音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く「あの人に聞くデビューの話」。この連載では多種多様なデビューの形と、それにまつわる物語をじっくりと掘り下げていく。第17回はTHE COLLECTORSの加藤ひさし(Vo)をゲストに迎える。1986年の結成以来、40年にわたりバンドを牽引してきた加藤。前編となる今回は音楽に目覚めたきっかけや、自らの人生観を変えたというモッズカルチャーとの出会いなどを語ってもらった。
取材・文 / 松永良平 撮影 / 森好弘 取材協力 / INNOCENT ANTIQUES
今年、結成40周年を迎えたTHE COLLECTORS。結成以来リーダーとして、バンドの音楽的頭脳として、ボーカリストとして、加藤ひさしは活動を続けてきた。東京のモッズシーンを黎明期から知り、ファッションだけでなくライフスタイルもこだわり抜くその一方で、作詞家、作曲家として、そして近年はバンドのギタリスト・古市コータローとともに2009年からパーソナリティを務めるポッドキャスト「池袋交差点24時」での軽妙な語り口でも大きな支持を得ている。THE COLLECTORSとしてのデビューがテーマの取材なら、いかに自分が美学を貫いてきたか、その原点を熱く語る内容になりそうなものだが、意外にも加藤は、迷い、試行錯誤し、うまくいかなかったという反省を隠さない。オリジナルアルバムは25枚を超え、今なお常に作りたい音楽のことを考え続けている。その尽きない創作意欲を形作ったデビュー期の話を深く聞いてみよう。
The Beatlesをきっかけに60年代の音楽に目覚める
──加藤さんにとって「ここがデビューだな」と思えたタイミングは?
自分の中で「デビューするぞ!」という気持ちになったのは、1987年にインディーズのMINT SOUND RECORDSからアルバム「ようこそお花畑とマッシュルーム王国へ」(10inchアナログ)をリリースした頃ですね。
──87年は、THE COLLECTORSにとってメジャーデビューの年でもあるんですよね。インディーズで「ようこそお花畑~」を7月にリリースしたわずか4カ月後にメジャーデビューアルバム「僕はコレクター」がテイチクからリリースされている。
あのインディーズ盤は、86年からすでにレコーディングしてたんですよ。87年に入りネオGSムーブメントが盛り上がって、僕らもその流れに加わることになり、確かゴールデンウイークに渋谷のLIVE INNでザ・ファントムギフトとかと一緒にオムニバスのライブをやったんです。それがもう、恐ろしいほどのすごい動員で。雑誌「PLAYBOY」がイベントの模様を取り上げてくれたりして、レコード会社からも、いくつか手が挙がった。なので僕にとって、デビューするぞという気持ちが高まったのは、87年の5月ぐらいからですね。
──なるほど。ではひとまずはそこをゴールとして、それ以前のお話から聞かせてください。お生まれは埼玉の熊谷市ですよね?
そうです。僕が生まれたときは、まだ妻沼町という熊谷の隣町だったんですけど、途中で吸収合併されて。今、妻沼町は熊谷市になっちゃってるんですけど。まあ田舎ですよ。
──その頃の音楽に触れる情報源といえば?
主な情報源はラジオでしたね。洋楽を扱うようなテレビ番組がなくて、80年代に入ってMTVが登場するまでは、海外のロックアーティストを観る機会はほとんどなかったんですよ。僕がロックを聴き始めた頃は、ハードロックが流行ってましたね。あと、1974、5年って、The Beatles復活熱みたいなものがすごく高まっていたんです。
──ベストアルバム(通称”赤盤・青盤”)が出た頃ですね。
ジョン、ポール、ジョージ、リンゴがそれぞれソロでヒットを出していた時期。また再結成するだろうみたいな雰囲気があって、雑誌でも盛んにThe Beatles特集をやっていましたね。Led Zeppelinも活躍してたし、新人としてAerosmith、Kiss、Queenとか、のちにスーパースターになるようなバンドが次々出てくるんで、ラジオはにぎやかでしたね。
──当時の加藤少年はリアルタイムのハードロックもOKだった?
いえ。僕は洋楽の入り口がThe Beatlesだったんで、70年代半ばの、リアルタイムのロックの連中がカッコいいと思えなかったんですよ。ロングヘアで、無意味に長いギターソロを弾くようなバンドが多かったから。The Beatlesみたいに小洒落てるバンドが好きだったんです。だから、1つ前の時代の音楽を掘ってた感じですかね。60年代のThe WhoやThe Rolling Stonesを聴いたりしてました。
──レコード屋さんでもそのあたりのバンドを掘っていた?
