音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く連載「あの人に聞くデビューの話」。前回に引き続き、THE COLLECTORSの加藤ひさしをゲストに迎えてお届けする。
モッズカルチャーに出会い衝撃を受けた加藤は自らのバンドTHE BIKEを結成。真島昌利がいたTHE BREAKERSや甲本ヒロト率いるザ・コーツといったライバルバンドと切磋琢磨し、80年代初頭の東京モッズシーンでめきめきと頭角を現す。その後、THE BREAKERSとザ・コーツは解散し、甲本と真島を中心にザ・ブルーハーツが誕生。加藤はベーシストとして誘われるも固辞し、新バンド・THE COLLECTORSを立ち上げ、自らのバンド美学を追求する果てなき旅をスタートさせる。
取材・文 / 松永良平 撮影 / 森好弘 取材協力 / INNOCENT ANTIQUES
ザ・ブルーハーツへの加入の誘いを断ってTHE COLLECTORS結成
──モッズシーンの中で加藤さんは、自身のバンド、THE BIKEでトップを取りたいという気持ちがあったんですよね。当時ライバル視していたバンドはいたんですか?
僕がモッズシーンに出入りするようになった頃に人気があったのが、マーシー(真島昌利)がいたTHE BREAKERSと(甲本)ヒロトがいたザ・コーツ。それこそザ・ブルーハーツの1stアルバムの曲は、半分ぐらいがコーツの曲で、あれを三つボタンのスーツで歌ってる感じでした。僕はコーツの曲はパンクじゃなく、ネオモッズの曲として聴いていましたね。
──とても有名なエピソードですが、加藤さんはベーシストとしてブルーハーツに誘われているんですよね?
ブルーハーツが結成されてから数カ月は、マサミくん(望月正水。のちにTHE JUMPSの島キクジロウらとキャバレッツを結成)がベースを弾いていたんですけど、彼が辞めるタイミングで声がかかりました。当時、僕はTHE BIKEでベース&ボーカルを担当してたので、ブルーハーツでベースを弾いてくれないかって話になったんですよ。でも、まだまだ、モッズファッションが楽しくてしょうがなかったんで、「うーん、ちょっとパンクファッションはできないな……」って断っちゃったんです。僕は60年代のサイケデリックなサウンドも好きだから、ブルーハーツのサウンドはサイケデリックからけっこう遠いよなと思ってしまって。ちょっと自分がやりたいことと違った。
──でも、ブルーハーツへの誘いを断ったことが、その後の転機につながった。
そうですね。僕が誘われた時点で、すでにブルーハーツはすごい動員を記録していたし、僕も間近で観て、「このバンドは間違いなく何かを起こすだろうな」と思っていました。で、皆さんご存知の通り、その後とんでもないことになるわけですよね。そういうバンドに誘われて断るんだから、ここから先は自分なりに落とし前をつけなきゃいけないと思ったんです。
──具体的な理想像はあったんですか?
自分の中でぼんやりとビジョンはありました。このバンドのいいところと、あのバンドのいいところをくっつけていくと、今まで聴いたことがないような音楽ができるんじゃないか、みたいな。当時、RCサクセションがすごく売れていて新しい日本語のロックだと感じていたし、SHEENA & THE ROKKETSがYMOの細野晴臣さんのプロデュースで「ユー・メイ・ドリーム」をリリースしたときも、すごくモダンな感じがあった。そのモダンさが、ロンドンで起きてるニューウェイブっぽくも見えたんですよ。鮎川誠さんのルックスがエルヴィス・コステロっぽく見えたり、バンドの形がBlondieに見えたり。Blondieって60年代のコーラスグループみたいな雰囲気もあったじゃないですか。いろんな要素をくっつけて、モッズバンドで表現したら、すごくしゃれていて、まだ誰もやってないことができるんじゃないかな、と漠然と感じていました。
──1985年にザ・ブルーハーツへの勧誘を断って、そこでTHE BIKEでのあり方も変わった。
THE BIKEは3人組で、僕はベースを弾きながら歌っていましたが、それが自分の中で中途半端になっていた。もっと巧みなベースラインを入れてみたいと思っていましたが、歌いながらだと難しい。それで新たにベーシストを入れて、僕が歌に専念する形で4人編成になったんです。それが85年の8月ぐらいかな。
──バンド名もTHE BIKESに。
「S」を付けただけで、やってる曲は全部一緒でしたけどね。でも、なかなか思うようにいかず、その年の12月にバンドは解散。そこから、違うメンバーでTHE COLLECTORSをやろうということになるんですね。
──バンド名の由来は映画「コレクター」(ウィリアム・ワイラー監督。1965年公開の英米合作映画)からですよね。
そうです。THE BIKEは、初期のドラマーがサイケデリックがすごく好きで、Pink Floydの1stアルバム「夜明けの口笛吹き」の最後に入ってる「BIKE」という曲から彼がバンド名を付けたんですよ。だから、初めて自分でバンド名を付けたのがTHE COLLECTORSなんです。
ライブを観に来た古市コータローに「コレクターズ、カッコ悪い」って言われた
──加藤さんがベースを弾かずボーカルに専念するようになったこと以外に、THE COLLECTORSで変化したことは?
