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渋谷系を掘り下げる Vol.10 DJ松浦俊夫が語るクラブジャズシーンの黎明期

約4年前2020年04月08日 11:03

1990年代に日本の音楽シーンで起きた“渋谷系”ムーブメントを複数の記事で多角的に掘り下げていく本連載。第10回はジャズDJとして国内外で活躍する松浦俊夫へのインタビューを掲載する。

渋谷系カルチャーを語るうえで忘れてはならないのが、90年代初頭のアシッドジャズブームと共に根付いた東京のクラブジャズシーンだ。“ジャズで踊る”という斬新かつヒップなアプローチは耳の早い音楽ファンや流行に敏感な若者たちの間で大きな話題を集めた。そして、そんな東京のクラブジャズシーンを牽引していたのが、松浦が所属していたDJユニット・United Future Organization(U.F.O.)だった。連載第1回で元HMVの太田浩氏も証言しているようにU.F.O.が1992年に発表したシングル「LOUD MINORITY」は外資系レコード店を中心に大ヒットを記録。渋谷系のアンセムともいうべき楽曲となった。今回のインタビューでは「Jazz the New Chapter」の著者である柳樂光隆を聞き手に迎え、松浦にクラブジャズシーン黎明期の貴重なエピソードをたっぷりと語ってもらった。

クラブジャズブーム前夜

──松浦さんは日本でジャズDJがプレイした伝説的なTAKEO KIKUCHIのファッションショーを実際に観ているんですよね。

1986年の4月に行われたんですけど、プロモーターのSMASHの招聘でファッションショーにDJのポール・マーフィーやジャズダンスチームのThe Jazz Defektors、Wild Bunch(※Massive Attackの前身ユニット)などが出演してショーをやったんです。ショーと並行して、ラフォーレ原宿でイベントをやったりして、自分もスーツを着て遊びに行きました。

──ちなみに松浦さんのジャズのDJ初体験はいつですか?

そのTAKEO KIKUCHIのショーです。

──その前にはまったくなかったんですか?

ジャズのDJは聴いたことはないですね。でも、そのショーで観たイギリス発のダンスとジャズが1つになったアプローチは、目から鱗が落ちるような感覚でした。スーツを基調としたクールなファッションスタイルも含めて、自分が求めている感じってこれかもしれないなと思いました。86年にソニーがポール・マーフィーの選曲による「Jazz Club For Beginners」というコンピレーションを出して、その後、The Jazz Defektorsが日本でデビューしたんです。でも、流れ的には、The Style CouncilやSadeがいて、ジャジーだったり、ソウルだったり、ボサノヴァのフィールがポップミュージックに入ってきた時期だったので、クラブジャズブームの予兆みたいなものは僕の中にもありましたね。

──ジャズに限定せずに、初のDJ体験ということだとどうですか?

高校が新宿にあったので、ディスコには行ったことがありました。あと、まだP.Picassoができる前に西麻布にTOOL'S BARというクラブがあって、そこに高校の友達と2、3回行きましたね。真っ暗な中でボブ・マーリーがかかってて、クラブって怖いなと思いました(笑)。

──TAKEO KIKUCHIのショーで、ポール・マーフィーは例えばケニー・ドーハム「Afrodisia」みたいなアフロキューバンやハードバップをかけてたんですか?

そうですね。今思うと、わかりやすくかけていたんじゃないかと。原宿のイベントにはギャズ・メイオールが一緒に来日していたのですが、その2人の組み合わせに僕は違和感を感じたんですよね。当時のUKのクラブ事情を考えればその組み合わせでも自然だったかもしれませんが。

──ギャズはスカをかけたり?

そうです。ギャズの弟のジェイソン・メイオールがその後スマッシュUKのスタッフになるので、そういう関係もあってギャズがブッキングされたのかもしれません。

──86年に「Jazz Club For Beginners」みたいなコンピレーションが出ていたくらいなので、TAKEO KIKUCHIのショー以前に日本にもジャズのDJのカルチャーが少しは入ってきていたんでしょうか?

