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ローディから始まったCKB横山剣の音楽人生|デビュー連載(前編)

横山剣(クレイジーケンバンド)
17分前2026年10月08日 10:04

音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く「あの人に聞くデビューの話」。この連載では多種多様なデビューの形と、それにまつわる物語をじっくりと掘り下げていく。第19回のゲストはクレイジーケンバンドの横山剣(Vo)。1981年にクールスR.C.のボーカリストとしてデビューして以来、紆余曲折の音楽人生を歩んできた彼に、これまでの濃厚なキャリアを振り返ってもらった。

取材・文 / 松永良平 撮影 / 森好弘

今年で結成29周年を迎えたクレイジーケンバンド。バンドの顔であり、声である横山剣は、実は自身の45年におよぶプロキャリアの中で4回もデビューを経験している。10代の頃に憧れていたクールスR.C.(クールス・ロカビリー・クラブ)、R&Bと歌謡曲の融合を目指したダック・テールズ、洗練されたクラブサウンドを取り入れたZAZOU、そして現在も続くクレイジーケンバンド。それぞれのデビューにまつわるエピソードはどれも濃厚だ。4回のデビューを通じて、横山は「本当にやりたいこと」はなんなのかを真剣に考えてきた。「クレイジーケン」はいかにして誕生したのか? 「イイネ!」はいつから使っているのか? 山あり谷ありな横山剣デビュー物語をお送りする。

クールスのスタッフからリードボーカルに抜擢

──剣さんは、今までこの連載に出ていただいた皆さんの中でも経歴が特別なんです。何しろ、バンドでのデビューを4回経験されています。クールスR.C.、ダック・テールズ、ZAZOU、クレイジーケンバンド。

そうですね。レコード会社で言えば、ポリスター、TDK、ワーナー、P-VINE、ユニバーサルシグマです。

──その記念すべき最初のデビューが1981年、クールスR.C.のボーカルとして。そもそも、クールスとのつながりはどこから?

17歳の頃、古着の仕事がしたくて、横浜から東京の神宮前に引っ越しまして。都立青山高校の定時制に通いながら、昼は原宿の古着屋さんや、ホコテンのロックンローラーに僕が仕入れた古着を買ってもらいながら生活していたんです。その当時住んでいたアパートの近所に、クールスの事務所兼ショップのチョッパーがありまして。

──クールスは、音楽だけでなくバイクやファッションも総合した、1つのブランドみたいな存在だったんですよね。

はい。チョッパーの店長が高校の同級生の先輩だったんで、そのコネクションでちょろちょろと出入りしているうちに、かわいがってもらい、パシリになりました。「牛乳買ってこい」「菓子パン買ってこい」「はい!」みたいな感じでクールスや関係者の皆さんの言うことを聞いていたんですね。アパートから学校までの通学路にチョッパーがあったんで、お店の前を通るときにはわざとバイクを吹かして反応を見たりしてました。

──声をかけてほしくて。

ドアノックの代わりですね。バイクに詳しい人ばっかりだったんで、改造した自分のバイクを見せてアドバイスをもらったりしてました。そうこうしているうちに、ある日お店の前を通ったら、舘ひろし(クールスの初代ボーカリスト)さんの次にリーダーになった佐藤秀光さんが僕のことを呼んでるぞと。お話を聞いたら、「明日からツアーに来い」と。「いや、でも学校があるんで無理です」「学校なんか行ってる場合じゃないだろ」「わかりました」という流れで、そこから3年間、クールスのローディ、マネージャー、ファンクラブ責任者と、いろいろ下働きをやりました。で、4回目の人事異動でリードボーカルになったんです。それが1981年、21歳のときですね。

──人事異動を重ねてついにリードボーカルに! すごいですね。「曲を作ってます」とか「歌います」みたいなアピールはしていたんですか?