まずは、とにかくひと目でモッズバンドだとわかるようにしようと思いました。本物のモッズが見たらダサいよって思われることかもしれないけど、見た目だけで誰にでも伝わるようにしようって。イギリスに行って「LONDON」って書いてあるようなTシャツを土産物店で買うようなもんですよ。「4人でユニオンジャックのジャケットを着よう」みたいな。実際、そういう格好でライブをやってたんです。でも、すごく不評でした(笑)。
──あ、そうなんですか。
THE BIKES解散から2カ月後に新バンドを始動させたから、新曲は「NICK! NICK! NICK!」ぐらいしかなかったんです。ほかの曲はほとんど同じだから、どうしても前のバンドと比較されるわけですよ。ライブを観に来た、今のギタリストの古市コータローに、「コレクターズ、カッコ悪い」って言われました。さすがにカチンと来たんだけど、「そこまで言うんだったら、お前がギター弾いてくれよ」ということになって。当時コータローは別のバンドでギターを弾いていたんだけど、そっちもあんまりうまくいってなかった。それで「お前のとこのベースも連れて来い」と言って、チョーキーとしはる(B)とコータローが1986年の9月に入りました。そこからバンドが固まるまでは早かったですね。
──「こいつならやれる」という確信のようなものがあった?
それもあるし、コータローに「カッコ悪い」って言われたことが、ある意味、目からウロコだったんです。THE BIKEのギタリストは見た目もカッコよかったんですよ。でもライブ演奏にムラがあった。すごくいいときもあれば悪いときもある感じだった。コータローは間近でTHE COLLECTORSを見てたから、「自分だったらこうやるのに」っていう思いがあったんでしょうね。それでコータローが入って間もない頃から、ちらほら、いろんなメジャーレーベルから声がかかるようになって。
──MINT SOUND RECORDSから1987年4月に発売されたネオGSのオムニバス盤「Attack of the Mushroom People」が、THE COLLECTORSとしての初レコーディングですよね?
話が来たのは86年の9月でしたね。MINT SOUNDの小森(敏明)氏から、「60年代のサウンドに影響されてるバンドのオムニバスアルバムを作りたいんだけど」って誘われて。僕らはチャンスがあればなんでもやろうと思ってたんで、「あ、いいよ。やるよ」って返事しました。手持ちの4トラックのカセットテープレコーダーで演奏を録音して、そこに歌を重ねて、みたいなシンプルな音源でしたけどね。そうやって録音したカセットをマスターとして渡したら、その音源が収録された「Attack of the Mushroom People」が発売後すぐに話題になった。僕らが本格的に注目されるようになったのは、そこからですね。
──加藤さんは「ネオGS」というくくられ方には抵抗があったんですよね?
あのオムニバスに参加するときには、そんな大騒ぎになると思ってなかったんです。本当に軽い気持ちで、「GSだろうがモッズだろうが、60'sレトロだろうが関係ないよ、とりあえず参加しとけ」っていう感じ。それが想定以上に話題になっちゃった。ザ・ファントムギフトのマネージャーが、このムーブメントでひと盛り上がりしたいと言い出して、The Strikes、THE COLLECTORS、ザ・ファントムギフトという3バンドを“ネオGS三羽烏”にしたいという話になったんですよ。
──“ネオGS三羽烏”!
