2010年代のアイドルシーンを複数の記事で多角的に掘り下げていく本連載。この記事では前回に引き続き、国内最大のアイドルフェス「TOKYO IDOL FESTIVAL」、通称「TIF」の黎明期に焦点を当てる。前編でその舞台裏に迫った2010年の「TIF」第1回は、ブレイク前夜のももいろクローバーのステージをはじめ、今やアイドルファンの中で語り草となっているが、当事者たちの手応えはどうだったのだろうか。今回も初期「TIF」の総合プロデュースを担当したフジテレビ・門澤清太プロデューサーと、当時の出演者による貴重な証言をお届けする。
取材・文 / 小野田衛
タイムテーブルなんてあってないようなもの
史上初の本格的なアイドル専門音楽イベント「TOKYO IDOL FESTIVAL 2010」は、2日間で約5000人もの入場者を集め、大盛況のうちに幕を下ろした(参照:総勢40組以上!品川を熱く盛り上げたアイドルフェス大成功)。今から約13年前、2010年の出来事だ。さまざまなグループが一堂に会する「TIF」によって、アイドルブームが一気に過熱化していったことは疑う余地もない。前例など存在しない中、総合プロデューサー・門澤清太の執念と情念によって開催までこぎつけた経緯を紹介した記事前編に続き、後編ではさらにディープに内側に迫っていく。
記念すべき第1回の「TIF」は、お台場ではなく、品川で開催された。「初回はタイムテーブルなんてあってないようなものでした」と笑うのは、元バニラビーンズのレナ。その口調からは初回ならではの混乱ぶりも伝わってくる。
「会場は品川のステラボールが中心だったんですけど、隣にあるホテルの宴会場もライブステージになっていたんですね。ところがステラボールから宴会場までの移動時間とかが、まったくスケジュールに考慮されていなくて……。当日は1グループにつき新人の芸人さん1人が現場マネージャーみたいに帯同してくれたんですけど、その方もあまり品川一帯の位置関係を把握していなかった(笑)。アイドル、マネージャー、芸人さんと全員がてんてこ舞いだったのを記憶しています。あれも今思えばいい思い出だったなあ」
まだグループ結成から間もなく、メンバーの年齢的にも子供そのものだった東京女子流。6月の記者会見では緊張のあまり泣いてしまった山邉未夢だが、本番の8月は心から楽しめたと振り返る。
「緊張は特にしなかったですね。本当に右も左もわからなかったし、いろんなアイドルさんが集まるフェスというのも初めてに近かったんですけど。ももクロさんが仲よくしてくれたし、バニラビーンズさんがたくさん助けてくれたので、すごく居心地がよくて。ステージ裏では、一緒に宿題をやってくれたりしました(笑)。ライブ自体も若さゆえの特権で、なんにも緊張せずに『楽しい~~~~!』って気持ちだけでパフォーマンスしていました」
「戦国時代」という言葉は一切使わなかった
終わったとき、みんなが笑っているイベントにしよう──。これは門澤が総合プロデューサーとしてスタッフ全員の前で訴えた「TIF」のコンセプトだった。そして出演者も関係者もファンも笑顔で家路に就いたのだから、当初の目的は十分に果たしたと言えるだろう。しかし「僕自身はまったく笑えませんでしたね」と門澤は自嘲気味に語る。
「今だから言いますけど、ビジネス的な面では失敗ですよ。会社に大損を与えたというほどではないので、『大惨敗』は言いすぎかもしれないですけど。なにせTシャツとか冊子なんて全然売れず、余り散らかしていましたから(苦笑)」
ポジティブに解釈すると、ここで大きな利益を出しすぎると、それはそれで問題化する恐れもあった。「お前らテレビ局ばかり儲けやがって!」と各事務所から突き上げをくらう可能性も考えられるからだ。しかし大の大人がビジネスとして取り組んでいる以上、「笑顔になれたから大成功だね」と無邪気に喜んでいる場合ではなかろう。今まで「TIF」についてビジネス面から深く語られた機会が少なかったため、ここは踏み込んで話を聞くことにした。
──タレント側は物販で利益が出せるかもしれない。主催者側としては、ゲート収入がすべてだったんですか?
基本的にはそうですね。あっ、それとは別にCSの放送もありましたけど。
──そこも伺いたかったところなんです。テレビ局が主催しているイベントだから、本業の放送事業で旨味がないのなら開催する意味がないじゃないですか。実際、そっちの面でのメリットはどうだったんですか?
