「これ、誰が出演者で、誰が客なんだろうね」
「たぶん、あんまり分かれてないんじゃない?」
「というか、これってヒップホップのイベントなのかな」
「でも、ヒップホップじゃなかったら何なんだろう」
正確な記憶は曖昧だけれど、確かそのような会話だったと思う。2019年頃、Tohjiが主宰した伝説のイベント「Platina Ade」で、個性豊かなアーティストたちがステージで熱狂を生み出している景色を見ながら、私は興奮と困惑を隠しきれずにいた。まだ名前は与えられていないけれど、間違いなく何か新しいことが始まった、と確信した。そして2026年、そのときはまだ名前のなかった何かが、巨大な形をもって私たちの前に現れようとしている。
2026年、ヒップホップはかつてないほど多様性を手に入れ膨張している。ラッパーのオーディションプロジェクト「RAPSTAR」の応募数が過去最多となる1万2953人にのぼり、武道館公演やホール公演といった大規模キャパシティのライブが次々とソールドアウト。デイタイムもナイトタイムも数えきれないほどのクラブイベントが連日行われ、活況を呈している。そして、この起点をさかのぼると、先に挙げた時期に行き当たる。
文 / つやちゃん
ストリートの重心が動いた
2010年代末、日本のストリートカルチャーは大きく形を変え始めていた。ラップの急激な盛り上がりとともに、ヒップホップはクラブカルチャーとも相互に影響を与え合い、若い表現者やクリエイターたちにとっての基礎教養のようなものになっていった。ラッパーやビートメイカーやDJだけではなく、服を作る人、絵を描く人、写真や映像を撮る人、ZINEを作る人たちまでがその感覚を共有し、クラブやアートスクール、ファッションスクール、SoundCloudやInstagramといった複数の場所を行き来するようになる。かつてのストリートカルチャーが、特定の街との結び付きを強く持っていたのに対し、新しい世代のストリートはもっと流動的だった。どこにいるかよりも、誰とつながり、何を共有しているか。ストリートは、場所への帰属だけではなく、関係性の束によって形作られるものへと変わり始めていた。
そして2020年、コロナ禍によってその動きは止まるどころか、さらに加速していく。小さなクラブや野外レイヴ、さらにはインターネットの中へ深く潜り、閉塞感や退廃的なムードと結び付きながら、さまざまなクラブミュージックが互いの境界を溶かし、1つの共通感覚を形成していった。やがてコロナ禍が明けて街が開かれると、それまで地下でつながっていたものが、今度は現実の場所へ一気に噴き出した。時は経ち2026年、それらはますます大きな文化圏へと拡大しつつある。クリエイターはもちろんのこと、その精神性に共感する者が年齢問わず集まることで、地下水脈として流れていたものが、もはや地下に収まりきらないところまで来ているのだ。
地下水脈は、東京ドームへ
11月17日、Tohjiが東京ドーム公演を行う。
Tohjiは前述した近年の大きな変化の中から現れたアーティストであり、同時に、その変化を誰よりも早く作品にし、人を集め、場所を作り、次の世代へ手渡すことで、流れそのものを加速させた存在でもあった。だからこそ、Tohjiがやってきた功績を考えることは、この10年ほどのストリートカルチャーに何が起きていたのかを考えることでもある。
果たして、Tohjiの何がすごかったのか。もちろん、音楽家として果たした役割は大きい。2017年、SoundCloudを中心に活動しながら「ラップスタア誕生」ファイナルステージまで進み、翌年にはgummyboyらとMall Boyzとして「Mall Tape」を発表。2021年にはLoota、Brodinskiと制作した「KUUGA」、2022年の「t-mix」と、作品ごとにヒップホップの外側にある奇想天外なサウンドを次々と取り込んできた。
