音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く連載「あの人に聞くデビューの話」。前回に引き続き、Original Loveの田島貴男をゲストに迎えてお届けする。自らのバンドOriginal Loveで活動する一方、1988年に小西康陽の誘いを受け、2代目ボーカリストとしてピチカート・ファイヴに加入した田島ではあったが、1990年にグループを脱退。音楽活動をOriginal Loveに絞り、各社争奪戦の末、91年7月にアルバム「LOVE! LOVE! & LOVE!」で東芝EMIから2度目のメジャーデビューを果たした。以降、田島は時代とともに自らの音楽に磨きをかけながらミュージックシーンの第一線で活躍を続けていく。
取材・文 / 松永良平 撮影 / 相澤心也
ピチカート・ファイヴにソウルの要素を持ち込む
──田島さんのメジャーデビューは、Original Loveではなくピチカート・ファイヴへの加入で実現することになりました。
ピチカートに入ることによって、いろいろレコーディングの勉強になるかもしれないなと思ったところはありましたね。当時の僕は譜面もほとんど書いたことがなかったし、アレンジのイメージも口伝えでやっていた。ピチカートでは、まず作曲者が構成譜を書いて、ベースとドラムを誰にするか、という話から始まる。「ええっ!?」ってなりますよね(笑)。それまでまったく考えたことない作業の連続でした。自分の曲に鍵盤が入るという発想もなかったし、「パーカッション」というパートの存在すら知らなかったですから(笑)。
──田島さんが参加したピチカート・ファイヴの2ndアルバム「Bellissima!」(1988年)は、1stの「Couples」に比べてソウル色が強い作品です。当初、小西さんやディレクターの河合マイケルさんは「Couples 2」みたいなソフトロック路線を目指していたそうですが、ソウルミュージックの要素はどんなふうに「Bellissima!」に持ち込まれたんですか?
僕がソウル路線をやりたいと言ったんです。小西さんもソウルが好きだったし、「Couples」のトム・ベル(フィリーソウルの名プロデューサー)版みたいな作品をイメージして。「Couples」はバーバンクやバート・バカラック的なサウンドが下敷きで、女の子をボーカルにして作りましたけど、「Bellissima!」は男性ボーカルで、トム・ベルとかウィリー・ミッチェルみたいなスウィートソウル路線で作ったらいいんじゃないかと思って。
──つまり、「Bellissima!」のソウル路線は田島さん発信だったとも言える。田島さんのソウル趣味というのはどこから?
大学で知り合った人たちがソウルを聴いていて、あの頃、初めてマーヴィン・ゲイの「What's Going On」とかを聴いたんじゃないかな。Sly & The Family Stoneだけは高校のときに聴いてたんですよ。より本格的にソウルを聴くようになったのは、ピチカートに入る直前ぐらい。やっぱり小西さんに出会ったのは大きかったですね。小西さんは本当に音楽に詳しいですから、「僕はトッド・ラングレンとか好きでしたけど、今、夢中になってるのはこういう音楽なんです」と少し話すだけで、ボビー・ウーマックとかウィリアム・デヴォーン、The Spinnersとか、オススメのソウルミュージックをさっと教えてくれる。それを元にソウルのレコードをいろいろ掘っていきました。小西さんに出会えたのはラッキーですね。あのタイミングで音楽の知識が膨大に増えた。
──その頃から、田島さんが作る曲にもソウルっぽいテンションコードが使われるようになっていきました。
「Bellissima!」に入ってる「誘惑について」。あれは自分が初めて作ったソウルっぽい曲ですね。マーヴィン・ゲイとトッド・ラングレンを合わせたような雰囲気の曲ですけど、今でもわりと気に入ってます。小西さんも「こんな曲作ってきたんだ!」とびっくりしていました。それまでと、あまりにも作風が違ってたからでしょうね。ピチカートに入ったぐらいから、自分が書く楽曲の曲調がソウルっぽくなって、Original Loveでやる曲もあの頃から変わっていったんです。「Deep French Kiss」とかも、この頃に作った曲だし。
「Bellissima!」のレコーディングで磨かれた歌の表現力
──Original Loveでは宅録中心の制作でしたから、スタジオでの本格的な歌入れもピチカートのレコーディングが初めて、ということですよね?