もう少しあとだった気がしますね。コンピが出たのはショーのあとだったと記憶しています。ポール・マーフィーが来日したタイミングで何かが動いたのかもしれません。

──ちなみにDJ向けのジャズのコンピレーションだと、85年に「Jazz Juice」シリーズが始まって、86年にUKのブルーノートからジャイルス・ピーターソン選曲の「Blue Bop」「Blue Bossa」、そして同年には東芝EMI企画でニール・スペンサーとポール・ブラッドショウ選曲のブルーノートのコンピレーション「Soho Blue」が出てるんです。86年にジャズDJのムーブメントが一気に動いてる感じがしますね。

コンピレーションから読み解くとわかることってありますよね。そのときの空気もコンパイルしているわけだから。確かにコンピレーション頼りの時代でしたね。

“ジャズで踊る”というムーブメント

──松浦さんご自身の話に戻すと、ポール・マーフィーのDJとThe Jazz Defektorsのダンスを観て一気にジャズに興味を持ったと。

そうですね。どうしたらそこにたどり着けるだろうかと考える日々でした。これは偶然なんですけど、同級生がテレビ朝日通りにあったメトロポールというチャイニーズレストランでアルバイトをしていて、昼間のバイトを募集してたので僕も働くことにしたんです。そこはキャンティという老舗イタリアンレストランと同じ春日商會の経営で、その一族の中にYMOをリリースしていたアルファレコードを作った人がいたりして。とにかくいろんなつながりがあるレストランでした。そこに半年務めた86年の暮れ、TAKEO KIKUCHIのデザイナーの菊池武夫さんが西麻布にジャズクラブを作ることを知ったんです。しかも自分が働いていたメトロポールと同じ春日商會が運営を手がけて、メトロポールのマネージャーがそこに異動すると聞いたので、「僕も連れていってください」と頭を下げたら、スタッフとして連れて行ってもらえたんですよね。

──なるほど。

そのジャズクラブはBohemiaというお店で、服飾メーカーのWORLDがオーナーでした。桑原茂一さんがDJのプロデュース、三宅純さんがライブのプロデュースを手がけていましたね。三宅さんご自身のバンドや、宮本大路さんのバンドが出演していて、オープニングのライブアクトはThe Style Councilのドラマーのスティーブ・ホワイトが中心となって結成されたThe Jazz Renegadesでした。プロデューサーはThe JamやThe Style Councilのマネージャーだったデニース・マンデイです。その店は“ジャズで踊るクラブ”というコンセプトだったんですよ。自分が求めていたものが半年の間に具現化されました。

──イギリス発の“ジャズで踊る”というムーブメントをコンセプトに掲げていたということは、Bohemiaにはダンサーも出演していたんですか?

いえ、そのコンセプトは当時の東京には早すぎたようで、オープン後もお客さんは踊りに来るというよりもバーとして訪れる方がほとんどでした。実際にジャズで踊るということをクラブで形にしたのは間違いなくUnited Future Organization(以下U.F.O.)だと思います。僕はBohemiaで働き始めてから数年後にそこで知り合ったDJ2人とU.F.O.をスタートするのですが、その後、当時東京に住んでいたイギリス人のジョニーというダンサーと知り合って。それから我々は意識的にDJとダンサーを一緒に見せるようなスタイルを一緒にやっていたんですね。ちなみにジョニーはU.F.O.の「LOUD MINORITY」のミュージックビデオでも踊っているダンサーです。The Jazz DefektorsやBrothers in Jazzといったイギリスのダンスグループに影響を受けた人たちはその後になって出てきましたね。その中にはTRFのメンバーになったSAMさんもいました。SAMさんはジョニーが91年頃に紹介してくれたと思います。当時、フジテレビで深夜に「DANCE! DANCE! DANCE!」というダンス番組が放送されていて、SAMさんはMEGA-MIXというチームでそこに出ていたんです。

──そうだったんですね。

先日、MEGA-MIXのメンバーで現Sound Cream SteppersのGOTOさんにお話を伺ったんですが、ロンドン~東京のジャズダンスの始まりは、僕がThe Jazz Defektorsを観た86年よりもあとのことでした。91年にパルコのCMにBrothers in Jazzが起用されて、そのタイミングでBrothers in JazzはGallianoと来日して渋谷CLUB QUATTOROでイベントをやったんです。それを観に行った現Sound Cream SteppersのメンバーのHORIEさんが影響を受け、日本で広め始めて、ジャズダンサーのシーンが生まれたそうです。2019年に、菊池武夫さんの80歳の誕生日会が渋谷ヒカリエで行われたんですけど、その日はDJが僕で、ダンサーがSound Cream Steppersだったんですよね。とても感慨深かったです。

──BohemiaにはどんなDJが出演していたんですか?

