2010年代のアイドルシーンを複数の記事で多角的に掘り下げていく本連載。今回は2010年にスタートし、国内最大のアイドルフェスへと発展を遂げた「TOKYO IDOL FESTIVAL」、通称「TIF」誕生の裏側にフォーカスする。昨年の「TIF2022」ではコロナの影響を乗り越え、3年ぶりに真夏の有観客開催が実現。2010年代から変わらず女性アイドルシーンの中心に存在し、毎年大盛況を呈している「TIF」だが、複数のアイドルグループが一堂に会するイベントがまだ珍しかった13年前、どのような経緯で第1回の開催に至ったのだろうか。初回から2013年までの計4回にわたって「TIF」の総合プロデュースを担当したフジテレビ・門澤清太プロデューサーに話を聞き、関係者の証言も交えながら“TIF13年目の真実”を明らかにしていく。
取材・文 / 小野田衛
参考にしたのは「フジロック」
2010年8月7、8日に、東京・品川で日本初の本格的な“アイドル見本市”イベント「TOKYO IDOL FESTIVAL 2010」が行われた。出演アイドルは45組、入場者数は約5000人。ライブのみならず、トークショー、握手会、アイドル参加型のイルカショーやボウリング大会など多種多様なイベントを同時多発的に開催し、街全体を巻き込んだアイドル特化型の夏フェスに各グループのファンは歓喜した(参照:総勢40組以上!品川を熱く盛り上げたアイドルフェス大成功)。
このとき、主催者側は「東京で新たなアイドル誕生の流れを作る」「アイドルとメディアの新たな関係性を創造する」「日本最大級のアイドル見本市を目指す」と、いささか大仰にも感じるトータルコンセプトをブチ上げる。それだけスタッフの鼻息も荒かったということだろう。この「TIF」第1回が盛況に終わったことを受け、AKB48の人気爆発に端を発したアイドルブームはいよいよ本格的に熱を帯びていった。
複数のグループが出演するフェスの存在は、2010年代のアイドルカルチャーを語るうえで絶対に外せないものだ。この“発明”をしたのが、フジテレビの門澤清太プロデューサーだとされている。「TIF」では総合プロデューサーという肩書きで、立ち上げ時から2013年まで陣頭指揮を執っていた。
どのようにして門澤はグループが多数集まるアイドルフェスというスタイルを思いついたのか? そこに意図や目的はあったのか? テレビ局が主体になって開催された経緯は?
「時系列に沿ってお話しすると、『TIF』第1回をやった前年の9月にアイドリング!!!が日比谷野音で2日間ライブをやっているんです。晴れたこともあって、これがめちゃくちゃ気持ちよかったんですよね。野外特有の解放感が本当に最高で。そのときの感動が個人的に忘れられなかったというのが、『TIF』を始めた理由としては大きかった。でも現実的な話をすると、屋外のライブって天候や収支面が読みづらいから敬遠される傾向があるんですよ。そういう反対意見がある中、『でも単独公演じゃなくて、フェスみたいな方法だったらできるんじゃないの?』とひらめいたんです」
そしてもうひとつの背景として、「FUJI ROCK FESTIVAL」の中継を長年にわたってフジテレビが手がけていたという面もある。門澤自身は中継には携わっていなかったが、同じ局内で「なんだか楽しそうなことやっているなあ」とうらやましく感じていたという。
「広大なエリアの中、あっちこっちのステージで入れ代わり立ち代わりライブが行われていて、お客さんは自由に移動できる。そういうシステム自体、当時は今より少なかったじゃないですか。そんなお祭りみたいなことをできたらいいなとは思っていましたよ。正直、『TIF』は『フジロック』をだいぶ参考にさせてもらいました。僕自身はロックに詳しいわけでもないし、そもそも『フジロック』に行ったこともないんですけど」
気持ちがいいから野外フェスをやりたい。どうせならアイドル版の「FUJI ROCK FESTIVAL」を作ろう──。そう思いついたはいいが、前例がないだけに何から手をつけていいのか見当がつかなかった。しかし入社してから一貫して「やったことがないことをやれ」と叩き込まれていた門澤にとって、こうしたゼロイチで新たなものを生み出す苦労は闘志に火をつける燃料でしかない。過去に誰も手をつけていないからこそ、「これはもう俺がやるしかない」と覚悟を決めたのである。
まずクリアすべきは場所の問題だった。今でこそ「TIF」はお台場で行われるのが通例になっているが、第1回だけは品川で開催されている。これはフジテレビと吉本興業という“芸能的パイプ”から生まれた話らしい。
「当時、YGAという吉本興業が作ったグループがいたんです。YGAさんのプロデューサーは、もともと明石家さんまさんのマネージャーをやっていて、フジテレビと近しい方。そういう経緯もあって、YGAさんとアイドリング!!!が接近するのは自然なことだったんです。当時は品川プリンスホテル内に、よしもとプリンスシアターという吉本興業の演芸場がありまして、YGAさんはそこで定期公演をやっていました。YGAさんとアイドリング!!!のジョイントライブをやったのも同じ場所。そういう状況が続く中、春頃に品川プリンスの支配人さんから『夏、ステラボールが2日間くらい空いているんですよ』という話を耳にしたんです」
