アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回は岸田繁のルーツを探る。1996年にくるりを結成し、同バンドで活躍する一方で、ソロ名義では映画音楽のほか、管弦楽作品や電子音楽作品なども手がける岸田。そんな彼の音楽遍歴とは?
取材・文 / 大谷隆之
「なんか心が気持ちいいなあ」音楽は自分だけが知ってる喜びだった
実家の近くに、チンチン電車が走ってたんです。真夏の暑い日に、職員さんが車庫の軌道敷に水を撒いていて。おじいちゃんか誰かに連れられて、それを見ていたのを覚えています。京都の市電が廃止されたのが昭和53年9月なので、僕が2歳半くらいの頃かな。たぶんそれが、僕の中で一番古い記憶ですね。
父親がクラシック音楽好きで、休日はよく家でLPレコードを聴いていました。ベートーヴェンとかチャイコフスキーとか、わりと王道のやつです。クラシックだけじゃなくて、ジャズやハワイアンもちょこっとあったのかな。子供の手が届かない場所に置いてあったので、こっそり聴いたりはできなかったですけど。休みの日に好きな感じの曲が流れてくると、なんだか得した気分でうれしかった。ただ、親父にリクエストするという発想はなかったんです。音楽というのは、自分の意志とは無関係に“降ってくる”もんだと。幼い頃はなぜかそう思い込んでいました。この感覚は、今もちょっと残っているかもしれません。
特にスコット・ジョプリンの「ジ・エンターテイナー」はお気に入りでした。20世紀初頭のアメリカで流行した、いわゆるラグタイムミュージック。映画「スティング」の劇中で流れるあの楽しげなピアノ曲です。途中で「タタタ、タタタタン、タタタ、タタタタン」と半音ずつ下がっていくんですけど、あのフレーズを聴くたび「なんか心が気持ちいいなあ」って思っていた。彼は、当時としては珍しい黒人の作曲家で。すごく大ざっぱに言うと、クラシックとジャズをクロスオーバーさせた人なんですよね。その意味では、のちのくるりの音楽性とつながってると言えなくもない。もちろん当時は、そんな歴史的経緯はまるで知りませんでした。でも子供って感覚が全開じゃないですか。たぶん、どこかで影響は受けてるんだと思います。
音楽の原体験でいうと、通っていた幼稚園に佐藤先生という方がいらっしゃいまして。その先生のピアノも好きでした。合唱のときとか、間奏でちょこちょこっとアドリブみたいなのを弾くんです。「ジ・エンターテイナー」と同じで、それも毎回「気持ちいいな」と思って、ワクワクしながら待っていました。でも、誰かに話したことはなかったです。むしろ気恥ずかしくて、人にはあんまり知られたくなかった。これもやっぱり自分だけが知ってる喜び、だったんですかね。音楽に対しては、常にそういう気持ちが強かった。
めちゃめちゃハマッた「炎のキン肉マン」のワンフレーズ
小学校に上がると、たまにクラシックのコンサートにも連れていってもらうようになりました。父が広告関係の仕事をしていたので、チケットが手に入りやすかったんでしょうね。年末になると京都市交響楽団が「第九」(ベートーヴェンの「交響曲第9番」)の定期公演をやるんです。トータル70分以上あるので、子供には少々長かったけど。クライマックスの大合唱はやっぱり好きでした。あのハーモニーの気持ちよさは、僕の原体験として大きい気がします。あと、終演後は飲み屋さんみたいな店に行って。おでんを食べさせてもらえたんですよ。それがまたうれしかったです(笑)。
学校では、わりとおとなしい子だったと思います。野球も好きだったけど、フィジカルに自信がなかったし、楽器ができたり歌がうまいわけでもなかった。誇れたのは昆虫とか魚獲りに詳しかったことくらいですね。マニアックな知識をいっぱい持ってましたから。たまに目立ちたいときにはわざと服を脱いだり、泥団子を作って食べてみたり(笑)。周囲からは、ちょっとヘンな子って思われてたかもしれませんね。
