音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く「あの人に聞くデビューの話」。この連載では多種多様なデビューの形と、それにまつわる物語をじっくりと掘り下げていく。第3回は小泉今日子をゲストに迎え、“花の82年組”としてアイドルデビューを飾った当時を振り返ってもらった。
取材・文 / 松永良平 撮影 / 小財美香子
アイドル豊作の年だった1982年の3月21日、シングル「私の16才」でデビューしてから42年。小泉今日子ほど変化に富んで濃厚な人生を歩んだアイドルは、ほかにはいない。だが、同時にこうも思う。どんな新しいステップでも小泉今日子は自分そのものであり続けながら、さまざまな形でのデビューを繰り返しているのだと。自分のデビューにまつわる話は、5thシングル「まっ赤な女の子」(1983年)で突然髪を切ったエピソードばかり取り上げられると、彼女は笑った。逆に言えば、「髪を切った」以外の切り口でデビュー当時の状況や心境をここまで語ってもらう機会は稀なことかもしれない。改めて聞いてみたい。小泉今日子にとってのデビューとは、どんな意味を持っているのか。そしてなぜ何度でも新鮮な気持ちで新たなことにデビューできるのか。
デビュー記念日に対する思い
──この連載では、人それぞれのいろいろなデビューのかたちを聞きたいと思ってるんです。小泉さんには、1982年にアイドルとしてデビューされたということはもちろん、俳優、作詞家、文筆家、プロデューサー、そして、自身の事務所である株式会社明後日の社長として、さまざまなデビューがありますよね。そういうお話を聞かせてください。もちろん、アイドルデビュー当時のお話なんて何回も話す機会があっただろうとは思ってますが。
でも、私のそういう話って、たいていデビューしてしばらくして髪を切ったっていうエピソードなんですよ。それを42年経っても書かれる(笑)。
──今年のデビュー記念日(2024年3月21日)は上田ケンジさんとのユニットである黒猫同盟として、京都の磔磔でライブをされてました。一昨年(2022年3月21日)は、デビュー40周年のソロツアー「KKPP(Kyoko Koizumi Pop Party)」の東京・中野サンプラザホール公演でしたね。
そうでした。うちの事務所の音楽面を担当してくれるデスクの子が「デビュー日は何かしたほうがいいです」って言ってくれて、毎年いろいろ動いてくれるんです。私自身はそんなにデビュー日を意識したことがなかったけど、自分もBTSを好きになったりして、彼らがデビュー記念日に何か必ずやってくれるのを毎年すごく楽しみにしているから、今はその気持ちがわかる(笑)。
──デビュー記念日とは言われるけど、もちろん自分で決めたわけじゃないし、それがずっと自分についてくるっていうのは不思議な体験なんだろうなと思います。
ずっと活動してくると、いよいよ意味を持ち始めてきたなっていう感覚です。当時は、毎年3月デビューの新人は所属するレコード会社のイチ推しみたいな感じがあったみたい。新人賞レースみたいなものも見据えて、年度末にデビューする新人が一番準備をかけて売り出されるみたいな風潮がありましたね。
「スター誕生!」を勝ち抜き芸能界へ
──では、まずは歌手デビューの頃のお話を。小泉さんは、テレビのオーディション番組として当時アイドルの登竜門だった「スター誕生!」(日本テレビ系)に出演されています。
最初に予選に出たときは14歳だったかな。決戦大会のときは15歳だったかもしれない。予選は1人で行ったんですよ。受かるとも思ってないし、「別に親とか関係ないじゃん」って思っていたから、親と一緒に行くのも恥ずかしくて。「親御さんは?」って聞かれて、「1人で来ました」と言ったら「なんで?」っていう反応でした。「親から自立したいから来てるのに」と私は思ってました(笑)。
──「スター誕生!」の決勝って、収録後にそのまま事務所やレコード会社の人と面談するというシステムだったんですか。
会場が後楽園ホールで、卒業式の前の日だったのは覚えています。だから、卒業式に遅刻した(笑)。決戦大会って何社かプラカードを挙げるんですよね。そういう人たち皆さんと面談しないといけない。中森明菜ちゃんなんて10何社とか挙がっていたから、すごく大変だったと思います。私は3社だけだったんで楽でしたけど(笑)。でも、その面談が終わって帰るのが遅くなっちゃったんです。決勝に受かったあと、親を交えて事務所の人と面談とかいろいろあって。遅くなったので、母が本厚木駅の近くでやっていたスナックの2階に泊まりました。翌朝、母が起こしてくれるかなと思ったら全然起こしてくれなくて。母も普段スナックで働いてるから夜型でね(笑)。起きたらもう卒業式が始まってる時間だったの。本当は、家に戻って制服に着替えて、ばっちりブローして、万全の状態で行きたかったんですけど、髪もとかさず。席に座ったら後ろに座っている女の子が「ねえ、髪ぼさぼさ!」って髪をとかしてくれて(笑)。そんな思い出が今よみがえってきました。
──面談でどんな話をされたか覚えています?