そうですね。「Bellissima!」のレコーディングは、歌に関して、とにかくめちゃくちゃ細かかったんですよ。それまではバンドのノリで一発通して歌って終わり。あとから1パートずつ歌い直すパンチインなんてしたことなかった。そんなことしたら、歌がめちゃくちゃになるじゃないかと思っていましたから。「Bellissima!」の歌入れは本当に地獄でしたね。昼の1時から始まって、終わるのが朝の4、5時。最初は小西さんがディレクションして、小西さんが疲れてきたら(高浪)慶太郎さんに代わって、慶太郎さんが疲れてきたらマイケルさんに代わって。僕だけずーっと歌ってる(笑)。だけど、当時まだ若かったからなのか、声は枯れなかったですね。
──それは確かに厳しいですね。あのアルバムの背後にはそれほどの執念があった。
「誘惑について」で「スモーキー・ロビンソンみたいな歌い方を試してみよう」って言われたんですけど、当時の僕はスモーキー・ロビンソンのことをよく知らなかった。そもそもそんな歌い方(ファルセット)、ちょっとやそっとじゃできるはずないんですよ(笑)。「抜いて歌ってくれ」って言われるんだけど、「抜いて歌うってどういうことなんだ? 自由に歌いたい!」って内心では戸惑ってました(笑)。でも、あのとき小西さんや慶太郎さんがしっかり指示してくれていなかったら、ああいうスウィートソウル的な歌にはなってなかった。もっと自由に地声で歌ってたんじゃないかな。
──田島さんは要するにピチカートのボーカリストとして起用されたのか、それともバンドのメンバーとして加入したのか。そこは最初にはっきり説明を受けていたんですか?
僕の意識では、バンドのメンバーだったと思います。小西さんもそういう感じで誘ってくれました。曲も一緒に作ってほしいと言われたし。単なるボーカリストだったら曲は作らせてくれないでしょう。「Bellissima!」の頃のピチカートは、小西さんのベーシックなアイデアはありましたけど、曲の仕上げ方としては、慶太郎さんの曲は慶太郎さん、小西さんの曲は小西さん、僕の曲は僕がやるという分担になっていたんで、バンドではあったけど、プロデューサーチーム的な雰囲気もありました。あとは、僕はプロモーション担当ですね(笑)。地方のラジオ局になぜか1人で行って、弾き語りをした記憶があります。
──ピチカートのプロデューサーチームというあり方は、その後の「女王陛下のピチカート・ファイヴ -ON HER MAJESTY’S REQUEST-」(1989年)、「月面軟着陸」(1990年)と、だんだん色濃く反映されていきますよね。そして結果的に、田島さんはピチカートを脱退し、活動をOriginal Loveに1本化します。
「Bellissima!」というのは「Couples」の延長線上にあるアルバムだと思うんです。でも、以降の「女王陛下」「月面軟着陸」という作品は、その後の野宮真貴ちゃんの時代への伏線だったような感じがするんですよね。だから、僕が抜けてすごくよかったと思います。真貴ちゃんが入ったあとのピチカートの曲を聴いて「全然、俺がいた頃よりいいじゃん!」って思いましたよ。いい意味でブチ切れてるっていうか、小西さんもハジけてたし、真貴ちゃんもファッション面含めて、めちゃくちゃキレキレだったし。小西さんがやりたいことが、ようやく形になったんじゃないかと思いました。
レコ屋でのバイト経験で広がった音楽の嗜好性
──そういえば、ピチカートの頃から田島さんは渋谷のハイファイ・レコード・ストアで働かれてましたよね?
はい。ピチカートに入ってわりとすぐですね。僕と木暮(晋也)がアルバイトしてました。ピチカートの事務所の人にハイファイを紹介されたんです。Original Loveでデビューしてからも、2枚目のアルバム(「結晶 SOUL LIBERATION」1992年)ぐらいまではバイトしてました。
──当時、木暮さんはアメリカへのレコード買い付けに行ったけど、田島さんは連れていってもらえなかったと聞きました。
連れていってもらえなかったというか、バンドのライブとか、ピチカートの仕事があったんで、スケジュール的に無理だったんです(笑)。海外の買い付けって1カ月以上かかるんで。行ってみたかったんですけどね。でもその代わり、店中のレコードを聴きまくったことは非常によかった。超勉強になりました。
──ハイファイは、アメリカの1970年代のシンガーソングライターとかルーツミュージックが昔から強いお店ですよね。
アメリカンミュージック全般ですよね。
──小西さんとの出会いではソウルに深入りできたし、レコード店で働くことによって、また別方面の音楽的な影響が入ってきた。
店にあるレコードは、ほとんど全部聴きました。自分が知らないレコードって世の中にいっぱいあるんだと思いましたね(笑)。それまでなじみのなかったカントリーやブルースのレコードもたくさん聴きましたし。当時は歌詞の意味がわからなかったけど、今聴いたらまた違って聞こえていいんじゃないかな。あとね、店長(近本隆。のちにOriginal Loveの所属事務所代表に就任)が、とにかくおっかないオヤジで(笑)。ただ、一本筋が通ってると言うんですかね、頭がすごくいい人で。非常に影響を受けました。
──例えばどういう影響を?