小学校時代で覚えているのはアニメ「キン肉マン」の主題歌です。あまりテレビは観ない家庭でしたけど、とにかく流行ってましたからね。一般的には「キン肉マンGo Fight!」のほうが有名ですけど、「炎のキン肉マン」という主題歌もありまして。「さあ お遊びは ココまでだ」というサビの折り返し部分に、めちゃめちゃハマったんですよ。小学2年生とか、3年生の頃かな。もう長らく聴いていませんけど、ちょっとしたアレンジが響いたんですかね? カセットテープを買ってもらって、繰り返しよく聴いていました。
でも、だからといってアニメソング全般に興味が広がったわけでもなかったです。佐藤先生のピアノと同じで、「さあ お遊びは ココまでだ」のパートだけが深く心に引っかかった感じでした。いつもだいたいそうなんです。音楽のジャンルとかスタイルには、実はそんなに興味がなくて。具体的なフレーズだったり、響き、音色などにギュッとつかまれることが多いですね。曲作りも基本的にはそこから始まります。構成とか構造から入るのではなく、まず気になる音のピースなりフレーズの断片があって、そこからイメージを広げていく。逆に言うと、その種が見つからない限り、なかなか完成しない。数分間のポップスを書くときも、数十分の交響曲を作るときも、そこは変わらないですね。
ハナタレ小僧、「ドラゴンクエスト」に夢中
5年生のとき、大きな出会いがありました。RPGソフトの「ドラゴンクエスト」です。うちはファミコンがなく、MSXというパソコンやったんですけど、もう夢中で遊びましたね。時期で言うと、2作目の「ドラゴンクエストII 悪霊の神々」が出た頃かな。叔母がゲーム好きだったので、夏休みになると泊まりに行ったりして。で、ゲームにのめり込んでいるうちに、バックで流れる音楽も大好きになったんです。すぎやまこういちという作曲家の名前を意識したのは、もう少しあとですね。最初は「なんや好きな感じの曲ばっかりやなあ」みたいな、漠然とした感じだったと思います。
よく知られた話ですけど、当時のファミコン音源ってビット数が限られていて。同時に鳴らせる音が3つしかなかったんですが、すぎやま先生はその制約の中で、ものすごいバリエーションの楽曲を作られてるんですよね。しかもその裏側には、クラシックからジャズに及ぶ豊かな音楽的素養とテクニックが隠されていた。例えば冒険の中で、誰もいない幽霊船に入って宝を探すシチュエーションがあるんですが、そこのBGMには12音技法という現代音楽の手法が使われてたりするんですよ。シェーンベルクとかストラヴィンスキーなんかが用いた、いわゆる調性から自由な音楽。そんなマニアックな技法を、小学生のハナタレ小僧が我を忘れて聴きまくってるなんて、考えてみればすごいことです。
2005年に大阪芸術大学の特別講義で、一度だけすぎやま先生と対談させていただきました。その際、ご本人が「ドラクエの舞台は中世ヨーロッパ風だから、音楽も古楽から近現代までのクラシックを参照した」とおっしゃっておられた。確かに勇壮な序曲はワーグナーを思わせるし、お城のシーンは宮廷のバロック音楽っぽいBGMになっています。カジノや酒場では本場アメリカのジャズ風の音楽が流れるし、不気味なシチュエーションになると現代音楽にグッと接近する。そういう豊かで複雑な世界が、8ビットの限られた音で見事に描かれているわけです。当時はわからなかったけれど、これって本当にとんでもない仕事だと思います。いわば西洋音楽の優れたダイジェストを、ゲームに没入しながら全身で感じられたのは、本当に貴重な体験でした。
