時、ファミコンは3つしか音が鳴らないから、非常に制限が多い制作だったんだよ。そんな中で、よくあるゲーム音楽とは違うもの、当時任天堂で音楽担当だった田中宏和さんと、ポップミュージックを作ろうと思ったんだ。そうして作っているうちに、その音楽をシンガーに歌ってもらってアルバムにしようということになった。これは貴重な体験になったね。これまでずっと洋楽を聴いてきたけど、初めて自分で洋楽が作れると思った。何しろ、イギリスでレコーディングして、シンガーも向こうでオーディションして歌ってもらうことになったんだからね。

そういう自分にとって重要なアルバムを、4、5年前からもう一度作り直したいと思うようになった。依頼されて作った作品だったので、これまで自分の作品の中では別枠みたいな感じだったんだけど、自分の作品として作り直したくなって。それで音楽活動50周年記念として「MOTHER MUSIC REVISITED」(2021年発表)を作ることにしたんだよ。オリジナルバージョンでは10代の子供たちが歌っているんだけど、それを自分で歌うとしたら、どんなサウンドが合うのか?というのを考えたりしながら、今自分が興味を持っている音楽に引き寄せようと思った。ただ、「MOTHER」はマニアが多いから、どんなものを作ってもきっと賛否両論になるだろう。だったら、自分が好きなようにやろうと思ったんだよ。例え批判されてもいいから(笑)。これは今までにない勇気が必要だった。

代表曲がない、それでいいと思ってる

2000年前後から映画音楽をやるようになる中で、自分の作風を生み出す出発点になったのが「うずまき」(2000年公開)だった。ずっとホラー映画のサントラをやりたかったから「ついに来たぞ!」って喜んで、かしぶちくんと2人でやった。その頃はサントラに関してはかしぶちくんのほうが経験があったから、いろいろ教わりながらやったんだ。かしぶちくんがロマンチックなパートを、私は怖いところを担当した。この作品からミニマルなサウンドを作るようになったと思うね。サントラの仕事は監督の狙い通りの音を作る職人的な立場と、せっかくだから自分の色も出したいという作家的な立場のバランスが重要。自分の色を出しすぎたらボツになる。かと思ったら、かえって「いいじゃない!」と言われることもあって、そこは監督次第なんだけどね。「座頭市」(2003年公開)のサントラを作っていたとき、チャンバラのシーンで細かい金属音をいっぱい入れてたら、北野武監督に「刀の音とぶつかる音がいっぱい入ってるな」って言われたのをよく覚えてる。もともと音響好きだから、そういう音をよく使うんだよ。だから映画音楽のときはいつも音響効果のスタッフと仲よくやらなきゃいけない(笑)。

今年、私は70歳になるけど、今ムーンライダーズのメンバーは私を入れて70代が3人、60代が2人。ファンも高齢化しているし、再活動してアルバムを作るなら今しかないと思ってメンバーの皆さんにメールを出した。「そろそろやろうか?」ってね。無期限の活動休止を宣言して10年。皆さんそれぞれにライブをやっていて、私も参加したりしているけど、そこではムーンライダーズの曲も取り上げていて、武川とかは私が忘れかけているような曲をやったりしている。それが新鮮に感じたんだよね。それで再始動して、今新しいアルバムを作り始めているんだけど、10年間休止していて再び始められたというのは相性のよさだろうね。仲良しグループっていうわけじゃなくて、例えばケンカに近いことになっても仕切り直して一緒にやれる。皆さん、ことごとく優しいんだよ。何かに失敗しても、遅刻しても優しい。でも、優しさが増幅されて甘さになっていないのが重要。仲よく音楽を作ることよりも、いい音楽、前作を超える音楽を作ることがみんなの目標で、そこに甘さはないんだよ。

作り終わったばかりの作品でも、「あそこがなあ……」と気になったりすることがある。でも、くよくよしても仕方ないから次に進む。進み方は振り子のようで、アバンギャルドなものを作ったら次はポップなものを作ろうとか、前の作品とは反対の方向に行こうとする。でも、その振り子は真横に振っているわけではなくて、いろんな方向に振ってるんだよ。カオスのようにね。要するに私には軸足がない。軸足をどこかに置いてしまうと、作るものを制限してしまう気がするんだ。自分自身に制限されるほど最低なことはないからね。運がいいのか悪いのか、私には自分が死んだときに流れる代表曲がない。ジョン・レノンの「Imagine」みたいな曲がね。でも、それでいいと思ってる。いつの頃からか、私は多様性を追求することを選んだんだから。

鈴木慶一(スズキケイイチ)

1951年生まれ、東京都出身。1970年頃からさまざまなセッションに参加し、1972年にはちみつぱいを結成。はちみつぱい解散後、1975年に同バンドを母体にムーンライダーズを結成する。1976年に鈴木慶一とムーンライダース名義のアルバム「火の玉ボーイ」でデビュー。バンド活動と並行して楽曲提供も行い、1989年に発売されたゲーム「MOTHER」の音楽を手がけ国内外で高い評価を得る。北野武監督「座頭市」の劇伴で「第36回シッチェス・カタロニア国際映画祭」で最優秀映画音楽賞、「第27回日本アカデミー賞」では最優秀音楽賞を受賞した。最新作は2021年1月にリリースされた、「MOTHER」の音楽をセルフカバーしたアルバム「MOTHER MUSIC REVISITED」。

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