当時はCSフジテレビONEで放送していたのかな……。放送しているチャンネルがあって、そこの加入者が増えることがメリットとしては当然あります。ただそれもダイレクトに数字が見えるわけではないし、今のNeflixみたいに派手に加入者数が増えるわけでもなかったですからね。
──まだサブスクが一般化する前でした。例えばですが「世界唯一のアイドルフェス『TIF』が観られるのはCSフジテレビだけ! 今すぐ加入しましょう!」といった感じでプロモーションすれば、テレビ局としても開催のメリットがあると思うのですが。
本来はそれをしなくちゃいけなかったんですよ。だけど僕の本音としては、あまり騒ぎ立てたくなかったんです。気付かれると都合が悪いというか……。
──都合が悪いとは?
フジテレビって会社組織じゃないですか。結局、企業というのは「儲けろ」という話にどうしたってなるわけですよ。まったく実績のないイベントなのでまあそれも当然なんですけどね。だけど「儲けろ」という話になると、本当にやりたいことができなくなるんです。例えば「入場料をもっと上げろ」「この会場は小さくしろ」「こんなステージの特効は必要ないんじゃないか?」「バンドなんていらないだろ」「そもそもこんな長い時間やる必要あるのか?」とか……。営利団体として、極力、無駄を省こうとするのは自然なこと。でも、僕自身は商業主義みたいなのがどうも苦手で。
──失礼ですが、あまりサラリーマンに向いていないような気もします(笑)。
本当に向いていないんだと思う(笑)。だから、「TIF」では「戦国時代」という言葉を一切使っていないんです。そこは僕なりのこだわりだった。
──それはなぜでしょうか?
戦国時代とはなんだったのか、そこを冷静に考えてほしいんです。乱世の中、とにかく自分が勝ち抜いて、他人を殺しまくって、ほかの者を消し去って、自国だけが上がっていくイメージ。みんながハッピーになれる世の中では決してないんですよ。だから「アイドル戦国時代」という言葉から連想されるのは、子供たちを無理に戦わせている大人たちのエゴ。「とにかく何があっても絶対に負けるな」「人を踏み潰してでもいいから自分だけはのし上がるんだ」と商業主義で煽られているような可哀想な状態ですよ。
──確かにそういう面もあるかもしれません。
それに対して「TIF」の精神としては「どんな子供たちでも輝ける場所があっていいんじゃないか」というところを打ち出したかった。だから「来る者は拒まず」という姿勢でしたしね。もちろん急に全然知らない人たちがメインステージの真ん中に立てるわけじゃないにせよ、当時から「多様性」という言葉を使っていたくらいですから。そもそもアイドルというジャンル自体が多様性を象徴する文化ですしね。2012年からはAKBグループも出るようになりましたし。
──最初はSKE48でしたよね。そこも分岐点だったと思います。「AKB48などメジャーで露出が多いグループ以外のアイドルにもスポットを当てる」というのが初期「TIF」のコンセプトと捉えられていたので、メジャーグループの参加にアレルギー反応を示すファンもいました。
そういう意見もありましたね。でも多様性を謳う以上、メジャーだからという理由で出ないのは逆に変でしょう。ハロプロさんだって初期からお願いし続けていたんですよ。毎年、ハロコンの中野サンプラザ公演と日程的に被っちゃうから無理だっただけで。
ようやくやりたいことができた第2回
こうした「平和」や「多様性」を重んじる門澤の考えは、演者であるメンバーにも伝わっていたようだ。東京女子流・山邉は「これはあくまでも私の感覚ですが……」と前置きしたうえで、黎明期の「TIF」が現在とは異なる雰囲気だったことを証言する。
「今は出演グループがすごく増えたこともあって、“大勢の方に観ていただくチャンスの場”と位置付けているアイドルが多いと思うんですよ。ライバル意識を持ちながら、刺激を与え合って『TIF』を盛り上げると言いますか。でも2010年のときは、出演者みんなでライブを通じてイベントを盛り上げていこうという意識のほうが強かった気がします。全員でひとつのものを作り上げていく感覚。そのへんは少し変わったなと感じますね」
採算面は低調に終わったものの、「TIF」は第2回も開催されることになった。ところが次回の開催に向けてキャスティングや会場の下準備に動き始めたところ、2011年3月11日に東日本大震災が起こる。一度はこれで開催中止の方向に決まりかけたようだ。
「開催できたのは、場所の問題が大きかったですね。『FUJI ROCK FESTIVAL』みたいなイメージで始めたものの、蓋を開けてみたら品川プリンスホテルは屋内でしかやれなかった。理由は屋外でライブをやると近所住民に迷惑がかかるから。物販だけは屋外でもできたんですけどね。それで勝手知ったる(フジテレビのある)お台場にしたんです。会場費が浮いたかどうか? うーん、どうだろうな。確かに一部の場所代はかからないで済んだけど、その分、ステージを作り込むお金はかかりましたから。品川のときはホテルの宴会場にPAとかがそろっていて、すぐライブができる環境にあったんですよ。お台場は単なるスタジオと更地ですから。結果的には、お台場でも素晴らしいステージが作れましたけどね」
