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おんがく と おわらい 第6回 いとうせいこうが語る「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」が結びつけた音楽と笑い

いとうせいこう
2年近く前2022年11月28日 9:01

2022年9月12日、作家・演出家の宮沢章夫が亡くなった。

彼が日本のサブカルチャーに与えた影響は計り知れない。その一部として劇団「遊園地再生事業団」での演劇活動、当時誰もが真似をしたエッセイの文体、「ニッポン戦後サブカルチャー史」(NHK)をはじめとするサブカルチャー研究などが挙げられるが、ここでは宮沢が1985年に立ち上げた演劇ユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」に焦点を当てる。

シティボーイズ(大竹まこと、きたろう、斉木しげる)、竹中直人、中村ゆうじ、いとうせいこうをコアメンバーとし、1989年まで活動したラジカル・ガジベリビンバ・システム。86年の公演タイトル「スチャダラ」がスチャダラパーの名前の由来となったのは有名だが、後年には星野源や放送作家・オークラをも虜にし、何より現在まで続く音楽とコントのフォーマットを作ってしまったのだ。一度でもお笑いライブを観に行った人ならば当たり前のものとして気にもとめない“常識”の出発点がここである。

最年少メンバーとして濃密な青春をラジカルで過ごしたいとうせいこうに、新常識が生まれた瞬間の興奮と、音楽と笑いの分ち難い関係性を語ってもらった。

改めて、宮沢章夫さんのご冥福をお祈りいたします。

取材・文 / 張江浩司 撮影 / 斎藤大嗣

扉を開けたら宮沢章夫がいた

今まで誰にも聞かれなかったからしゃべったこともないんだけど、宮沢さんに初めて会ったのは僕がニッポン放送でバイトをしていたときで。タモリさんの番組のADみたいなことをやっていて、そこの黒木さんという作家が僕のことを「面白いやつがいるから会ってみなよ」と宮沢さんに紹介してくれたんです。

──その頃の宮沢さんはラジオの放送作家をやられてたんですか?

そうそう。だから宮沢さんの第一印象は「ラジオの人」だった。そこでどんな話をしたかは覚えていないんだけど、しばらく経って桑原茂一さんがスネークマンショーの映像を作るということで、そのオーディションに呼ばれたんだよ。「JUN」というファッションブランドの関係者が当時、僕のピン芸をすごく面白がっていたんだよね。その人が撮った僕のネタの映像が茂一さんに渡って、「こいつ変だし、ちょっと呼んでみよう」ということになったと思うんだけど、オーディションなんて初めてだしさ。そもそも「他人に選ばれるなんて腹が立つ」と思っていたし(笑)。九段下の皇居が見える古いホテルだったと思うんだけど、扉を開けたら宮沢さんがいたんだよね。「あれ? なんでいるんですか?」っていう(笑)。宮沢さんも作家としてこの企画に入っていて、そのホテルに詰めて台本を書いてた。それが「楽しいテレビ」という超ナンセンスな作品になって。これに参加していたシティボーイズ、竹中直人、中村ゆうじ、僕、そして松本小雪という女子を加えて「ドラマンス」になった。

──1984年にスタートした、ラジカルの前身になるコントユニットですね。

そう。「ピテカントロプス・エレクトス」という伝説的なクラブで定期的にお笑いというか、コントのイベントが始まるんです。ピテカンは茂一さんの店でもあったから、もちろん音楽が中心の場所なんだけど、茂一さんが好きな笑いの要素も入れたいと。スネークマンショーみたいなことを生の舞台でもやりたいということで、宮沢さんに声がかかったんだよね。茂一さんがやりたかったのは当時の「お笑い」ではなく、そういうものとは違う空間を作りたかったんだと思うんだ。それを宮沢さんのアイデアで形にしていった。僕のことはまだ誰も知らない頃なんだけど、ステージからフロアを見たら近田(春夫)さんも(立花)ハジメさんも伊武雅刀さんもいるし、2階席には景山民夫さんもいるわけ。