何事においても「図に乗るな」という感じの人なんですよ。こっちは「俺はメジャーデビューしたミュージシャンなのに、なんで調子こいちゃいけないんだ?」とか思ってたんだけど(笑)。「ミュージシャンだからって偉そうにするんじゃないぞ」と常に言われていました。
──だからこそ、田島さんはデビューしてからもお店に立ち続けていたのかもしれない。
ミュージシャンって売れ始めると、周りの人たちがチヤホヤして調子に乗るんですよ。僕がそんな態度を見せると近本さんに「お前、調子に乗ってんじゃねえよ」って怒られました(笑)。今思えば、それがすごくよかったなと思います。まっすぐ全力で向き合ってくれた人ですね。小西さんと近本さんには今でもすごく感謝しています。
各社争奪戦の末、Original Loveでメジャーデビュー
──そしていよいよOriginal Loveも、1991年7月にCD2枚組アルバム「LOVE! LOVE! & LOVE!」で満を持してメジャーデビューを果たします。
ピチカートを辞めてもすぐにOriginal Loveでデビューしちゃいけない契約だったんですよ。なので1年ぐらいブランクを空けてデビューしたんです。でもライブは重ねてきたから、曲のストックはいっぱいあった。いきなり2枚組でメジャーデビューするのも面白いじゃん、ということで、そうなりました。
──東芝EMIと契約した経緯は?
Original Loveのライブにはレコード会社の方がしょっちゅう観に来てくれて、何回も「デビューしないか」という話をいただいてたんです。中でも、東芝の新人発掘担当者だった加茂啓太郎さんがライブを毎回観に来てくれていて。それで加茂さんを信頼して、東芝に決めてデビューしたという流れです。
──この時点でのOriginal Loveは、田島さんとギターの村山孝志さん以外、全員違うメンバーになっていました(田島、村山、木原龍太郎[Key]、森宣之[Sax]、宮田繁男[Dr])。
そうですね。バンドではあるけど、僕以外のメンバーはミュージシャンとして外でも仕事をやって、Original Loveのときだけ集まるみたいな形でした。ベースの井上富雄さんはアーティスト写真には写っているけど、サポートでの参加でしたね。メジャーで2枚目に出したアルバム「結晶 SOUL LIBERATION」からは、ほかのメンバーにも歌詞や曲を振っていました。
──この頃はまだ「渋谷系」という言葉はありませんでしたけど、Original Loveには新しい可能性を感じてました。
いろんないいタイミングが重なったということだと思うんです。僕らの少し前にフリッパーズ・ギターがデビューしているんですよね。当時はよく対バンもしてたし、彼らの1stアルバム「three cheers for our side ~海へ行くつもりじゃなかった」(1989年)が出たときのこともよく覚えてます。小山田(圭吾)くんと小沢(健二)くんがハイファイに「アルバムができた」と持ってきてくれて、その場で聴いたんですよ。「こんなにいいアルバムを作るんだ!」と驚きました。で、そのあと2ndアルバムの「CAMERA TALK」(1990年)で彼らはブレイクした。Original Loveもフリッパーズ周辺のバンドだったし、界隈が盛り上がりつつある時期でしたね。
音楽で何を表現したらいいのかをうまくイメージできるようになってきた
──あれからずいぶん時間は経ちましたけど、田島さんは弾き語りスタイルの「ひとりソウルショウ」でもOriginal Loveでも、やってることが一貫していると思います。
変わってないですね。延々ひたすら自分のやりたい音楽をやってる感じです。でも、20代の頃にわからなかったことが、60歳近くになってようやくわかってきたという面も大きい。だから今もう1回デビューしたいなと思うんですよ(笑)。皆さんにもOriginal Loveの最近の演奏を聴いてほしいですね。何十年もかけて照らし合わせて、ソウルミュージックのどこが本当にすごいのか、だんだんわかってきたし。
──例えば、どういうすごさですか?
僕はカーティス・メイフィールドが大好きで、彼のソロアルバム「There's No Place Like America Today」(1975年)とか、昔は単に「いいな」と思って聴いてたんですけど、最近になって、ゴスペルの影響が圧倒的にあったうえで、それをシンガーソングライター化したようなアルバムなんだとわかってきて、さらに素晴らしく感じるようになってきた。
──それってどういうことなんですか?