それが、当時はレコード店に行っても、60年代のロックって時代遅れな扱いで、ショップに行っても全然置いてないんですよ。例えばThe Kinksを探しに行っても、オリジナルアルバムが売ってない。置いてあるのはだいたいベスト盤なんですよ。昔の音楽って、今ほど手軽に聴けなかった。まずレコードを探すのが大変でしたね。
──でも手軽に聴けないことで、どんどん気持ちが高まっていくものですよね。
それはありますね。マニア気質が上がるというか。当時はレコードを友達同士でお金を出し合って買ってたんですよ。みんなで貸し借りして、レコードを聴いてました。
パンクムーブメント到来、実は最初The Jamが苦手だった
──そういう中で、70年代後半にパンクムーブメントが起こる。
僕が高校生の頃に、ロンドンからパンクロックの波が来た。Sex Pistols、The Clash、The Damned、The Stranglers、The Jam……そういう連中が一斉にバーッと出てきたんです。でも高校生の自分には、どのバンドがパンクなのか全然わかんないわけですよ。で、ルックスがちょっとThe Beatlesに似てるということでThe Jamの1stアルバム「In The City」を買ったんですけど、思ってたほどThe Beatlesっぽくない。だから実は最初、The Jamが苦手だったんですよ。
──そうなんですか。最初からThe Jam一択だと思ってました。
1stアルバムは買ったんですけど、2nd、3rdは買わなかった。次にThe Jamのレコードを買ったのは4枚目の「Setting Sons」(1979年)。レコード店に行ったら、ポップに「全英ナンバーワンアルバム」と書いてあって。「え、あのThe Jamが?」と思って、そのアルバムを買ったら本当に素晴らしかった。そこからは、アルバムをさかのぼって聴いていきました。
──「Setting Sons」には、The Collectorsがカバーしている「Heat Wave(恋はヒート・ウェイヴ)」(オリジナルはモータウンのガールグループ、Martha & The Vandellas)も入ってますしね。
そうなんですよ! で、その直後にThe Jamが来日するんです。結局、3回来日してるんですけど、僕は2回目と3回目を観に行きました。そのライブがあまりにも衝撃的だった。そこでさらに惚れた感じですね。
──ひと目惚れではなかったけど、ちゃんと惚れ込んだということですね。むしろリアルです。
逆に、当時The Jamの1stアルバムを聴いて、「これがモッズだ!」って言うやつがいたら、そいつのほうがおかしいと思いますよ。ギターの音もハードだし、リフの感じもモッズというよりピストルズっぽい。正直な感想としては、スーツ着て、リッケンバッカー持ってるのに、パンクロックやってるなーって印象でした。
──その頃から音楽に本格的にのめり込んでいった?
そうですね。当時はイギリスのヒットチャートが自分のすべてでした。埼玉県の外れの田舎町に生まれて、よかったなと思うことって全然ないんですよ。ただ、1つだけ自慢できることがあるとすると、テレビ埼玉(テレ玉)を観れたこと。「サウンド・スーパー・シティ」っていう、とんでもないタイトルの洋楽のビデオ番組をやってたんです。マニアックすぎる選曲でしたね。Echo & the BunnymenもU2も全部その番組で知りました。
──東京のキー局発信ではなく、UHFのローカル局だからこそのやりすぎ感。
上野晃さんという局アナが司会をやってたんですけど、上野アナはロックマニアではないから余計なことを話さないんです(笑)。だから、番組がほとんどミュージックビデオやライブ映像で、しかもMVはまるまる1曲流れるんですよ。The Jamのライブもその番組でたっぷり観れました。VHSのビデオが普及し始めた時代だったんで、あの番組は全部録画しました。僕は千葉の大学に通ってたんですけど、VHSを持っていって「こんな映像観たことないだろう」って、みんなに自慢しましたもん(笑)。Echo & the Bunnymenのロイヤルアルバートホールのライブ映像は、のちにビデオ化されますけど、それをリアルタイムで観てたんですよ。だから当時の埼玉はロンドンと直結してました(笑)。雑誌で洋楽アーティストの写真を見たりすることはできたけど、動いてる姿を観られるのは貴重なことだったので。
──最高ですね。やりすぎというより、むしろやりっぱなしの伝説的な番組だった。
のちに僕がデビューしてから、上野アナウンサーにお会いする機会があったんです。そのとき、「僕にロックを教えてくれたのはジョン・レノンと上野さんです」って褒め称えました(笑)。貴重な映像がテレビ埼玉に残ってるということで、レコード会社の人がよく映像を借りに来たそうです。それぐらいレアな映像を放送する番組だった。録画したVHSは、いまだに捨てられないで持ってます。
──ある意味、加藤さんにとっての早すぎたYouTube。
本当にYouTubeでしたね、僕にとっての。
──映像から入ると、自分が組みたいバンドのイメージもはっきり思い描けたんじゃないですか?
