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アーティストの音楽履歴書 第40回 酒井一圭(純烈)のルーツをたどる

1年以上前2022年08月11日 12:04

アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回は子役、戦隊ヒーロー、プロレスラー、ロフトプラスワンのプロデューサーなどを経て純烈を結成した、異色の経歴を持つ酒井一圭のルーツに迫った。

取材・文 / ナカニシキュウ

身内を楽しませたい

父は普通のサラリーマンなんですけど、母が大阪のミナミで歌っていた歌手だったんですよ。ろくに高校も行かんとバンバン現場に出て歌っていたらしくて。チラッと聞いた話だと、たまたまお店に飲みに来た中村八大さんのピアノで歌ったこともあるんだそうです。「おっさん、うまいやん」とか言いながら(笑)。そのお店に普通に飲みに来た会社員の父が母と出会ったことで、僕が生まれました。

3歳から保育園に通い出すんですけど、そこがリトミック教育に力を入れているところだったんですね。なので音楽に触れる機会がすごく多くて、鼓笛隊なんかもやったりしてました。鼓笛隊ではもともと大太鼓の担当だったんですけど、園長先生から急に言われて花形の指揮者をやることになって。それで自分なりにアレンジしてチャールズ皇太子みたいにカッコよくやってみたら、バカウケしたんですよ。クリスマス会か何かの出し物で劇をやったときも、渡された台本をすぐに覚えて演じられた。周りの子が全然できないのを「なんでできないんだ?」と思いながら見てましたね(笑)。

あるとき、ふとテレビに出ている同世代の子たちを見たときに「この子供たちとだったら感覚が合うかも」と感じたんですよ。「保育園の子たちでは物足りない、もっと高いレベルで自分の力を試してみたい」と思うようになって。それで「テレビに出たい」と親に訴えたところ、大阪のおじいちゃんが児童劇団の月謝を出してくれることになったんです。これが決定的でしたね。そこでめちゃくちゃ仕込まれたというか、今につながる基礎が備わった。

実はおじいちゃんのところにそのお願いをしに行ったとき、伯父たちからThe Rolling StonesとかThe Beatlesとかのレコードやカセットをごっそり譲り受けたんです。「これ聴けよ」みたいな感じで。それがたぶん自覚的に音楽に触れるようになった最初のきっかけで、もう少しあとになって初めて自分でレコードを買うんです。確か小学1年生のときだったと思うんだけど、イモ欽トリオの「ハイスクールララバイ」と水木一郎の「アンドロメロス」をお小遣いで買った。その頃はもう自然と音楽を聴くことが好きになっていて、家族に「静かにして!」とか言いながら「ザ・ベストテン」の音声をラジカセで録音するみたいなこともやってましたね。

こればかりは血統だと思う。母の血を受け継いだのはもちろんだけど、父も実はけっこうステレオにお金をかけたりするタイプで。これはあとから知った話なんだけど、おじいちゃんが自分の家族から芸能人を出したがっていたんですよ。家族対抗歌合戦みたいな番組に自分が出たいという理由で(笑)。だから劇団のお金も出してくれたし、僕が小4になって「逆転あばれはっちゃく」(1985年に放送されたテレビ朝日系列の連続ドラマ。1979年に放送がスタートした人気作の最終シリーズ)の主役に決まったときは親戚中にVHSのビデオデッキを買い与えて回ったし。そういう環境で育ったから、僕の芸能生活は“身内を楽しませる”というのがベースになっているんですよね。今、純烈を観に来てくれるお客さんのことも、“ファン”という感覚ではなくて“身内”だと思って接しています。

THE BLUE HEARTSの衝撃に「もう俺がやれることないじゃん」

「はっちゃく」をやっていた時期は、チェッカーズにどっぷりでした。撮影の行き帰りに毎日ウォークマンで聴いてましたね。「はっちゃく」の中に「音楽の授業中に長太郎が暴れてチェッカーズの曲を歌い出す」という回があるんだけど(笑)、最初はそこにゲストで本当にチェッカーズが出てくれる予定だったんですよ。さすがに当時は人気絶頂で、映画「CHECKERS IN TAN TAN たぬき」の撮影なんかも重なってスケジュールが全然取れなかったみたいなんですけど。純烈にも「チェッカーズ的なものをやろう」といって作った曲もあるくらいで、受けた影響は大きいと思います。チェッカーズはロックバンドだけど、わかりやすい歌謡的な要素も強かったでしょ。実は意外と純烈との共通点も多いんですよ。

