“地名をタイトルに冠した楽曲”を発表してきたアーティストに、実際にその街でインタビューを行うこの連載。「なぜその街を舞台にした曲を書こうと思ったのか」「その街からどのようなインスピレーションを受けたのか」「自分の音楽に、街や土地がどのような影響を及ぼしているのか」……そんな質問をもとに“街”と“音楽”の関係性をあぶり出していく。第3回となる今回は、家主の楽曲「茗荷谷」について田中ヤコブ(Vo, G)に話を聞いた。
軽快なドラムのビートに、どこか感傷的なギターの音色。そこにヤコブはこう言葉を乗せる。「今までのこと全部忘れそうさ 町は手招いてる / バカ騒ぎに唾を掃け 向かうは茗荷谷」。2分30秒と短いながらも存在感を放つこの曲は、そんな宣言で幕を開ける。しかし、この曲では肝心なところが明かされていない──なぜ彼は、茗荷谷へ向かうのか? 丸ノ内線が通る東京都文京区の駅・茗荷谷。都心のど真ん中でもなければ郊外でもないこの街に、いったい何があるのだろうか。億ションも出版社もすり抜けたその先に、何が待っているのだろうか。そこには彼の音楽観を築いた重要な場所、“青春”と呼ぶには少し特異な学生時代の友人との日々が隠されていた。
取材・文 / 石井佑来 撮影 / 西村満
図書館で大量のCDを借りる日々
──5月に旅に関するコラムを音楽ナタリーに寄稿していただきましたが(参照:田中ヤコブがつづる旅エッセイ)、そこでも茗荷谷のお話がチラッと出ていましたよね。改めてヤコブさんと茗荷谷という街がどういった関係にあるのか、教えていただけますか?
僕の通っていた大学が飯田橋にありまして。授業後に飯田橋から茗荷谷までよく歩いていたんですよ。小石川図書館という図書館に大量のCDとレコードがあって、毎日のように借りに行っていたんです。それを在学中の4年間ずっと続けていましたね。目当てのCDが小石川図書館になければ、今度は御茶ノ水のジャニスまで歩いて行って、みたいな。そもそも所属していたサークルに、代々そういう文化があったんです。新入生が入ってきたら、まずは小石川図書館に連れて行くという。だから、僕だけじゃなく家主のメンバーは全員小石川図書館を使ってました。特にドラムの岡本(成央)さんは僕よりヘビーに使っていたと思います。
──小石川図書館にはCDとレコードが2万枚ずつあるみたいで。すごい所蔵数ですよね。
文京区の図書館はわりとどこもCDが置いてあるんですよね。少し行ったところに水道端図書館という図書館もあるんですけど、そこもCDを大量に貸し出していて。文京区の図書館を制覇している先輩もいたと思います。ポップスやロックだけじゃなく、アンビエントや民族音楽のCDもいっぱいあって。大学生でお金もないし、当時はサブスクもなかったので、すごく助けられました。10枚借りて、帰った瞬間にインポートして……そういうインポート地獄の日々を送っていましたね。
──小石川図書館で借りたCDの中では何が印象に残っていますか?
ANATAKIKOUという関西のバンドのCDを借りたのはすごく覚えています。あとはカーネーションとかも借りたと思いますけど、本当に借りまくっていたのであんまり覚えてないんですよね(笑)。大きいTSUTAYAにないやつとかも普通に置いてありましたし。これは大学卒業後の話ですけど、自分がソロで出したアルバムも取り扱ってくれていて。それはめちゃくちゃ感動しました。ずっと通っていた小石川図書館に、自分の作品があるんだって。
──小石川図書館以外で印象に残っている茗荷谷のスポットはありますか?
基本的には図書館でCDを借りてそのまま帰っていたので、あんまりいろんなところに寄ったりとかはしていなかったんですよね。曲中にも出てくる友達と、ひたすら音楽の話をしながら歩いて、CDを借りたら帰る感じで。でも、図書館に行ったついでにすぐ隣の竹早公園でボーッとしたり、タバコを吸ったりはしていたので、それは印象に残っています。あとは丼太郎ですかね。
──駅前の牛丼屋さんですね。
もともと牛丼太郎という名前で全国にあったらしいんですけど、もう茗荷谷にしかないみたいで。納豆丼という、本当に納豆が乗っているだけの渋いメニューがあって、それをたまに食べてました。丼太郎はほかの牛丼チェーンと比べても安いからいいんですよ。当時は300円ぐらいだったんじゃないかな。
──茗荷谷という街自体の雰囲気はいかがでしょうか?