当時、オーケストラ用に編曲された「ドラクエ」のサントラ盤も買ってもらい、何度も聴いていました。それがきっかけで「こういう音楽をもっと聴きたい」と思うようになって。幼い頃に家で流れていたクラシック音楽を今度は自分で探すようになりました。それから約30年後、ご縁があって僕自身もシンフォニーを手がけるようになります。2016年12月、京都市交響楽団が「交響曲第1番」を初演してくれました。そうやって自分でオーケストラの曲を書いてみると、改めてすぎやま先生の才能に打ちのめされるんです。クラシック音楽が見事に咀嚼されていて。どれを聴いても日本人にしっくりくる旋律が、とんでもなく完璧なアンサンブルで表現されています。明治以降、山田耕筰とか滝廉太郎のような作曲家が、西欧音楽を日本的な風土に根付かせる努力を重ねてきました。その延長線上に、すぎやま先生もおられたと思う。僕にとってはどうやっても超えがたい巨人みたいな存在です。
思い返してみると、その時期には「ドラクエ」以外にも、いくつかエポックメイキングな出来事がありました。まず、サンタクロースが家にCDラジカセを届けてくれた(笑)。そこから自分でもCDを買うようになって。最初に選んだのがカラヤンの指揮する「第九」と、グリーグ作曲の「ペール・ギュント」。ジョン・ウィリアムズの映画音楽集もよく聴きましたね。両親が映画好きで、月に3、4回は劇場に連れて行ってもらってたんです。その頃、子供が楽しめるハリウッド映画の劇伴ってジョン・ウィリアムズ作曲のものが多かったでしょう。それこそ「インディ・ジョーンズ」シリーズとか。すでに「ドラクエ」経由で、オーケストレーションの醍醐味に目覚めてましたから。ああいうオーセンティックな劇伴もいいなあって思っていました。
気が付けば好きになってしまっていたロック
ロックの話が全然出てきませんね(笑)。正直、中学校の前半くらいまでは、あまり好きじゃなかったんです。ちょうど80年代の後半に「イカ天」「ホコ天」ブームがあって、若いバンドマンがこぞって髪の毛をツンツンさせ、エレキギターを持って飛び跳ねていた。その映像に、なぜだか強い拒絶感を抱いたんです。どこかにまだ「音楽は自分だけの楽しみ」という幼い思い込みがあったんですかね。とにかく、あれは気恥ずかしいと思ってしまった。
ただ、ロックへの固定観念が解けるのは意外と早かったです。1つには、買ってもらったラジカセでFM放送を聴くようになったのが大きかったです。そうすると、嫌でもいろんな曲が耳に入るので、必然的に気になる曲がチラホラ出てくる。あと、1歳上のいとこが、日本語のロックをいろいろ吹き込んだカセットテープをくれたんですよ。THE BLUE HEARTSとかTM NETWORKとか、爆風スランプとか。それを聴いているうちに、気が付けば好きになっていました(笑)。TMはアルバムも集めました。THE BLUE HEARTSは「TRAIN-TRAIN」がとにかく好きで。メッセージというより、あの闇雲なエネルギーですよね。今にして思うと、ショボい自分のところまで降りてきて、一緒に走ってくれてる感じがしたんだと思う。要するに、ロックですよね。
中学時代、周りの友達は洋楽ばかり聴いてました。仲間に入るためにCDを貸してもらって。手当たり次第、何でも聴きました。Guns N' Roses、マドンナ、シンディ・ローパー、マライア・キャリー。あとRun-D.M.C.やHeavy D & The Boyzみたいなヒップホップ系も。そうこうするうちブラックコンテンポラリーが好きになりまして。一時期はボビー・ブラウンに入れ込みました。「ロックなんてうるさいだけや」とか、背伸びしたりして(笑)。
ただ、The Beatlesだけはずっと好きでした。最初に聴いたのがいつだったかはもはや覚えていないんですが、おぼろげな記憶だと、テレビの「ひらけ!ポンキッキ」で流れていたのかな。どの曲を聴いてもお腹に落ちるというか。自分ごとのように自然と体に入ってきたんですよね。その感覚は、今に到るまでずっと続いてます。父親も何枚かアルバムを持ってまして。一番聴いたのは「ホワイトアルバム(The Beatles)」ですかね。でもこれは順番とか付けられません。どのアルバムもそれぞれ好きなので。