僕たちは僕たちで本当にメジャーデビューしたかったんで、あえてそこに乗った感じです。僕はデビューした時点で、もう26歳だったし。当時は25歳を過ぎてバンドをやるのって、すごくキツかったんですよ。なかなか花火が上がらない連中は、25歳を境にバンドを辞めて就職するっていうのが当時の風潮でしたからね。THE COLLECTORSは87年にテイチクからデビューしたんですけど、そのときのディレクターに、「お前はデビューが遅いんだから。男は30歳までに売れなかったらもうダメ。女の子は25歳までに売れなかったらダメ」って、はっきり言われました。レコード会社にパワーがあった時代でしたね。
──今よりも早く大人にならなきゃいけなかった。
すごくシビアでしたね。
──そもそも加藤さんは大学を卒業して、3年間会社勤めをされていたんですよね。
はい。バンドをやりながらラジカセ工場で働いていました。86年の11月に辞めましたけどね。僕が働いていた会社は、大卒の社員は3年勤めたら必ずシンガポールに赴任しなきゃいけなかったんですよ。で、行ったら3年は帰ってこれない。そうすると絶対にバンドができなくなるから、辞めようと決めました。でも結果的に、それがすごくいいタイミングだったわけですよね。辞めてよかったです。バンドに専念できたし。
プロの現場では、どこのスタジオにもジェフ・エメリックがいると思っていた
──このインタビューの最初に、MINT SOUND RECORDSで作られた1stアルバム「ようこそお花畑とマッシュルーム王国へ」(1987年7月)で、デビューを意識したと話していましたよね。
「Attack of the Mushroom People」に参加したとき、小森氏がTHE COLLECTORSのことをすごく気に入って、スタジオでアルバムを作らないかって声をかけてくれたんです。オムニバスに入れた音源より、はるかにいい音質で録れるだろうから、ぜひお願いしますという形でレコーディングを始めました。ところが、そのレコーディングの最中にテイチクからのメジャーデビューが決まっちゃった。「これは困ったな……」となりましたね。MINT SOUNDには出すって言っちゃってるから、アルバムは仕上げなきゃいけない。でもメジャー盤が11月に出るのに、7月にインディー盤を出していいんだろうか?って。そこはすごく悩みました。
──まあ、とんとん拍子という話ではあるんですけど。
1年ズレてるならまだ話がわかるけど、7月にアルバムを出して次のアルバムが11月でしょ? すごく悩みましたね。今振り返っても、あれでよかったのかな?って思います。
──本当ですか。
曲の配分とかも、いろいろ考えちゃいましたよね。「ようこそお花畑~」の制作は、すごくリラックスした状態でスタートしたんです。サイケも60'sビートも好きなものを全部このアルバムに入れようと思って自由に作ったし。実際あの作品には当時のTHE COLLECTORSの魅力が全部詰まってるんですよ。一方テイチクでは、1stはビートの強い曲、2ndはサイケっぽい曲をやろうと決めてたんです。でも7月にMINT SOUNDから初期の集大成みたいな作品を出しちゃったから、メジャーの1stが出たときには「インディー盤より薄いよね」ってみんなに言われちゃった。
──まさに、好事魔多しというか。
そうですね。また、もう1つよくなかったのは、インディーズのスタジオって宅録の延長みたいなもので、そんなに高い機材もない。サウンド的にそんなにしっかり録れると思ってないわけですよ。でも期待してないからこそ、仕上がってきたものが予想よりちょっといいと、すごくよく感じる。ところが、メジャーに入ったら、大きなスタジオでレコーディングして、エンジニアもプロの方ですから、こちらがお願いしたことがなんでもすぐできるんだろうなと思うわけですよ。でも、全然できない(笑)。逆にインディー盤のほうが自由が利くぶん、自分のイメージに近いサウンドになった。これはめちゃくちゃ混乱しましたね。
──機材や環境面で制約があるほうが自分のイメージが反映できた、というのは皮肉なものですね。
そうなんですよ。それに、7月にインディーズのアルバムをリリースして、8月にもうメジャーデビューアルバムのレコーディングに入ってるんですよ。「なんで思った通りの音にならないの?」って不満を言いながら、11月にはそれがリリースされちゃうんですから。もちろんデビューが決まったときは、すごくうれしかったですよ。当時はバンドでデビューできるって、ヤマハかソニーのコンテストに引っかからない限り、ありえないことだったから。この2WAYです、本当に。なのに別の道が開けて、こうしてデビューが決まってプロになれる。もうそれだけでオリンピックに出場できるアスリートみたいな気持ちになりましたから。そんなうれしいことないじゃないですか。でも実際にレコーディングでスタジオに入ると、思い通りに行かないことばかりで。