──サブカルチャー名鑑というか。

「すごいところに来ちゃったな」と思った(笑)。初回はそれぞれのネタを披露し合うような構成だったんだけど、僕のネタが終わったあとに大竹(まこと)さんが寄ってきて「お前の芸はロックだ」って言うんだよ。あの人、音楽をわかりもしないのに(笑)。あの頃は客に毒を撒き散らすようなタイプだったし、「REMIX落語」とか、ピテカンに来てる音楽好きを喜ばせるようなネタをやっていたからそう思ったんだろうけど。だから僕にとって笑いは最初から音楽と関係してるんですよ。

──ドラマンスは最初のライブからわずか数カ月で日本青年館公演をやっています。

僕は講談社に入社した頃で、人事部長に「あのー、すいません。当日、日本青年館でコントやるんで早退していいですか?」ってお伺い立ててさ。そしたら「いとうの晴れ舞台だからみんなで観に行こう!」と、僕の同期を連れて観に来てくれたんだよ。

──信じられないくらいいい職場ですね(笑)。

ゆるい時代だよね。いまだに当時の人事部長と同期とは年に何回か会うよ。その直後にドラマンスがなくなって茂一さんの手から離れたときに、宮沢さんがラジカル・ガジベリビンバ・システムというのを立ち上げたと。でも最初は宮沢さんも演劇の作り方なんて知らないから。普通は本番が近付いたら稽古場に照明さんや音響さんが来て、通し稽古をしたりいろいろ確認したりするんだけど、僕らは全員コント作ることしか頭になくて。当日に一応リハやって、そのまま本番だったんだよ。たぶん最初に全員で軽いコントを短くやったと思う。それで暗転して急いで舞台袖にハケて、シュルシュルってスクリーンが降りてきたと思ったら、Art of Noiseの「Legs」が大音量で流れて、「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」ってバーンと映し出された。

俺たちは知らされてないから「何これ? うわっ、カッコいい......!」ってなっちゃってさ。大竹さんなんて袖で踊ってたかもしれない。あの大竹さんがだよ?(笑) それくらい俺たちはその演出に度肝抜かれたし、こんな演劇もコントライブも観たことがなかった。僕にとってラジカルは、この「Legs」がかかった瞬間のインパクトが大きいんだよね。当然、お客さんも盛り上がっていて、お祭り騒ぎみたいな気持ちでコントを観るからウケるんだよ。

──客席がホカホカに温まった状態になっていると。

日テレの大塚恭司さんという名ディレクターがラジカルのことを大好きで、このときもたぶん観に来ていて。のちにMr.マリックさんの番組を作るんだけど、その番組で「Legs」を使うんだよ。

──ああ! マリックさんが登場するときのBGM!

大塚さんはラジカルの印象がものすごくてあの曲を使ったんだと思う。そうとしか考えられない。

──ラジカルがなければ、ハンドパワーもなかったかもしれない……。

それくらいインパクトがあったんだよね。今に至るまで、演劇やコントライブの途中に映像を入れてカットアップするのも当たり前になったし、もう当たり前になりすぎたから違うやり方をどうにかできないかと常に考えてる。宮沢さんも何年かぶりに俺たちを使ってラジカル的なものをやったときに、逆に映像を使わず1回も暗転しない舞台にしてたから。自分たちも囚われ続けちゃうぐらいの演出が、まず最初にあったんですよ。

かけたい曲からコントを逆算する

──ほかにどんな曲が使われていたか覚えていますか?

うーん、あんまり覚えてないんだけど……Talking Headsは確実にかかってたかな。「Once in a Lifetime」とか。

──やはりニューウェイブが多かったんですかね?

流行っていたし、使いやすい音楽ではあるよね。ドーンと始まってくれるから。あと、ヒップホップのトラックの上で俺がJB(ジェームス・ブラウン)みたいに出演者の名前をシャウトするというのもやってた。芝居の中でもラップっぽいことをやってたと思う。舞台上にターンテーブルを置いて(藤原)ヒロシがDJをやってくれたはずなんだよな。

──コントと音楽がシームレスにつながっていって公演のグルーヴを途切れさせないという手法は、非常にDJ的ですよね。

そうだね。同じBPMが続いていくっていう。

──そういったアイデアの源流はどこにあったんでしょうか?

