音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く「あの人に聞くデビューの話」。この連載では多種多様なデビューの形と、それにまつわる物語をじっくりと掘り下げていく。第9回のゲストは、フィッシュマンズの茂木欣一(Dr, Vo)。今や海外の音楽ファンからも高い人気を誇るフィッシュマンズだが、バンドブーム末期の1991年にデビューした当時は、まさに知る人ぞ知る存在だった。そんな彼らの原点を紐解くべく、前編では結成から音楽事務所・りぼん所属までを茂木に振り返ってもらった。
取材・文 / 松永良平 撮影 / 相澤心也
2005年に再始動したフィッシュマンズを牽引する茂木欣一。大学時代に佐藤伸治(Vo, B)、小嶋謙介(G)とフィッシュマンズを結成したオリジナルメンバーであり、東京スカパラダイスオーケストラではリズムの要を務める。「欣ちゃん」と呼ばれ、誰からも愛される人柄と、ドラマーとしての自身を音楽に捧げてきた生粋かつ純粋なバンドマン。そんな茂木さんにとってのデビュー話は、やはりフィッシュマンズのことになる。ドラムとの出会い、初期のバンド経験、そしてフィッシュマンズとしての自分たちの個性が確立されていった頃を語る言葉には、素直な喜びがたっぷりとあふれかえっていて、聴いているこちらもうれしくなっていた。フィッシュマンズの音楽がノスタルジーを越えて今も世界に響き渡っているのは、佐藤伸治が遺した音楽の素晴らしさだけでなく、音楽とともに今という時代をしっかりと泳いでいる茂木さんたちの姿勢が強く関わっていると思える。
ロッド・スチュワート「アイム・セクシー」でドラム開眼
──バンド生活の始まりは?
高校生のときは吹奏楽部に入ってました。僕はとにかくドラムセットに触れる環境が欲しいなと漠然と思っていたんです。高校に入ったら吹奏楽部が練習している場所でドラムセットが輝いてるのが見えたから「入ろう!」と決めました。と言いつつ、僕が配属されたのはトランペットパートだったんですけど(笑)。その年に限ってパーカッションパートがめちゃくちゃ人気だったんですよ。「ごめん、パーカッションパートがいっぱいになっちゃった」って言われて「ええ!?」って(笑)。でも、そのおかげで譜面が読めるようになりました。だから、のちのちスカパラに入ったとき、みんなとスムーズに楽譜のやり取りができて。すごく助かりました。
──スカパラ加入という未来を考えると、ブラスバンドはめっちゃいい経験ですよね。とはいえ、「やっぱり自分はドラムだ!という気持ちが強かったんですね。
小学校の中学年ぐらいにはギターってカッコいいなと思ったんですよ。電車に乗って、渋谷のイシバシ楽器に行って、実物を見て、カタログだけ持って帰るっていうことをしてました(笑)。でもある日、ラジオで流れてきた洋楽のドラムに耳が完全に反応したんです。それがきっかけになってドラムに目覚めました。
──そこまでの衝撃を与えるようなドラムの曲って、なんだったんですか?
ロッド・スチュワートの「アイム・セクシー(原題:Da Ya Think I'm Sexy?)」です。
──ああ! すごいテクニックというより、あの曲は生の四つ打ちですね(笑)。
意外にもそれがよかった(笑)。それで、「アイム・セクシー」が入っているロッド・スチュワートのLP(「スーパースターはブロンドがお好き」 / 原題:「Blondes Have More Fun」)を買いました。聴いた瞬間、普段聴いてるような歌謡曲とは全然音が違うと実感しましたね。それって単純にミックスの違いなんですけど、ドラムの録り音がすごくカッコよく聴こえた。叩いてるのがロックの大御所ドラマーのカーマイン・アピスなので、そのせいでもあったんでしょうね。とにかく、ドラムの音をすごく刺激的に感じたんです。
──吹奏学部が使っていたドラムは叩くことはできたんですよね?