国内のヒップホップにおいて、Tohjiはオルタナティブな領域を大きく押し広げた1人だった。ラップを軸にしながら、トランス、ユーロダンス、エレクトロニックポップ、のちにハイパーポップと接続して語られるような質感までを、早い段階からためらいなくミックスしていた。2022年にイギリスのカルチャーメディア「Dazed」が「t-mix」を90年代ユーロトランスとJ-POPを混ぜた作品として紹介したことも、その音楽が国内の“ラップミュージック”という枠だけでは捉えられなくなっていたことを示している。しかも、その感覚は早い段階から海外とも接続していた。Bladee、Mechatok、yeule、Palmistryらとの共作、Mura Masaとのワークスなどを通じて、Tohjiは日本のラッパーというより、インターネット以降のグローバルなオルタナティブシーンの一員として受け取られていった。「Dazed」は2022年の時点で、彼が東京の若者だけでなく、Drain Gang周辺を追う海外のリスナーからも支持されていることを報じた。
Tohjiのアートディレクター的感性
ただ、Tohjiが作ってきたものは音楽にとどまらない。彼が画期的だったのは、バラバラに存在していた人や感覚を結び付け、それ自体を1つの表現へ変えてきたところにある。Mall Boyzはその原型だろう。Tohjiとgummyboyを中心としながら、映像やグラフィックなど、それぞれ異なる得意分野を持った人間が集まるクリエイティブクルーでもあった。「Mall Tape」も、友達や知り合いがそれぞれの感性を持ち寄ることで作られた。音楽が先に完成し、その周囲をデザインで装飾するのではない。遊びや人間関係から、音楽、映像、服が同時に立ち上がっていく。作品を作ることと、仲間と遊ぶことの境界そのものが曖昧だった。
彼の周囲では、ラッパーと映像作家、グラフィックデザイナー、ファッションに関わる人間が、制作工程の異なる部署として出会うより先に、友人として近い距離にいたのだ。だから彼にとって、音楽以外の表現を取り込むことは、クロスカルチャーという大仰な戦略ですらなかったのだろう。むしろ、先にTohjiが捉えた1つの感覚があり、それが曲にも、映像にも、服にも、イベントにもなる。Tohjiはラッパーであると同時に、その感覚を異なるメディアへ展開していくアートディレクターのような存在だった。彼が設計していたのは曲のサウンドだけではなく、曲が存在する世界そのものだったからだ。
その姿勢は、作品ごとに大きく異なる世界を作ってきたことにも表れている。2019年の「angel」には映画的な連なりがあり、「KUUGA」では金属的で冷たい都市の感触とヨーロッパのクラブミュージックがぶつかり合う。「t-mix」ではJ-POPの記憶が浮遊感のある音世界を作り上げる。作品ごとに同じTohjiのスタイルを反復するのではなく、その都度1つの世界を作り替えてきた。
そして、Tohjiのリリックもまた、この制作思想と深くつながっている。日本語ラップにおいては言葉の精度や意味の密度が評価軸になりやすいが、Tohjiはそこから距離を取りつつ、まったくオリジナルな詩世界を練り上げた。言葉を説明や主張のためだけに使わず、声の響き、反復、イントネーション、母音と子音の関係性まで含めて解体し、音の一部として扱う。意味を伝える前に、まず感覚を伝える。そのリリックは、トラックや映像と切り離して読むよりも、作品全体の中で身体的に受け取ったほうが本質を感じ取れる。
さらに近年になると、そのディレクションは映像そのものへと拡張していった。「zero-one」「zero-two」期には、ミュージックビデオという既存の枠を超え、SF映画や特撮を思わせる近未来的な世界を構築。2025年のぴあアリーナMM公演は、のちに「劇場版 Tohji Pia Arena」として映画化され、公演本編だけでなくドキュメンタリーや短編映画まで含めた映像作品へと拡張された。音楽家が自分の世界観を映像スタッフへ伝えるというより、Tohji自身が、音楽、映像、ライブを横断する世界の構造そのものを設計するようになっていったのだ。
作品の外側まで、作品にする
ただ、振り返ってみれば、その志向は活動初期からすでにあった。大きな形で表れたのが、冒頭で述べた2019年の自主企画「Platina Ade」だ。