松尾スズキさんが宮沢さんへの追悼文に書いていた、ラジオコントの思い出を読んで思い出したんだけど、ラジカルを始めた頃に僕と宮沢さんは茂一さんのオフィスに週1で通っていたんだよね。クラブキング(桑原が代表を務める株式会社。日本初のクラブカルチャー情報誌「DICTIONARY」を発行していた)を立ち上げた頃で、ラジオ番組も持っていた。茂一さんがプロデューサーで、宮沢さんと僕が台本を書いていて。2人して茂一さんの薫陶を受ける感じで。そこで一番大事なのは、茂一さんはラジオでかけたい曲がすでに決まってるということ。「この曲をかけるためにはどういうコントからつなげたらいいか」「どういうタイミングでカットインしたらこの曲がカッコよく聴こえるか」「だんだんフェードインしたらみんながゾクッとするんじゃないか」……そういうことしか考えていない。青山のキラー通りにあったオフィスに行くと、「宮沢くん、いとうくん、今度かけたいのはこの曲なんだよ」と言いながらレコードを流す。「うわ、カッコいいっすね!」というところから始まるんだよね。コントの設定があって、ギャグを考えて、その合間に音楽を流すという発想とは真逆なんだ。

──「BGMではない」ということですね。

そう。音楽からの逆算でコントができている。そんな作り方を知ってしまったのが、僕と宮沢さんにとってものすごく大きくて。ラジカルでコントをやって袖にハケるときに「この曲カッコいいな」と思うことは確かに多くて、それは茂一さんからの影響が僕らの中に流れているということなんですね。あと、当時宮沢さんとよくしゃべったのは、モンティ・パイソンは大好きだけど、コント自体が面白いかというとそれは違うと。イギリスの社会問題を知らないとわからない部分もあるし、ブラックジョークがキツすぎるところもあるから。じゃあ、なんでモンティ・パイソンが好きかというと、スキットとスキットのつなぎ方なんだよね。グーッとカメラを引いていくとまったく別の世界があって……とか。そのカッコよさに、非常に影響を受けたんです。

かっこよすぎる田島貴男を見ると、人間は笑う

──宮沢さんといとうさんの音楽的なコンセプトは、ラジカルのほかの皆さんにすぐ伝わったんですか?

みんなは音楽のことなんて何も考えてなかったと思う。でも、誰かがひと言ポンと言って、暗転すると同時に音楽がかかる快感。そこで客席から笑い声が聞こえるっていうのは、ものすごく気持ちがいいんですよ。そうなると「最後のセリフはちょっとデカすぎたな」とかいろいろ調整するようになるし、それは茂一さんに習わなくても舞台でやればわかってくるから。自動的に音楽とお笑いが、お互いに高め合うことになっていくんだよね。この連載で(大竹)涼太が「音楽とお笑いが一緒にやるのは難しい」(※参照:おんがく と おわらい 第4回 大竹マネージャーが考える音楽とお笑いの“対立した緊張関係)って言ってたじゃない。やっぱり演出があったうえで出会うから効果があるのであって、面白い音楽、コミックソングがただ面白いかといったらそれは違うんだよ。

──コミックソングが一番難しいですよね。

音楽に乗っちゃうと意識がそっちに向いて、ギャグとして聞けなくなっちゃうから。今「いとうせいこう is the poet」をやっているのは、音楽の合間にどう言葉を入れたらリスナーの心に刺さるかとか、そういうことの実験で。言葉と音楽が絡み合って、人の感情を動かすことはできる。でも、確かに涼太が言うように笑いでは難しいね。

