音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く連載「あの人に聞くデビューの話」。音楽専門学校のクラスメイトであるミト(B)、伊藤大助(Dr)とクラムボンを結成した原田郁子。あくまで授業の一環としてバンドを組んだ3人であったが、ひょんなことから本格的なライブ活動がスタートし、インディーズでの作品発表を経て、ついにはメジャーデビューを果たすこととなる。最終回となる後編ではクラムボンの本格始動からデビューに至るまでを振り返ってもらった。
取材・文 / 松永良平 撮影 / 小財美香子
クラムボン本格始動
──あくまで学内バンドだったクラムボンが外に出ていくことになったきっかけは?
卒業後に専門学校のクラスメイトが、ずっとやってたクラコンが終わるのはもったいないからと、池袋のサンライズホールというハコを借りてライブを企画してくれたんです。そのときに「あの3人で演奏してほしい」って言われて。なので自分たちで出たいと言ったわけではなく、その人からのリクエストでした。「ライブをやるってことは曲がいるよね?」となって、バイト終わりで、夜な夜なミトくんの実家のお店に集まるようになりました。
──そこから本格的に曲作りがスタートしたわけですね。ちなみにミトさんが原田さんに歌詞を書いてみたらと勧めた理由は、変わった字を書くからっていう理由でしたっけ(笑)。
はい、字が汚いから(笑)。「お前、変な字書くから歌詞書いてみない?」って。全然書いたことはなかったんですけど、「じゃあやってみる」ということになって、少しずつオリジナル曲を作るようになっていきました。キーボードでミトくんがピアノのコードとリフを作って、メロディを吹き込んだカセットテープをもらうんです。大ちゃんのドラムは口伝えで「こんな感じ」ってリズムのイメージを伝えて、「こう?」って叩いてみて、「もっとこんな感じは?」と作っていく。私はさらいきれなかったコードを、ミトくんに弾いてもらいながら、隣でボイシングをメモする。それぞれのパートを練習して、せーので合わせてアンサンブルにしていく。最初から、ミトくんは作曲家でもあり、アレンジャーでもあり、全体のサウンドを構築していました。
──そうだ、肝心のバンド名は? どうやって決めたんですか?
ちょうど「バンド名どうする?」って話をしてる頃に、ミトくんがふと「クラムボンってなんだっけ?」と言って、「なんだったっけ?」と大ちゃんも私も言ったんです。「ときどき思い出すんだけど、なんだっけ?」と。東京、北海道、九州っていうバラバラの出身だけど、3人とも覚えがあって「クラムボン」という言葉を探すようになったんです。そしたらミトくんの知り合いが、教科書をコピーして持ってきてくれて、そこに宮沢賢治が書いた「やまなし」という童話と、2匹の蟹が海の底にいる絵が載っていました。「ああ、これだ」となって、「クラムボンってなんだと思いますか?っていうお題で作文書いたわ」「書いたかも」とそんな話になりました。想像上の生き物というか、なんのことかわからないから、答えがなくてよくて、正解もない。そのわからない感じが、自分たちがやってることに合うんじゃないかということで、バンド名をクラムボンにしたんです。のちに、メンバー3人と、池袋のライブを企画してくれたクラスメイトと、タカシ(永積崇)くんの5人で岩手に行きました。花巻と盛岡と、宮沢賢治のゆかりの場所を巡って、お墓参りをして、「名前をお借りします」と挨拶に行ったんです。
──名前が付いたことで、自分たちの音楽の方向も定まった感じがありますね。
池袋のライブ音源がミトくんの家から発掘されて、みんなで聴いたことがあります。おっかなびっくり聴いてみたら、なんかもう全員がつんのめっていて、「わー、落ち着いてー」と思いました(笑)。自分の声も違っていた。数曲演奏したら、私はステージから一旦はけて、ミトくんがボーカルとキーボード、大ちゃんがドラムというデュオで演奏が始まったり、宮沢賢治の「やまなし」を朗読したり。「バンド」っていう概念がまだ全然ない(笑)。だいぶアバンギャルドなライブでした。
──でも、そのライブから話が転がっていくんですよね。
池袋のサンライズホールに、恵比寿みるくというクラブを運営していた方が来ていて。その方はミトくんのご両親と仲がよくて、彼のことも昔から知っていた。ミトくんのバンドがライブをやると聞いて観に来てくれたんですけど、ライブ後に「うちのお店で演奏できるけど、やってみる?」と声をかけてくださったんです。私はみるくを知らなかったんですけど、ワンマンライブが決まりました。
──すごい展開! 初ワンマンのことも覚えてますか?
