音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く「あの人に聞くデビューの話」。この連載では多種多様なデビューの形と、それにまつわる物語をじっくりと掘り下げていく。第16回は、Original Loveの田島貴男をゲストに迎える。前編となる今回はOriginal Loveの前身バンドであるレッド・カーテンの結成秘話、意外な券売方法で会場を満員にしたという初ライブ、ネオGSシーンとの関係、ピチカート・ファイヴ加入の経緯など、数々の貴重なエピソードを語ってもらった。
取材・文 / 松永良平 撮影 / 相澤心也
Original Love田島貴男は、1人の尊敬すべきミュージシャンであると同時に、僕にとってはレコード店仕事の先輩にあたる(田島さんがかつてアルバイトしていた店の後輩なのだ)。Original LoveとしてCD2枚組アルバム「LOVE! LOVE! & LOVE!」でメジャーデビューを果たしたのが1991年。実はそれ以前に、田島さんはすでに2度、“デビュー”を果たしている。自主制作盤としてリリースしたOriginal Loveの1stアルバム「ORIGINAL LOVE」(1988年)、そして同年にリリースされたピチカート・ファイヴでの「Bellissima!」。この2つのデビューはどのようにして実現したのか。そして今、改めて自分の出発点を振り返ってみて何を感じるのか。「根掘り葉掘りですね!」と苦笑いされつつ、若き田島貴男がいた80年代後半の風景を語ってもらった。
小里誠とレッド・カーテン結成
──Original Loveの前身バンドであるレッド・カーテンの結成は1985年です。
そうですね。福島から上京して和光大学に入って、僕が1人で作っていたデモテープをもとにメンバーを集めて結成しました。ただ、レッド・カーテンというバンド名が付いたのは86年かもしれないですけど。
──初代ベーシストだった小里誠さんが名付け親だったそうですね。
そうです、小里くんです。僕にはバンド名が思いつかなかった。初めてスタジオに入ったのは85年だったと思いますね。大学の友達のドラマーと、小里くんと僕の3人で。
──ドラマーは秋山幸広さん?
最初は秋山さんじゃないんですよ。僕の友達で、ちょっとぶっ飛んだやつでした(笑)。彼とライブをやったのは1、2回かな。センスがよくてカッコよかったんだけど、続かなかったんですね。それで後任として秋山さんにドラマーで入ってもらいました。
──最初から田島さんの曲をやるバンドという認識だった?
そうですね。小里くんが僕のデモテープを聴いて「すごくいい! 田島の曲でバンドをやろう」と言ってくれたんです。それで、じゃあ小里くんも曲を書こう、となって。彼もXTCやトッド・ラングレンが好きで、すごく音楽に詳しかったんで。
──そもそもレッド・カーテンはXTCの変名バンド、The Dukes of Stratosphearのメンバーの名前が由来ですからね。
小里くんはピッキー・ピクニックというバンドもやってて面白かったんですよ。そういう感じで3人で始めたんですけど、3人だと音が薄すぎる。僕のデモテープではギターを2、3本重ねて入れていたんです。それで、もう1人ギターが欲しいということになって、小里くんの友達の村山孝志くんに入ってもらいました。そこからは4人編成ですね。
大学の最寄り駅前でライブチケット手売り
──デビューライブは覚えてます?
僕と木暮(晋也 / 現ヒックスヴィル)で、La.mamaに持ち込んだ企画イベントです。そもそも僕は、大学に入ったら絶対にバンドでライブハウスに出たいと思ってたんですよ。上京前は福島の郡山市に住んでいて、東京のライブハウスは憧れの場所だったんで。同じ1966年生まれの大槻ケンヂくんが筋肉少女帯で大活躍している記事を雑誌で読んだりして、「新宿LOFTに出たいよな」とか思っていて。東京に出てきて、自分のバンドも組んだし、郡山の高校時代から仲がよかった木暮と、2人でデモテープをライブハウスに持ち込んだんです。「僕らの2バンドでイベントをやりませんか」って。でも誰も相手にしてくれないんですよね。全部断られました。LOFT、クロコダイル、ほかにも10店ぐらい新宿と渋谷のライブハウスを回りましたね。
──田島さんと木暮さんを門前払い! 当時は無名だから仕方ないかもしれないけど。
そしたら、La.mamaの当時の店長だった大森さんという方(のちにTHE YELLOW MONKEYの所属事務所代表となる大森常正)が「貸切だったらいいよ」ってOKしてくれたんです。ただし「貸切、20万円ね」って。こっちは「マジで!?」みたいな(笑)。大森さんはちゃんと日程を押さえてくれました。ただ、木暮のバンドは、その時点でまだメンバーさえいなかったんですけど(笑)。
──え? 木暮さんのバンドって、この時期ならワウワウ・ヒッピーズですけど、まだ結成前? つまり、ライブが決まってからメンバーを募集したんですか?