オープン時にはロンドンからDJが来ていたんですよ。ジャイルス・ピーターソンと一緒にアシッドジャズとか、BGPのソウルジャズのコンピレーションを選曲していたバズ・フェ・ジャズ、その後、リズム・ドクターやトメックといったDJが来ました。それ以降、徐々に日本人DJの比率が高くなって。その中に、U.F.O.のメンバーになる矢部直やラファエル・セバーグの両氏もいました。あとは三宅純さんの弟の三宅功さんがジャズをかけたり。功さんはスーツのテイラーで、僕がHEXというプロジェクトをやったときには彼にメンバー用のスーツを作ってもらいました。ちなみにU.F.O.が着ていたスーツは今西祐次さんのブランドのPLANET PLANのもの。今西さんは菊池武夫さんのあとにMEN'S BIGIのチーフデザイナーになられた菊池さんと師弟関係にある方です。

──当時クラブでジャズをメインでかけていた日本人DJはU.F.O.のメンバー以外に誰がいたんですか?

ジャズを主体にしている人は僕の認識ではそれ以前は1人もいなかったですね。自分はレコードをかけたいというよりは踊りたかったので、クラブに行ってお酒を飲まないで朝まで踊っていたんです。当時の多くのクラブではパンク、ニューウェイブ、ロック、ヒップホップと、なんでもかかっていたんですよ。80年代終盤、僕はDJブースに行っては「ジャズをかけてください」とリクエストするような客で(笑)。そうすると嫌がりながらもDJがジャズっぽい曲やフュージョンっぽい曲をかけてくれるんです。それが藤井悟さんとか、のちに「LOUD MINORITY」のMVを制作してくれた北岡一哉さんでした。

──当時のイギリスで流行っていたハードバップやアフロキューバンで踊らせるDJは日本にはほぼいなかったんですか?

僕が知っている範囲では、たぶんいなかったと思います。ポール・マーフィーの流れはなかったと思いますね。80年代にイギリス在住だった、カメラマンをやりながらコーディネーターもやられていたトシ矢嶋さんやジャーナリストの花房浩一さんは、雑誌「Straight No Chaser」をやっていたポール・ブラッドショウと仲がよかったので、彼らはそのラインでシーンとつながっていたかもしれません。でも、DJやミュージシャンがジャズでダンスするシーンとつながっていたということはなかったんじゃないかな。だから、自分たちでシーンを作るしかなかったというのが当時の実情です。逆に言えば、何もなかったから自由にできたんだろうなとも思います。

U.F.O.結成の経緯

──そこからどういう経緯でU.F.O.が結成されるんですか?

僕はBohemiaのスタッフで、矢部さんは桑原茂一さんが主宰するクラブキングという事務所で働いていました。ラファエルはクラブキングに所属する外国人DJ、タレントみたいな感じだったんです。僕はしばらくBohemiaで働いていたんですけど、決してバーテンになりたかったわけではなかったので、DJに来てた矢部さんに相談してみたら、「だったらクラブキングに来ればいいじゃん」と言われて、そのまま働き始めました。それがジャズダンスを見てからちょうど1年後ですね。

──なるほど。

87年の春にBohemiaを辞めて、クラブキングにアルバイトとして入って。ちょうどテレビ朝日で「クラブキング」という深夜番組が始まって、僕は雑用をしていました。その番組ではドラマパートに伊武雅刀さん、佐野史郎さん、広田レオナさんが出ていて、ロンドンのストリートシーンを紹介する5分くらいのパートはテーマ曲をネリー・フーパー、映像をロンドンのバッファローとか当時の最先端のチームがプロダクションを手がけていたんです。30分番組でしたけど、当時の学生や尖った大人はその5分を観るために夜中に起きてたくらい影響力があって。Coldcutが流れたり、トシ矢嶋さんがロンドンのシーンを取り上げて、The Jazz DefektorsやBrothers in Jazzがマイルス・デイヴィスで踊る映像などが流れたりしていました。