街の雰囲気はすごく好きです。駅前はわりとにぎわっているんですけど、図書館のほうに入ると閑静な住宅地が広がっていて、迷路みたいになってるんですよ。それを意味もなくぶらぶらするのが好きでした。当時は大学を基地みたいな感じで捉えていて、そこから探検してまた帰る、という感覚だったんです。茗荷谷はその探検先としてすごく好きでした。なんとなく文化的な香りがするんですよね。それこそ図書館もあるし、あと出版社とか印刷系の会社が多い。紙の匂いがするようなイメージがあって、そういうところもいいなと思います。
──茗荷谷に限らず文京区は文化的な香りが漂っていますよね。
そうですね。文と京という字もインパクトがあるというか、雅な感じがします。「茗荷谷」という地名もいいですよね。茗荷、おいしいですし。
音楽の礎を築いてくれた友人
──茗荷谷に行く際に友達と音楽の話をずっとされていたとのことですが、具体的にどんな話をしていたんですか?
その友達が、音楽に対するこだわりがすごく強くて。とにかくいろんなアーティストをディスってたんですよ。当時はシャムキャッツやミツメが出てきた時期で、インディーシーンがすごく盛り上がっていて。僕はそこにもシンパシーは感じていたんですけど、友達的にはそれもあまり芯を食ってないみたいでした(笑)。そんな友達とずっと一緒にいるもんだから、音楽の好き嫌いにどんどん敏感になっていくんです。“本当に好きなもの”と“好きなんだけど、ちょっと嫌いな要素も入っているもの”の違いを顕微鏡で覗くみたいな、そういう4年間でした。それは自分で音楽を作るうえでも、かなり役立っていて。「これは自分が嫌いな要素がちょっと入っちゃってるな」とか、そういうことに敏感になった。変に音大とかに入るより、そういう日常的な美学を追求する時間を過ごすことができて、よかったんじゃないかなと思っています。
──茗荷谷に通っていた時間が、田中ヤコブというアーティストに大きな影響をもたらしていると。
茗荷谷とその友達が、音楽の礎を築いてくれたと思います。音楽においては、その友達が一番影響を受けた人物なんじゃないかなと。彼自身は楽器も何もできないんですけどね(笑)。それでもいい音楽を教えてくれるから、師匠のような存在にはなっていて。自分が作ったデモを聴かせるときとか、すごく緊張するんですよ。で、一度会心の出来のデモを授業中に聴かせたら「ちょっと帰るわ」と言って帰っちゃって。次の日会ったら「昨日聴かせてくれた曲がよすぎて、どうしていいかわからなくて帰った」とか言うんですよ。そういう不思議な人で。
──(笑)。
ほかの音楽をこき下ろしながらも「Lampは最高だ」とずっと言っていて。Lampだけはとにかく信仰していたんです。それで自分もドハマりして。当時行けるライブは全部観に行きましたし、影響を受けたというか、人生を変えられたと思います。当時自分がLampじゃなくてほかのバンドに憧れていたら、今も全然違う音楽を作っているはず。大学4年生の頃に「ゆめ」(2014年リリースのアルバム)が出たんですけど、その当時のLampって、今の僕ぐらいの年齢なんですよ。そう考えるとちょっと信じられないというか。あんなアルバム作れる気がしない。
──ヤコブさんの中でLampはそんなに大きな存在だったんですね。家主とLampのツーマン、観たいです。
それ、Lampの染谷(大陽)さんご本人に冗談半分で言ってみたんですよ。でも「それはないですね」と真剣に言われました(笑)。そういう“建前”とかの人ではないというか。だからこそLampの音楽はあんなにすごいんだと思います。
茗荷谷はオアシスのような場所だった
──「茗荷谷」の歌詞に「君は僕の友達」というフレーズがありますが、この「君」はもちろん、お話に出てきたご友人のことですよね?
