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さまざまな出会いが紡いだTOWA TEIのドラマチックなデビューストーリー

TOWA TEI
17分前2025年06月11日 10:03

音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く連載「あの人に聞くデビューの話」。ひょんなことから留学先のニューヨークでDJ活動をスタートしたTOWA TEIは、クラブで知り合ったDJディミトリーの誘いを受け、ダンスミュージックグループDeee-Liteに加入を果たす。1990年にデビューアルバム「World Clique」を発表、シングルカットした「Groove Is In the Heart」が全米4位、全英2位の大ヒットを記録し一躍、時の人となる。誰から見ても順風満帆に思えた音楽家人生の始まりではあったが──。前回に引き続き、そうそうたるアーティストとの交流に彩られたTOWA TEIのドラマチックなデビューストーリーをお届けする。

取材・文 / 松永良平 撮影 / 山口こすも

東洋人DJとしてNYのクラブシーンで話題に

──テイさんのDJとしての活動の始まりが、Deee-Liteへの参加にもつながる、というのが前半の最後でした。

初めて90分のミックステープを作って、それを3本くらいコピーして、1本目は、当時よく行ってたクラブ、ネルスで働いていた女の子がすごくかわいかったんで、その子にあげたんだけど、音沙汰ナシ(笑)。もう1本を渡したのが、のちにDeee-Liteのメンバーとして一緒に活動するDJのディミトリーでした。1週間後くらいに、当時一緒に住んでたテッちゃんが電話を受けて、「DJなんとかってやつが何か叫んでるよ」って。それがディミトリーからの電話で、とりあえず会う約束をしました。会ったら「DJのセンスが僕と近い」と言われた。こっちもそう思ったから渡したんですけどね。ディミトリーからもらったカセットには「Dee-Lite」と書いてあった。

──つまり、そのカセットは彼のDJミックスではなく、初期Deee-Liteの音源だった。

僕が加入する前で、まだ「e」が2つだったんですよ。彼らの音源を聴いてみて、最初は「ダッセー!」って思った(笑)。でも聴いてるうちに「ダサいけど、これ曲よくない? 歌よくない?」となって、ディミトリーとも仲よくなり、彼が40ワースという小さなクラブでDJをやるときに遊びに行くようになったんです。仲よくなったら、DJブースの中に入れるじゃないですか。そしたらディミトリーにトイレに行きたくなっちゃった。この曲長いし、もし僕が帰って来なかったら次にこの曲をかけて」って言われたんです。でも、全然帰って来ない。だから、ずっと僕が代わりにレコードをかけて。

──なし崩し的に初DJ?

そしたら後ろから店長が「来週から来てくれるかな?」って聞いてきたから「いいとも!」って。それでちゃんとした初DJが決まったんですよ。最初が40ワースで、次がネルス。ネルスもディミトリーの紹介だったかな。

──そして、Deee-Liteにもごく自然な流れで加入となったんですね。

そうですね。当時の彼ら(メンバーのディミトリー<DJ>とレディ・ミス・キアー<Vo>)はコンピュータを使わずに、リズムボックスのリズムに乗せて、ギターを弾いて歌ってた。僕の家には打ち込みができる機材がそろってたから、「うちで一緒に曲を作ろう」って声をかけました。それで、どんどん新しい曲ができて評判を呼ぶようになった。88年の時点で「Groove In The Heart」「What is Love?」は、のちに発表された形でほぼ完成していて、ライブでも大盛況でしたよ。僕らはゲイのクラブに呼ばれることが多かったんだけど、そこから火が点いた。自分で言うのもアレですけど、僕自身、DJとしてクラブ界隈では「ああ、あの東洋人のDJね」と名前を知られていたはず。当時、東洋人のDJってニューヨークには僕とNORIさんぐらいしかいなかったから。