何を話したかあんまり覚えてないけど、母と一緒にレコード会社の人と話をしたとき、帰り道で母が「ねえ、さっきの人、歌手の飯田久彦じゃない?」って聞いてきたんです。「誰それ?」って私が言ったら、「『ルイジアナ・ママ』、知らないの?」って。当時、飯田さんはビクターの部長さんだったんです。自分が具体的に何を言われたかよりも、母が飯田さんに対して急に色めき立ったことを覚えているっていう(笑)。
──レコード会社はビクター、所属事務所はバーニングプロダクションに決まります。
どうしてバーニングプロダクションに決めたかっていうと、姉が郷ひろみさんの大ファンだったから。(当時所属だった)郷ひろみさんも石野真子さんも好きだったし、ほかにも高田みづえさんや細川たかしさんがいて、全員知ってる人だから危なくないかもって思ったんです(笑)。
──そこからデビューに向けての準備が始まるわけですね。
レッスン期間があって、1年後くらいにレコードデビューしました。当時は芸能界の様子が今とは全然違って、タレントさんがそこまで大事にされるっていうわけでもなかったと思います。私もデビュー後しばらくの間はマネージャーがいなくて、番組の収録が遅く終わったりすると、同じ番組に出演されていた細川たかしさんや郷ひろみさんを送迎する車に一緒に乗せてもらってこいって言われて。電車がある時間だったら1人で帰れると思っていたんですけど、収録の終わりが21時とか22時になっちゃうときは、ビクターの初代ディレクターだった高橋隆さんに厚木まで車で送っていただいてました。
──レッスン期間は主にどういうことをしていたんですか?
歌のほうは、個人でボイストレーニングをされている河野先生という方に付いてました。実家から週1で通っていたんですけど、先生のお宅は普通の一軒家だったんです。ピアノを置いたレッスン室があるんだけど、そこの障子をガラガラっと開けると茶の間があって、コタツの上にミカンとかが置いてあって、奥様が「レッスンが終ったらごはん食べていきな」って和定食みたいな食事を用意してくれて。だから、あまり大変だという気分にはならなかったですね。レッスン曲では南沙織さんが一番印象に残っています。「純潔」(1972年)だったかな。あとは高田みづえさんの曲とか。バーニングの先輩方の曲をあえて課題曲にしていたのかもしれないですけど。先生には、スタッカートでの歌い方とか、いろんな方法があると教えてもらいました。
──そこで基礎を学んで。
自分の中では歌と比べて、ダンスのほうがちょっと嫌だったな。日テレ音楽学院に行って練習してましたけど、ダンスなんて、ピンク・レディーの振付を真似るくらいしかやったことないから恥ずかしかったし、レッスン室に行って、先生と2人で踊るのはキツかったですね(笑)。
──その過程の中で自分に合った歌い方やアイドルとしての振る舞いを見極めていく?
そうだと思います。ひと通りの所作ができればデビュー、みたいな感じだったと思いますね。
──「スター誕生!」以前から、好きで歌っていたんですか?
「歌っていた」ってほどでもないんです。当時はカラオケもないし、好きで聴いていたっていうレベル。マイクを通した私の歌なんて、ほぼみんな聴いたことがないって感じです。遠足のバスの中で歌うようなことはあったけど。でも私には、そんなにマイクとか回ってこなかった。
デビュー当時は「暗い」と思われていた
──そして、1982年3月21日がデビュー日に決定します。デビューシングルは「私の16才」。しかし、それは1979年にリリースされていた森まどかさんの楽曲「ねえ・ねえ・ねえ」のリメイクだったという。
突然、「16才」という言葉を入れたいって周防(郁雄)さん(バーニングプロダクション代表取締役社長)が言い出したんですよね。私の場合、デビュー曲と2ndシングル「素敵なラブリーボーイ」(オリジナルは林寛子。1975年)がカバー曲で、力の入れ方が弱い感じがした……(笑)。ただ、それは自分がいけなかったと思うんです。私は、あんまりキャピキャピしてない落ち着いたタイプだったから「暗い」と思われていたんでしょうね。当時、世の中はキャピキャピ時代に入っていた中で、私は「●●さ~ん、おはようございま~す♡」とか絶対に言えないよな、と思ってました(笑)。
──「暗い」というほどではなかったですけど、おとなしくて無口な印象が、デビュー当時に使われた「微笑少女。君の笑顔が好きだ」というキャッチコピーの「微笑少女」というフレーズにつながっているのかも?
