西寺郷太が日本のポピュラーミュージックの名曲を毎回1曲選び、アーティスト目線でソングライティングやアレンジについて解説する連載「西寺郷太のPOP FOCUS」。NONA REEVESのフロントマンであり、音楽プロデューサーとしても活躍しながら、80年代音楽の伝承者としてさまざまなメディアに出演する西寺が私論も盛り込みながら、愛するポップソングを紹介する。
第29回では、1999年にリリースされた宇多田ヒカルの「First Love」にフォーカス。国内外のさまざまなアーティストに歌い継がれ、近年Netflixのドラマの題材にもなったラブバラードの魅力を紐解いていく。
文 / 西寺郷太(NONA REEVES) イラスト / しまおまほ
ジャネット・ジャクソンの新曲かな
宇多田ヒカルさんのデビューシングル「Automatic」がリリースされたのは1998年12月9日。初めて耳にしたのは年をまたいだ翌年の1月頃だと思うんですが、聴いた瞬間のシチュエーションを鮮やかに覚えていて。その頃の自分はデビューして丸1年が過ぎ、25歳になったばかり。インディーズでアルバムを2枚発表し、メジャーと契約後、シングルやEPと呼ばれるミニアルバムを3枚重ねて、ようやく1stアルバム「ANIMATION」(1999年2月5日リリース)が発表される、ということで日々雑誌の取材を受けたり全国のラジオ局を回ったりキャンペーンをしていました。CDはすでに多数リリースしてましたが、「はじめまして」の土地や局ももちろんあったりして気分はまだ新人、若手というモードで。TBSのラジオ番組に呼んでいただいたとき、9階のエレベーターを降りて歩いている最中に耳に飛び込んで来たのが「Automatic」だったんです。
ラジオ局って天井にスピーカーが埋め込まれていて現在進行形で小さく放送が流れているんですが、デパートの店内放送みたいに聞こえる場所と聞こえない場所もあるんです。完全には集中できない中で、最初「あれ? 知らない曲だけど、声は知ってる。あ! ジャネット・ジャクソンの新曲かな?」と思ったんですよ。グルーヴ感や響きが心地よくて真っ先にそう感じたんです。で、ちょっと意識を曲に向けたときに「あれ? 日本語だ」と途中で気付いて「えっ?」と。それでラジオ局の方に「歌っているのは誰ですか?」と聞くと「新人の宇多田ヒカルさんです。まだ15歳みたいですよ」と……。驚きましたね。90年代の女性R&Bシンガーの主流には、ホイットニー・ヒューストンのような驚異的な歌唱力で聴衆を陶酔と興奮の渦に巻き込んでゆく正統派タイプと、ビートに心地よく寄り添ってウィスパー的なボーカルの旨みを軽やかに乗せていくジャネットのようなタイプの2つが存在しましたが、宇多田さんは後者だとそのときは感じました。
最大のポイントは「タバコの flavor」
その後、1999年の彼女の大爆発は日本のポップミュージック史上でも比類なきもの。16歳の誕生日を迎えてすぐの2月17日に2ndシングルの「Movin' on without you」がリリースされ大ヒットした勢いの中、3月10日に発売された1stアルバム「First Love」は累計売上枚数約767万枚という途方もない記録を打ち立てられています。全曲作詞・作曲されているということで僕も当時、手に入れて聴き込んだのですが、まず驚いたのが3rdシングルの表題曲でアルバムのタイトルにもなった「First Love」の構成でした。
「First Love」がレコーディングされたのは宇多田さんが14歳から15歳の終わりのタイミングとのことですが、まずは21秒のフェイク混じりのイントロのあと、歌い出した最初の2行の歌詞、「最後のキスはタバコの flavor がしたニガくてせつない香り」に引き込まれました。短い2行の間に「最後のキス」、つまり恋愛関係が終わって回想するそれまでの2人の時間を想像させる情景と実際の唇を合わせた“触覚”、「タバコの flavor」という舌を通じた“味覚”、「タバコ」の白くて細長いイメージ“視覚”、「ニガくてせつない香り」という「嗅覚」、など五感の多くを巧みに刺激している。そのうえで、「その若さでこの歌詞を書ける? 歌う?」という驚きを聴く側(リスナー)に与える衝撃的な導入部。最大のポイントは「タバコの flavor」というある種の造語だと思います。もし「flavor」という言葉を選ばなければ演歌やそれまでの歌謡曲の失恋ソングにでも登場しそうな、いわゆるベタなシチュエーションでもあって。それをネイティブな宇多田さんがスタートして早々「タバコの flavor」と歌うことで99年の音楽として響かせることに成功しているのではないでしょうか。
初恋を表現し尽くしている
例えばカラオケなどで歌った場合でも、始まってすぐに歌の主人公の立場へと没入できる素晴らしいAメロです。もっとこの切ない心地よさ、“傷付いた快楽”を味わっていたい、そんなふうにも思うほどです。でも、僕が今でも本当にすごいと思うのは、この次の展開です。ソングライターとして予測して聴いた場合、典型的なバラードの作りであればこのAメロのフレーズのあとにもう1度同じメロディが繰り返される?と思ったのですが、この2行を歌い終わり43秒に到達した時点で予想に反してすぐに「明日の今頃には」とBメロに突入! このタイミングでイントロから続いてきたコード進行が変化するので感傷に浸れずいきなりドキッとしてしまう。そして、1分5秒で「You are always gonna be my love」と歌われるサビに到達するという、このスピード感!