渋谷WWWに550人を集め、当時の同会場の動員記録を更新したこのイベントでは、すでに活動しているアーティストと、絵を描き始めて間もない若者、さらにはフリマまでが同じ場所に並んだ。Tohjiがそこで望んでいたのは、みんなが何かを「ノリ」で表現できる場所だった。アーティストが中心にいながら、表現する主体はアーティストだけではない。客が服を作り、その友達が絵を描き、映像を撮る。それに刺激された誰かが音楽を始め、そこで知り合った人間が別の場所でまた何かを始める。Tohjiがディレクションしていたのは作品だけではなく、人と人の間に生まれる流れそのものだった。その潮流は、やがて自主企画シリーズ「u-ha」へと続いていく。2022年にWOMBで始まったシリーズには、初回からkZmや釈迦坊主、HEAVENらが出演。その後、JUMADIBA、Peterparker69、nasthug、みんなのきもちらへとラインナップを広げ、さらに海外のアーティストとも接続していく。2025年には韓国のOmega Sapien、UKのManuka Honeyらも出演した。
そう、すべてはつながっている。私がこれまで取材し、話してきた多くのインディペンデントアーティストの口からも、Tohjiの名前は頻繁に挙がった。Tohjiに影響を受けた、Tohjiの周辺で誰かと知り合った──そんな話を何度も、何度も耳にした。ラッパーがクラブミュージックを自由に横断すること。音楽家が映像や服まで自分でディレクションすること。ラッパー、DJ、デザイナー、映像作家が1つのパーティにいること。ファンがただ受け取るだけでなく、自分でも何かを作り始めること。今、若いインディペンデントアーティストにとって自然に見えるそうした環境のかなりの部分を、Tohjiは耕してきたのだと思う。
どこにでもある場所から、ここにしかない文化を作る
Tohjiが徹底して作ってきた美意識の中心にあったものも、独特だった。TohjiやMall Boyzのクリエイティブには、ショッピングモール、車、海、フィギュア、キャラクターといったモチーフが繰り返し現れる。彼が幼い頃から親しみを抱き、憧れてきたもの。しかもTohjiの世界では、物事の間に文化的なヒエラルキーがほとんどない。高価なブランドを着て、車や金を見せる。その一方で、牛丼を食べ、コンビニへ行き、海で遊ぶ。Oakleyのサングラスも、ギャル男的なチャラさも、ベルリンのブランドも、日常の風景も、同じ平面に置かれている。「高級 / 庶民」「アート / 消費」「カッコいい / くだらない」といった既存の序列に従って自分の好きなものを選別しない。生活の中で惹かれたものを、そのまま作品へ持ち込む。そのフラットな感覚こそが、Tohjiの世界の質感を作ってきた。
だからこそ、Mall Boyzがショッピングモールをルーツとして掲げたことは象徴的だった。ショッピングモールは、伝統的なヒップホップが重視してきた固有のフッドとは大きく異なる。土地固有の歴史や強烈な地元意識があるわけでもなく、全国どこへ行っても似たような店と駐車場が広がる。Tohji自身も、横浜周辺で育ちながら「地元がある感じではない」と語っていた。けれど彼は、その曖昧さを非ヒップホップ的な弱さとは捉えなかった。「俺らにはモールがある」と考えたのだ。
そこには、1つの発明があったと思う。メンバーの出身地が違っていても、子供の頃にショッピングモールで過ごした記憶なら共有できる。むしろ、どこにでもある場所だからこそ、誰か1人の土地に閉じない。固有のフッドを共有する代わりに、似たような風景を通過してきた記憶を共有する。Mall Boyzは、土地ではなく感覚を根拠にした共同体だった。それは、Tohjiの作品に「移動手段」が頻繁に現れることともつながっているように思う。車に乗る、ドライブする、海へ行く、飛行機に乗る、モールを歩く──1つの土地に腰を据えて帰属を確かめるというよりも、仲間とどこかへ向かっている時間そのものが風景になる。彼らを結び付けたのは、同じ故郷から来たことよりも、同じような場所を通過し、同じ速度でどこかへ向かえることだった。Tohjiにとって共同体とは、同じ場所から来た人たちというより、一緒にどこかへ行ける人たちだったのではないか。