The Whoは今も特別
初めてギターを買ってもらったのは中学3年生の頃だと思います。スポーツとかは苦手だったので、何か自己アピールをしないとと思って。ただしエレキではなくナイロン弦のガットギターでした。一瞬、教室に習いに行きましたが、すぐにやめてしまって。The Venturesの「Pipeline」とかビートルズの「Day Tripper」とか。最初はああいうシンプルなリフの曲を、1人独学でコピーしていました。
で、楽器を始めると、やっぱり聴く音楽の傾向も変わってくる。それまで敬遠気味だったギター系のロックがだんだん好きになってきました。ちょうどその頃、CDウォークマンも買ってもらって。中学高校まで1時間半くらいかけて通ってたんですが、行き帰りずっと聴いてました。Crowded Houseとか、U2とか、わりと陰りのあるギターサウンドが好きだった気がします。
高校に上がって、コピーバンドを始めました。ちゃんとリードギタリストがいたので、僕はオマケみたいなもんです。キーボードもいて、最初に練習したのはビートルズの「Hello, Goodbye」と「Let It Be」だったかな。やることがないので、「ほんなら適当にアルペジオとか弾いといて」って言われて。あまり存在感がなかった(笑)。ただ、そこのリーダーでボーカルの子が、わりとルーツロック志向だったんです。で、Led Zeppelinとかエリック・クラプトンとか、ボブ・マーリーのCDを貸してくれて。すごく好きになりましたね。曲はもちろんサウンドそのものが、それまで聴いていた音楽とは全然違って思えました。ロックという音楽を心底カッコいいと思うようになったのは、たぶんこの時期からです。
ボブ・マーリーでよく聴いたのは「Legend」というベスト盤。当時はレゲエという音楽をほとんど理解してなかったけれど、ビートルズと一緒で、聴いた瞬間から体に馴染む感じでした。2曲目に「No Woman, No Cry」という代表曲のライブバージョンが入っていて。途中からお客さんが大合唱するんです。あれが僕、たまらなく好きで。普通は「そんなんサブいわ」って思いがちなんですけど、ボブ・マーリーのこの曲と、長渕剛さんの「乾杯」のライブバージョンだけは特別。クラプトンも代表曲がたくさん入ったベスト盤、ツェッペリンは1stアルバムが好きでした。
あとはやっぱり、The Whoかな。最初は本家じゃなくて、コピーバンドが「Pinball Wizard」を演奏するのを観たんだと思います。その後、先輩がミュージックビデオを見せてくれて、めっちゃカッコいいなと感動しました。ビートルズみたいな完璧な自然さはないけど、ちょっと不完全なところが逆にドラマチックでいいんですよね。スタイリッシュだし、楽曲もキャッチーだし、応援したくなる。僕にとっては今も特別なバンドです。
1つひとつ、マイペースでやっていけたら
この頃、家の近所に輸入のCD屋さんができまして。かなり足繁く通いました。時代も分野もバラバラだけど、その店で買ったCDは今も大事に持ってます。ジェームス・ブラウン、Jellyfish。あと、Nirvanaもそうかな。イングヴェイ・マルムスティーンとかMr. Bigとか、Extremeみたいなハードロック系はがんばってコピーしてみたけれど、難しかった(笑)。でも、聴いてる分にはすごく楽しかったです。
コピーはしなかったけれど、その頃に買ったCDで特にハマッたのがプリンス。高校1年の冬かな、Prince & The New Power Generation名義で「Love Symbol」というアルバムが出て。脳天を撃ち抜かれました。なんでしょう、とにかく自由な感じがしたんですよね。スリリングで楽しくて、エッチな声とかもいっぱい入っていて(笑)。知らなかった世界をめいっぱい見せてくれた。音楽って、こんなにもいろんなことができるんだと。