そうですね。最初はトランペットパートだったんですけど、ある練習のときにドラム担当の先輩がたまたま病欠したんですよ。そこで「モテちゃん、叩けるよね?」って言われて。文化祭用に練習してたのは、確かラッツ&スターの「め組のひと」。叩き始めたら「いいね!」って感じの反応で、そこで味を占めました(笑)。高校時代は、ほかにも佐野元春さんのコピーバンドを3年間やってましたね。
──元春オンリー?
ほとんどオンリーです。あと洋楽のコピーバンドもやってて、その2つを同時に走らせてました。高校に入るまでは洋楽一辺倒だったんですけど、姉の影響もあって佐野元春さんを聴くようになったんです。当時の佐野さんは僕ら世代にとって圧倒的な存在で、最初に聴いたのは確かベストアルバム「No Damage」。あれを聴いて完全に持ってかれました。
──僕も茂木さんとほぼ同世代なので、その感じはわかります。
姉にはいろんなところで感謝してるんですけど、佐野元春さんを教えてもらったのが、僕の中では本当に大きな出来事だった。「日本語のロックも全然いいじゃん!」と思えたのが佐野さんだったんです。だけど、そのコピーバンドはけっこう演奏もいいし、高校を卒業してもバンドを続けていけると思ってたのに、みんなあっさりやめちゃって解散。結局、プロになりたいと思っていたのは僕だけだったんですよね。そういうこともあって、大学に行ったら新しい出会いがあるかな?みたいなことを思ってました。
──高校生の時点で漠然とプロ思考があったんですね。
出会いに恵まれて、うまくいけばプロになれるんだろうなと思ってました。
佐藤伸治との出会い~フィッシュマンズ結成
──そして、大学入学後すぐ、すごい出会いに恵まれるわけですよね?
はい。ものすごく早いタイミングで。大学のサークルで佐藤くん(佐藤伸治)と出会いました。
──もう何度も話されてるだろうし、伝説の部類になってる話ではありますけど、改めて聞かせてください。当時、佐藤さんは大学3年生?
そうですね。僕は87年に明治学院大学に入学して、ソングライツという音楽サークルに入ったんです。
──どういうきっかけで入部したんですか?
大学の通路にいろんなサークルの机が並んでるんですよ。その中を歩いていたら、コウノさんという先輩が「お前、音楽好きだろ?」って声をかけてくれたんです。そのとき「このノートに好きなバンドを書いてみて」と言われて、The Who、The Pretenders、佐野元春、PINK CLOUD……とか書いたら、「こいつヤベエやつだ!」という反応で(笑)。「絶対ソングライツに入らないとダメだ。ほかのサークルでこういう音楽を好きだといってもハマらないからウチに入ったほうがいい」と言われました。そんなコウノさんの言葉を信じてソングライツに入ったんです。コウノさんはすごく面白い先輩で、今でも会いますね。そして、佐藤くんはソングライツの上級生だったんです。でも、佐藤くんは新入生の勧誘とかには一切来ないし、入った時点で僕は佐藤くんの存在を知らなかった。知り合ったきっかけは、4月の終わりにあった新入生歓迎ライブ。
──いわゆる新歓イベント?