この感覚は、Tohjiが何を文化として拾い上げたのか、という話にもつながる。かつて渋谷系をはじめとした東京中心の都市文化が、レコード、映画、デザインといった文化資本を編集して都市的な洗練を作ったのに対し、Tohjiはショッピングモールで育った少年が無意識に浴びていたものを編集した。文化として語るには、あまりに日常的だったものだ。しかしそれを捨てず、自分自身の記憶の中から拾い続ける。好きだったからこそ、記憶に残っているからこそ使う。その異常なまでの執着を、音楽、アートワーク、MV、ファッション、ライブへと何度も反復し投影していったのだ。
だからこそTohjiのクリエイティブは、幼い頃の思い出が着想源にありつつも、2000年代へのノスタルジーだけには収まらなかった。彼にとって記憶は、帰るための場所というより、現在の感覚によって更新し続けるための素材だったからだ。作品に繰り返し現れる水や空、透明なCG、光沢、メタリックな身体、人工的な自然は、フルティガーエアロやリミナルスペース、のちに広がるY3Kといったインターネット美学とも、不思議なほど重なって見える。それは、彼が流行を予測していたというより、自分自身の記憶と欲望を今の感性で掘り続けた結果、あとから時代のほうがその感覚を説明する言葉を持ち始めた、と考えるほうが近いのだろう。インターネットが後年それぞれ異なる名前で分類していった感覚が、Tohjiにとっては、もともとひと続きの私的な記憶だった。
1つのスタイルから、無数のスタイルへ
ただし、Tohjiは、自分が作ったスタイルを無条件に拡散させればいいとも考えていなかった。本人は「誰かの真似になるようなスタイルはしない」と話し、「ほかに合わせるんじゃなくて、自分でカッコいいと思う何かを作ってほしい」という趣旨の発言を繰り返してきた。つまり、Tohjiが求めていたのは「Tohjiみたいな人」を増やすことではない。Tohjiを見た人間が、自分自身の何かを始めること。ここに彼のコミュニティ運営、あるいはブランド作りの個性があるのだ。通常、ブランドが大きくなるほど、その象徴的なスタイルは模倣される。同じ服を着て、同じ言葉を使うことで、集団への所属がわかりやすくなる。しかしそれを放置すれば、最初は新鮮だった美意識も、いつしかお決まりの制服のようなものになっていく。Tohjiは、そこに敏感だった。
結果的に、彼の周囲に形成された文化圏は、1つのスタイルを共有する共同体というよりも、「自分で新しいものを作る」という態度を共有する共同体のようになっていった。Tohjiが作った音楽を中心に、人が集まり、映像が生まれ、服が生まれ、イベントが生まれ、また別の音楽が生まれた。その影響を受けた人間がさらに別の場所で何かを始めることで、Tohji本人がいなくても、刺激と興奮を生み続ける文化圏になっていった。ゆえに、Tohjiの功績とは、極めて私的で個人的な世界を、他人が自分自身の表現を始められる場所にまで育てたことにあるのだ。Tohjiが作ったものは、もうTohjiだけのものではないのである。
彼は、東京ドーム公演で音楽活動を終える。それは、Tohjiという名前を必要とせずに、その文化が生き始めるスタート地点でもあるのだろう。あのとき「Platina Ade」で感じた、誰が出演者で、誰が客なのかわからないという感覚。その正体も、今なら少しわかる気がする。Tohjiが作ったのは、完成された1つのスタイルというより、そうやって次々と人を動かしていく、とめどない連鎖だったのだ。あのとき駆動し始めたエンジンは、もう止まることはない。皆が、“見たことのない景色”を見る。“東京ドームの上”で歌っている。Tohjiを見届けたあとも、それぞれがそれぞれの場所で、自分だけの景色を作り始める。その景色に、まだ名前はいらない。
Photo by Jun Yokoyama


