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万城目学が語るCHAGE and ASKA

万城目学
7分前2024年08月25日 3:07

各界の著名人に愛してやまないアーティストについて話を聞く連載「私と音楽」。第42回となる今回は、作家・万城目学に登場してもらった。

「鴨川ホルモー」「プリンセス・トヨトミ」「鹿男あをによし」といった作品で知られ、2023年8月刊行の「八月の御所グラウンド」で第170回直木三十五賞を受賞するなど高い評価を得ている万城目。彼が10代の頃から愛し続けているというアーティストが、本日8月25日にデビュー45周年を迎えたCHAGE and ASKAだ。

現在は無期限活動休止中だが、それぞれソロ活動を続け、いまだに根強い人気を誇っているチャゲアス。彼らの音楽に万城目はいかにして惹かれていったのか。歌詞を提供したChageの楽曲「飾りのない歌」の話も含め、その思いをたっぷりと語ってもらった。

取材・文 / 秦野邦彦 撮影 / 吉場正和

こんなすごい人たちがいるんだ

初めてCHAGE and ASKAに出会ったのは1989年、僕が中2になる前の春休みでした。「夜のヒットスタジオDELUXE」という音楽番組で「WALK」(1989年)を歌っている姿を見て、なんていい曲なんだろうと思ったんです。それでラジカセで録音した曲を自分の部屋で聴きながらASKAさんと一緒に歌ってみたところ、キーが高すぎて声が出なくて。しかもよくよく聴くと「La,la,la, 痛むのか」の部分はさらに上のキーをChageさんが歌っている。こんなすごい人たちがいるんだとびっくりしました。

当時CHAGE and ASKAは大爆発へ向かう助走がスピードアップしていた頃で、その後の「太陽と埃の中で」(1991年)などタイアップも増えて、日常の中で頻繁に耳にするようになりました。高1のときにドラマ「101回目のプロポーズ」が放送されて、主題歌「SAY YES」(1991年リリース。累計売上枚数は282.2万枚)が大ヒットしたときは誇らしい気持ちでした。カラオケでも歌いまくってましたね。この高音、出ないなと思いながら(笑)。

当時は新譜のCDは買えても、昔のアルバムまで買う余裕はなくて、学校の友達から借りてダビングしたかったんですけど、いかんせん同級生に持ってる人がいなかったんです。だからラジオでたまに昔の曲がかかるのを聴いて、それで過去の名曲を知っていくという感じでした。僕は男子校に通っていたこともあって、惚れた腫れたをおしゃれに歌われても鼻白むというか、そこに夢見ることもなくて。槇原敬之さんやKANさんみたいに等身大な感じのほうが、パッとしない我々と近いところを歌ってくれているようで好感を持てたんです。CHAGE and ASKAも世間的にはラブソングのイメージが強かったけど、普通の大人の恋愛とも違う、変な表現ですけど、どこか仏教的と言ってもいいような、泰然と構えたところがあるなと思っていて。どっしりしたところから愛を語るような、不思議な安心感や信頼感を感じ取っていました。

ステージ上で歌ってる姿を観られたらそれでいい

大学に入ってCHAGE and ASKAを好きだと言うと、みんな笑うんです。たぶんファン層は僕よりちょっと上の世代がメインで、同世代はB'zや小沢健二、Mr.Childrenのファンが多い印象でした。周りに同好の士がいないもんだから、学生時代は一度もライブに行けてなかったんです。しかも当時はチケットを買うにも徹夜で並んだり、受付開始と同時に電話したりしなくちゃいけなかったですし。そんな中、大学4回生のときにたまたまアルバイト斡旋センターで「CHAGE&ASKAのライブステージ設営」というのを見つけまして。1999年の大阪城ホール公演(「CHAGE and ASKA CONCERT TOUR 電光石火」)だったんですけど、これに行けばリハーサルを観れるんじゃないかと思って勇んで申し込んだんです。でも、いざ行ったら僕の考えが甘すぎたことが判明して……ライブの設営には3日もかかるんですよね。僕が行った日は何もないところから城のような巨大セットを作る1日目で、ひたすら重いパイプを運んで、ステージの一部ができたところで終わってしまいました。唯一、調整ブースみたいなところにどちらかのギターを持って行ったことだけがお二人との接点。たぶんChageさんのギターだったと思います。