その指摘通り、2011年に行われた第2回で、現在まで至る「TIF」のフォーマットがほぼ固まったと言っていい。門澤の念願だった屋外ステージも実現し、ビル屋上にはSKY STAGEもできた。「ようやくやりたいことができたな」という達成感があったという。
「キャスティングの方法とかは前年と同じでした。僕を含め、せいぜい4人くらいで情報を集約して決めていった感じ。そこにサブのディレクターや放送作家が情報をくれることはありましたけどね。『今、このグループがこの地方でけっこう話題になっているんですよ』とか。すごく地道なリサーチ作業を何カ月にもわたって毎日やっていくんです」
スタッフが最も盛り上がるのは、ホワイトボードにステージ名を書き、そこにグループ名が記されたマグネットをペタペタ貼っていく作業だったという。「ダメだ。これじゃ移動時間が間に合わない」などと言いながら、パソコンすら使わず、ひたすらアナログにタイムテーブルを決めていった。
「僕の時代は、ずっとそのやり方でしたね。ブッキングを調整してくれる会社なんてなかったし、ノウハウなんて誰も持っていないわけですから。完全に文化祭ノリですよ。もともとテレビマンなんて文化祭みたいなことを毎日やっている人間だから、そういうのが嫌いじゃないんでしょうね。なんだか今になっても、断片的にいろんな細かいことが思い出されるんです。さくら学院は新曲が1曲しかなかったけど、『門澤さん、出させてください!』とアプローチしてきました。SUPER☆GiRLS運営も『今度、新しいイベントをやるんです! だからその前にTIFには絶対に出たいです!』って目を輝かせていて……」
プロデューサー交代の裏側
観客動員数は回を重ねるごとに右肩上がりだった。2011年は約1万人(出演アイドル:57組、396人)。2012年は約2万1500人(同:111組、732人)。2013年は3万3000人(同:111組、636人)。懸念だった収支面も、2013年には黒字化に成功する。
「『TIF』も続けていくことが大事で。最終的には黒字体質にして、次に引き継ぎました。正直、楽ではなかったですよ。当時はスカパー!のPPVとかは存在したものの、まだそこまで一般化していなかったですし。『TIF』がSHOWROOMとかと絡むのはもっとあとの話ですから。大きかったのは(パチンコメーカー)平和さんが僕らの理念に共鳴してくれたこと。平和さんのバックアップによって黒字化できたんです。でも今思うと、テレビ局だからできたという要素はすごく多かったと思う。フジテレビがついているからこそ、そこまで商業主義に走らずに済んだと言いますか。放送に使える予算がそこそこあるので、『とにかく金! 金!』とはならなかったし、そこはありがたかったですよ」
しかし、門澤は2013年を最後に「TIF」の総合プロデューサーの座を降りる。せっかくビジネス的にも軌道に乗り始めたタイミングだったのに、不思議に思う者も多かったはずだ。
「これは単純な話ですよ。単に僕がアイドリング!!!を担当しなくなったから。アイドリング!!!をやらないのに『TIF』だけ続けるっていうのも変な話ですしね。もちろん『門澤が始めたんだから、門澤が続けろよ』という声も社内ではありました。だけど次の人がいるわけだし、その人だって自分のやり方があるはず。それなのに中途半端に自分が口を挟んだら、現場は混乱するじゃないですか。それとは別に『TIF』をやると、ほかのことができなくなるという面も大きかったですね。アイドリング!!!を担当していないにもかかわらず、夏の何カ月間かほかの仕事ができなくなったら異常事態ですよ。アイドリング!!!は好きだけど、コンテンツ制作者として次のステップに進まねばならないというのが本音でした。だから最後に伝えたんです。『もう誰がやっても大丈夫な体制にはしておきました。もうこのまま続けていただければ大丈夫ですよ』って。やっぱり僕、ゼロイチが好きな人間なんでしょうね」
現在も門澤は番組制作の最前線で辣腕をふるっている。しかし、グループアイドルと関わるケースはほとんどないという。TIFの現場に足を運ぶこともまれにあるが、「老害みたいな厄介者になってしまうので、意見は一切言わないようにしています」とのことだ。
「今も現場は現場でがんばっていると思います。コロナが勃発したことで、苦労した部分も大きいでしょうけど。コロナはアイドルのあり方自体を変えましたからね。握手会やチェキ会といった物販が見直しを余儀なくされる中、どうやって運営していくかは頭の痛い問題。本当に根本から見直さなくちゃいけなくなったわけで。接触アイドル全盛期の中で立ち上がったイベントが『TIF』ですから。今は『TIF』以外にもアイドルフェスが山のようにあるじゃないですか。シーンの裾野も広がるし、素晴らしいことだと思いますよ。自分のやっていたことが間違えてはいなかったんだなという励みになるのは確かです。なんだか答え合わせをしてくれたような感じで、やっぱりうれしくなるんですよね。少なくとも『ちくしょう、真似しやがって』とか『俺のやり方で儲けやがって』という感情にはなりません(笑)」