実際、家族の中でもそんなにいっぱいしゃべるほうでもなかったから、しょうがないよなと思っていました。2代目のディレクターとして田村充義さん(1983年の5thシングル「まっ赤な女の子」から10年以上にわたり小泉のディレクターを務めた)になって、やっと普通に話ができるようになって。「普段、どういう音楽を聴いてるの?」とか田村さんは音楽の話をしてくれました。それで「こういうのが好きです!」って話し始めたら「なんだ、このオタクは!」みたいな感じで驚かれて(笑)。
──田村さんも、アイドル歌手を担当するのは初めてだったんですよね。それまで担当していたのは、東京ロッカーズのオムニバス盤や山田邦子とか。
あと、スペクトラムやコスミック・インベンション、嘉門達夫(現・嘉門タツオ)さんとか。アイドルは本当に初めてだったんです。
──その出会いも巡り合わせですよね。
そうですね。高橋さんのディレクションで4枚のシングルを出した最初の1年間もすごく重要だったかもって、あとから思いました。最初からショートカットで「まっ赤な女の子」を歌っていたら埋もれていたかも。あのじわーっとしている1年間から「まっ赤な女の子」へのジャンプを、すごくみんなが面白いって思ってくれたから。しかも初期の曲って、私の声には合ってるんです。「私の16才」も今、大人になってライブで歌ったら「すごくいい歌じゃん」って思う感覚もあって(笑)。
──実は、高橋さんは「私の16才」でBoney M.っぽい四つ打ちのディスコを意識されていたんですよね。
そう! だから私、「KKPP」のツアーをやるときにハウスの「FADE OUT」と「私の16才」の2曲を絶対にメドレーでつなげたいと思って、それを実現したんです。
──あれは見事でしたね。過去に戻っていくんだけど、実はキョンキョンは最初から未来に進んでいた、というふうに思えました。そして、アイドルって普通は仕事が終わったら「お疲れ様でした!」だけど、小泉さんはスタジオに残って、いろんな人の話を聞くのが好きだったみたいな話もありますよね。
そうです。デビュー当時は憧れの世界に入っていくのと自立できたっていう喜びが入り混じったけど、毎日興味津々って感じで。黙っていろんなものを見ていました。ドラマのリハーサルが終わっても、ほかの人のお芝居を見たくてずっと残っていたりしましたね。
「早く自立したい」という感覚が漠然とあった
──10代で芸能界デビューというのは、いろんな人がうごめく巨大な世界に入っていくわけだし、普通だったらワケのわからない世界に取り込まれていく戸惑いのほうが大きいのでは?と思うんですが。
中学2年のときに父親の会社が倒産して一家離散の状態になっていたんです。姉は高校生だったからバイトとかできるんですけど、私の場合、まだバイトすらできない。親がまた新しく何かを始めるときに私の面倒を見ることが2人の足枷になったら嫌だなと思っていたから、オーディションに受かったときは、よかったなと思いました。これであまり私のことを心配しないでくれるかもって。
──デビュー=自立だったんですね。
父親は昔TBSの社員だった時代があったし、母親は芸者だったんですよね。だから親も「今日子が芸能界に入った!」みたいな興奮は一切なくて。父には「因果な商売なんだから貯金をしなさいね」と言われて、「なんで?」って聞いたら「お前が辞めたいと思ったときにお金がなかったら何も始められないぞ」って。そんな家族でしたね。普通とちょっと違うパターンですよね。
──4枚目のシングル「春風の誘惑」(1983年)リリース後に、小泉さんは聖子ちゃんカットだった髪をバッサリ切ります。そのときもご両親に相談したりとかは?
芸能活動に関して、両親に相談したことなんてほぼないです。一人暮らしで不便なことは母親に相談してましたけど。逆に会社の人に説教したことはあります(笑)。
──ははは。
当時の芸能界は、子供の収入目当てで親が通帳を握っちゃうみたいなことがよくあったみたいで。事務所の人が警戒して「こっちがいいって言うまで親に会うな」って言われたんです。「は? 何言ってるの?」と思って、「うちの親はそんなことはしないですし、自分が全部責任を持って通帳を管理するし、それでも会うなっていうなら自分も娘に会わないでもらっていいですか? 会社の人全員、子供に会わないでもらっていいですか?」って怒りました(笑)。そういう子だったから全然、かわいげなかったですね。みんな私のことを怖がってました。
──そんな小泉さんが髪を切って、従来のアイドルのイメージをどんどん更新していく。そこからは出すシングルもそうだし、最先端のクリエイターたちと組んだ表現活動など、どんどん自分で新たなデビューを繰り返している感じがあります。
歌手デビューしたけど最初は知らない世界だったから、黙って地味な歌を歌っていたあの1年間は、観察期としては正解でしたね(笑)。ずっと子供の頃から「早く自立したい」という感覚が漠然とあったんです。夜寝るときに、まだ自分の体が子供で小さいことに納得できてなかったんですよ。本当は私の足は布団のあそこまであるはずだ。そこにたどり着いたら、やっと自分の人生が始まるんだと思っていたから。当時から、自分の人生は自分のものだと思っていたんです。
<後編に続く>
小泉今日子(コイズミキョウコ)
1966年生まれ、神奈川県厚木市出身。1982年にシングル「私の16才」で歌手デビューし、「なんてったってアイドル」「学園天国」「あなたに会えてよかった」「優しい雨」など数多くのヒット曲を連発。俳優としても映画、舞台などに多数出演している。2015 年に株式会社明後日を立ち上げ、舞台・映像・音楽・出版など、ジャンルを問わずさまざまなエンタテインメント作品のプロデュースを手がける。2021 年には上田ケンジとともに音楽ユニット、黒猫同盟を結成。2022年にデビュー40 周年を迎えた。
株式会社明後日 asatte Inc.
小泉今日子 _ ビクターエンタテインメント
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