最初、門澤はステラボールでアイドリング!!!のライブを開催することを考える。しかしここで「待てよ?」と思い立ち、よしもとプリンスシアターのスケジュールを確認したところ、両日とも空いていた。その場にYGAのプロデューサーがいたこともあり、「じゃあ、ほかに近辺で使える場所はないんですか?」と一緒に確認してみると、「ここも使えますね。あとは水族館の駐車場も会場にできるんじゃないですか」といった調子で、とんとん拍子に話が進んでいった。
「これは面白いことになるぞって盛り上がりますよね。かねてから僕が考えていた“アイドル版のフェス”みたいなことが現実にやれそうだと算段がつき始めたんです。少なくとも単なるアイドリング!!!のワンマンをやるより、はるかに話題性はあるでしょう」
アイドリング!!!を続けるための装置だった
ここで角度を少し変え、門澤とアイドリング!!!の関係について簡単に説明したい。そもそも一介のテレビ局員が、なぜアイドルグループを仕切るような立場になったのか? アイドリング!!!結成とともに始まったテレビ番組「アイドリング!!!」のプロデューサーとしての肩書きが、まず最初にあった。
「アイドリング!!!というアイドルが少し特殊なのは、完全にテレビ番組ありきで作られたグループという点です。フジテレビ側の事情を説明すると、当時は配信と放送を一体化させるようなプロジェクトを立ち上げようとしていたんです。今でいうTVerみたいなイメージかな。あれの先駆けだったかもしれない。じゃあ、その新しいプロジェクトで扱う具体的なコンテンツはどうするのか? そういった議論になったとき、自然とアイドルという話になったんですよ。おニャン子クラブの時代から『アイドルといえばフジテレビ』みたいなイメージもあったし、ここはお家芸でいくべきだろうということで」
アイドリング!!!のメンバーは所属事務所がバラバラだが、これもテレビ局の主導ゆえだった。しかし“第2のおニャン子”を目指して「アイドル番組を作れないか?」と始まったものの、CDを出すにあたっては当然、所属レコード会社の意向も入ることになる。イベントやライブを行う際は、収支面やスケジュールも含めてさまざまな調整が必要になった。
「結局、どうしたって『1つのグループとして成長させなくてはいけない』というミッションに集約されていくんです。各事務所から子供たちを預かっている状態だから、下手な真似もできないですし。正直、ほかの仕事ができなくなりました(笑)。当初から僕は言っていたんですけど、やっぱりやるからには続けていかなくてはいけない。テレビ番組というのは基本的に3カ月ごとの新しいクールがやってきて、そこで終わるか終わらないかが決まっていく。予算をもらうためには、やっぱり続けていかないとダメ。『グループを作ったはいいけど、半年で終わる』といったこともテレビ局的には全然ありえるので、いかにこのコンテンツを継続していくかということを手を替え品を替えやっていたんです。要するにコンテンツに価値を持たせなくてはいけないわけですから。けっこうその部分に腐心しましたね」
これは歴史の“if”になるのだが、門澤がアイドリング!!!というグループにここまで深く関与していなかったら、「TIF」というイベントは誕生していなかったはずだ。「フジロック」のアイドル版という発想は、“第2のおニャン子”という目的の延長線上で出てきたものだからである。そんな中、アイドリング!!!のメンバーは初期「TIF」で司会業やナビゲーター役として八面六臂の活躍を見せる。主役とは言わないまでも、重要なホスト役であったことは間違いない。
「そもそも論になるんだけど、『アイドリング!!!をいかに長く続けていくか?』という目的のための装置の1つとして『TIF』があったんですよ。僕自身は、アイドリング!!!があるから『TIF』があるという感覚でずっとやってきました。最初から彼女たちには『アイドリング!!!を踏み台にして上を目指してほしい』と言い続けていたんです。グループにしがみついてほしくなかった。なぜなら永遠にアイドリング!!!でいることは不可能だから。グラビアとか舞台の仕事はもちろんだけど、他局の仕事であっても喜んで受けるように言ってましたね。それもまるで学校の先生みたいな口調で。『TIF』はアイドリング!!!にとってMCをやったりと、タレントとしての基礎体力を鍛える場だった。彼女たちにとっては、あそこが修業の場だったんですよ」
最近アイドルファンになった人とっては意外に感じるポイントかもしれない。テレビ番組ありきで始まったアイドリング!!!。アイドリング!!!ありきで始まった「TIF」。ご存じのように、その後の「TIF」は倍々ゲームで巨大イベントへと成長していった。だが、失礼ながらアイドリング!!!が比例するようにビッグになったとは言い難い。となると、「アイドリング!!!が売れないなら、『TIF』なんてやる意味ないじゃん」という話にならなかったのだろうか?