Jungle Brothersとの出会い

──その後、バンドとしてもDJとしても活動の規模がどんどん大きくなって。

Big Audio Dynamiteのライブの前座でDJをやったり。あのときは、30分DJしてギャラは500ドルだったかな? とにかく大金に感じた。DJは楽しいし、お酒も飲めるし、いろんな人にも会える。天職だと思いましたね。キース・へリングに会ったときは一緒にポラを撮ってサインしてもらいました。そのとき自分が持っていたミックステープと一緒に「Jungle DJ Towa Towa」って当時の自分のDJネームと当時住んでた家の住所をメモって渡したら、後日「Thanks For The Groooovy Tapes」ってお礼の手紙が来た。「Groooovy」の「o」が4つあったから、、彼は僕がDeee-Liteのメンバーだって知ってたんでしょうね。いい話でしょ? 「封筒にキース・へリング財団って書いてある!」って感動した。そのポラと封筒は今も額装してます。

──いい話! そういえば、Deee-Liteでデビューした当時の「Jungle DJ Towa Towa」という名義は、NYヒップホップのいわゆるニュースクール世代の中核にいたJungle Brothersにちなんでいるんですよね。

最初は、彼らのDJを観に行ったんです。ガレージクラシックスを2枚使いして、歌心ある曲ばかりかけるスタイルだった。「ファンです」って挨拶して、自分でデザインした名刺を差し出したら、僕のデザインにすごく興味を持ったみたいで「今作ってる2ndアルバムのジャケットデザインを頼みたいから明日スタジオに来てくれ」と言われて。翌日スタジオに行ったら、エンジニアがリズムをループしようとしてたんだけど、うまくいかなくて苦労してた。それで、「もしかして、こういうことをしようとしてるんだったら僕がやってあげようか?」という話になったんです。「うちに機材もコンピュータもあるから、僕がやったらタダだよ」って。そしたら次の日からリーダーのアフリカ(アフリカ・ベイビー・バム)が僕の家に作業しに来るようになった。結局、ジャンブラの2ndアルバム「Done by the Forces of Nature」(1989年)のトラックは半分以上うちで作ったんじゃないかな。ジャケットのデザインも僕がやりました。当時、一緒のビルに住んでいたデザイナーの細谷ゲンくんと一緒にね。

──さらにいろんな関係が広がっていった。

そこからジャンブラファミリーみたいなことになったんですよ。彼らと一緒のイベントでDJもやりました。ある日、ライブが終わったときに「今度こいつもデビューするから手伝ってあげて」と紹介されたのがQティップ。当時まだ、高校生だったかな? ラップグループをやってるっていうから名前を聞いたら、「A Tribe Called Quest」って教えてくれて、「長い名前だな」と思ったのを覚えてる(笑)。それからQティップも、うちに来るようになった。「このビートとサンプリングを合わせてくれない?」とか頼まれたり、トラックに低音を足したり、いろいろやりましたね。つまりトライブのプリプロダクションを僕が担当したわけです。アフリカもQティップもレコードが大好きだから、作業がひと段落すると「今日はこれくらいにしてレコ屋に行こう」ということになる。当時僕はお金がなかったから、レコ屋に行くと僕のポケットに彼らが札束を500ドルくらい入れてくれるんですよ(笑)。「これで好きなレコード買えよ」みたいな。まあ、今思えば彼らとの仕事でもらうべきギャラとしては安かったけど(笑)。

──でも、それも巡り合わせの妙です。

あのとき、あの場所で会った縁も大きかったんじゃないですかね。僕自身、あの時期にスタジオワークを学んだ面もありました。黒人特有の感覚かもしれないけど、彼らの執拗なまでのビートへのこだわりにも触れることができたし。コンマ何秒という世界でのビートへのこだわり。今みたいにビートを波形で見られないんで、耳で判断でしてトラックを組むわけです。その細かさに込めるブラックネス、タフネスを彼らとの作業を通じて体得できましたね。むしろこっちが授業料を払ってもよかったぐらいです。

Deee-Liteで世界デビュー

──そして、いよいよ1990年にはDeee-Liteがデビューすることになります。全米メジャーカンパニーのエレクトラから。

ようやくDeee-Liteデビューの話です(笑)。担当してくれたディレクターはナンシー(・ジェフリーズ)といって、ヴァージンレコードでレニー・クラヴィッツを見つけた人なんです。もともとサイケロックのバンドをやってたおばちゃんで、イギー・ポップとも仲がよくて。彼女がワーナー系列のエレクトラに移って来たときに最初に契約したのが僕らだったんですよ。

──Deee-Liteの成功はナンシーさんが担当だったことも大きかった?