本当に奇跡みたいな時代だった
「TIF」を始めるきっかけとなったグループ・アイドリング!!!は、2015年をもって9年間の活動に終止符を打った。第1回の記者会見に出席した7グループのうち、現在も活動を続けているのは東京女子流とももいろクローバーZだけ。「TIF」もアイドル界も変わらず盛り上がりを見せているが、時代は確実に流れている。今回の特集に協力してくれたアイドルや“職員”に、「自分にとってのTIF」を改めて振り返ってもらった。
「私たちはMCをやらせていただくことが多かったから、ライブの合間に慌ただしくステージを移動しつつ、必死で生放送をこなしたことをよく覚えています。真夏ということもあり、少しでも空き時間ができると仮眠を取るくらい体力的にはヘトヘトでしたね。でも、あそこで体力的にも精神的にも鍛えられたのは大きな財産だったかもしれない。『TIF』に出ていたのは、後輩グループや年下メンバーが多かったんですよ。結果的にアイドリング!!!はお姉さんグループみたいな立ち位置になって、ほかのアイドルちゃんたちがたくさんアイドリング!!!のライブを観に来ていたんです。だから、メンバーはめちゃくちゃ気合いが入っていましたね。『ここでカッコいいところを見せるぞ!』って一致団結していました」(元アイドリング!!!・菊地亜美)
「第1回からバニラビーンズが解散する2018年まで、私たちは皆勤賞で出演させていただきました。やっぱり『TIF』の醍醐味といえば、自分たちの単独公演では絶対に立つことのできない大舞台でパフォーマンスができること。初回は品川ステラボール、2回目からはお台場のZepp Tokyoやお台場冒険王のステージで。なんだか唯一、『TIF』って私たちがプロのアイドルになれる場所という感じがしたんですよ。楽屋を用意していただいたり、豪華なケータリングが置いてあったり、本格的なセットがステージに設置されていたり……。コラボステージも本当に楽しかったですね。リハーサルの休憩中、さくら学院の水野由結ちゃんとクリームソーダを食べたのは一生の思い出です(笑)」(元バニラビーンズ・レナ)
「さくら学院は『TIF』と共に歩んできました。『TIF』はその年度の最初の大きなステージ。生徒たちが切磋琢磨しステージに向かうことで、その年度のカラーが形成され、思い出となり、後輩へ継承されていく大切なフェスだったんです。コラボステージでは普段なかなか経験することのない先輩アイドルの方とステージに向かうことで、本番までの向き合い方など刺激を受けたはずです。また、新しい部活動の発表やさまざまな企画にもチャレンジさせていただきましたので、成長させていただける場所だったと思います。何より生徒たちが夏の『TIF』を楽しみにしていたのが本当に印象的でした。きっと成長期において大切なひと夏の思い出なのでしょうね。高校球児にとっての甲子園みたいな存在だったのかと思います」(さくら学院職員室)
「振り返ってみると、やっぱり印象深いのはコラボステージですね。毎年、たくさんのコラボステージに出演させていただきましたし。『TIF』が始まる1週間くらい前から集まって、みんなでリハをする時間が私はすごく大好きでした。特に2014年はスマイルガーデンで最後のコラボステージを任せていただいたんですよ。その前から夜のスマイルガーデンでコラボステージに出るのが憧れだったから、本当にうれしかったです。あのとき、ステージから見た光景は絶対忘れないだろうな。大勢のアイドルさんたちと一緒に『おんなじキモチ』を踊ったこと、ずっとずっと自分の記憶に残ると思う」(東京女子流・山邊未夢)
そして最後に門澤に訊ねる。現場を去ってから10年が経った今、“あの時代”をどのように捉えているのか?
「確実にゴールドラッシュ的な勢いはありましたよね。『穴掘れば儲かる』じゃないけど、時代のうねりを強烈に感じました。それは会社の利益うんぬんとは別の話として、単純に夏場の屋外で、人がいっぱい集まって、みんなが笑顔でハッピーなオーラに包まれているという現場の雰囲気。それを作ることが、何物にも代えがたいほど満足感、充実感があったんです。『TIF』は本当にエネルギーを使うので、終わってから1週間くらいは何もできなくなるんです。もう死んだように眠るだけ(笑)。でも、それすらも今となってはいい思い出ですね」
感慨深げにここまで語ると、少し間を置いたあと、視線を上げながら総括した。
「結局、『TIF』を作り出したのは僕じゃないんですよ。『時代のうねりがTIFを生み出した』という表現が正確だと思う。僕は偶然、その場で用意された引き金を引いた役。本当に奇跡みたいな時代でした」