もちろん。オリジナル曲があまりないからカバーもいくつかやったんですよね。The Beatlesの「Lucy In The Sky With Diamonds」とか、そのときやりたかった曲をやりました。あと、お客さんがずっと立ってると大変かなと思って、「座ってください」と言って、全員に座ってもらいました。みるくの常連さんは「何なに?」ってなったかもしれないですね。自分たちは意識してないんですけど、1曲の中で何回もテンポが変わったり、変拍子だったりして、踊れない(笑)。途中で「隣の人に回してください」とハーシーズのチョコを配りました。おやつを配るライブ(笑)。
──予測不可能すぎる(笑)。
みるくのマンスリースケジュールに載せてもらったとき、なんて書いてあったかな。「業界の人、必見! この新人バンドは観たほうがいい」みたいなことを書いてくれていたのかな。実際、そのライブには、S-KENさんと、のちに私たちのマネージャーをやってくれることになる豊岡(歩)さんが観に来ていました。そのときは、豊岡さんとほとんどしゃべってないんです。でも、後日会うことになって、「やったことないけど、マネージャーをやりたい」って言われました。
──へえ!
豊岡さんはレーベル側の人で、事務所とかマネジメントをやったことはないと言うから、「え……」と思って。怖すぎるじゃないですか、絶対騙されると思った(笑)。「怪しい、きっと何か企んでる」と思って、一度も豊岡さんのことをちゃんと見なかったです。そんなはずないと思って(笑)。
──そのライブで、クラムボンとしての初レコーディングも決まるんですよね。
そうなんです。ライブが終わって、ステージ上で楽器をバラしていたら、スタッフの人から「呼んでる人がいる」と言われて、行ったらS-KENさんたちがいました。「プログレみたいで、面白かったよ」みたいなことを言われたのは覚えています。SUPER BUTTER DOGが参加した、「SOUP UP」(1996年)という新人バンドを集めたコンピレーションアルバムがあって、その第2弾を作るんだけど、参加しない?という話をされて、その場で作品に参加することが決まったんじゃなかったかな?
──そこにも、先を進む存在としての永積さんが。
タカシくんたちが始めたアトミックパパというバンドがあって、ベースのTOMOHIKOとサックスの栗(栗原健)は同級生で、ギターの竹内(朋康)くんとコーラスのメグは作曲科だったんです。竹内くんの福井の友人である、キーボードの池田(貴史)くんとドラムの周ちゃん(沢田周一)が上京して、アトミックパパからSUPER BUTTER DOGになって、ライブハウスでライブをたくさんやって、デビューするという流れを、私たちは間近で見させてもらっていました。その切磋琢磨というか、バタードッグはファンキーなサウンドを開拓していて、だったらクラムボンはクラムボンの道を進もうって振り切れたのかもしれないですね。
──なるほど。
バタードッグのライブを観に行った代々木チョコレートシティというライブハウスで見かけたチラシがきっかけで、一時期、ピアニカ前田さんのピアニカセクション、ホンコンズに参加したこともありました。この現場で、ピラニアンズのメンバー、ASA-CHANG、坂田学さん、ネロリーズのKazmiさん、大友良英さんなど学校以外の人たちの演奏を間近で見ることになりました。今思えば、そのときの経験もすごく大きかったと思います。
初レコーディングに見ず知らずのストリートミュージシャンを誘う
──そして、クラムボンは、S-KENプロデュースの「SOUP UP vol.2」(1997年)に「どれだけでも」「森渡り」の2曲で参加しています。公式リリースはあれが最初?
はい。「森渡り」はミトくんが中学のときに作ったという曲で、「どれだけでも」はセッションで作って、2曲ともGoroさんという人が参加しています。
──Goroさん?
はい。Goroさんは渋谷で演奏していたストリートミュージシャンです。あまりにカッコよかったので「レコーディングに参加してもらえませんか?」って声をかけて。
──見ず知らずのストリートミュージシャンに?