そうですね。曲の売り込みもしてました。もちろんクールスに歌ってほしいという気持ちもあったんですけど、当時クールスが所属していたポリスターのシンガーにも歌ってほしいと思っていました。あと、その頃には自分のバンドもやってたんです。秀光さんが経営していたライブハウスのお手伝いをしてたんですが、クールス周辺の仲間とバンドを組んで。そのパフォーマンスをクールスのメンバーが見ていてくれたんです。

──突破口が開いたのはいつ?

ツインリードボーカルのうちの1人だったピッピさん(水口晴幸)が辞めちゃって、6人組から5人組になっちゃってからです。1年間は5人でやったんですけど、「やっぱりツインボーカルを復活させよう」という話になって、リーダーの秀光さんが僕の名前を出してくれたんですね。その頃、ベーシストの大久保(喜市)さんも辞めちゃったんで、スタッフから2名がメンバーに昇格しました。

苦肉の策で生まれた「クレイジーケン」&「イイネ!」

──クールスにはファンの圧倒的な支持があったので、その中に入るのは怖くなかったですか?

異物混入みたいになるという恐怖はありました。だから、リードボーカルになれと言われたときは複雑な気持ち。でも「NO」とも言えなくて、「ええ……まあ……はい!」みたいな(笑)。でも最初に大阪でやったライブが爆発的に盛り上がって、そこですごく受け入れてもらえた感じでした。

──下積みからいきなりエースに抜擢されて。

ツインボーカルとしては、ドリフターズの志村けんさんと加藤茶さんに例えると、村さん(村山一海)が加藤さんの役割というか、ちょっと一歩引いて若手の僕を盛り立てようとしてくれる感じで、まさに志村さんみたいな気分を味わっていました。ただ、ほかのメンバーより10個も歳下だったので、相変わらずライブやレコーディングが終わったあとはローディに戻るわけです。そこは秀光さんの教育で、天狗にならないように、ということだったんでしょうね。あとリードギターのジェームス藤木さんに、ステージマナーとして「お前はしゃべるとカッコ悪いからMCでしゃべるな」と強く言われていました。「歌ってるとき以外は、とにかく不気味に仁王立ちしてろ」「はい、わかりました」って。しゃべるのが苦手だったから、そこはすごく助かりました。内心は「はい、わかりました。やったー」だったんです。

──不気味に仁王立ち(笑)。

あと「踊るな」とも言われていましたね。タコ踊りみたいになっちゃうんです。「とにかく踊らないでこうやって肩だけ揺らしてろ」って。舘ひろしさんが、まさにそんな感じだったんですよ。でも2年目から「もう好きにしていいぞ」と言われて、さあ困った。僕は仁王立ちでよかったんですけど(笑)。でもそうなったら暴れまくってやるという感じでクレイジーなステージをやったら、「クレイジーケン」というあだ名を村さんに付けてもらって。でもMCは苦手だったので、「イイネ!」しか言わなかったんです。「イイネ!」はそこからです。

──おお、まさに「クレイジーケン」と「イイネ!」誕生!

最初、ジェームスさんには「ヒゲを剃れ」「サングラスをするな」と言われていたんですが、あきらめてなのか、それとも認めてくれたのか、途中からOKになりました。「安定感が出てきた」と言ってくれてうれしかったです。

間近で見た山下達郎のプロフェッショナルな職人仕事

──初めてのレコーディングの思い出は?

選曲会議があって、そのときに自分で曲を作る人は持ち寄るんです。その中からジェームスさんが「この曲とこの曲、いいと思う」と選んで決めていく。そのときに、クールスに入る以前に作った僕のオリジナル曲「シンデレラ・リバティ」をメンバーみんなが気に入ってくれて。レコード会社の人も「これいいじゃん」と言ってくれて、「この曲を(横山剣加入後の)デビューシングルにしよう」という流れです。「シンデレラ・リバティ」はまだまだ完成度は低かったんですけど、ジェームスさんが編曲してくれて完成しました。

──当時のレコーディングは、どういうふうにやってたんですか? 「せーの!」の一発録りで?