そうですね。物わかりがいい人でした。「Groove Is in the Heart」のミュージックビデオを中野裕之さんに撮ってもらうとき、エレクトラの社長室で僕らがプレゼンしたんですよ。中野さんが作ったFUNKY KING feat. 中村ゆうじ「FUNKY KING Part 1」(1988年)のMVを見せて。ジェイムス・ブラウンのパロディみたいなやつです(笑)。ナンシーは、「いいんじゃない?」って反応でした。あと、ナンシーの旦那さんが(現代音楽家の)フィリップ・グラスを担当してるエンジニアだったので、その縁で、グラスがニューヨークに持っていたルッキンググラスというスタジオが格安で使えるという話になった。ジャンブラが使っていたスタジオでも作業したけど、ルッキンググラスが多かったですね。

──制作面での自由もけっこうあったんですか?

そうですね。キアーが資料を持ってきて、こういう人にジャケットの写真を撮ってほしいとか提案していました。プロデューサーを立てるかどうかについて、最初にトッド・テリーとかお願いしたい人を書いたリストを持っていったら、ナンシーが「デモテープの段階ですでに音がいいんだから、トウワが中心になってやりなさい」って言うわけです。「いきなりセルフプロデュース?」みたいな。そこでも10代で坂本さんにピンポン録音で作った音源を渡したり、ジャンブラのレコーディングを手伝ったりしたことが、全部つながってきた。

──制作費は?

25万ドルでした。

──すごい。1990年8月にデビューアルバム「World Clique」がリリースされ、シングルカットされた「Groove Is In the Heart」は全米4位(ダンスチャートでは1位)、ヨーロッパやオーストラリアでも大ヒットしましました。

最初「Groove Is In the Heart」にはラップが入ってなかったんですよ。ラップを入れたいなと思って相談したら、「Qティップがいいんじゃないか」とメンバー2人に言われて。本人には「僕、いろいろやったじゃん?」ってお願いしました(笑)。さすがにノーギャラってわけにはいかなかったけど。トライブが売れる前にQティップは「Groove Is In the Heart」でラップしてる人として知られるようになったんで、彼にとってもよかったんじゃないかな。そこも縁というか、いろいろつながっているんですよね。ありがたいことにアルバムも大ヒットしたので、口座にすさまじい金額が振り込まれた。それまでは多いときでも20数万円しか残高がなかったのに、一気にマルが2つ3つ近く増えて。でも、領収書を1枚も取ってなくて税金でガーンと持っていかれましたけど。まあ、あれは勉強代でしたね。

大ブレイクで狂騒の日々に突入

──人気に火が点いてからは、猛烈に多忙な日々に。

8月にデビューアルバムがリリースされて、そのあたりからは怒涛のプロモーションですよ。真夏にロンドンに行って1カ月ぐらい、ホテルで朝から晩まで取材で、レコ屋に行く時間も全然なかった。休憩時間にディミトリーとアイスクリームを食べながら街を歩いてたら、後ろに人が集まってる気配を感じたんです。「俺たち、あとをつけられてない?」みたいな(笑)。角を曲がったところで走ってファンをまきました。

──へえ! 映画みたい。

本当に映画の世界でしたね。ホテルに着いたら若い男女が僕の部屋の前で座って待ってたりした。LAかサンフランシスコで、車でホテルまで戻ろうとしてたら、七色のビキニを着た女の子がオープンカーで「トウワー!」って追いかけてきたり(笑)。あれは怖かった。それ以来、外に出るときは変装するようになっちゃって。