そうです(笑)。「FOOL'S MATE」という雑誌の告知ページでメンバー募集をして、それを見て興味を持って連絡してきたのが、高桑(圭)くんと白根(賢一)くん。ボーカルがいないから、僕の友達のムッチーっていうやつを紹介して。そのメンバーで木暮はワウワウ・ヒッピーズを結成したんです。ライブ当日は、レッド・カーテンとワウワウ・ヒッピーズ、あとは木暮の先輩がやっていたリザレクションっていう裸のラリーズっぽいバンド、そして当時よく一緒に遊んだりした音楽マニアの青山陽一くんがやっていたバンドで、人気も出始めていたグランドファーザーズにも出てもらいました。その日が僕のライブデビューです。
──記録に残ってますね。イベント名は「マジカル・ナイーブ音楽館」。開催日は1986年の10月28日です。
根掘り葉掘りがすごすぎますね(笑)。あのライブは、ハコを貸し切ったから自分たちでノルマを稼がないといけない。僕、チケットをめちゃくちゃ売ったんですよ。80枚くらい? もっと売ったかもしれないですね。とにかく毎日、大学があった小田急線・鶴川駅の駅前に立って。
──友達づてとかじゃなくて、路上販売ですか?
そうです。もう手当たり次第に。当時はそんなに友達なんかいないですから。まあ、チケット代も1000円ちょっとだったし。通りすがりの学生とかに「こういうライブをやるんですけど、チケットを買いませんか」ってセールスしたら、「あ、買います」とか言ってくれて、けっこう売れたんですよ。
──へえー!
僕も当時はマッシュルームカットで古着を着て目立つ格好してたんで、「なんか変なことやりそう」みたいな感じで興味を持ってくれたのかもしれないですね。がんばってチケットを売ったら、La.mamaが満員になったんですよ。しかも最初のライブから黒字だった。やる前は20万を埋めるのにどれだけバイトしなきゃいけないんだろ?と思ってたんですけど(笑)。黒字の分は、僕と木暮で分け合いました。
──すごい。
それで店長の大森さんが僕らを信用してくれて、La.mamaで月1でイベントをやらせてもらえることになったんです。毎回、固定のお客さんが100人以上来てくれて、3、4回目のライブの頃には、いろんなハコから声がかかるようになりました。それこそ最初に断られた、LOFTやクロコダイルからも「うちに出演しないか?」って電話がかかってきたんですよ。
ネオGSシーンでの立ち位置
──結成当初のサウンドはどんな感じだったんですか?
自分ではそんなつもりなかったんですけど、「サイケ」って言われてましたね。
──当時の東京のインディーズシーンは、サイケ、ネオGSなど1960年代的なバンドが注目されていた時期でもありました。
木暮がやっていたワウワウ・ヒッピーズは、思いっきりネオGS界隈に入りこんでいました。彼が住んでいたのが多摩地区で、ネオGSのバンドって、あのあたりに密集してたんですよ。だから彼は、その界隈の人と強いつながりを持っていた。僕はちょっと離れた別の沿線に住んでたんで、淡々と自分の曲を作っていた感じでしたね。レッド・カーテンとしては、ネオGSのバンドとも、ガレージパンクのバンドともライブはやっていましたけど。
──レッド・カーテンは、ほかのバンドとはちょっと違うなと自分でも感じていた?
自分ではネオGSをやってるわけではない、と思っていました。ネオGS周辺の人たちと、しょっちゅう飲みに行ったり、レコードの貸し借りとかはしてましたけどね。
──当時のレッド・カーテンのライブはどんな雰囲気だったんですか?
わりと男性のお客さんが多かったです。ワウワウ・ヒッピーズは女の子にキャーキャー言われてましたけど、僕らのライブは、演奏をカセットで録音するような男性客が多くて(笑)。ネオGSのイベントで、たまにキャーキャー言われるようなこともありましたけど、基本的には音楽オタクの男性客が多かった。一時期、初期のライブを録音した海賊盤のカセットが出回ってましたね。
──すごい。デビュー前から海賊盤(笑)。レッド・カーテンの初レコーディングは「Attack of the Mushroom People」(1987年4月、MINT SOUND RECORDS)ですよね。まさに、今話していたようなネオGSシーンを集約した重要な作品でもあります。
あれは僕らがライブを始めて3、4回目ぐらいのタイミングで声をかけてもらったんですよ、ライブハウスで。MINT SOUNDの小森(敏明)さんの家に8トラックの機材があったんだったっけな? そこで僕が自宅で作ったカセットの音源にドラムの音を重ねたり、そういうことをした気がする。あのときは、ちゃんとしたスタジオに入った記憶がないんですよね。
──宅録の延長みたいな?