2年生、3年生の先輩が僕らのためにライブをやるという会でした。佐藤くんは自分のバンドが解散したばかりだったんで、サークルのほかのメンバーが組んだバンドに、「ちょっと混ぜてよ」みたいな感じで1曲だけ参加してたんですよ。それがめちゃくちゃ素晴らしくて。
──イメージ的には、風来坊みたいな感じで突然現れて歌ったということですね。
歌の表現力がすごすぎて、「これが全国区か!」と思いました(笑)。東京には全国から音楽好きが集まっているから、こういう人もいるんだなって。実際、サークルの中でも佐藤くんは一目置かれる存在だったんです。その新歓ライブの日から、佐藤伸治という人が僕の中で気になる存在になり、この人と何かできたらいいなって心の中で企んでいました。
──音楽系のサークルは体育会系と違って、そこまで上下関係が厳しい感じでもなかったと思うんですけど、入部したばかりの1年生が3年生に話しかけるというのは、そこそこ勇気がいることですよね。
そうなんです。だから、作戦を考えました。新歓のすぐあとに1年生同士で組んだバンドのお披露目会があったんですけど、そこでとにかく目立ってやろうと思って。ドラムをめちゃくちゃ激しく叩きまくって、最後、The Whoのキース・ムーンみたいにドラムセットをわーって蹴っ飛ばしたんですよ。それが印象に残ったのか、5月の終わりの春合宿で佐藤くんのほうから僕に声をかけてくれたんです。みんなで食事をしてたら「欣ちゃんさ、この旅館、セッションできるスペースがあるから、あとで一緒に演奏しようよ」って。それでRC サクセションの「雨上がりの夜空に」とかをジャムったと思います。
──初セッションでRC。
そのセッションをしてから、佐藤くんが「6月にソングライツの前期の定期演奏会があるから、そこで一緒にバンド組まない?」って誘ってくれたんですよ。「やったー!」って思いました。「ギターは別のサークルにいる小嶋(謙介)ってやつに弾いてもらうから」って。小嶋さんはキース・リチャーズみたいな雰囲気でギターを弾く人として、学内では有名だったんですよね。ソングライツのセッションにもよく遊びに来てたんで、カッコいい人だなと僕も思っていました。そうやって3人で始めたのがフィッシュマンズだったんです。
──どういうバンドにしよう、この曲やろうみたいな話は?
いやこれがね、最初からオリジナルなんですよ。
──佐藤さんのオリジナル?
はい。佐藤くんのオリジナル曲です。「Blue Summer」と「素敵なダンス」という2曲。「素敵なダンス」は最初歌詞が付いてなくて、ドラムとベースとギターだけ入ってるような感じだったかな? その2曲のデモができていて、佐藤くんからは「それを聴いといて」みたいな感じで言われました。最初から佐藤くんのオリジナル曲を演奏できるということで、かなり興奮しました(笑)。「Blue Summer」のデモテープも当時の僕からしたらめちゃめちゃ完成度が高かった。スタジオでリハをする日が来るのが楽しみでしたね。
La.mamaのオーディションに合格したものの…
──話を聞いてると、やっぱり佐藤さんは、サークル内でもけっこう異質な存在だったんですね。
僕に声をかけてくれたコウノさんは副部長なんですけど、コウノさんを中心にサークルの明るいムードがあったんです。そんな中で佐藤くんは、けっこう自由にしてる感じで。佐藤くんが醸し出している空気感もすごく好きでしたね。「ああ、歌う人だな~」っていうか。今まで会ったことのない、ちょっと大げさな表現だとカリスマ性みたいなものを感じていたし、おしゃれでしたね、振る舞い方も服装も。ふとした瞬間にニヤッとする感じとか。あと、とにかく音楽に詳しかった。日本の音楽シーンもよく知ってました。当時、THE BLUE HEARTSが出てきたばかりで、僕ら1年生の間では衝撃的な存在だったんです。同学年だったザ・カスタネッツの牧野元くんの家で「すごいバンドが出てきた!」ってTHE BLUE HEARTSのライブ映像を観せてもらった記憶があります。
──87年はTHE BLUE HEARTSがシングル「リンダ リンダ」で衝撃的なメジャーデビューを飾った年でしたね。
牧野くんたちと1年生同士でTHE BLUE HEARTSの曲をセッションしてたら、佐藤くんがふらっと現れて「そこでブレイク入るよ」とか的確にアドバイスをしてくれたんです。めちゃくちゃ聴き込んでる感じなんですよ(笑)。当時、僕らは佐藤くんのことを「伸治さん」と呼んでいたんですけど、「伸治さんにアドバイスしてもらった!」って、みんなで盛り上がりましたね。もっと言うと、佐藤くんは、甲本ヒロトさんが以前に組んでいたザ・コーツのライブも観てるんですよ! あと佐藤くんといえばROGUE。佐藤くんはROGUEがめちゃくちゃ好きで。佐藤くんの影響で、僕もめちゃめちゃハマって日本武道館公演を観に行きました。こんなに演奏がうまい人たちがいるんだと思いましたね。
──80年代後半の大学生たちのロックな青春が目に浮かびます。さて、その後のフィッシュマンズは?