その輸入盤屋でバイトしていたお姉さんと友達になって、磔磔とか拾得とか、地元のライブハウスにも一緒に通うようになりました。クラシック音楽以外の生演奏を知らなかったので、目の前でエレキギターがグワーンと響きドラムがドコドコ鳴ってるのは、やっぱり衝撃だった。わりとブルース寄りのバンドが多くて、鮮明に覚えているのは騒音寺とLUCKY LIPS。あと、ザ・フクロクというカバーバンドがいまして。Sly & the Family StoneとかKool & the Gangなどのファンクを演奏するのがすごくカッコよかったんです。それまでMr. Bigのポール・ギルバートみたいなギターに憧れていたのが、ここでまたガラッと変わりまして。自分はファンクのギタリストになろうって、一時は本気で思ってました。それでワウペダルを買い込んで、変なサイケ風の衣装を着たりして(笑)。高校生なのに頑ななルーツ志向とストイックさは、たぶん、当時の京都という土地柄も大きかった気がします。
高校生活も後半になると、ライブハウスに通いながら自分で曲も作るようになりました。4トラックのMTR(マルチトラックレコーダー)を手に入れて。見よう見まねで音を重ねるのが、面白くて仕方なかった。一応、ちゃんと作ろうと努力はするんですよ。でも実際にできあがるのは、現代音楽まがいのワケわからん代物ばっかり。録音機材もなかったので、ヘッドフォンをマイク代わりにして。自分の声を多重録音して喜んでいました。
佐藤(征史)さんと出会ったのは18歳、高校3年生のときですかね。それまでは同じ学校にいても、ほとんど交流はなかったんですよ。その後、大学で同じ音楽サークルに入って。一緒に毒猿ペピヲというバンドをやってました。ただ、これはあまりうまくいかなかったんです。で、解散して「もうバンドはええかな」と思っていた矢先に、たまたま佐藤さん、森(信行)さんと組んだ即席バンドでコンテストに優勝しまして。それで「もしかしたらプロで食うていけるかも」と勘違いしちゃった(笑)。今にして思えば、身の程知らず以外の何者でもないですけど。まあ、運と引きがよかったんでしょうね。周りの人にも恵まれましたし。それでなんとか、今日までやってこられた感じです。
僕の音楽の聴き方って、ずっとこんな感じなんです。その時期によって興味の対象が変わって、あんまり系統立ったところがない。今後やってみたいこともいろいろありますけど、どれもこれも思いつきみたいなもんで。例えばレゲエに打ち込むとか、イタリアに進出してみる、とかね。1つひとつ、マイペースでやっていけたらいいなと。
ただ、若い頃の音楽体験はやはり濃密だったと思う。プロのミュージシャンになって以降は、あんなふうに「自分1人の宝物」みたいな感じで音楽にのめりこむ機会は少なくなりました。その意味では大事な時間だったと、改めて感じます。まあ、変なところにピンポイントで反応する癖は、ずっと変わらないですけどね(笑)。ジャンルをとことん掘り下げるとか、今もあんまりしませんから。それよりは日常の中でふと「あ、この曲ええな」と思って、Shazamで調べるほうが楽しい。昔も今も、ずっとそういう感じです。
岸田繁
1976年生まれ、京都府出身。作曲家。ロックバンド・くるりのボーカリスト / ギタリスト。くるりは1998年にシングル「東京」でメジャーデビューした。代表作は「ばらの花」「ワンダーフォーゲル」「琥珀色の街、上海蟹の朝」など。ソロ名義では映画音楽のほか、管弦楽作品や電子音楽作品なども手がけている。2023年3月にくるりの新作「愛の太陽 EP」をリリースした。