大学卒業後は静岡の企業に就職しまして。2002年、ついに初めてCHAGE and ASKAのコンサートに行けたんです。たまたま深夜のテレビでツアー(「CHAGE and ASKA CONCERT TOUR 01>>02 NOT AT ALL」)の宣伝が流れていて、静岡市民文化会館のチケットを電話して取りました。ライブ当日は僕の25歳の誕生日でした。中2から10年以上ファンだったので、やっと会えて本当にうれしかったです。のちに結婚する妻と行ったんですけど、CHAGE and ASKAのことをよく知らない彼女は「全曲『YAH YAH YAH』でもよかった。めちゃくちゃ楽しかったから」とか言うから、なんやそれと思いましたけど(笑)。

それから時を経て2007年。幻冬舎から出した「鹿男あをによし」がまあまあ売れて、ご褒美で何か欲しいものはあるかと聞かれたので「CHAGE and ASKAのライブに行きたい」と答えたんです。そしたら幻冬舎の重役の方がかつてCHAGE and ASKA特集を組んだ「月刊カドカワ」でお二人と仕事をしたことがあり、そのツテで国立代々木競技場第一体育館のライブ(「CHAGE and ASKA Concert 2007 alive in live」)を観に行くことができまして。終演後、お二人に挨拶できるよとも言われたんですけど、「無理です。僕はまだ会えないです」と固辞しました。ステージ上で歌ってる姿を観られたらそれでいいと思っていたんです。ご挨拶する代わりに、自分のサイン本に「ずっと好きでした」というお手紙を添えて、お二人に渡してもらいました。その1週間後、妻から「柴田さんって人から年賀状が届ているよ」と言われ、見てみたら「サイン本、ありがとう!」と書いてある。「柴田さん? 誰やろ?」と一瞬考えたあと、「Chageさんだ!」と気付いたときの衝撃はすごかったです。何が起きるかわからないから、ファンレターを送るときは、自分の住所を書いておいたほうがいいですね。

Chageとの出会い、そして歌詞提供へ

結局それが、今のところ2人でやった最後のライブになってしまいました。そしてそのままデビュー30周年の2009年1月に突然、無期限活動休止を発表します。2人並んでの活動はもう見られないかもしれないと思っていたところに、2013年に再結成ライブを開催するという情報が飛び込んできて。当時、僕は「週刊文春」で「とっぴんぱらりの風太郎」という小説を2年にわたり連載していました。初めての週刊連載ということもあり、毎週締切が来るのが本当にしんどくて。そんな中、復活ライブを心の拠り所にずっとがんばってきたんです。それなのに自分が連載している週刊誌の冒頭に、復活を妨げるような記事がチラチラと載るようになって……「何やってくれてるねん」とそのときは週刊文春に対し、本当に腹を立てていました。その後ライブ中止が決まったときはがっかりしたし、腹を立てていた記事の内容も事実だとわかって、気持ちがしっちゃかめっちゃかになってしまいましたね。

そんな中、書籍化された「とっぴんぱらりの風太郎」をChageさんが読んでくださって、「すごくよかったからぜひ話を聞きたい」ということで「Chageの音道」というラジオ番組に呼んでいただいたんです。もう、信じられませんでした。アルバム「SEE YA」を映像化したビデオのオープニングに、ASKAさんがいるロンドンのスタジオにChageさんがスローモーションで入っていくシーンがあるんです。セピア色に加工された映像で、「太陽と埃の中で」のサビがゆっくりとかかる。あの映像を頭の中で流しながら、ラジオの収録ブースに入っていきました(笑)。

それから2、3年に一度の頻度で、Chageさんにお会いするようになりまして。2015年に開催された「Chage Fes 2015」のバックヤードで、出会いがしらに「今度作詞しない?」と言われたんです。あまりに恐れ多くて、「いや、しないっす」と即答しましたけど(笑)。短い文章で表現できないからダラダラと長編小説を書いているわけで、作詞は僕からするとエントリーしたこともない全然違う競技なんですよ。でも、それから、お会いするたびにChageさんは言ってくれるんです。「あなたの文章はときどき面白い日本語が出てきてとても味があるから、その不思議な感じを歌詞に反映させたらすごく面白いものができるはずだ」って。去年の年末、コロナ禍を経て5年ぶりにお会いできたんですけど、そこでも「作詞しようよ」と言ってくださって。8年経ってもまだ言ってくれるわけです。ついに「やります」と返事をしました。