フィッシュマンズがスタートした時点で佐藤くんは3年生でしたからね、4年生になる88年の春でサークル活動は終了なんです。それで3月に渋谷La.mamaの昼の部のオーディションライブをフィッシュマンズで受けることにしました。ちょうど春休みの時期だったんでサークルの仲間がたくさん観に来てくれて、めちゃくちゃライブが盛り上がったんですよ。それで合格。順調にライブハウスへの道が開けたかなと思ったんですけど、5月に夜の部のライブに出たら全然お客さんを集められなかった。そこから長い苦難の道のりが始まりました(笑)。
──あれあれ? おかしいな? みたいな。
そう! ライブハウスでやっていくということは、がんばって自分たちでチケットを手売りしてお客さんをどんどん増やさなきゃいけないんだと、ここで初めてわかりました。曲もいいし、いつかなんとかなるんじゃないかって勝手な未来予想図を思い描いて、友達にチケットを売るのも面倒くさいなみたいな感じだったんですけど、さすがにそれじゃダメでしたね(笑)。それでもLa.mamaのブッキング担当の中山さんという方がめちゃくちゃいい人で、僕らを出演させ続けてくれた。そうだ、この頃に起きた大事なことがあります。初めてLa.mamaの夜の部に出たあと、すぐにベースが辞めるんですよ。で、次にライブやったのが8月なんですけど、そのタイミングでベースが(柏原)譲に変わってます。
──現在まで続くリズム隊がそろった。
譲のことは、ずっと前から「あいつは上手だから」って僕から佐藤くんに推薦していたんですけど、佐藤くんは「まだ甘い」みたいなことを言っていた(笑)。だけど、ベースが抜けて譲に弾いてもらったら、やっぱり上手だった。そこからは定期的にLa.mamaに出て、デモテープを録ったりして、がんばっていこうという感じでした。その後もなかなか動員が伸びなかったけど、La.mamaに出続けるうちにバンドの知り合いも増えてきた。
音楽事務所りぼんと契約
──バンドの潮目が変わったときって覚えてます?
はっきりと流れが変わったのは89年ですね。その年の春、雑誌「宝島」が立ち上げたキャプテンレコードというインディーズレーベルから、「オムニバスに参加しませんか?」と声がかかったんです。「パニック・パラダイス」というオムニバスに、KUSU KUSU、ザ・ポテトチップス、ムスタングA.K.A.とか当時名の知れた人たちの中にフィッシュマンズで2曲(「いなごが飛んでる」「Special Night」)入れてもらいました。そこから徐々に名前が知られていった感じです。まさにバンドブームが訪れるタイミングでしたね。「イカ天」(「三宅裕司のいかすバンド天国」 / 1989年2月に放送開始したバンドオーディション番組)が始まったのもその頃。
──当時、茂木さんは「イカ天」をどう感じていたんですか?
面白くて毎週観てましたよ。番組からすごい人たちが出てきましたからね。BLANKY JET CITYとかFLYING KIDSとか、たまとか。マルコシアス・バンプもそうですよね。でも、自分たちが出ようとは思わなかったです。
──というのは?