完全にそうです。そういう意味では、Original Loveのインディー時代のアルバム(「ORIGINAL LOVE」1988年)も宅録の延長でしたけどね。ちゃんとスタジオで録音した曲は、弾き語りの「Talking Planet Sandwich」ぐらいじゃないかな。あとは4トラックで録音したカセットをスタジオに持ち込んで、ドラムを重ね録りして、みたいな工程でした。
──「Attack of the Mushroom People」が発売された87年には、レッド・カーテンからOriginal Loveへの改名という出来事があります。7月12日の新宿LOFTでのライブが、改名後の最初のライブ。バンド名を変えるって、わりと大きな節目じゃないですか?
でもね、レッド・カーテンって名前は自分が付けたわけじゃなかったし……何かいい名前がないかなとも思ってたんです。それで思い付いたのが、The Feeliesの「Original Love」という曲。僕はあのバンドが大好きだったから、「Original Loveってどうかな?」と提案したんです。そしたら小里くんも「いいかもね」と言ってくれた。なので、Original Loveという名前に変えた。秋山さんは「レッド・カーテンのほうがいい」って断固反対したんですよ(笑)。
──でも結局、Original Loveに落ち着いて。
改名は、自分にとってそれほど大きなことではなかったんです。でも、Original Loveという名前のほうが自分がやっている音楽性に合ってるんじゃないかとは思った。東京に出てきてからサイケとかガレージとか60年代の音楽もたくさん聴くようになって影響を受けましたけど、自分としてはそういう音楽をそのままやってるつもりはなかったんですよね。むしろ高校時代に聴いていた、イギリスのThe Cure、Gang Of Four、エコバニ(Echo & The Bunnymen)とか、80年代前半のパンク / ニューウェイブの人たちのほうにシンパシーを感じていたんです。レッド・カーテンという名前のままだと、60年代の音楽をやってるようなイメージが付くんじゃないか?という気がしていたし、Original Loveのほうが新しい感じがしたんですよ。The Feeliesが、当時は新しい音楽だったし。
──Original Loveとしての初リリースは、その年の12月に出たMINT SOUNDのクリスマスアルバム「MINT SOUNDS' X’MAS ALBUM」ですね。
「CHRISTMAS NO HI」という曲で参加しました。そのアルバムの企画でイベントをやったんですけど、ソロ名義で参加していた小西康陽さんが、Original Loveのライブをたまたま観てくれたみたいで。当時ピチカート・ファイヴのメンバーを大幅にチェンジするというタイミングだったんですよ。それで、「ボーカル兼作曲担当でピチカート・ファイヴに加入しないか?」と誘ってもらったんです。
2代目ボーカリストとしてピチカート・ファイヴ加入
──それまで小西さんやピチカート・ファイヴには、どういう認識を持っていましたか?
僕は存在を知らなかったんです。ピチカートはその時点で1stアルバム(「Couples」1987年)しか出してなかったし。当時、僕もバート・バカラックの曲とかは好きでしたけど、自分のバンドではそういった音楽を志向してはいなかった。自分とは違う世界だなと思ってました。
──でも、加入を承諾した。
すごくデビューをしたかったんですよね。ただ、「ピチカート・ファイヴに加入してもOriginal Loveは続けたい」と伝えました。当時ピチカートはCBSソニーと専属契約を結んでいたんで、メンバーになるということは、Original Loveではデビューできなくなっちゃうんですよ。なので、Original Loveはライブだけで活動しながら、ピチカートをやることに決めました。それで、ピチカートに加入する前に1枚アルバムを作っておこうというので、インディーズのアルバム「ORIGINAL LOVE」を作ったんです。
──あのアルバムって、プロデューサーが元はちみつぱいの和田博己さんですよね。
和田さんとは、どういうふうに出会ったんだろう? Original Loveの最初のマネージャーというか、ライブによく来てくれて、ちょっと面倒見てくれる感じだったんですよ。
──どちらかといえばマネジメント的な?