──すごいですね。

その番組と並行してクラブキング自体がイベントを打つようになって、A Certain Ratioを招聘したり、Public Enemyのツアーを手伝ったりもしました。あとDJイベントもやるようになって、日本選曲家協会というDJ協会みたいなものを茂一さんが作ったんですよ。いわゆるショーの選曲からDJまでをひとまとめにしようみたいな感じで茂一さんが取り仕切って、高木完さんや藤原ヒロシさん、富久慧さん、ランキン・タクシーさん、イラストレーターの永井博さんといった方々に参加してもらって。その協会に所属しているDJを集めて、INKSTICK芝浦FACTORYや川崎のCLUB CITTA'で日曜の昼間にイベントをやってたんですよ。80年代にジャイルス・ピーターソンやパトリック・フォージがロンドンのカムデン・マーケットのDingwallsでサンデーアフタヌーンにやっていた伝説的なジャズパーティ「Talkin’ Loud & Saying Something」みたいな、未成年でも遊べるパーティを日本でもやるというのがもともとの発想でした。

──松浦さんもそのイベントにDJとして参加していたんですか?

僕がDJするようになったのは88年以降の4、5回目からですね。87年にインクスティックで始まったときはスタッフとしてチケットのモギリからスピーカーの運び出しまで、なんでもやらされてました(笑)。その業務に追われて、ジャズとダンスから心が離れそうになった時期です。当時、茂一さんがイギリスの雑誌「i-D」から影響を受けて「DICTIONARY」というフリーペーパーを始めて、矢部さんが編集、自分は雑用をやりながら途中から広告の営業をやってました。それが87、88年。89年にベルリンの壁が壊れるんですけど、そこで時代が変わるムードがあって、周囲の業界の人達の間でも独立の機運が高まっていって。僕らも独立を考えて、まず矢部さんと話をして、そこにラファエルもジョインしてきた。それが90年です。

──U.F.O.は最初からDJユニットとして活動していたんですか?

最初はプロダクションカンパニーだったんです。当時は景気がよかったので、パルコや西武がサブカルチャー的なイベントとかを頻繁に仕掛けていて、僕らはそれをコーディネートするような仕事からスタートしました。アシッドハウスのDJの招聘もしましたね。

──その頃、日本のアーティストやDJとも仕事をしていましたか?

DJには仕事をお願いしてましたけど、ミュージシャンとはやってないですね。メンバーにラファエルがいたこともあって、視点や感覚的な部分でヨーロッパ的なムードを求めていたところもありました。日本の音楽を聴かなくなっていた時期かもしれないです。

──今に比べて、当時は洋楽 / 邦楽の壁が明確にあったでしょうし。

そうですね。で、そういう仕事をしているうちに、クラブで知り合った音楽プロデューサーの桜井鉄太郎さんから91年に「DJが作った曲を集めたコンピレーションを制作するから参加してほしい」と声をかけてもらったんです。その頃、僕はまだ本格的にDJを始めていなかったんですけど、踊る側として「こういう音楽がもっとあったらいいな」という気持ちはあったので、やってみたいなと思ったんです。そこで、2人に「会社ができたばかりだし、ユニット名を会社名にすれば知名度が上がるんじゃないか」と話して、DJユニットとしてのU.F.O.をスタートさせたんです。

──そういう流れだったんですね。

そのコンピレーションは「Cosa Nostra」というタイトルで、ゼロ・コーポレーションというメタル系の作品をよく出していた学研の子会社のレーベルから91年にリリースされました。その作品のためにDJが2曲ずつ曲を作って、それをコンピレーションCDとは別に12inchアナログでシングルカットするっていうバブリーなアイデアで。藤井悟さん、松岡徹さん、佐々木潤さん、長田定男さん、あとは桜井さんも参加していました。で、そのとき僕らが最初に作ったのが「I Love My Baby (My Baby Loves Jazz)」という曲。コンピレーションがヒットしたお陰で、翌年の92年にコンピレーションの第2弾を作ることになったんですけど、2作目はプロデューサーが推薦する女性モデルやタレントを楽曲にボーカルとしてフィーチャーするという企画になって。でも、その候補者の方が物足りなかった。それは仕方ないですよね。歌がうまくてもプロではありませんから。その時点で「I Love My Baby (My Baby Loves Jazz)」がイギリスの媒体に紹介されていましたし、中途半端な作品にはしたくなかったので、自分たちでオーストラリア出身の女性シンガーを連れてきたんです。それで作ったのがヴァン・モリソン「Moondance」のカバーと、オリジナル曲の「LOUD MINORITY」だったんです。