そうですね。その友達と自分の隔絶された生活を曲にしてみようと思って、学生時代に作ったのが「茗荷谷」です。ただ、昔のデモを聴くと歌詞がけっこう違っていて。もともとは2人で散歩している様子をメインに描いた曲で、「水道端」とかそういうワードも入っていたんです。それが卒業後に徐々に変わっていきました。大学を卒業し、お互い社会人になってあまり会わなくなり、向こうは結婚して北海道に行き……そういうことが重なっていく中でモラトリアムの終わりをすごく感じたんですよね。その感情を整理したいなと思っているうちに、徐々に「茗荷谷」の歌詞も変わっていった。“モラトリアムが始まり、終わった街”として茗荷谷を歌った曲になりました。
──確かに「君といた夢の中でまだ 迷い続けたいのさ」というフレーズなどに、モラトリアムが終わっていくことへの感情が出ていますね。
ちなみに「INTO THE DOOM」というライブアルバムでは「君は僕の友達」というフレーズを「穏やかな心で」と歌っているんですけど、あれは前のバージョンがつい出てしまったんですよ。
──そうだったんですね(笑)。そもそも茗荷谷への散歩を曲にしようと思ったのはどうしてだったんですか?
先になんとなくメロディが浮かんできて、そこに「茗荷谷」という言葉を入れてみたらハマったんです。だから「茗荷谷についての曲を作ろう」と意気込んで作ったわけではなくて。本当になんの気なしに作った曲なんですよ。
──なるほど。これまでこの連載にceroの高城晶平さんとCody・Lee(李)の高橋響さんに出ていただいたんですけど、そのお二人も同じようなお話をされていて。身近な場所について歌った曲は、得てしてなんとなく生まれるものなのかもしれないですね。
あー、それはそうかもしれないですね。そのお二人の気持ちはよくわかる気がします。僕の場合は、「茗荷谷」に限らずほかの曲も全部なんとなくできたものなんですけど(笑)。今でこそ「家主のテーマ」という曲が代表曲みたいな立ち位置になっていますけど、それもアルバムに入れるかどうか迷うぐらいの扱いだったので。
──でも、「茗荷谷」というタイトルを初めて見たときに、数ある地名の中から茗荷谷がチョイスされていることに興味をそそられましたし、そこに家主というバンドの在り方が宿っている気がしたんですよね。決して辺鄙な場所にいるわけではないけれど、中心からはややそれている感じというか。
「後楽園」とかだったらちょっとパーティ感ありますもんね(笑)。確かに茗荷谷の“中心から少し外れている感”はすごくちょうどよかったし、逃避先として打ってつけでした。自分は中学生ぐらいからあぶれ始めて、それ以降ずっとメインストリームにはおりません。大学でも、いわゆるキャンパスライフが行われている輪には入れず。「コピバン楽しい!」みたいな人とは話が合わないし、自分自身、制作活動をしているほうが全然楽しくて。大学があった飯田橋にいると、そういう「くだらない」と思っているものにまとわりつかれている感覚があったんです。そこからとにかく逃げ出したかった。だから授業が終わった瞬間、その友達と「キツかったね」と言いながら茗荷谷まで散歩して。茗荷谷に来ると、くさくさしていた気持ちが不思議と落ち着いてくるんです。そういう意味では、茗荷谷は自分にとってオアシスのような場所だったんだと思います。
──今のお話を聞くと「向かうは茗荷谷」というフレーズもしっくりきます。「向かうは〇〇」という大仰な言い回しに茗荷谷が入ってくることに、妙な魅力を感じていたので。
毎日「いざ!」という気持ちで向かってましたからね。
コテコテのハードロックを、はっぴいえんどみたいな音でやったらどうなるか
──当時ヤコブさんはどちらに住まれていたんですか?
田園都市線のあざみ野という駅から歩いて30分くらいのところに住んでいました。沖縄で生まれて、いろんなところを転々としつつ、小学生ぐらいからずっとあざみ野に住んでいて。
──そういったルーツや育ってきた場所は、ご自身の創作活動に影響を与えているものなんでしょうか?