バラードという形態はテンポが遅いので(例えばこの曲の場合はBPM90)、安易に作ると自然にAメロからサビまでの展開はアップテンポの楽曲より時間的に長くなってしまうもの。しかし「First Love」はスタンダードでオーソドックスな美しいメロディと歌詞のラブバラードでありながらその構成の切り替えの早さで、ミドルティーンの少女が味わった初恋の終わりの哀しみ、主人公が持つ性急な心の動きの儚さを自然に伝えている。大人の恋じゃない。2番のBメロで「明日の今頃にはわたしはきっと泣いてる あなたを想っているんだろう」という歌詞が選ばれています。初めての恋が終わって大切な人が去っていったことの重大さはわかりつつもまだ涙を流していない、まだどうしていいかわからなくて呆然としている、明日の今頃、わたしは泣いているだろう、それは予測できる。少女ならではの心の動きがリアルに伝わってきます。
その後の「いつか誰かとまた恋に落ちても I'll remember to love You taught me how」、和訳すると「愛することを忘れないよ、あなたはその方法を私に教えてくれた」というサビの歌詞もメロディも素晴らし過ぎて……。当時も体中に電流がワーっと走ったような感覚になったものですが、来年でリリースから四半世紀という長い時間が過ぎても何ひとつ揺るがない完成度、聴く者の心の1つひとつの細胞に美しい水のように染み渡るボーカルにはため息しか出ません。この曲はタイトルの「First Love」という言葉を歌詞に直接的には織り込んではいませんが、まさに楽曲全体で初恋のありさまを表現し尽くしている。登場した時点で凡百のバラード作家との圧倒的の差を見せつけた永遠のマスターピースだと思います。
ドライバーとの日常会話
宇多田さんの長いキャリアの中で大名曲は無数にありますが、特にアッパーな曲で今も大好きな曲が9枚目のシングルが「traveling」。この曲はリズミックなメロディに巧みに乗せられた日本語詞が素晴らし過ぎて。まず印象的なのが、それまでJ-POPの歌詞には使われなかったようなタクシーのドライバーとの日常会話。例えば「どちらまで行かれます?」「ちょっとそこまで」「不景気で困ります」「閉めます」「ドアに注意」と言ったテンポのいい現代的なフレーズからは腰を屈めてタクシーに乗り込む情景が否が応にも浮かんできます。それが一種この曲「traveling」が全体的に持つ異空間への“旅”、アミューズメントパークのアトラクション的な世界に聴く者が自発的に参加してゆくための合図のような効果を演出していると思うんです。
そしてBメロではそれまでのタクシーでの現代の日常会話から突然古典のような言葉遣い「春の夜の夢のごとし」を混ぜることで単なる横空間の移動だけでなく時間軸さえ歪めた「traveling」感を演出する巧みさ。そのうえで総じて若い女性ゆえのユーモラスなかわいさと、いい意味でのセクシーさ「若さ故にすぐにチラリ」「胸を」「寄せて」「いつもより 目立っちゃおう」を織り交ぜたリリック。曲が進み歌詞のフレーズを少しずつ理解、深読みしようとするごとに、さまざまなベクトルに心を揺さぶられ、結果的にエンディングまで心地よいグルーヴで“連れていかれて”しまう。改めてチェックしてみると使われる英語の単語は印象的なサビの「traveling」のみ。あとはすべて言葉としては自然でありながら彼女独自の譜割りでメロディに乗せた日本語のみ。バイリンガルの宇多田さんならではの自由自在な日本語詞の乗せ方は本当に発明家の領域です。
“宇多田革命”でダメージを食らったのは
90年代末に宇多田さんが登場して、起こした日本のポップミュージック界の革命、そのすべてがいいことばかりだとは思っているんですが、唯一ダメージを食らったのが僕らのような自分では立ち位置的に“若手”“新勢力”と思っていた20代前半くらいまでのバンドやアーティストではないでしょうか。なんだかんだ自分の作詞や作曲、音楽制作の中での言い訳がまったく通用しない天才が、自分よりも歳下のミドルティーンで登場してしまったわけですから。