──なのに締切はどんどん迫ってくる。
「僕はコレクター」のプロデューサーだった和田博巳氏は、THE COLLECTORSというバンドをすごくシンプルなロックバンドだと思っていたんです。でも僕はThe Beatlesのレコーディング本とかを読んでいたから、スタジオでのギミック作りにすごく興味があった。もっと手の込んだレコーディングをしたかったんです。そういう話し合いが少ないまま、スタジオ作業が始まってしまった。
──ジェフ・エメリック(The Beatlesのレコーディングを手がけたエンジニア)がいると思ったら、いなかったってことですよね。
そう! プロの現場では、どこのスタジオにもジェフ・エメリックがいると思っていたんです。だけど、いるわけないですよね、今思えば(笑)。夢見心地だったのが地獄のような気持ちになっていきました。
スタートの時点でつまずいたから今のTHE COLLECTORSがある
──しかも、所属したばかりの事務所をいきなり移籍することになったそうで。
メジャーデビュー作のレコーディングの途中で、ですよ。事務所の社長が、やっぱりメンバー4人には給料が払えないと言い出して。でも僕らは若かったんで、そのことに関してはあまり気にしていなかったんです。まあ、なんとかなるだろうって。実際すぐにトムス・キャビンの麻田浩氏が「モッズのバンドがいるの? 面白いね」って、僕らを事務所に快く受け入れてくれましたから。それよりも、スタジオで作りたい音が仕上がらないことが不満でしたね。
──THE COLLECTORSがデビューした87年って、本当にいろんなアップダウンがあったんですね。
本当ですよ。でも逆に言うと、スタートの時点でつまずいたから今のTHE COLLECTORSがある気がする。1stアルバムが自分の思った通りにできて、ヒットなんかしてたら、今の僕らはないんじゃないかな。1stアルバムが思い通りにならなかったっていう、あのときの悔しさだけで、THE COLLECTORSは、ここまで来てるんですよ。だから、あのときはああなるべきだったんだなって、ようやく思えるようになりました。当時のプロデューサーの和田氏にも今はむしろ感謝してます。
──それはとても前向きな振り返り方ですね。
やっぱり自分が無知だったというか、子供でした。スタジオワークのことを何も知らないで、全部のスタジオにジェフ・エメリックがいると思っていたし(笑)。あのあと、いろんなプロデューサーと仕事して、スタジオワークのやり方を自分でも知って、いろんなことがわかってきた。だからみんなプロデューサーを立てるんだとかね。それを最初に全部わかったうえで始めるのと、だんだん知っていくのとではやっぱり違いますよね。世の中を見渡しても、最初の音源の出来がよかったバンドって案外続いてないじゃないですか。The Beatlesだってデビュー曲が「Love Me Do」だったからバンドが続いたんですよ、おそらく。
──確かに、「Love Me Do」は最初から歴史を変えるようなすごい曲だったわけじゃない(笑)。そういう意味でTHE COLLECTORSにとってのデビューは、やっぱり恵まれていたんだなとも言えますね。
そうですね。でも、それって何十年も経たないとわかんないんですよ。40年経った今現在も完全にはわかってないから。まあ正しいか、正しくないかなんてわからなくてもいいのかなとは思いますが。ただただ音楽が好きで、自分たちが追求する音楽を作れるんだから、そのときそのときの新作がよければ問題ないんですよ。まあ20枚くらいアルバムを作ってから、ようやくそう思えるようになったんですけどね。
プロフィール
加藤ひさし
1986年に結成されたTHE COLLECTORSのボーカリスト。THE COLLECTORSは1987年にアルバム「僕はコレクター」でメジャーデビューすると、ブリティッシュロック、サイケデリックなどのエッセンスを取り入れたサウンドが話題を集め、日本のモッズシーンを代表するバンドとして認知される。2014年3月に小里誠(B)が脱退し、同年11月にそれまでサポートベーシストを務めていた山森"JEFF"正之(B)が正式加入。2016年6月の阿部耕作(Dr)脱退後、2017年2月よりサポートドラマーとして参加していた古沢'cozi'岳之が正式メンバーとなった。同年3月にはバンド史上初となる東京・日本武道館公演を成功させた。最新アルバムは2024年発表の26thアルバム「ハートのキングは口髭がない」。結成40周年となる2026年、春のツアーを経て8月30日に記念公演が東京・LINE CUBE SHIBUYAで行われる。