──笑いに対して、音楽が流れてきたときの身体的な支配力が強いということなんでしょうか。いとうさんもリコメンドされているコントユニット「明日のアー」の公演でミュージカルっぽいネタをやっていたんです。そもそもはものすごく馬鹿らしいネタで、稽古場ではゲラゲラ笑っていたそうなんですが、音楽がついた途端に「何かいいものを見た」ような気分になったと(笑)。今年の公演でも音楽がついた途端に過剰にエモい気持ちになってしまうネタがあったそうで、主宰の大北栄人さんが「コントの敗北だ」と言っていました。

そうなっちゃうんだよ(笑)。でも、そういうトライはしていくべきで。ある意味での両立しなさが面白いんだよな。音楽で動物的に盛り上がる部分と、ロジカルに笑う部分と。もちろん動物的な笑いもあるけどね。笑いはさまざまな現象として現れるから。カッコいい音楽を聴くとつい笑っちゃう、ということもあるわけでしょ。一時期、俺の事務所に田島貴男くんがいたことがあるんだけど、Original Loveが渋谷のライブハウスでやるっていうから観に行ったの。そしたら田島くんが上下白のスーツで出てきて、くるっと回ってフロアをビシッと指差すんだよ。ゲラゲラ笑ったもん(笑)。それは馬鹿にしてるとかじゃなくて、もうカッコいいから笑っちゃうんだよ。「よっ!田島!」って声をかけたくなるような。意味を超えた、非常に原始的で音楽的な笑いだよね。これはクレージーキャッツのときに植木等が持っていたものだし、エノケン(榎本健一)さんがオペラ歌手のモノマネをするときにめちゃくちゃ歌がうまくて面白いとかと同じで。今で言えばレキシがこの音楽のよさと笑いを共存させていて、例えば「KATOKU」は前奏の80年代感が見事で、そこから最初の歌詞「世襲制」が来る。この「セシューセイ!」は音楽なしでは笑えないわけで、言葉がなくても笑えない。池田は考え抜いてあのフレーズを成功させたんだよね。音楽的に優れてるやつが考え抜けば、音楽と笑いのミックスは不可能ではないってこと。

フロイトと人間国宝は同意見

それこそエノケン・ロッパの頃から、ドリフターズ、クレージーキャッツから何から、バンドマンがコメディをやるのが当たり前だったわけだけど、それはどう考えても笑いがリズム感を必要とするものだからなんだよね。リズム感のない人が同じセリフを同じ声量で言ったとしても面白くはならない。タイミングが違うんですよ。そういう意味で、笑いには音楽的な素養が絶対必要になってくる。実際に音楽をやっているかは別として。

──共通するセンスとしてのリズム感ですね。

面白いもので、ツッコミは何回か舞台を重ねるうちに「ここウケないな」という部分のタイミングをだんだん調整していくから、「ここだ!」っていうタイミングが見つかるわけ。そうして1回ドカンとウケたら、二度とそのリズムとタイミングを外さないんだよね。もう食らいついたら離さないオオカミみたいな連中だから、ツッコミは(笑)。でも、ボケの人はやっぱり揺れるよね。きたろうさんはなんかモニャモニャ言ってるし、斉木さんは毎回全然違うことをやってるし(笑)。斉木さんは絶対音感を持っているからちょっと別格な人だけど、きたろうさんはやっぱり音痴ですよ。リズム感もひどいひどい(笑)。でも、だからこそ常にツッコミを惑わすことが言えるし、こっちも飽きない。どれだけ揺さぶられてもジャストのところにうまくセリフを持ってきて落とすのが、俺たちツッコミの役割だと思うんだよね。

──ツッコミという鉄壁のリズム隊の上で、ボケがギターソロを弾いてる感じでしょうか。

それも変なギターを弾いてるんだよ(笑)。それでもちゃんと32小節に収めるのがツッコミの役割で。お客さんもちゃんと8の倍数の小節数で終われば気持ちいいということが確実にあると思うんです。きたろうさんは俺の師匠なんだけど、師匠から教わったことが1つだけあって、「ボケやツッコミのタイミングを外しそうになったら咳をしろ。客にはほぼ聞こえないから大丈夫」と。セリフの前に自分だけの間を作るということなんだけど、これをやると確実にウケる。