初のバンド録音に、ディジュリドゥとカリンバのゲストがいる! レコード会社の人たちは「え?」ってなったかもしれないですね。「大人の言うこと聞かないぞ」っていう片鱗が(笑)。
デビュー前に目標としていたバンドは
──1998年にインディーズデビューとなるミニアルバム「くじらむぼん」がリリースされる。この期間も重要ですね。
そうですね。S-KENさんに出会って、少しずつ曲作りしながら、デモを録音していったり、南青山にあったOjasという店でライブさせてもらうようになりました。イラストレーターの小池アミイゴさんに初めてOjasで会ったとき、ライブが終わったら怒っていて、「なんだよ、ちくしょう、かっけえじゃねぇか」って。「リズムとかグルーヴはまだまだハナタレだなってとこも感じるけど、3人とも楽器弾いてるところがきれいなんだよな。姿勢とか手つきとか、そういうのは持って生まれたもんだから。悔しいな、ちくしょう」ってそんなことをバーッと言われたのを覚えています。アミイゴさんが「Our Songs」というDJのイベントを企画していて、そのイベントでときどきライブをさせてもらうようになりました。
──いわゆるライブハウスではない場所で、ということですよね。
そうですね。アミイゴさんのイベントがきっかけで高中正義さんのアルバム(「Bahama」で「ふうりん」という曲を共作、ボーカルで参加)とツアーに参加させてもらうことになりました。Ojasではミトくんがバイトをしていたこともあって、いろんな出会いがありましたね。ジャズプレイヤーのTOKUさんが私たちのライブのPAをしてくれたり、高野寛さんが「くじらむぼん」のカセットテープを聴いてすぐミトくんに連絡をくれたり。この時期に、「SOUP UP vol.2」で出会ったオオヤユウスケくんがやっていたバンド・LaB LIFe、SUPER BUTTER DOG、クラムボンの3組で対バンイベントをやることがあって。LaB LIFeはブラウン管のテレビをステージに置いて映像を流したり、ビジュアルと音楽で自分たちの世界を表現していて、それに対抗する形で、自分たちも何かやろうと、アミイゴさんの絵を展示したりしていたんですけど、あるときミトくんが、イラストレーターの山内マスミさんに「何か描いてみない?」と提案します。そういうふうに直感的にきっかけを作ったり、アイデアを出したりするところが、ミトくんにはありました。その絵をキーボードの下に飾ったところから、「ノレン」と呼ぶようになって、以来ずっと、マスミちゃんが絵を描いてくれています。ときどき私が描いたと思われることがあるんですけど、ずっとずっと彼女が描き続けてくれています。
──そしてついに、1999年3月にシングル「はなれ ばなれ」でのメジャーデビューが決まりました。
「やったー、わーい」みたいにはしゃぐっていう感じでは全然なかったんです。「バンドでやっていくぞ」って覚悟するより前に、いろんなことがドーッと動き出してしまった状況が怖かった。矢野顕子さんの「SUPER FOLK SONG」の映像、あのクオリティの高さに、自分がまったく届いていないってことはよくよくわかっていたので、「どうしよう、怖いぞ」っていう感覚しかなかったですね。ワーナーというレーベルの、ディレクターの人がなかなか強い人で、私たちはほとんど発言権がないまま、彼の思い描く方向で、レコーディングしていったんですけれど、NEVEのミキサー卓があるスタジオで、アナログテープで、すごくしっかりした音でバンドを録音してもらいました。ジャケットは、アミイゴさんにお願いしました。
──デビューするにあたり、目標としていたバンドはありました?
自分としては現実味がなかったんです。「どういうバンドみたいになりたいとかある?」とレーベルの人に聞かれて、私は「普通に道を歩ける人でいたい」と答えたんですよね。バンド名や曲が広がっていくのはうれしいけど、有名になったり顔が知られるようになるのは嫌だと。それで具体的に、LITTLE CREATURES、フィッシュマンズ、Small Circle of Friendsの名前を出しました。
──その3バンドと「普通に道を歩ける人でいたい」という言葉は、すごく重なりますね。
それぞれ独特のペースで活動していて、自分たちの居場所を大事にしてる。フィッシュマンズはプライベートスタジオを作って、「空中キャンプ」「宇宙 日本 世田谷」というとんでもないアルバムを作っていて、ライブを観に行って衝撃を受けました。クリーチャーズは、メンバーが個々にやってるバンドや仲間たちと作った「Sign off from Amadeus」というコンピレーションアルバムがすごく好きで、夜中のクラブではなく、日曜の昼間にレストランでライブをしていたり、新しいなと感じました。スモサの2人は活動拠点を福岡から東京に移していたんですけど、だからといって気負っていなくて、サウンドもアートワークも自分たちらしさを貫いていて。「くじらむぼん」のリリース時に、クリーチャーズの栗原務さん、フィッシュマンズの茂木欣一さん、スモサの東里起さんにコメントを寄せてもらいました。涙が出るほどうれしかったです。
レコード袋の中身、見せてもらえませんか?