爆発前の空気が充満している「ENERGY」

今年の1月に「八月の御所グラウンド」という小説で直木賞を受賞したときも、たまたま「11年ぶりに『Chageの音道』に出ないですか?」というオファーをもらっていて。受賞した1週間後にChageさんにお会いできたのはめちゃくちゃうれしかったです。2度目の「Chageの音道」には、アルバム「ENERGY」(1988年)のCDを持って行ってサインをいただきました。僕は仕事場ではいまだにCDラジカセで音楽を聴いていまして。一度セットしたら面倒でCDを替えないものですから、「8月の御所グラウンド」を書いていた半年間、毎日「ENERGY」を聴いていたんです。1曲目の「ripple ring」から、才能とエネルギーを持て余している感じがあふれていて、とにかく2人の声量がすごい。爆発前の空気が充満しているといいますか。このあと声量と高音をメロディラインに融合させる方法を見つけていくんだなと感じながら執筆していました。いただいたサインは、宛名が11年前の「万城目さん」から「マキメー」に変わっていて、だいぶ距離が縮まったなと思いましたね(笑)。

5月にレコーディングがあるということなので、それに間に合うように歌詞を作らないといけなかったんですけど、その頃は新刊「六月のぶりぶりぎっちょう」の執筆が佳境で。地獄のような締切の中で時間は全然ないんですけど、そのぶん頭はすごく動いていたのがよかったです。深夜4時ぐらいに小説の仕事が終わって、そこから朝7時までChageさんが送ってくれた音源を聴きながら詞を考えて……という日を繰り返していました。作詞の作業って本当に時間が溶けるんです。このあとの3文字をどうしようか、ああでもないこうでもないと考えていると、あっという間に時間が過ぎていく。そんな作業を数日続け、歌詞をひと通り完成させて、Chageさんに送りました。タイトルは歌詞の中の「飾りのない言葉のように」から「飾りのない歌」にして。

宇多田ヒカル、米津玄師、CHAGE and ASKA

10年前あたりのChageさんは、ライブが中止になったことなど、いろいろと責任を感じて本当に苦しんでいたんです。歌うのをやめようかと思ったときもあったそうなんですけど、「Chageのずっと細道」という“ファンがいるところならどこにでも行って歌う”というコンセプトのライブ活動を続けていくうちにどんどん強くなっていって、やがて「自分はファンのために歌うんだ」という境地にたどり着いたんじゃないかと思います。その姿を横目で見ながらすごくカッコいいなと思っていたので、そういう思いを込めた歌詞にしました。「飾りのない歌」は、そんなにいいことを書いてないんです。人生いいこともあれば悪いこともある。Chageさんだけでなく、人間は60歳を越えたら誰だって、出会いより別れのほうが多くなってくる。思った通りの展開にならないこともある。そういうことも含めながら人生を語る、すごく骨太な歌詞を提出したところ「今の自分を描いてくれてる気がする。宝物のような作品です」と言っていただけました。こんなファン冥利に尽きる言葉はないですよ。これまで30年以上にわたって莫大な量の幸せを与えてもらったわけで、わずかでも恩返しできたのではないかと思います。

僕はそろそろ50歳になりますけど、新しいことに挑戦してこんな手応えを得られるなんて、めちゃめちゃ幸運なことだと思います。そこに導いてくれたChageさんには大感謝です。作詞をするときって、他人の詞を見ても参考にならないんです。言葉の使い方も、チョイスも、その人の奥から出てくるものだから真似できない。それでも勉強がてら歌詞ばかり、特に自分よりも若い人のものを読みましたが、改めて宇多田ヒカルさんと米津玄師さんは別格ですね。簡単な言葉、みんなが知っている言葉を使って、並べ方やタイミングの妙で思わぬ効果を生む。そこが2人は突出しているなと思います。CHAGE and ASKAの詞もそうなんです。例えば「モナリザの背中よりも」というASKAさんが作詞した楽曲があるんですけど、どうしても手が届かないものを「モナリザの背中よりも遠い」と表現しているんです。「モナリザ」と「背中」という、誰もが知っている簡単な単語で、“永遠に見られない”ことを表現してしまうすごさ。僕もデビューしたばかりの頃、比喩表現を使うときは「モナリザの背中よりも」のことを思いながら、これぐらいちゃんと考えているかどうか自問自答していました。