どういうポジションだったんだろう? でも、あのアルバムに関わってもらったところは大いにあったと思うし、和田さんの家にもよく遊びに行ってました。和田さんはオーディオマニアで、その後、オーディオ評論家になられたじゃないですか。当時からめちゃくちゃいいオーディオでレコードを聴かせてくれました。あるとき、アル・グリーンの「Sha-La-La」を「俺の人生の1曲なんだ」って聴かせてくれたんですよ。完璧なオーディオで聴く「Sha-La-La」がめちゃくちゃよくて! Hi Soundのメンバーの演奏の美しさ、ストリングスの素晴らしさ、歌の甘さ、全部がブワーッときて、僕も思わず「このレコード絶対買います!」とか言って。で、買って家で聴いたら、そんなに面白くない(笑)。要は、和田さんの家のオーディオシステムがめちゃくちゃよかったっていう話なんですけどね。
──アルバムを出した頃は、このあとOriginal Loveはどうなっていくんだ、みたいな葛藤の時期でもあったのでは?
あとのことは、あんまり考えてなかったですね(笑)。ピチカートに入る前から「デビューしないか?」という誘いがレコード会社からたくさん来てましたし。でも、それが次から次へと頓挫するんですよ(笑)。Original Loveのデビューに向けて某レコード会社のスタジオでレコーディングしたこともありましたね。なので、いずれは絶対メジャーデビューできると思ってたし、非常に楽観的でした。ただ、小里くんや村山くんはちょうど就職の時期だったんですよ。親御さんから「音楽なんかやってないで就職しろ」とか言われてたのかもしれない。でも僕は「音楽でしか食えない」って周りの全員に言われていて(笑)。だから自分でも「このまま音楽をやるんだろうな」と当たり前のように思っていましたね。
──そういう意味では、インディーズのアルバム「ORIGINAL LOVE」は、デビューアルバムではあるけども、デビュー以前の作品でもあるというか。アマチュアとは言い切れないけど、大学生バンドの思春期の終わりみたいな感じでもあった。
そうですね。でも、ピチカートはライブをそんなにやらなかったから、Original Loveでのライブはずっと続けていました。
──ライブをやりたい気持ちはOriginal Loveのほうで発散していた。
そうなんです。ピチカートのライブで、Original Loveのときみたいに僕が「イェー!」とかやると怒られてましたからね、お客さんに。「邪魔なんだよ」「うるさい」みたいな感じで(笑)。
──厳しい(笑)。
前任ボーカルの佐々木麻美子さんの可憐なイメージがやっぱりあったからでしょうね。当時のピチカートのライブって、音楽好きのおじさんたちが静かにじっくり演奏を聴く、みたいな雰囲気だったんですよ。そういうところに、僕が「イェー!」みたいな感じで出ていくから、そりゃ眉をしかめられますよね(笑)。
<後編に続く>
プロフィール
田島貴男(タジマタカオ)
1985年結成のバンド、レッド・カーテンを経て、1987年よりOriginal Loveとしての活動を開始。1991年7月にアルバム「LOVE! LOVE! & LOVE!」でメジャーデビューを果たす。「接吻 kiss」「朝日のあたる道」などのシングルでヒットを記録し、1994年6月発売の4thアルバム「風の歌を聴け」はオリコン週間アルバムランキング1位を獲得。以降もコンスタントに作品を発表し、柔軟な音楽性を発揮している。近年はバンドスタイルでのライブのみならず、田島貴男1人での「ひとりソウルツアー」や「弾き語りライブ」も恒例化している。2026年4月には韓国のオルタナティブバンドCADEJOとのコラボレーションEP「From a South Island」を配信リリース。11月23日には、キャリア初となる日本武道館公演「SOUL POWER BUDOKAN ~あれから、そしてこれから~ Dancin'- The 35th Anniversary Live」の開催が控えている。
ライブ情報
Original Love「SOUL POWER BUDOKAN ~あれから、そしてこれから~ Dancin'- The 35th Anniversary Live」
2026年11月23日(月・祝)東京都 日本武道館
Original Love Tour 2026「センス・オブ・ワンダー」
2026年5月24日(日)北海道 Zepp Sapporo
2026年5月30日(土)神奈川県 横浜関内ホール 大ホール
2026年6月21日(日)福岡県 Zepp Fukuoka
2026年6月27日(土)大阪府 Zepp Namba(OSAKA)
2026年6月28日(日)愛知県 Zepp Nagoya
2026年7月11日(土)東京都 昭和女子大学人見記念講堂