「せーの!」ですね。その分、レコーディングに入る前に練習をするんです。ある程度、曲がなじんで血肉化したところでレコーディングする感じ。レコーディングの現場でパッと思いついたことも投入していくっていう、いわゆるヘッドアレンジですね。

──もちろんスタッフとして、その現場を加入前から剣さんは見ていた。

スタッフとしても3年間レコーディングに立ち会ってました。それこそ山下達郎さんがプロデューサーだったアルバム「NEW YORK CITY, N.Y.」(1979年)のときは、達郎さんが真横でジャッジメントしてる姿を見ていて、「わあ、すごく厳しい人だなあ」と思っていました。職人的な仕事ぶりがすごいし、クールスに対するリスペクト、特にジェームスさんに対するリスペクトを感じました。

──あの伝説のアルバムの現場にもいらしたんですね。

ニューヨーク録音には同行できなかったんですけどね。渡米前に日本でレコーディング用のリハーサルをしたんですけど、エンジニアさんじゃなくて達郎さん自ら、本番さながらにちゃんとマイキングもしてました。メンバーのチューニングが甘いということで達郎さんがチューニングし直したり。レコーディングが終わったあと、僕がシールドを肘に巻いて片付けてたら怒られて、「そんな巻き方しちゃダメ。こうやってやるの」って教えてもらいました。怒られながらも、うれしかった(笑)。シュガー・ベイブ時代から達郎さんが大好きだったんで、ドキドキワクワクしながら見てました。

──そんな経験もしつつ、いよいよ自分の声がレコードになる。

初体験です。曲がどんどんよくなるんですよ。僕のデモテープはラジカセ2台で作った、本当に稚拙なものだったんですけど、ジェームスさんが楽曲の本質をつかんでアレンジしてくれました。「本当はもっとこうやって弾きたいんだけど、でも弾き方がわからない」と思っていたコードも、ジェームスさんはちゃんとカッコいいコードに解釈して弾いてくれる。自分の歌もそうでしたね。「なんで今までこうやって歌えなかったんだろう」と思えたくらい、普通できないことができちゃった。レコーディングマジックが働いたというか、興奮に押し出されたのか、いわゆる1つのゾーンに入ったんです。

──お話を聞いていると、クールス時代はいいことばかり。

スタッフになる前は「絶対に1回は殴られるだろう」「怒鳴られるだろう」とか覚悟していたんですけど、1回もそういうことはなかった。本当に子犬のようにかわいがってもらって、わがままも言い放題だし、全部意見が通っちゃうし。「なんて寛大な大人たちなんだろう」って。皆さん品がある。いわゆるオラオラ系じゃないんです。

──ファンからも受け入れられて。

すごく温かく迎えてくれました。それまでまったく女性にモテなかったのに、少ないけれど女性のファンもできて、ファンレターをもらったり。

──作曲家としての横山剣も、どんどん伸びていきます。

あくまでもメインのソングライターはジェームスさんなので、自分があんまり出しゃばっちゃいけないと思いつつも、ジェームスさんが「出せ出せ」って言うんで、「じゃあ」って曲を出したら、けっこうな率で採用してもらいました。僕にとってのデビューアルバム「Changelings~Born Busters Again~」(1981年)でも4曲使ってもらいましたし、次のアルバム「OLDIES SPECIAL」(1982年)はカバー集でしたけど、自分の選曲がけっこう採用されて。スウィートソウルのThe Delfonicsとか、サム・クックやアーサー・コンレーの曲が選ばれたのもすごくうれしかったですね。本来ジェームスさんのやりたかったことにだんだん近付いていった流れでもありました。3枚目のオリジナルアルバム「ROCK'N' ROLL JUNKIE」(1983年)でも5、6曲書きましたね。