もちろん佐藤くん本人が一番感じていたと思うけど、佐藤くんが書いた楽曲を3分とかの短いオーディション時間で簡単に評価されたくなかったというか。
──短い時間で切り取られない、もっと大きなものがここにはあるということをその時点ですでに感じていたわけですね。
そうですね。それは1曲1曲ごとに感じていました。今振り返ると、すごく生意気なのかもしれないけど、そう思っていました。佐藤くんが新曲を書いてくるたびに新しい進化を確実に見つけることができた。すごく丁寧に曲を作る人だし、最初から「Blue Summer」みたいないい曲を書く人だったし。フィッシュマンズが「イカ天」に出るのは違うなと思いました(笑)。でも、バンドブームの影響は僕らにとっても大きかったですね。89年に入ってオムニバスに参加したら、のちにフィッシュマンズがお世話になる事務所、りぼんの奥田社長と当時会社にいらっしゃった野地さんの2人が僕らのライブを観に来てくれて、所属しないかと声をかけてくださったわけですから。
──事務所に所属してマネジメントしてもらう。つまり、デビューまでの導線がそこで引かれた。
当時のバンドブームはね、すごかったですよ。どのライブハウスでも、ライブが終わって楽器を片付け始めると、レコード会社の人が誰かしら絶対残っているんですよ。あらゆるレコード会社が新しいバンドを探しに来ていた。あの人たちの姿がバンドブームを象徴していましたね。本当にたくさんのバンドにデビューのチャンスが転がっている感じでした。
──改めて思うと不思議な気がします。フィッシュマンズってバンドブームの時期に世に出てきたバンドなんですよね。
およそバンドブームっぽくないサウンドですよね(笑)。あの浮かれたバンドブームの中で、MUTE BEATに憧れてバンドをやっているとか、佐藤くんはかなり変わっていたと思います(笑)。
──サークルに入るとき、好きなバンドとしてCharさん、ジョニー吉長さん、加部正義さんのトリオだったPINK CLOUDの名前を挙げた茂木さんも相当変わったロックオタクだったと思いますけど(笑)。
確かにそうですね(笑)。骨太なロックをしっかり演奏してる人たちの音を好んで耳にしてました。今思えば我ながら、いい耳を持ってたと思います(笑)。当時、PINK CLOUDが東京でやったライブは渋谷のLIVE INNとか渋谷公会堂とか、僕、たぶん全部行ってますね。
──りぼんとはどういう契約内容だったんでしょうか?
89年の秋で、専属料は毎月10万円でした。契約書を交わした瞬間に、これでもうバイトをしなくていいし、このままプロになれるんじゃないかと思いました(笑)。La.mamaでのライブも、ちょっとずつですけど確実にお客さんが増えてきてたし。90年になると、ブッキングマネージャーの中山さんから「ワンマンをやってみませんか?」って声をかけてもらえるようになりました。
──もうワンマンができるぐらいの数の曲ができていたってことですよね?
そうですね。当時の演奏を聴くと、「よくこれでワンマンができたな」って思いますけど(笑)。確かワンマンライブをやることが決まって、ドラムセットを買った記憶があるな。それまでは自前のスネアドラムだけを担いでライブハウスに持っていく感じだったんですけど、ドラムセットを買って、車の免許を取って、これを仕事にしていくぞ、みたいな(笑)。バンドで食べていくのが現実になっていった感じですね。
<後編に続く>
茂木欣一(モテギキンイチ)
1967年生まれ。大学在学中の1987年に佐藤伸治、小嶋謙介とフィッシュマンズを結成。1991年にメジャーデビューを果たし、「空中キャンプ」「LONG SEASON」「宇宙 日本 世田谷」などを発表する。1999年に佐藤が急逝したためフィッシュマンズの活動は停止を余儀なくされ、その後、2001年に東京スカパラダイスオーケストラに正式加入。2005年にフィッシュマンズの活動を再開させた。2025年2月18日には、フィッシュマンズ史上最大規模となるワンマンライブ「「Uchu Nippon Tokyo」を開催。翌19日にはアンソロジーアルバム「HISTORY Of Fishmans」が発売された。10月11日には初の海外ワンマンである台湾公演を行う。
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