当時からヒットチャートは全部聴いてました。それは今も同じで、Apple Musicのトップ100とかは必ずチェックしますね。そこで何か新しいものが入ってくると、「なんでこいつはいきなり出てきたんだ?」というのが気になって、プロダクションとかレコード会社をすぐ調べるんですよ。素直に音楽だけを聴くというよりは構造の部分、ヒットの仕組みにすごく興味がある。時代背景、アーティストの生い立ち、仕掛けているのが誰なのか……。それは、それこそ「はっちゃく」を経験したことで養われた視点でしょうね。子供の頃からエンタテインメントの脈々とした流れの中で育っちゃったし、当事者のいろんな話を聞かせてもらえる場所にずっといたから。

「はっちゃく」が終わって、一旦芸能活動は辞めて“堅気”に戻るんだけど、そのくらいのタイミングでかなりいいオーディオシステムをそろえたんですよ。当時まだ小6くらいだけど、「はっちゃく」マネーがあるでしょ(笑)。「自分で頭金を払うから、100万円くらいのシステムをがっつり買わせてくれ」って。ちょうど時代的にもJ-WAVEやNACK5、bayfmとかのFMラジオ局が開局するタイミングと重なったこともあって、どんどんオーディオにこだわるようになっていきました。今でもヘッドフォンやイヤフォンにはすごくお金をかけているんですけど、これはやっぱり父親譲りなんでしょうね。

中学生になるかならないかくらいのタイミングで、尾崎豊とTHE BLUE HEARTSに出会うんです。彼らの音楽は、それまで聴いてきたものと明らかに違った。「どのプロダクションで」とか「どんなバックグラウンドがあって」みたいなところとは関係なく、純粋に音楽の力だけで「やられた!」と感じたんです。特にTHE BLUE HEARTSには「こんな人たちがいるなら、もう俺がやれることないじゃん!」って。1stアルバムの1曲目「未来は僕等の手の中」を聴いた瞬間、もう「この人たちの音楽を一生聴き続けるんだな」とわかっちゃった。彼らの曲を聴いていると、「お前の気持ちをそのまま導いてやる」と言ってくれているみたいな……もちろんそんなことは歌ってないんだけど、僕が勝手に導かれて(笑)。純粋に刺さっちゃったんだよね。

その後、高校の文化祭でTHE BLUE HEARTSのコピーバンドをやったんですよ。そのときにすごい人数が集まって、音楽室の窓が湿気で曇るくらいの熱気だったんです。それはそのまま、今健康センターで純烈をやっているときの状況とまったく同じ。その文化祭のときに「やっぱり人を盛り上げたりすることが自分には合ってるんだな」と再確認できて芸能界への思いが再燃した部分もあるんで、それも含めてTHE BLUE HEARTSは僕の人生においてかなり重要な存在ですね。一番重要なんじゃないかな。純烈の音楽性からは想像もつかないでしょうけど(笑)。

芸能界復帰するもヒモ生活、バンドは地上へ出るなり「解散!」

高校を卒業してからは、大学や専門学校へ行くことなんて考えもしなかったし、とりあえずコンビニでバイトをしていました。そしたらそのバイト先に歌手志望の女の子がいて、その子のツテをたどって紹介してもらったとある劇団に潜り込むことになったんです。その劇団で1回、新宿シアターモリエールの公演にチョイ役で出るんですけど、それをたまたま観に来ていた人が「酒井一圭」という出演者名で僕に気付いて。どう調べたのか、いきなり実家に電話があって「『横浜ばっくれ隊』というヤンキーもののVシネを撮るので、よかったら準主役で出てほしいんだけど」という話をされたんですよ。