──しかし、在籍4枚目の「ROCK'N' ROLL BIBLE」(1983年)を最後に、剣さんはクールスを脱退します。

そうなんです。メンバーはクリエイティブな仕事も認めてくれたし、バンドとしてもそれまでとは違うファンも増えた。いい流れだなと思っていたんですけど、セールスに結びつかなくて。ポリスターからは「舘ひろしさんが所属していたキングレコード時代のようなロックンロールサウンドに戻れ」という意見が出まして。僕自身「やっぱり不純物はいらないんだな。このままいても仕方ないな」という思いに至り、脱退することにしたんです。メンバーは引き留めてくれたんですけど。

ダック・テールズ結成、筒美京平の楽曲で再デビューするも

──その後、元シャネルズ(のちのラッツ&スター)の山崎廣明さんから新バンドの誘いを受けることになります。

当時、山崎さんもいろいろあってシャネルズを脱退されたところでした。僕もクールスを辞めて、先のことが決まってない状態で。そんなとき、山崎さんに声をかけてもらったんです。バンドはちょっとつらいし、作曲家としてやっていきたいなと思っていた時期だったんですけど、「剣ちゃんのオリジナル中心で」って言われたので、「あ、それならやりたい!」って即答しました(笑)。

──そしてダック・テールズ結成。山崎さんは以前から剣さんの才能に注目していたということ?

山崎さんとはシャネルズ時代から交流があって、一緒に車で海に遊びに行ったりしてたんですよ。その車中で、僕が作った曲を聴いてもらっていました。

──ダック・テールズは、歌謡曲の要素も強くて、剣さんがそのときやりたかったことをミックスしたようなバンドでしたね。

サウンドはR&Bっぽい感じで、歌謡曲っぽい要素としては筒美京平さんや村井邦彦さんが作っていた洋楽的で洗練されたサウンドをイメージしていました。筒美京平さんと言えば、TDKレコードでの1stアルバムのディレクター、渡辺忠孝さんが京平さんの弟だったんですよ。僕が京平さんの話ばかりしてたら、「実は俺、筒美京平の弟なんだよ」って言うんで最初は「またまた~」とか本気にしてなくて(笑)。

──それがまさかの!

本当だったんです。なので、渡辺さんにデビューシングルは自分の曲じゃなくて、あえて京平さんにお願いしたいと懇願したら、なんと京平さんがデビュー曲を書いてくれたんです。「真夜中のサリー」っていう、もろ昭和テイストの曲でした。京平さんのデモ音源はすごくいいアレンジだったんですが、僕らのバンドアレンジのせいで、中途半端な感じになっちゃった。僕も山崎さんもあとで後悔しました。とはいえ、すごくいい曲を書いてもらえて大満足だったんですけどね。ただ、当時は自分で曲を作らないとダサいって言われる時代で専業作曲家に曲をオーダーするという僕の真意も、なかなか周囲に理解してもらえなかったんです。

──むしろカッコいいことだと思ってたのに。

のちに小沢健二さんやピチカート・ファイヴが京平さんに曲を書いてもらいましたけど、まさにああいう気分の先取りだったんです。でも、それを説明する言葉がなかった。「メジャーに行ったから、お仕着せの曲を歌わされて、かわいそうに」とか言われて。「違うんだよ」と言っても強がりと受け取られてしまって、誰も信じてくれなかったんです。

──当時は反論する場所もないですしね。

そうなんです。SNSもないし。取材でそういう話をしても、ばっさり割愛されちゃって。僕は村井さんがゴールデン・カップスに書いた「本牧ブルース」が大好きだったんです。「本牧ブルース」はダック・テールズのライブで必ずやってる曲だったんですよ。あとは、京平さんが書いた平山三紀さんの曲もそうだし、ソフィスティケートされた歌謡曲を洋楽ポップスのような感覚で聴いていました。

芸能界のド真ん中へ、スター大運動会で近藤真彦と50m走

──ダック・テールズのファン層は?