──そんな状況が続くうち、テイさんはツアー活動への葛藤を抱くようになるんですよね。

いつの間にかツアーも壮大な規模になってるし、連日のハードワークで体調も悪くなった。とにかくツアーがイヤだし、マンハッタンの家を離れるのもイヤ。自宅で彼女が作ってくれた料理を食べたり、レコードを聴いたりしていたかったんです。ディミトリーとキアーにとっては、いろんな国の人たちが自分たちの曲を口ずさんでくれることがエクスタシーでしかないわけです。でも僕はずっと裏方をやっていたかった。そもそも音楽をやるためじゃなくて、アートディレクターになりたくてニューヨークに来たわけだから。今にして思うと、たぶん潜在意識が僕をステージから落としたんでしょうね。そうしない限り活動をやめられなかったから。

──それが1991年、ブラジルの巨大フェス「ロック・イン・リオ」での演奏中の出来事ですね。

ライブ中にステージから落ちて背中を打ったんです。その数秒の間に、いろいろ考えました。「子供が作れない体になっちゃうのかな、演奏もできなくなるのかな」とか。ブラジルの病院に行って、脳波を調べて1泊入院。実は翌日に、楽屋で知り合ったアート・リンゼイとレコ屋に行こうって約束してたんですよ。「どうする?」って聞かれたんだけど、それでも行った。ムチウチ状態で(笑)。ブラジルに来てレコ屋に行かない理由がないから。アートの運転で、僕は後部座席に座って、「痛てててて」って言いながらレコードを買いました(笑)。

──結局その事故が引き金となって、テイさんはツアー不参加を決断したんですね。

ケガしてニューヨークに帰って、1週間後には、もう3回目のアメリカツアーに行かなきゃいけない。それで僕、発狂しそうになったんですよ。「もうDeee-Liteやめるわ!」って。そしたらキアーが来てくれて、「そんなにツアーに行きたくなかったら行かなくていいけど、トウワにやめられちゃ困るから、こういうのはどう?」と提案された。要するに、メンバーなんだけどライブはやらない、というのはどうだろう?と。それだったらいいかもって返事したら、次の日、弁護士から電話がかかってきた。「今まではギャラを3分の1にしてたけど、トウワはツアーに行かなくなるわけだし取り分を変えていいかな?」って。そこらへんがアメリカ人だよね。

──ホント、アメリカ人ですね(笑)。

まあいいんですよ、それも勉強なので。そしたら、休んでる時期に立花ハジメさんから連絡が来た。「ニューヨークに行くから、飯でも食おうよ」と。ハジメさんがLAで買ってきたレコードを一緒に聴いたりしてね。その頃、僕はダンスミュージックに疲れていたんです。ボサノヴァとかインド音楽とかサントラとか、あとムーグシンセ系の音楽にハマってた。そしたらハジメさんがムーグ系のレコードを持ってきていて、一緒に曲を作ろうという話になった。そのプロジェクトを仮で「BAMBI」と名付けたんですよ。ハジメさんとの作業は刺激的でしたね。曲のイメージを伝えるときも、「なんかさ、バンビが寝っ転がっちゃてるんだよね」みたいに、すごくフレッシュなんです(笑)。こっちは「それって、どういう音ですか?」って、1個1個サンプル音を聴かせる。すると、「それそれ! さすがDeee-Lite!」みたいなことを言われて(笑)。後日、ハジメさんから電話がかかってきて、東芝EMIが「BAMBI」をリリースしたいと言ってるから「ハジメ&トウワ」名義で出そうよって言われたんです。

──本来なら、それがテイさんの新ユニットになるはずだった。

でも、Deee-Liteとエレクトラとの契約上、他社で作品をリリースすることができないとわかったんです。だから、僕は共同プロデューサーという名目になって、立花ハジメのひさしぶりのニューアルバムということで落ち着きました。僕がプロデュースしたことを売り文句にしてくれたし、収録曲の「Bambi」は宮沢りえちゃんが出演したパイオニアのミニコンポのCMソングにもなった。