その「横浜ばっくれ隊」に出演して19歳で芸能界復帰を果たしたものの、役者では食えなかったんでヒモみたいな生活を続けていました。彼女に食わせてもらって、自分は炊事洗濯をするみたいな。アルバイトで阪神・淡路大震災復興のためのガラ運びを1カ月間やったりもしてましたね。まるで戦時下のような光景で、「俺、東京に帰れるのかな」と思いながらずっとイヤフォンでスピッツの「チェリー」や華原朋美の「I'm proud」を聴いていた思い出が風景とともに鮮明に残っています。

そんな生活を送る中、高校時代のバンド仲間と新しくバンドを始めるんです。当時はOasisやBlurといったUKロックがすごく流行っていたので、そういうものを和訳した音楽……よく言えばthe brilliant greenみたいな(笑)、そういう方向性でやろうと。そのバンドでデモテープを作って新宿LOFTに持っていくわけです。ライブハウスにはオーディションというシステムがあって、ネタ見せみたいな感じで営業前にスタッフさんの前で演奏するんだけど、それに受からないとお客さんを入れたライブに出演できないんですね。でもそのバンドで芸能の経験があったのは僕だけで、あとのメンバーは全員普通のアマチュアだから、もうガッチガチになっちゃって(笑)。オーディションで練習の半分の力も発揮できないわけ。「これはもうダメだ」と思って、地下にあったLOFTから地上へ出るなり「解散!」つって。それが23歳のときかな。

その頃はバンド活動の影響もあって、さっき言ったOasisやBlurのほかにもRed Hot Chili PeppersとかNirvanaなんかをよく聴いていましたね。時間さえあればヴァージン・メガストアやタワーレコード、HMVへ行っては本を見ながら試聴機を巡回したり、延々やってたなあ。バンド活動と並行して役者業も続けていたので、その時期に「シン・レッド・ライン」という海外の戦争映画に出たりもしていました。当時は戦争ものが立て続けにあって、ずっと坊主頭で過ごしていた記憶がありますね。

お付き合いする方にかけていた中村一義フィルター

24歳で「仮面ライダークウガ」に未確認生命体第39号として出演したことが、人生何度目かの転機ですね。まあ、けっこう常に転機ではあるんですが(笑)。翌年には「百獣戦隊ガオレンジャー」にもガオブラック役で出ていますし、2000年代はそういう流れに入っていた。

その頃は中村一義をよく聴いていました。この人にも「やられた!」と思わされたんですよね、THE BLUE HEARTS以来。しかも中村一義は同世代だし、漢字は違うけど同じカズヨシだし、面白いミュージシャンが出てきたなと思いました。当時、「ガオレンジャー」のメンバーに曲を聴かせて「さあ、これはなんと歌ってるでしょうか」って中村一義クイズを出して遊んだりしてましたね(笑)。だいたいみんな一発ではわからないんだけど、歌詞カードを見せると「言ってるー! 何これー!」みたいな。

付き合う女の子にも必ず「笑顔」と「永遠なるもの」を聴かせて、反応を見るようにしていたんですよ。“中村一義フィルター”じゃないけど、ある種の価値観を計るための試金石みたいになっていましたね。特に「永遠なるもの」の「あぁ、全てが人並みに」という部分を受け入れられるかどうか。「普通でいいんだよな、人並みで十分だよね」という感覚を共有できる人がよかったんですよね。今の奥さんは、その“中村一義フィルター”をごく自然にすり抜けてくれた人なんです。何か明確なリアクションがあったとかではなくて、スッと「ああ、いいね」くらいの感じだった。その反応を見て「はい、結婚!」(笑)。ああ、そういう意味では履歴書の「尊敬するミュージシャン」の欄に中村一義の名前も書くべきでしたね。忘れてました(笑)。

結婚は28歳のときなんで少し話は前後するんですが、「ガオレンジャー」をやっていた頃、ガオイエロー役の堀江慶くんが新宿ロフトプラスワンでトークライブをやるというんで、僕それを観に行ったんですよ。そこで「何ここ? なんばグランド花月じゃん!」と衝撃を受けて、自分もここでトークライブをやりたくなって。それを堀江くんに伝えたらトントン拍子で話が進んで、「酒井祭」という定期イベントを持たせてもらえるようになり、その流れでのちにイベントプロデューサーとしてロフトの社員になるわけです。バンド時代はオーディションを通過できなかったロフトに、まさかこんな形で帰ってくることになるとは(笑)。そのプロデューサーに就いたのが、ちょうど結婚のタイミングくらいですね。

なんでムード歌謡やねん?