「アイドリング!!!を売り出すために始めたわけではないんです。アイドリング!!!を続けるために始めたんです。確かにアイドリング!!!は『TIF』と同じスピードでは大きくなりませんでした。でも、それって難しいことですよね。だってアイドリング!!!が結成されたのは2006年だから、その時点でもう6年目とか7年目になっているわけじゃないですか。急にアイドリング!!!がバカ売れすることはないだろうなって、僕もなんとなくわかるわけですよ。かといって全然ダメという話ではもちろんなくて、菊地亜美のブレイクもあったし、そのあとは朝日奈央も売れた。とにかく、『TIF』とアイドリング!!!の間に一種の共存関係が構築できていたと今も思いますね」
ここで名指しされた菊地亜美は、門澤の意見に同調するよう「TIF」におけるアイドリング!!!の立ち位置を次のように振り返っている。
「『TIF』ができたときは、とてもうれしかった記憶があります。それまでも夏は毎年、『お台場合衆国』などフジテレビのイベントでステージに立つことが多かったんですけど、『TIF』はフェスだから、現場でほかのアイドルさんたちとライブやトークでコラボできるってワクワクしていました。その反面、アイドリング!!!が中心になってライブをしたり、トリを飾ったりすることには不安もありましたね。『本当に大丈夫なのかなあ?』って(笑)」
アイドル旋風が巻き起こる前夜の出来事
話を「TIF」のスタートアップに戻そう。どんな事柄でも最初の一歩を踏み出す際は苦労が絶えないもの。場所の問題は品川ということで目途が立ったが、ほかにもクリアしなくてはいけない課題が山積していた。出演者に関しても、門澤たちのチームは手探りで準備を進めていく。
「単独ライブだったらある程度の試算ができるけど、そんなにいっぱいグループを呼んだところで、人が来るかどうかもまったく見えませんでしたからね。本当に何もかも未知数でした。なにしろ初めてだから、模範解答も何もないわけですよ。初めてのことって、誰にも相談できないですしね。少しでも関係性のある人に片っ端から声をかけていき、なんとかつないでもらって……ということの連続でした」
幸運だったのは、2010年はアイドル旋風が巻き起こる前夜だったという点だ。AKB48の成功に刺激を受けた大手芸能事務所が「ならば、うちも!」と立候補し、グループの数が加速度的に増えていたのである。社会的にも業界的にも「これは本格的なアイドルブームがまた来るのでは?」といった見方が急速に強まっていた。
「エイベックスのSUPER☆GiRLS、アミューズのさくら学院、プラチナムのぱすぽ☆……スターダストのももいろクローバーは、その少し前から地道に活動していましたけどね。いずれにせよ、どこも『とにかく名を売りたい!』と躍起になっていたのは確か。ほとんど全員が人の目に触れたいと考えていた。それもできればテレビとかよりも、直接ライブという形で人前に出ることが重要だったんだと思う。ですから僕らが『こういうアイドルイベントを始めます』といろんなところに声をかけ始めたら、『今度はこんなグループもできるみたいですよ』といった感じで、徐々に情報が入ってくるようになったんですね。それで気付いたら50組以上が決まっていた感じでした」
間に入ってブッキングを担当してくれる会社など、当時のアイドルシーンには存在しなかった。前例がないことに挑戦するわけだから、運営側からの売り込みなんて来るわけがない。門澤自身はアイドルにそれほど造詣が深くなかったが、スタッフの中にはアイドル好きもおり、放送作家からも意見を吸い上げた。同時にネットでも情報を必死にかき集めた。文字通り人海戦術で情報を収集していたのである。
マネタイズも門澤にとっては頭の痛いテーマだった。ゲート収入の見込みと入場料金の価格設定はどうするべきか? 配信や放送でどう儲けを出すか? 「屋外でお祭りみたいなフェスをやったら気持ちいいだろうな」と考えるのは大いにけっこうだが、社会人である以上、そこには責任が伴ってくる。きちんとビジネスとして成立させる見立てがなければ、社内の上層部を説得することもできなかったはずだ。そのあたりの疑問を門澤にぶつけると、「これは今だから言えることですが……」と声のトーンを微妙に落としつつ語り始めた。