──リズムが上滑りしそうなところにブレイクを入れる感じですか。

そうだね。その間を入れることで感情も入っていくから、セリフも複雑になる。音楽やテンポがあるから、人間がそういう気持ちになっていくと考えたほうが科学的かもね。

──型に人間が合わせていくと。

そうそう。その型を利用して笑いが生まれやすくするというのが僕らの仕事なんだろうな。

──以前、芸人さんの出囃子について取材したことがあるんですが、ニューヨークのお二人が「漫才をするときはアップテンポの曲じゃないと出て行きづらい。空気階段みたいにゆっくりした曲を出囃子に使えるのはコント師ならではでカッコいい」というようなことをおっしゃってました。空気階段はじゃがたらの「タンゴ」を使っているんです。

へー、じゃがたらなんだ。

──やはり、その芸にハマるテンポ、BPMというのがあるんだなと。

それは絶対そうだよね。僕がピン芸をやるときはリントン・クウェシ・ジョンソンが「ジョージ・リンド!」って叫んでる曲(「It Dread Inna Inglan(For George Lindo)」)を使ってたんだけど、まず自分がアガる。それでシリアスな感じにしておいて、ひと言目で落とすと客もこっちの味方になるというか。お笑いに限らず、歌舞伎でもなんでも舞台には出囃子というものがあるから、ある種、動物を制御するための手段ですよね。

──劇場空間を整備・調整するために音楽が機能しているんですね。

言葉ならざるメッセージなんだよね。でも、リズム感をセンスのない人に教えることはすごく難しい。「ちょっと早いな」と思ったら稽古場では直せるけど、根本的には無理。フロイトも「センス・オブ・ユーモアは生まれつきのものだ」と言うんだけど、そのセンス・オブ・ユーモアの中にはリズム感も含まれてると思う。俺がもう1人尊敬してやまない竹本住太夫師匠という、人形浄瑠璃の人間国宝だった人がいるんだけど、異常な量の稽古をしてるんですよ。何十年と稽古を重ねて鍛えているという面白い話が聞けたんだけど、最後に「まあ、芸は生まれつきやね」と言ったんだよ。

──そんな残酷な!(笑)

泣かせるにせよ笑わせるにせよ、そういうふうに生まれてきてる人がいるから、いかにそれをさらなる高みに持っていくか、ということだと。驚いたよね(笑)。でも、芸とはそういうものなんだろうなと思いました。

思考停止のタップダンス

──大竹さんがご自身のラジオで宮沢さんのお話をされてたんですが、「宮沢は緞帳という言葉も知らなかった」とおっしゃっていました。ある種の「素人だけどやる」というスタンスは、時代的にもパンク / ニューウェイブ的な価値観の影響があったかと思うんですが、いかがですか?

うん、80年代は「やっちゃえ」という風潮があったよね。それに金を出すプロデューサーもいたし。何もないところから作り出すという意味ではヒップホップ的でもあるよね。今だってそれこそ明日のアーとか東葛スポーツとか、劇場じゃない場所で公演をやりたがる。そういう何もないところから生まれるものを観にいくのは、自分たちもそこから出てきたからなんだよ。

──当時はNSCができたばかりで、まだ演芸的な徒弟制度が根強い中、いとうさんはそこからも自由な出自で。

そういうのが嫌だと思ってたから。のちに僕は長いこと住むことになるけど、当時の浅草は古びていてひどい状態だった。もちろん、そっちの演芸の世界でも音楽は大事にされてたから、(ビート)たけしさんはタップを習ったわけなんだけど、そのあとの世代はなんでタップを習ってるのかわからなくなっていたと思うんだよ。タップでリズム感を養うことが大事だよってことでしょ。

──この連載でヒコロヒーさんが「(ほかの芸人のライブを見て)『あの音楽の使い方は痺れたな』というのはあまり思い浮かばないんですよね。でも、それは選曲がいいからだと思うんです。(中略)逆はめちゃくちゃあるんですよ。『このライブ、音楽ダサッ』っていう(笑)」(参照:第3回 ヒコロヒーから考える「お笑いライブと音楽」)とおっしゃっていて。浅草のタップと同じで、「ライブの幕間には音楽をかけるものでしょ?」という思考停止に陥っているとむしろマイナスになるというか。