それからロフトプラスワンでいろんなイベントを仕掛けていくんですが、あそこの客層ってすごいんですよ。例えば「スプーンナイト」というのをやると、ちゃんと全国からスプーン好きな人が集まる。食器のスプーンですよ? 「え?」って思うじゃない(笑)。でも、「どんなジャンルにも好きな人はいて、ちゃんと伝えれば人は集まるんだ」ということをそこで学ぶわけ。その延長線上に純烈があるんですよ。純烈を思い付いた発想の元は、間違いなくロフトプラスワンでのプロデュース業だったんです。純烈結成の直接のきっかけは、脚を折って入院しているときに前川清さんが夢に出てきたことではあるんですけど。

だから結局、全部がつながっているんですよね。母の歌手の血を受け継ぎ、父の高い身長やステレオ好きを受け継ぎ、その後の仕事や人脈も全部純烈につながっている。僕は一度プロレスラーにもなってるんですけど(笑)、そこで出会ったスーパー・ササダンゴ・マシンが今は純烈の大きなイベントで台本を書いてくれていたりとかね。

音楽性だけは別ですけど(笑)。僕が聴いてきた音楽は、それこそナタリー読者さんたちに共感してもらえるようなものがほとんどなんだけど、今はまったく共感してもらえない音楽をやっている(笑)。たまたまいろんなことを練り合わせた結果、卵からポコンと出ちゃったのよ。正直「なんでムード歌謡やねん?」という疑問は我ながらあったんだけど、そこにめちゃくちゃ市場があることがわかっちゃったから。競合がいない、芸能界からは面白がられる、どう考えてもイケるなと。だからこそ、最初から「紅白出るから」と言ってたんですよ。完全にその絵が見えてたから。

今考えているのは、「次の世代の純烈を作ってあげたほうがいいな」ということなんです。「60代の人たちが40代の人を“かわいい”と言う」世界観って、永遠に続くものだから。自分たちの年齢が今後50代、60代と上がっていくと、そのニーズを担う人がいなくなってしまう。純烈みたいな存在って、ほかにいないじゃないですか。キラキラしてないグループというか(笑)、ほっこりさせてくれるグループは下の世代にも必要だと思うんですよ。バリバリ動けてジムに通っているような人たちに純烈は必要ないかもしれないけど、「ジムはしんどい、マッサージ行きたい」みたいな人には風呂屋に来て純烈を楽しんでもらいたいですから。今抱えている、メンバーの卒業とか新メンバー加入とかの諸々がひと段落したら、そこに着手しようと思っています。

酒井一圭(サカイカズヨシ)

1975年6月20日生まれ、大阪府出身。歌謡コーラスグループ・純烈のプロデューサー兼リーダー。1985年にドラマ「逆転あばれはっちゃく」5代目桜間長太郎役で子役デビュー。芸能活動を一時休止していたが、1994年に再開して以降、海外映画や特撮ドラマをはじめさまざまな作品に出演している。2005年にプロレスラーデビュー。2006年にロフトプラスワンのプロデューサーに就任し、数々のイベントの企画を手がける。同年に歌謡グループ結成を思い立ち、メンバー集めを開始。初期メンバー6人で2007年に純烈として活動をスタートさせる。純烈は2010年6月に1stシングル「涙の銀座線」でメジャーデビュー。健康センターやスーパー銭湯を回る地道な公演でファンを増やし、2018年には「NHK紅白歌合戦」初出場を果たした。2022年8月、純烈とダチョウ倶楽部とのコラボユニットとして楽曲「プロポーズ」を配信。9月には純烈の主演映画「スーパー戦闘 純烈ジャー 追い焚き☆御免」が公開される。

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