例えば僕はもともとプリンスが大好きで、プリンスと同じミネアポリスという街から登場した彼の仲間、The Timeというバンドから独立したジャム&ルイスというプロデュースチームの信奉者でした。80年代から90年代を代表するプロデューサーのジャム&ルイス、ジミー・ジャムとテリー・ルイスこそが、本稿の最初で僕が名前を挙げたジャネット・ジャクソンのプロデューサーなわけですが、宇多田さんはデビューアルバムの成功を受けて1999年11月にリリースした4枚目のシングル「Addicted To You」、翌年発売した5枚目のシングル「Wait & See ~リスク~」も彼らにプロデュースを依頼し、ミネアポリスのフライト・タイム・スタジオに合宿のような形で旅をして一緒に作られているんです。アメリカやイギリスの素晴らしいアーティストへの憧れのようなもの、探究心、本を読んだり、アルバムを買っては聴き込んだり、エピソードを集めたり、という中で少しずつ階段を登ってミュージシャンになった自分のような世代。90年代前半から半ばの渋谷系などと呼ばれたムーブメントは一種の世界的に見ても濃厚な音楽マニアたちが上手になんとか和洋折衷、お互いの文化のいいところを混ぜようと試行錯誤する中で生まれてきたものだと思っています。海の向こうに憧れてなんとか手を伸ばして……。そんな中、実際ミネアポリスで一緒にジャム&ルイスとぶつかり合って曲作りをしたうえで、マニアックな愉しみに終わらず日本中を熱狂させているとなると磁場が狂います。常に自分の心に正直に攻めたうえで大衆に愛されるという宇多田さんの鮮烈な登場と、今に至るキャリアには尊敬の念しかありません。褒めてばかりですが(笑)。
累計売上枚数767万枚という1stアルバムの特大ヒットは、CD文化の円熟期、1999年という時代の波、人々の要請にジャストでマッチングしたからこその記録という側面もあるでしょう。ただし、やはり作詞・作曲・ミックスなどの面で驚異的なクオリティを誇りつつ、実質「大衆に気に入られよう」とまったく媚びた作りではない宇多田さんの楽曲がこれほどまでに日本中の老若男女に愛されたという事実こそが、音楽を聴き、愛する側の“一般の人々”の感覚が信じられるものだという証ではないでしょうか。日本中のミュージシャン、ソングライターの逃げ場や言い訳を許さなくした大きな存在。2020年代の音楽シーンを台頭する藤井風さんにも同じことを感じたのですが、何年かに一度本当に音楽業界に変革を起こすすさまじいアーティストが現れることは素晴らしいことだと改めて思います。
西寺郷太(ニシデラゴウタ)
1973年生まれ、NONA REEVESのボーカリストとして活躍する一方、他アーティストのプロデュースや楽曲提供も多数行っている。2020年7月には2ndソロアルバム「Funkvision」、2021年9月にはバンドでアルバム「Discography」をリリースした。文筆家としても活躍し、著書は「新しい『マイケル・ジャクソン』の教科書」「プリンス論」「伝わるノートマジック」「90's ナインティーズ」など。近年では1980年代音楽の伝承者としてテレビやラジオ番組などに多数出演している。2023年3月、3rdソロアルバム「Sunset Rain」リリース。
しまおまほ
1978年東京生まれの作家、イラストレーター。多摩美術大学在学中の1997年にマンガ「女子高生ゴリコ」で作家デビューを果たす。以降「タビリオン」「ぼんやり小町」「しまおまほのひとりオリーブ調査隊」「まほちゃんの家」「漫画真帆ちゃん」「ガールフレンド」「スーベニア」「家族って」といった著作を発表。最新刊は「しまおまほのおしえてコドモNOW!」。イベントやラジオ番組にも多数出演している。父は写真家の島尾伸三、母は写真家の潮田登久子、祖父は小説家の島尾敏雄。