やっぱりシャネルズとクールスのお客さんが多かったですね。最初は順調で、デビューした年には中野サンプラザのワンマンが満員になったんです。

──へえー!

すごくいい出だしだったんですね。僕と山崎さんでジェリー・ルイスとディーン・マーチンの底抜けコンビみたいに笑いの要素も入れてみたり、寸劇とまではいかないですけど、ちょっとショウアップした感じでやってました。山崎さんが底抜けコンビが大好きで。ブルース・ブラザーズも好きだったんですけど、あの路線はすでにバブルガム・ブラザーズがやってらっしゃったんで、「これはもうブルース・ブラザーズの線はないな」「じゃあ、底抜けコンビをやろう」って。

──わりと思ったことが実現できていた?

そうですね。R&Bを国産サイズにして出す、みたいな気分がありましたね。「オリエンタル・ソウル」とか、適当なジャンルを標榜して(笑)。

──それにしても中野サンプラザが満員になったってすごいことです。

実は、当時けっこうテレビの露出があったんですよ。野口五郎さんがいらっしゃる事務所に所属していたので、日本テレビの「カックラキン大放送!!」とかにも出ましたね。賞レースでは「新宿音楽祭」に出場しました。岡田有希子さんと吉川晃司さんが新人賞。僕らは銅メダルでした。

──なんと! 同じ新人レースにいた。

同期という扱いだったんです。NHKのオーディションでも中村あゆみさんと一緒だったりしてね。ギリギリ合格でした。

──自分たちだけで切り盛りしていたクールスと違って、ダック・テールズは芸能事務所での活動。ずいぶん見える世界も違いますよね。

もろに芸能界マターでした。音楽誌の取材はゼロで、芸能誌の「明星」「平凡」界隈に出てました。

──そう言えば、この頃、日本テレビの番組「全日本オールスター選抜大運動会」に出ていたエピソードがありましたよね?

はい。近藤真彦さんと50m走をやりましたね。1位がマッチで2位が僕、3位がシブがき隊のフックン(布川敏和)で、4位がヒップアップの島崎俊郎さん。ジャニーズのタレントには勝っちゃいけない、みたいなお約束があるのかと思ったら、何もそういうのはなかったですね。間近で見たトシちゃん(田原俊彦)は本当にすごい身体能力だなって思いました。

──芸能の仕事をすることに抵抗はなかったですか?

クールスを辞めてからは、何より作曲ということに重きを置いていたんです。もともと作曲家志望だったし、曲で名を上げたかった。その気持ちがより強くなっていたので、芸能界のド真ん中にいれば、同じ事務所の野口五郎さんをはじめ、たくさんの人に曲を提供できるんじゃないかと思ったんです。僕は演歌も作れるし、これはいいぞと。だけど、結局1曲も使ってもらえず。バンドの活動自体はすごく充実していて、ツアーも全国100カ所とか長丁場でやってたんですけど、そのうち人に曲を書く余裕がない感じになっちゃいましたね。ええ。

<後編は10月9日(金)19時公開>

プロフィール

横山剣(ヨコヤマケン)

1960年生まれ、神奈川県出身。1981年にクールスR.C.のコンポーザー兼ボーカルとしてデビュー。以後、ダック・テールズ、ZAZOU、CK'Sなどのバンドを経て、1997年に自身がボーカルを務めるクレイジーケンバンドを結成する。翌1998年にアルバム「PUNCH! PUNCH! PUNCH!」でデビュー。2002年発表のシングル「GT」が話題を呼び、ロック、ポップス、ファンク、R&B、歌謡曲などさまざまなジャンルを取り入れた音楽で多くのリスナーに愛される。作曲家としては、和田アキ子、TOKIO、SMAP、一青窈、松崎しげる、グループ魂、藤井フミヤ、ジェロ、関ジャニ∞など、数多くのアーティストに楽曲を提供している。クレイジーケンバンドの最新アルバムは2026年9月リリースの26thアルバム「何?」。

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