今思うと、あざみ野で育ってきたというのは、けっこう影響があるんじゃないかと思います。あざみ野は“実は横浜”みたいな場所で、自分が住んでいたところはすごく田舎というか、のどかな地域だったんですよ。でも、駅から急行を使えば渋谷まで30分もかからないぐらいで、都心部に中途半端に近いんですよね。だからこそ都会への過度な期待や幻想がなくて、都心部に対してずっと冷めた気持ちを持っていました。その憧れのなさが、歌詞とかサウンドに出ているような気がします。
──憧れのなさ、ですか。
扇情的にリスナーを煽るようなパーティっぽさや集団心理みたいなものは基本的に肌に合わないといいますか、とにかく虚しくなっちゃう。自分の家の周りには、日本の原風景のようなものが残っていて、都会的なものよりもそういう田園風景のほうが落ち着くんですよね。シティポップのような洗練された音像や、いわゆるメジャーなサウンドもなんとなく生活とは似合わなかったというか。だから、はっぴいえんど的な、70'sの音楽のノスタルジックな感覚へのシンパシーはありました。ただ、自分の音楽のルーツとして、メタルとかハードロックとかそういうものも強くあって。それらが混ざったらどうなるか、コテコテのハードロックを、はっぴいえんどみたいな音でやったらどうなるかとか、そういう2次創作のような妄想をよくやっていましたね。
──あざみ野という土地から想像以上に影響を受けているんですね。
今思うと自分の音楽と切り離せないなと思います。東京に染まれず、かと言って“地方出身がゆえのハングリー精神”みたいなものもない。なんかぬるっとしてるなという。そういうところが自分の作品にも出ているんじゃないですかね。
──ヤコブさんは学生の頃からよく散歩されていたり、今もバイクでいろんなところに行かれたり、どこかに移動するという行為がお好きなんでしょうか?
好きというよりはもっと消極的なものかもしれないです。あざみ野には、祖父母と住んでいたんですけど、その祖父母がけっこう言っちゃいけないくらいヤバめで。「なるべく顔を合わせたくないから、外に出る」という感じだったんですよ。とにかく家にいたくなくて、それで自転車でどっかに行ったり、家にいても1人で部屋で楽器を弾いていたり。「どこかに行きたい!」という思いより「ここにいたくない」という思いのほうが強かったような気がします。
──「大学がある飯田橋から逃避する」というのもそうだし、ヤコブさんの中で“どこかに行く”という行為は“逃避”と結び付いているんですね。
それはそうかもしれないです。「今のこの居心地の悪さから逃げ出したい」という気持ちは常に抱えているので。それも創作の原点だと思います。
里山に殴り込んでくる異物が欲しい
──「茗荷谷」以外に、家主ないしはヤコブさんソロの作品で「この曲は具体的にこの街でできた」というものはありますか?
去年ソロで出した「ただようだけ」というアルバムは、それに近いかもしれないです。小田急線の新松田という駅がすごく好きで、会社員時代によく行っていたんですよ。それも“会社から逃げる”という感覚で。「ただようだけ」は、その新松田をイメージしたアルバムでした。
──新松田のどのようなところに魅力を感じていたんですか?