本当にそうなんですよ。すごく勉強になりましたね。演奏している姿を観て、「The Jamってこんなにカッコいいんだ! いつか、こういうバンドを組んでみたい」とか思うようになりました。
ポール・マッカートニーにひたすら憧れていた高校時代
──バンド活動は、いつから?
バンドを始めたのは高校生のときですけど、ロックに目覚めた中学生のときからThe Beatles好きの友達4人で「高校に行ったらバンドを組もうぜ」と話していました。それで、高校に入学してThe Beatlesのカバーバンドを始めます。僕はベース&ボーカル担当。そのときドラムだったリンゴ田巻とは、のちのちTHE COLLECTORSで一緒にデビューするんですけど。
──ベースを選ばれた理由は?
ポール・マッカートニーが好きだったからです。最初からバイオリンベースを買おうと決めてました。本当に寝ても覚めてもポールという感じ。髪を切りに行くときも、毎回ポール・マッカートニーの写真を持っていったんですよ。でも、1回も似なくて(笑)。理髪店の人が必ず言うのが、「いやー、イギリス人は毛穴が日本人より多いからね」って(笑)。全然似ないから毎回違うポールの写真を持っていく。それぐらいポールが好きでした。
──東京でのバンド活動は?
さすがに高校時代は、東京のライブハウスに出ようとか、そこまで大胆な考えはなかったです。僕は千葉工業大学という学校に進学したんですけど、その頃バンドを組んでたギタリストが日大の軽音楽部にいたんで、日大ばかり行ってましたね(笑)。工業大学って男子校みたいな感じで、女子がほとんどいないから、学校にいたくないんですよ(笑)。日大の軽音部が、吉祥寺とかのライブハウスを借りて演奏会をやってたんで、そのうち自分たちでもライブハウスに出てみようぜという感じになりました。だから本格的なバンド活動を始めたのは大学時代からですね。
映画「さらば青春の光」でモッズカルチャーに目覚める
──加藤さんが大学に入学したのが1979年。ちょうど東京でモッズムーブメントが盛り上がり始める時期とシンクロしてるんですよね。
大学1年生だった1979年11月に、「さらば青春の光」(フランク・ロッダム監督。The Whoのアルバム「四重人格」が原案)というモッズ映画が日本でも封切られたんですよ。初日に観に行って衝撃を受けて、「もう、モッズしかないだろう!」と思いました。でも当時はモッズファッションが全然手に入らないんですよね。モッズが愛用してるフレッドペリーのポロシャツやクラークスのデザートブーツを必死に探しました。
──当時はフレッドペリーのポロシャツを買うのもひと苦労だったそうですね。
そうなんですよ。まだフレッドペリーの正規代理店がなかったんで。イギリスに遊びに行くやつがいたら、1万円を握らせて「黒に黄色いラインが入った、サイズ40を買ってきてね」とか、モッズの連中はみんなやってましたね。そのうち僕はベスパにも乗るようになり、モッズカルチャーに完全にハマって、バンドをやるなら絶対にモッズバンドをやりたいと思うようになりました。
──「さらば青春の光」は今でこそモッズの聖典のように語られますけど、当時から話題になっていたんでしょうか?