ゴスペルとソウルミュージックって、お弁当で言うと主食のごはんとお肉みたいな関係だと思うんです。牧師の説教という主食を盛り上げるために音楽がおかずになるというか。落語の寄席で例えると、メインの演目である落語の合間に漫才が添え物的に入っていたけど、今は漫才のほうがポピュラーなものになった。なんかそれに似てるっていうか。アレサ・フランクリンやジェームス・ブラウンもゴスペルという主食の素地があるんだけど、歌がエンタメ化してポピュラリティを得ていった感じがするんです。彼らの歌には昔からゴスペルという祈りの時間が背景にあって、そこからブラックミュージックができあがってる。だから、カーティスのラブソングとか、単に自分のことを歌ってるという感じじゃないんですよね。もっと大きな愛について歌っている。それを最近すごく自然にイメージできるようになってきた。アメリカ人だからということじゃなくて、日本にいたってどこにいたって、そういう歌が必要なんじゃないのかという気がしてるんですよね、今は。
──田島さん自身、音楽に対する解像度と集中力がまだまだ上がってるんですね。
2月に発表した「ワイルド・ヒューマニティー」という曲は、「GOETHE」という雑誌のタイアップで、わりと短時間で作った曲なんです。もう若くないんだし、スケジュール的にも「無理っしょ!」みたいな感じで、悲鳴を上げながら作りました。結果的にいい曲が仕上がって「できるんだ俺!」と思ったし、自分でもけっこう気に入ってます。音楽で何を表現したらいいのかをうまくイメージできるようになってきたんでしょうね。もっと早くわかりたかったな(笑)。長い間、自分を曲げずに音楽を続けてきたからこそ、わかったことなのかもしれませんけど。
──ピチカートに入ってからも、自分の意見を小西さんに伝えた結果、「Bellissima!」というソウルアルバムとして結実したわけだし。田島さんは自分を曲げたり変えたりせずに音楽を続けられている。
よく考えたら、自分を曲げたことはないですね(笑)。あ、でもピチカートに入って最初のアー写を撮るとき、白いポロシャツの襟を立てろって言われたんですよ。「俺、それ絶対嫌ですから!」って言ったら、当時のマネージャーと大ゲンカになりました。あまりにもすごい剣幕で怒るから「わかりました……やります」って妥協しましたけど、それくらいかな(笑)。僕は音楽オタク寄りだし、ファッションにもそんなに興味がない。レコード会社の人たちがルックスとかで売ろうとしてるところに、ちょっと違和感があったというか、「面倒くせえな」という気持ちだった。「そんな気分で音楽やってないんだけどな」みたいなことです。だから、最近はそういう面でも、自分のやってることと周りの見方がようやく一致してきたと思ってます。
プロフィール
田島貴男(タジマタカオ)
1985年結成のバンド、レッド・カーテンを経て、1987年よりOriginal Loveとしての活動を開始。1991年7月にアルバム「LOVE! LOVE! & LOVE!」でメジャーデビューを果たす。「接吻 kiss」「朝日のあたる道」などのシングルでヒットを記録し、1994年6月発売の4thアルバム「風の歌を聴け」はオリコン週間アルバムランキング1位を獲得。以降もコンスタントに作品を発表し、柔軟な音楽性を発揮している。近年はバンドスタイルでのライブのみならず、田島貴男1人での「ひとりソウルツアー」や「弾き語りライブ」も恒例化している。2026年4月には韓国のオルタナティブバンドCADEJOとのコラボレーションEP「From a South Island」を配信リリース。11月23日には、キャリア初となる日本武道館公演「SOUL POWER BUDOKAN ~あれから、そしてこれから~ Dancin’- The 35th Anniversary Live」の開催が控えている。
ライブ情報
Original Love「SOUL POWER BUDOKAN ~あれから、そしてこれから~ Dancin'- The 35th Anniversary Live」
2026年11月23日(月・祝)東京都 日本武道館
Original Love Tour 2026「センス・オブ・ワンダー」
2026年5月24日(日)北海道 Zepp Sapporo
2026年5月30日(土)神奈川県 横浜関内ホール 大ホール
2026年6月21日(日)福岡県 Zepp Fukuoka
2026年6月27日(土)大阪府 Zepp Namba(OSAKA)
2026年6月28日(日)愛知県 Zepp Nagoya
2026年7月11日(土)東京都 昭和女子大学人見記念講堂