──メジャーデビュー日(1999年3月25日)のことは覚えてます?
はい。フィッシュマンズの佐藤(伸治)さんが急逝してしまい、呆然としているまま発売日を迎えました。「自分たちのCDがメジャーレーベルからリリースされて、レコード屋さんに並ぶって本当かな、まだ騙されてるんじゃないかな」って思うわけなので、渋谷のタワレコに行ってみました。2階の入ってすぐの試聴機に「はなれ ばなれ」が入っていて、「わ」と思ったら、ちょうど試聴してる男性がいて、クラムボンのCDを聴いている。じーっと見ていたら、その人が「はなれ ばなれ」をパッと手にとってレジに並んでくれたんです。
──なんと!
思わずそのままついていって、会計が終わって1階に降りて、店を出たところで「すみません」って声をかけました。「あ、あの、私、バンドをやっていて、さっき買ってくれたと思うんですけど」って言ったら、「いや買ってない」って言われて。「あ、でもたぶん、この中に入っていると思うんですけど」ってその人が持ってるタワレコの袋を指さして、中から探してもらったら「はなれ ばなれ」があって、「あ、これです!」って。
──まさかのご本人登場!
「ありがとうございます!」って、言いました(笑)。
──びっくりというか、礼儀正しいというか(笑)。最後に、デビューまでの流れをあらためて振り返ってもらいましたが、いかがですか?
いやあ……今振り返ると、当時のことを思い出しすぎて、ちょっと今、吐きそうです(笑)。世間知らずというか、怖いもの知らずというか(笑)。ぼんやりしてる自分がこんなスピード感でデビューすることになったのは、ひとえにミトくんと大ちゃん、豊岡さん、面白がってくれた人たちがいたからだなあと。今なら、当時の自分たちに「もうちょっと人生経験をしてからのほうがいいよー」と言いたいですけど。でも、そんな声は聞こえないくらい、切羽詰まっていたし、やるしかないっていう感じだったんだと思います。
──思春期からの原田さんの葛藤がとてもリアルだし、クラムボンのデビューにとってとても大事な話だと感じました。
恐縮です。こういう細部のことって、なかなかインタビューで話せないところだなって思いました。いつもは新曲とかアルバムとか、まずは聞いてもらうことがあって、そのことを話すので精一杯。ミトくんが8割方しゃべって、大ちゃんは「うん」ってうなずいている、みたいなバランスが長くあったので、個人的なことやデビュー前のこととか、話せる場ってあんまりなかったんですね。もし、ミトくんと大ちゃんに同じようにインタビューしてもらったら、それはもう、まったく全然違う目線で、違うことを言うと思います。そのくらい最初から違っている。私じゃない人間と組んでいたら、もっと違う未来があったと思うので、それは本当すいません、って思うんですけど(笑)。でも、なんだろう、このバラバラな、いびつさが、クラムボンなんだろうなと。
──原田さんにとっての、音楽と一緒に生きることを見つける時間だったんだなとも感じました。すごくリアルで感動しました。
わあ、ありがとうございます。音が鳴っていると、体が軽くなってきて、自分とか誰かとか、関係なくなっていく。そういう世界に身を置けることがものすごくうれしくて、そこに取り憑かれちゃったというか。ただただ音楽がやりたいって、今もそう思っているんです。
プロフィール
原田郁子(ハラダイクコ)
クラムボンのボーカル&鍵盤奏者。同じ専門学校に通っていたミト(B)、伊藤大助(Dr)と1995年にバンド結成。1999年にシングル「はなれ ばなれ」でメジャーデビューを果たす。自由で浮遊感のあるサウンドとポップでありながら実験的な側面も強い楽曲、強力なライブパフォーマンスで人気を集め、コアな音楽ファンを中心に高い支持を得る。バンド活動と並行して、ソロ活動、さまざまなミュージシャンとの共演、共作、舞台音楽、CM歌唱、ナレーション、歌詞提供、執筆、ドローイングなど、活動は多岐にわたる。2026年1月にクラムボンのカバーアルバム「LOVER ALBUM」「LOVER ALBUM 2」がアナログで発売。「LOVER ALBUM」は即完売で只今再プレス中となっている。