「LOUD MINORITY」制作秘話

──「LOUD MINORITY」はU.F.O.の代表曲だと思いますが、あの当時レコードからさまざまなフレーズを持ってきて組み合わせて疑似バンドサウンドを再構築するみたいな音楽ってかなり特異だったと思うんです。参照した音源などはありましたか? というのも「LOUD MINORITY」以後はJazzanovaやニコラ・コンテ、Koopが同じような手法を取っていましたけど、それ以前ってあまりなかったと思うんです。

そうかもしれないですね。僕らは3人とも楽器を演奏したり機材を操ることができなかったので、そういうパズル的な作り方しかできなかったんです。あとはテクノロジーの発達も大きかったですね。プログラミングを担当してくれた人にはかなり無理なことを言っていたと思います(笑)。

──その当時だったらいかにも打ち込みっぽい音のほうが新しく聴こえていた気がするんですけど、U.F.O.は生っぽさみたいなものにこだわっていたわけですよね。テクノロジーを駆使しているのに機械っぽくなくて、むしろ生のバンドっぽいものに近い質感だったところが変わっていた気がするんです。

僕らはプレイヤーじゃないから、機械っぽいほうが新しいとも考えてなかったんですよ。ただ、自分たちで打ち込みができるわけじゃないから、より生に近付けたいという意識が強かったかもしれませんね。自分たちができないからこそ、究極の理想を目指せたのかもしれない。譜面が書けないから、使いたいフレーズだとかをまずは全部サンプリングしてパズルのように作ってました。

──「LOUD MINORITY」は海外でもクラブシーンを中心に大きな話題を呼んだわけですが、そもそもどんな経緯でヒットにつながったんですか?

「LOUD MINORITY」を発表した頃にORIGINAL LOVEの田島貴男さんから「テレビ東京で『モグラネグラ』という深夜番組の司会をするから手伝ってほしい」と言われたんです。その番組は構成に荏開津広さんが入って、僕はサブMCでした。放送していたのは半年くらいで、視聴率は数字的にそれほど高いものではなかったんですけど、アシッドジャズ周辺の動きがその番組を通じて若い人たちに届いて。それでレコード会社が契約をもちかけてくるようになったんです。イギリスではその頃、ジャイルス・ピーターソンがTalkin' Loudというレーベルをスタートさせていて、国内では日本フォノグラムが扱っていたので、Talkin' Loudからリリースするのを条件にして、僕らは日本フォノグラムと契約したんです。実は最初に契約の話をくれたのはLuaka Bopだったんですよ。12inchシングルを出したタイミングでFAXでオファーが来ました。でも、ジャイルス・ピーターソンがオファーをくれたこともあって、僕らはTalkin' Loudを選びました。

──で、出したらすぐにイギリスでヒットしたわけですよね。

ラッキーでしたよね。まさかそんなにうまくいくとは思ってなかったです。初めてU.F.O.が海外で取り上げられたのがイギリスの「Echoes」という音楽誌です。91年なので、ジェイムス・ラヴェルがまだオネスト・ジョンズで働いていた頃ですね。

──U.F.O.がイギリスの雑誌「Straight No Chaser」のチャートに載ったりしていたのは有名な話ですが、一方、日本ではどんな感じだったんでしょうか?

刊行したばかりの「Barfout!」が応援してくれたのは大きかったですし、その後にクラブ系の音楽を扱う「remix」が創刊して、U.F.O.を頻繁に取り上げてくれました。U.F.O.では矢部さんがバァフをはじめとした音楽誌やカルチャー誌などに原稿を書き始めたり。クラブジャズ的な動きに本格的に注目が集まったのは92年からですね。Brand New Heavies、Incognito、Gallianoといったアーティストの登場がきっかけになって、アシッドジャズブームが突然訪れて。あの流れは大きかったです。