「今の自分を見てほしい」というASKAのメッセージ

ASKAさんは、東京フィルハーモニー交響楽団と一緒にやった2018年の復帰ライブ(「ASKA PREMIUM SYMPHONIC CONCERT 2018 -THE PRIDE-」)が忘れられないです。あの日は開演前からお客さんもみんな緊張しているのが伝わってきて。果たして今日はどうなるのかと。正直なところ、前半の1時間くらいは約5年ぶりのライブともあって、ASKAさんも思うように声が出ていなかったんです。オーケストラも一番声が出ている状態のASKAさんに合わせたチューニングなので、バランスが取れていなくて。ところが後半、「君が愛を語れ」という曲を歌う前のMCで、ASKAさんが曲についてぽつりぽつりといった調子で語って、客席のみんながその言葉にふっと引き込まれる瞬間があったんです。そのとき雰囲気が変わったんですよね。ASKAさんも何かを感じたのか、突然声が出るようになって。それまでバラバラだった、ASKAさんの声と、お客さんの気持ちと、オーケストラの音が、一点に収束されていくのが見えるんです。明らかに流れが変わって、どこか懐疑的だった会場の雰囲気が一気にひとつになっていって。「YAH YAH YAH」では1コーラス目が終わったとき、1人、また1人と立ち上がり始めて、いつのまにか全員が立って、Chageさんの「胸にしまった」「季節を抱くように」のパートをお客さんが歌ったんです。ラストの「YAH YAH YAH」の部分は全員で大合唱。本来ならオーケストラ演奏なので着席して静かに聴くものなんでしょうけど、みんな拳を突き上げていて、左右を見たらみんな泣いていて……素晴らしかったですねえ。あのとき、ASKAさんは「今がすべてで、こうして歌い続ける今の自分を見てほしい」というメッセージを送っているんだろうなと、僕は感じました。

またいつか、並んで歌う2人の姿を

CHAGE and ASKAって唯一無二なんです。あれだけ売れたにもかかわらず、CHAGE and ASKAのような人たちはその後、全然出てこない。フォーク世代の最終ランナーが突然変異を繰り返して、今の姿になっていったという進化の過程を見ても、独自すぎて再現性が皆無だし、フォロワーも生まれようがない。あの2人が一緒に歌わなくなったからって、“じゃあほかの人を聴けばいい”とはならない。CHAGE and ASKAのファンは2人の歌声以外では満足できないわけです。Chageさんはご自身のライブでときどきCHAGE and ASKAの曲を歌うけど、ASKAさんのパートはゲストの方が歌うことが多いです。そのとき気付くのですが、Chageさんの声量がすごすぎて、ハモリのパートなのに存在感が大きくなりすぎてしまう。だからこそ、同じく尋常じゃない声量のASKAさんと歌うことで、見事なハーモニーが生まれる。あれだけ声の出る2人が出会い、一緒に歌うというのは奇跡と言ってもいいでしょう。1+1が2じゃなくて、4や5になる稀有な2人組なんです。

Chageさんはファンが再結成を望んでいることはもちろんわかっているから、いずれ時が来ればそうなるだろうと考えていらっしゃるように思います。我々ファンは待つしかない。もちろんそれは承知のうえなんですが、お二人が現在66歳ということを思うと、残り時間が少ないことも感じてしまいます。今年はデビュー45周年の節目の年だから、ひそかに期待していたファンも多いと思うんです。僕も代々木体育館で並んで歌う2人の姿を、1日でも早く観たい。そして一番好きな「HEART」を歌ってほしい。あの曲こそが、あり余るエネルギーと声量をどうメロディラインに昇華させるかを突き詰めた、CHAGE and ASKAの完成形のような気がするんです。

プロフィール

万城目学(マキメマナブ)

1976年生まれ、大阪府出身の小説家。「鴨川ホルモー」で第4回ボイルドエッグズ新人賞を受賞し、2006年に同作で作家デビュー。その後「プリンセス・トヨトミ」「鹿男あをによし」などヒット作を多数発表する。2023年8月に刊行された「八月の御所グラウンド」にて第170回直木三十五賞を受賞した。

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