「社内で話を通すときに『第1回のアイドルフェスをやります』という感じにはしなかったんですよ。『あくまでもやるのはアイドリング!!!のライブであって、そこにほかのアイドルも呼ぶから、いつもより規模は大きくなりますけど』といった説明の仕方をしたんです。『いっぱいアイドルが来ちゃうものだから、“東京アイドルフェス”という少し変わった名前にしますけど』みたいに言い訳も作って」
これは門澤が社内で信頼を勝ち取っていたからこそ成立したのだろうが、サラリーマンとしては相当な寝業師という言い方もできる。面白いイベントを開催したいという衝動が、敏腕テレビマンを特異な行動へと駆り立てたのかもしれない。全事務所が集まったミーティングの場で、門澤は「とにかく最終日が終わったとき、全員がニッコリ笑って帰れるイベントにしましょう」と大演説をぶった。
「出演順などは、必ずしも皆さんのご希望には応えられません。ネームバリューも含めてこちらで考えますので、そこは委ねてください。スケジュールが合わないケースも出るかもしれませんが、なんとかご理解いただければと思います。僕らは、ここでお金儲けしようとは考えていません。チケット収入は基本的に舞台装置などに使います。その分、きらびやかなステージをご用意しますので、この場に出ることの意味を考慮していただければ幸いです。もちろん手ぶらじゃ帰れないのもわかりますので、物販のエリアはご用意させていただきます。物販はそこで自由にやってください。上がりを取るようなことも一切しません。おそらくお客さんはめちゃくちゃ来るはずですから」
国内最大級のアイドルフェスを成功させるための同志だった
8月の開催に先立ち、6月には記者会見も行われた(参照:注目アイドルが品川に集結!日本最大のアイドルフェス開催)。出席したのはアイドリング!!!、さくら学院、東京女子流、バニラビーンズ、腐男塾、ももいろクローバー、YGAの7組。このときのことを、元バニラビーンズのレナは次のように振り返る。
「2010年というのはNHKさんの『MUSIC JAPAN』のアイドル大集合スペシャルの収録もあったし、アイドル戦国時代の幕開けと騒がれていたんです。記者発表のときもNHKで会った顔ぶれが並んでいたので、安心した記憶がありますね。戦国時代とは言うものの、共演するアイドルさんをライバルだとはまったく感じませんでした。この国内最大級のアイドルフェスを成功させるための同志だという意識でしたから。記者発表のとき、楽屋ではさくら学院さんや東京女子流さんと一緒になりまして。当時の私たちは22歳くらいだったから、一番の年長グループだということにそのときハッと気付いたんです。それで自然とそういった立ち振る舞いをしたら、バニラビーンズ姉さんと呼ばれるようになりました(笑)」
ここで名前が挙がったさくら学院は、当時「TIF」を特別な場として位置付けていた。証言してくれたのは、同学院の元職員室スタッフである。
「さくら学院はその年の4月に開校したばかり。お披露目のステージを探しているときに、前代未聞のアイドルフェスが8月に開催される情報をいただきました。さくら学院としましても、皆様へのご挨拶をさせていただくには素敵な機会だと思い、出演させていただきました」
結成間もないという意味では、2010年1月に活動を開始した東京女子流も似たようなものだった。当時の不安な心境をメンバーの山邊未夢は次のように語る。
「印象的だったのは、発表が終わったあとで記者さんたちの囲み取材があったんですよ。私がグループを代表して1人で出演させていただいたのですが、もちろんそんなのは初めてのことで。なにしろ東京女子流は結成されたばかりだったし、メンバーも小中学生でしたから。たくさんの大人の人に囲まれて緊張したうえに、受け答えもしっかりできていたのか全然わからなくて……。楽屋に戻ったとき、思わす泣いたのを覚えてます(笑)」
門澤、フジテレビ、各グループの運営スタッフ、メンバー、そしてアイドルブーム到来に沸き立つファンたち……それぞれの思惑が複雑に交錯する中、とうとう「TIF」は船出を切る。この時点で日本を代表するメガ音楽イベントに成長することを予想していた者は少なかったかもしれないが、時代の流れはもはや誰にも止められなかった。現場の熱量とスピード感は当の門澤すらも予想できなかったほどで、「TIF」はアイドルシーンを占う重要な羅針盤となっていくのだった。