名物イベント「Jazzin'」始動

──一方で松浦さんのDJとしての活動はいかがだったんでしょうか。

91年に芝浦のGOLDの2階でラファエルがレギュラーDJを始めました。そして僕がサポートで入りました。当時は3階でEMMAくんがハウスを回していて、2階のバーエリアで僕らがジャズをかけてました。2階は人が通り抜ける通路みたいな場所だったので、決してメインのような扱いではなかったです。でも、徐々に盛り上がってきて2階を目的に来る人も増え始めたんです。僕が手伝いに行くようになって、イベント名が必要だよねという話になって、「Jazzin'」という名前を付けました。そこからフロアもメインの3階に移っていきました。

──「Jazzin'」にはダンサーも入ってたんですか?

ダンサーもいました。GOLDのときは先ほど話題に挙がったジョニーに手伝ってもらっていました。91年12月に西麻布にYELLOWというクラブがオープンしたんですけど、そのタイミングで「Jazzin'」もYELLOWに移って。SAMさんと初めて会ったのもYELLOWだったと思います。

──その頃はどんな選曲をしていたのでしょうか?

いろんな人が集まっていたので、「どうやったらピュアなアフロキューバンジャズとかで踊らせることができるか?」ということを学ぶ場所としてGOLDは大きかったです。ジャズヒップホップのあとに、その元ネタのジャズをかけて流れで踊らせるとか、グラウンドビートに混ぜてジャズをかけるとか。

──クラブジャズパーティの先駆けともいわれる「Jazzin'」でさえも、ジャズで踊りに来ていた人に向けてジャズをかけていたわけではなくて、どうやってジャズを入れていくかを試す実験的な場だったということですね。

そうですね。まずお客さんを踊らせないとジャズをかけられないから、そのためにダンサブルな曲をかけて流れを作ったり。そんな感じで常に試行錯誤していました。ジャズのかけ方も含めてスタイルを模索したので、そこから独自のスタイルが生まれたと思います。

──クラブ界隈で活動する中で、国内のほかのシーンからDJとして声がかかったりはしなかったんですか? 時期的にも渋谷系周辺のアーティストとの接点があってもおかしくはないですが。

当時、渋谷系と呼ばれていたアーティストだとORIGINAL LOVEですね。初期のORIGINAL LOVEは井出靖さんがプロデュースを手がけていたので、彼が接点になっていました。井出さんは僕らや小林径さん、荏開津広さんといったDJをまとめて、渋谷CLUB QUATTOROでイベントをやったりしていましたから。

──井出さんが違う島をつないでいたと。

そうですね。

──同時期にアシッドジャズが盛り上がっていたこともあって、渋谷系とジャズって、なんとなく接点があったように語られますけど、実は渋谷系の中にジャズの要素はあまりないですよね。渋谷系の中にあるジャズって、スウィングジャズとかで、ジャズダンスやレアグルーヴの要素は実はあまり入っていない気がするんです。

そうかもしれないです。当時U.F.O.は渋谷系周辺のアーティストとして紹介されることが多かったのですが、僕らは渋谷系というカテゴリー括られるのがあまり好きじゃなかったんですよ。アシッドジャズと括られるのも嫌だったんですけどね。

──U.F.O.の音楽の独自性を語るうえでは、ブラジル音楽からの影響も重要じゃないかと思います。

そうですね。ブラジル音楽に関しては井出さんが早かったんですよ。井出さんは当時ご自身でやられていたFANTASTICAというお店で、いち早くブラジル音楽のレコードを仕入れていましたから。井出さんの先見の明はすごいなと思います。井出さんがFANTASTICAを開店したのは、ORIGINAL LOVEのプロデューサーをやめて、小沢健二さんのプロデューサーをやり始めたあたりの93、94年くらいでした。

──94年にジャイルス・ピーターソンが「Brazilica!」や「Brasil - Escola Do Jazz」といったコンピレーションを出して、その頃からクラブカルチャーの周辺でブラジル音楽が話題になる機会が一気に増えました。松浦さんはブラジル音楽にはどういうタイミングで入りましたか?