新宿から1時間ちょっとの場所なんですけど、すごく自然豊かなんですよ。めちゃくちゃ大きな川が流れていて、田んぼもあって、天気がいいと富士山がデカデカと見えて。小田急線に乗っていると、都心から山間部に行くまでのグラデーションを感じられてすごく面白いんです。新松田の前が渋沢という駅で、そこには住宅地の名残がまだあるんですけど、新松田に向かう途中で急に過酷な自然に囲まれる。その感じがすごく好きで、電車に乗りながら「きたきたきた!」とテンションが上がっていました。その新松田周辺の雰囲気を表現したいというのが、「ただようだけ」の自分の中でのコンセプトでした。
──なるほど。
あと「IN NEUTRAL」というアルバムは、小田急線の永山駅にあるスタジオに通いまくって作ったもので。あれは完全に“永山のアルバム”かもしれないです。永山団地というでっかい団地があって、当時そこをよく歩いていたんですよ。本当に広くて、変に公園とかに行くよりも永山団地に行ったほうが断然面白いくらい。会社員時代の休みの日には、団地の敷地内から出ないでどこまで行けるかというチャレンジをしていて。Googleマップを見たらダメというルールを自分に課して、ひたすらうろうろしてました。
──それこそさっき話題に出た2010年代前半ぐらいのインディーシーンの作品って、団地をモチーフにしたものが多かったですよね。だから、そこにリアルタイムで触れてきたヤコブさんが、団地に惹かれるのも頷けるというか。
それって僕が思うに、「耳をすませば」みたいな作品を子供の頃に観た影響が大きいと思うんですよ。団地の中を歩いていると、お店が入っていたり学校があったりして、そこの中だけで生活が回っている感じがある。そういうところも不思議だなと思うと同時に、なんか憧れるんですよね。独特の情緒がある。
──5月に音楽ナタリーに寄稿いただいたコラムでも、高校生の頃に聴いたムーンライダーズの曲を挙げながら「この頃から音楽と風景の親和性について考えるようになりました」と書かれていましたけど、ヤコブさんは「この音楽はどういう風景に似合うか」ということをすごく意識されているんだなと、新松田のお話を聞いて改めて思いました。
それは確かに考えてるかもしれないです。高校生のとき、稲穂に囲まれながらSigur Rósを聴いて、今で言う“脳汁が出る”みたいな感覚になったんですよ。そこから音楽と景色の関係性を意識するようになって。それこそさっき話題に出た友達ともよく話してましたね。「どういう風景に合うかというのは、音楽においてすごく大切だ」とか偉そうに(笑)。でもやっぱり、今でも音楽を作るときは、そういうことは意識しています。
──それで言うと、ヤコブさんはどういう景色に合うような曲を作りたいと思っているんでしょうか?
やっぱり実家付近の田んぼに合うような音楽を作りたいです。それはいまだに自分の中の基準としてあるかもしれない。都市部なのか郊外なのかよくわからなくて、でもちょっと行くと蛍がいるみたいな、そういう感じ。里山的な日本の原風景に合うものがやっぱり好きなんですよね。ただ、それだけを切り取っちゃうとインテリっぽいというか、行儀のいいものになってしまうから、そこに殴り込んでくる異物が欲しくて。里山の風景をいい感じに乱してほしいというか。ギターのサウンドとか、テクニカルなフレーズとか、なんならバイクとか、そういうものがそれにあたるのかもしれないです。似合わないようで似合う、みたいな。自然とメカニックなものの対比を求めているような気がします。
──確かに家主の音楽は、自然に似合う曲もあるけれど、じゃあバンド自体にオーガニックな香りがするかというと全然そんなことないですもんね。
そういう機微をサウンドで表現したいという気持ちはあるし、そう聴かれているといいなと思います。“丁寧な暮らし”的なものへの違和感ももちろんありますし、そういうものに対しても虚しさを感じてしまうので。
──今日お話を聞いて、ヤコブさんが育ってきた街や見てきた風景が、ご自身の音楽といかに密接に関係しているのかがわかりました。ありがとうございました。
いえいえ、こちらこそありがとうございます。こんな機会がなければ茗荷谷に来ることももうなかなかないですからね。ひさびさに飯田橋まで歩いてみようかなと思います。
プロフィール
田中ヤコブ(タナカヤコブ)
1991年、沖縄生まれ神奈川育ち。インドア志向のアウトドア派で、趣味はバイク、散歩、バッティングセンター、プール。2013年に結成されたバンド・家主でボーカル兼ギターを務めており、2023年12月に3rdアルバム「石のような自由」を配信リリースした。2025年6月から10月にかけてワンマンライブツアー「YANUSHI LIVE TOUR 2025」を開催する。またシンガーソングライターとしてソロ活動も行っている。
田中ヤコブ a.k.a 家主 (@CobOji___)・X
家主 / YANUSHI (@YANUSHI_BAND)・X
家主 / YANUSHI | Instagram – Linktree
取材協力
文京区立小石川図書館
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電話:03-3814-6745
小石川図書館
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