「なんか曲かけとけばいいよね」となると、そういう状態になっちゃうよね。テンポにしても、音色にしても、曲をかけるタイミングにしても、正解があるはずだから。

──ラジカルが最初にこの手法を発明したときには、そうすべき明確な理由があったわけですよね。

やっぱり稽古場が豊かだったということなんだと思う。宮沢さんがコントの設定を持ってきても、なかなか稽古が始まらない。「こういうふうにやると見たことある感じになっちゃうな」「あの映画で似たシーンがあるぞ」みたいな話を延々としてるの。そのうち「じゃあ、こうしたらいいんじゃないか」となって、ようやく立つんだよね。それは本当にクリエイティブな空間だった。僕は講談社を2年半で退職するんだけど、そのときの夢はラジカルのみんなで同じ家に住んで、7段ベッドに寝て毎日コントのことを考えるという生活だったんだよ。

──「僕たちずっと一緒だよ」という(笑)。

今考えるといかにも子供っぽいけど、本人たちにも言ってたからね。「このちっちゃい子は何言ってるんだろう」って感じだっただろうけど(笑)。やっぱり「ずっと考える」という場がよかったんだよな。

本当に面白いものは簡単には観られない

──ラジカルの当時の公演映像はソフト化されていません。

裏ビデオみたいにダビングされた映像が、どこからか回ってきたって(カンニング)竹山くんが言ってた(笑)。宮沢さんが亡くなっちゃったから、どうにかして観れるようにしようかなとも思っているけど、今観ると昔なりの演技力と構成だし、音楽の音量の問題とかも含めて、観れないほうがいいのかなとも思うんだよね。

──伝説は伝説のままにしておくほうがいい、というか。

そのほうがみんなクリエイティブな状態でいてくれるから。全部観れちゃうというのも面白くないじゃない。今度ダウ90000とAマッソが一緒にやって、俺も関わってるんだけど、やつらは「配信もしないしSNSにも投稿禁止のネタを1つやる」ということを最初に決めてたね。まだ何もできあがっていないのに(笑)。Twitterにも書いたんだけど、俺がシティボーイズで一番好きなのは「ハッスル智恵子ショー」というネタなんだけど、DVDでは唯一カットされてるんだよ。

あんなに公演がDVD化されていて、それを観て芸人になった人も多いシティボーイズの一番面白いコントがどこにも残っていないという(笑)。これがすごく大事なことだよね。「どんな内容だったんだろう」と想像できることこそが財産だと思う。

──ラジカルが観られなかったからこそ、下の世代の想像力が刺激されたというのはありますよね。あと、宮沢さんがラジカルとベクトルの違う演劇に進んだことも大きいのかなと。

それはあると思う。宮沢さんたちと笑いの科学者になってずっと考えてるような、あのクリエイティブな感じをまたやりたいと思っていて。大北とかテニスコートとYouTubeでコントを一緒に作ったりしてるんだけど、あのメソッドを手渡したいとも思うしね。やっぱりいつまで経っても、笑いはチャレンジングですよ。

いとうせいこう

1961年3月19日生まれ、東京都出身。早稲田大学在学中からピン芸人としての活動を始動し、情報誌「Hot-Dog PRESS」などの編集を経て、1985年に宮沢章夫、シティボーイズ、竹中直人、中村有志らと演劇ユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を結成。1988年に小説「ノーライフキング」を発表し、その後も「想像ラジオ」「鼻に挟み撃ち」などが芥川賞候補となった。ジャパニーズヒップホップの先駆者としても知られ、2009年には□□□に正式メンバーとして加入。現在は、□□□、いとうせいこう is the poetで活動中。テレビ番組への出演など、その活動は多岐にわたる。

※記事初出時、本文と画像のキャプションに誤りがありました。お詫びして訂正いたします。

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