92年だった気がしますけど、ロンドンに行ったときに、ジャイルス・ピーターソンがジョイスとかブラジル音楽をかけてたんですよ。それで1000人クラスのお客さんが踊ってて、すごいなと思いました。ちなみに93年にリリースしたU.F.O.の1stアルバムではエルメート・パスコアールをサンプリングしました。まだ情報としては東京にはそんなに届いていなかったと思うんですよ。井出さんが扱い始めた頃は、今みたいにブラジル音楽のレコードが高価ではなく、まだ3800円とか4800円くらいだったので日本でもけっこう買えたんですよ。

──渋谷系とブラジル音楽の接点でいうと、小西康陽さんだったらQuarteto em Cyみたいなソフトロックとも通じるものや、A&M系のボサノヴァのイメージがあります。

僕らはそこはプレイする楽曲としてはスルーしてましたね。

──ですよね。同じブラジル音楽でもU.F.O.はプログレッシブな方面のイメージです。

A&M系だと小西さんだけじゃなくて橋本徹さんが「Suburbia Suite」でやっていたので、自分たちでそれをやらなくてもいいかなと思ってたし、僕らはもっとアヴァンギャルドなものが好きだったんですよ。価値基準としてカッコいいかどうかという感じで、エルメート・パスコアール、エグベルト・ジスモンチ、ナナ・ヴァスコンセロスあたりが好きでした。

似非ではないカッコよさを求めて

──バンドとの関係についても伺いたいんですが、「Jazzin'」にはCOOL SPOONみたいな和製アシッドジャズバンドも出てました。

その頃はMONDO GROSSOとも対バンしましたね。正確には覚えてないけど、ファイルレコードつながりかもしれません。みんなが積極的に動いていた時代だったので「自分はこういうバンドをやっていて」という感じで音源を持ってきて、「聴いてください」みたいなことが盛んだったんですよ。その中からピックアップした人は多かったですね。

──ミュージシャンとの密なつながりみたいなものもそうですし、当時親交のあったMONDO GROSSOやCOOL SPOON経由で渋谷系のバンドとつながったりはしなかったんですか?

ないですね。僕らは日々U.F.O.だけで完結していた気がします。それだけでいっぱいいっぱいだったというか(笑)。 

──では、Crue-L Records周辺はどうですか?

現場があまり一緒にはならなかったですね。Crue-L Records周辺でいえばWACK WACK RHYTHM BANDの山下洋くんには「Jazzin'」でライブをやってもらったりしましたけど。そこはコミュニティの違いがあったのかもしれないです。

──「Jazzin'」の規模もそれなりだったし、その中で新しいことができていて、外に何かを求める必要がなかったというのもあったのかもしれないですね。

当時の僕らは一生懸命カッコつけていたんですよ。似非じゃなくて本気のカッコよさを常に模索していた。インターネットもなかったですし、欲しい情報が雑誌に出ているわけでもないから、あらゆるものを自分たちで作っていくしかなかった。それぞれが理想の音楽や場所を作るために切磋琢磨して、お互いに影響を与え合っていたと思います。当時のU.F.O.はそのバランスが絶妙に取れていたのかもしれないですね。

──では最後に渋谷系のゴールデンエラと言われる90年代初頭~中旬を振り返ると、どんな思いがありますか?

すでにバブル経済の終焉は迎えようとしながらも、音楽を含めたカルチャーはまだまだ勢いがありました。若い人たちの、新しいもの、そして過去の作品など未知のものに対する好奇心が高かったこともあり、さまざまなクリエイティブでクオリティの高いものが街にあふれていて、それらを日常的に目にし、耳にすることができた時代だったと思います。そして作り手もそれに刺激を受け、また後押しされる形で世界という“外”も視野に入れ創作し、活動してんだと思います。

松浦俊夫

1990年、矢部直、ラファエル・セバーグと共にDJユニットUnited Future Organization (U.F.O.)を結成。5作のフルアルバムを世界32カ国で発表し高い評価を得る。2002年のソロ転向後も国内外のクラブやフェスティバルでDJとして活躍。イベントのプロデュースやファッションブランドなどの音楽監修も手がける。2013年に現在進行形のジャズを発信するプロジェクトHEXを始動させ、Blue Note Recordsからアルバム「HEX」をリリース。2018年、イギリスの若手ミュージシャンらをフィーチャーした新プロジェクト、松浦俊夫グループのアルバム「LOVEPLAYDANCE」を発表した。

取材・文 / 柳樂光隆 撮影 / 相澤心也

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