いや、音楽サークルにいても、あの映画から僕が受けた感動を共有できる人は周りにあまりいなかったですね。僕は「さらば青春の光」を通じて、モッズは単なるファッションじゃなくて、ライフスタイルであるということがわかったんですよ。おしゃれなスーツを着てスクーターを乗り回したり、クラブに行って踊ったり、日常的にそういうことをして遊んでる連中が60年代のイギリスにいたんだということがやっとわかった。自分のライフスタイルを塗り替えるためには、モッズになるしかないと思ったんです。
──当時モッズカルチャーは一般的に浸透していなかったし、メジャーデビューした87年頃でさえ、取材で「なんでスーツを着てるんですか?」みたいなところから説明しなきゃいけなかったそうですね。
そうそう。あまりにもモッズカルチャーが認知されてなかった。イチから説明しなきゃいけないのがすごく大変でした。それが今や、「モッズコート」という固有名詞が一般の人にも定着しているぐらいですからね。びっくりですよ。
──初めてのモッズバンド、THE BIKEを結成したのも「さらば青春の光」公開の年、1979年ですね。
とはいえ、僕自身「俺はモッズだ」と言いながら、あまりモッズカルチャーを理解できていなかったんですけどね。当時、イギリスでは“ネオモッズ”というムーブメントが起こっていたんですけど、あの連中のバックボーンはパンクロックなんですよ。60年代のオリジナルモッズは、ソウルやR&Bがバックボーンで、そこが明らかに違ったんですよね。でも僕らの時代はパンクロックがリアルだし、最先端だった。パンクロックには、60年代のロックと似たようなシンプルな構成と激しいビートが共通点としてあった。だから当時の僕はモッズファッションでパンクっぽい曲をやりながら、自分なりのモッズを探している感じでした。
──モッズとは何かを試行錯誤しながら探していた。
そうですね。そのうち、新宿JAMというライブハウスで「MARCH OF THE MODS」というモッズのイベントが開催されていることを知って。そこに出入りするようになってから、ようやくネオモッズの型みたいなものを自分の中で思い描けるようになったんです。その頃から、「東京モッズシーンのナンバーワンのバンドになりたい」と思うようになっていきました。
──当時の「MARCH OF THE MODS」って、どんな雰囲気だったんですか?
会場の前には見たこともないようなスクーターがずらっと停めてあって、入場の列にはスーツに身を包んだモッズが並んでる。秘密結社の集会みたいな雰囲気で威圧感が半端なかった。会員制クラブみたいな雰囲気がありましたね。でも、別に客同士でケンカするようなこともないし、みんな個人主義な感じで、いざライブが始まれば普通に楽しめはしたんですけど。
──「MARCH OF THE MODS」に出演するためには、審査のようなものがあったんですか?
イベントを主催している黒田マナブくんはバリバリのモッズなんですけど、彼が「こいつはモッズだな」と認めたバンドしか出演できなかったんです。60年代風のバンドがいても、そのバンドが例えばGS風に見えちゃったりすると出られない。単なる懐古主義ではなく、リアルタイムのロンドンの香りみたいなものを感じられるかどうか、という部分が重要視されていた気がします。
──その微妙な違いは?
うまく言葉にできないんだけど、マナブくんはそれを嗅ぎ分けられるんですよ。僕と同じようにThe Beatlesが好きでも、出演できないバンドもいましたし。ポール・マッカートニー直系のメロディセンスが感じられても、ジョン・レノンの香りがない限り認めてくれない感じでしたね。もしかしたら、そのジョンっぽさというのは、パンクスピリットだったのかもしれない。そういう要素が入り込んでいないと、当時はモッズとして認められなかったのかもしれないですね。
──ただのリバイバリストではダメだった。
そう。ビンテージ機材を使って60年代っぽい雰囲気でやってます、だけではダメ。同じ時代の空気をまとってないと、モッズとして認めてもらえなかった。ネオモッズの1つの特徴だったと思うのは同時代性。例えばフォークランド諸島の紛争(1982年4月から6月)があったときに、The Clashとかが、それをテーマにした曲をよく歌ってたじゃないですか。当時はいろんなバンドが歌ってましたよ。XTCもニューウェイブのバンドだったけど「Living Through Another Cuba」という曲で、「キューバ危機みたいな軍事衝突は、いつだってどこだって起きてるんだ」ということをダンスミュージックに乗せて歌っていた。僕も彼らに影響されて「がんばれG.I.Joe!」という反戦歌を当時から歌ってるわけです。レトロだけのバンドは、モッズシーンでは弾かれていましたね。
<後編に続く>
プロフィール
加藤ひさし
1986年に結成されたTHE COLLECTORSのボーカリスト。THE COLLECTORSは1987年にアルバム「僕はコレクター」でメジャーデビューすると、ブリティッシュロック、サイケデリックなどのエッセンスを取り入れたサウンドが話題を集め、日本のモッズシーンを代表するバンドとして認知される。2014年3月に小里誠(B)が脱退し、同年11月にそれまでサポートベーシストを務めていた山森"JEFF"正之(B)が正式加入。2016年6月の阿部耕作(Dr)脱退後、2017年2月よりサポートドラマーとして参加していた古沢'cozi'岳之が正式メンバーとなった。同年3月にはバンド史上初となる東京・日本武道館公演を成功させた。最新アルバムは2024年発表の26thアルバム「ハートのキングは口髭がない」。結成40周年となる2026年、春のツアーを経て8月30日に記念公演が東京・LINE CUBE SHIBUYAで行われる。