僕の人生は、結局いろんなことが音楽とつながっている

──そして「BAMBI」制作の前に立花ハジメさんと一緒に聴いていた音楽が、やがて来るソロデビューにつながるんですよね。

そう。そろそろ話の終わりが見えてきた(笑)。1991年くらいには、ソロ1stアルバム「FUTURE LISTENING!」(1994年)に入れた「TECHNOVA (LA EM COPACABANA)」や「I WANT TO RELAX, PLEASE」といった楽曲は、すでにできていたんです。その頃、Deee-Liteの2人に、「ボサノヴァとかイージーリスニングなんか聴いてないで、一緒にレイヴに行こうよ」とか言われて、彼らとは音楽の志向性がかなり違ってきてしまっているのを感じていたんです。それで、アート・リンゼイに「TECHNOVA」のメロディを歌ってくれる人を探していると相談したら、ベベウ・ジルベルトのライブに連れて行ってくれて、彼の紹介でベベウの参加が実現しました。その時点ではジョアン・ジルベルトの娘さんだとも知らなかった。

──そして、94年にDeee-Liteを正式に脱退し、10月に「FUTURE LISTENING!」がリリースされ、ソロ活動が本格的に始まります。

「FUTURE LISTENING!」は、坂本(龍一)さんが声をかけてくれて、Güt(坂本のレーベル)の第1弾アーティストとして出せた。「TECHNOVA」を聴いてもらったら、「なんでも手伝うから、ソロをやりなさい」と言ってくれたんです。今思えば、世界で最初に僕を認めてくれたのが坂本さんだし、初めてソロを作らないかと言ってくれたのも坂本さんだったわけで、本当に恩人ですよね。あのレコーディングでもたくさん鍵盤を弾いてくれたし、細野晴臣さんにもベースを弾いてもらいました。そのあたりからまた新しい人脈が生まれていった。僕の人生は、結局いろんなことが音楽とつながっているんですよ。ブラジルでステージから落ちたこともそうだし、ソニーでバイトばっかして大学に行かなかったこともそう。高校の第2希望を書いたせいで音楽の授業を選択したこともそう。

──それにしても、音楽が嫌いだったのに、ここまで続けているのはなぜなんでしょう?

今年出したアルバム「AH!!」の「THE PROPHET」という曲で、96年に見てもらった占いのおばちゃんの声を使ってるんですけど、その素材のテープで「あなたは前世で360回くらい生まれ変わってるけど、音楽(をやる人生)はたぶん初めてよ」って言われてるんです。

──そうか、この人生そのものが音楽デビュー!

だから、最初は音楽嫌いだったのかもしれない。

──それにしても、すごいスケール感だし、めちゃめちゃドラマチックな音楽人生ですよね。

……今日した話って朝ドラとかにならないかな?(笑)

TOWA TEI(テイトウワ)

1990年に Deee‐Liteのメンバーとして、アルバム「World Clique」で全米デビューを果たす。94年のDeee‐Lite脱退後は、ソロ活動に加え、変名ユニットのSWEET ROBOTS AGAINST THE MACHINEでの作品リリース、高橋幸宏、小山田圭吾らとのバンドMETAFIVEへの参加など多彩な音楽活動を展開。また、東京・青山にある INTERSECT BY LEXUS -TOKYOの店内音楽監修、NHKドキュメンタリー番組「草間彌生 わが永遠の魂」の音楽、YMO結成40周年アルバム「NEUE TANZ」企画監修デザイン、細野晴臣50周年記念ドキュメンタリー映画「NO SMOKING」および「SAYONARA AMERICA」のキービジュアル制作、さらに高橋幸宏のベストアルバム「GRAND ESPOIR」のアートディレクションを五木田智央とともに担当するなど、クリエイターとして幅広く活躍している。昨今では2024年10月からMUJIの店内音楽監修を務めるほか、2025年4月からBillboard Liveのテーマ楽曲を担当している。2025年3月に13枚目のソロアルバム「AH!!」を配信リリース、6月6日にはアナログが発売された。

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