世の中には、街の名前や地名をタイトルに冠した楽曲が数多く存在する。これまで数々の街が、多くのアーティストにインスピレーションを与えてきたことだろう。この連載では、そんな“地名をタイトルに冠した楽曲”を発表してきたアーティストに、実際にその街でインタビューを実施。「なぜその街を舞台にした曲を書こうと思ったのか」「その街からどのようなインスピレーションを受けたのか」「自分の音楽に、街や土地がどのような影響を及ぼしているのか」……そんな質問をもとに“街”と“音楽”の関係性をあぶり出していく。
第1回となる今回取り上げるのはceroの楽曲「武蔵野クルーズエキゾチカ」。2011年に7inchでリリースされ、その後配信など行われていないにもかかわらず、ファンの間で根強い人気を誇る楽曲だ。エキゾチックなサウンドとキャッチーなメロディに乗せて歌われるのは、寝落ちから目覚めた直後に観る「笑点」や、ついつい食べてしまう“ガリ梨”など、あまりに身近で取るに足らないささやかな体験たち。今のceroからは想像もつかないほどラフで自然体な魅力をまとったこの曲は、彼らが育った武蔵野でどのようにして生まれたのだろうか。取材場所は、武蔵野市・吉祥寺。奇しくも閉店目前となったルノアール吉祥寺店にて、高城晶平(Vo, Flute, G)に話を聞いた。
取材・文 / 石井佑来 撮影 / 垂水佳菜 取材協力 / ルノアール吉祥寺店
「なんでもいいから残っててくれ」
──こちらのルノアール吉祥寺店、明日で営業終了らしいですね。(※取材は3月24日に実施)
そうなんですよ。ここはほかのルノアールと雰囲気が違って、居心地がよかったので残念です。メニューもほかの店にはないものがあったりして、ちょっと独特なんですよ。昔はよく来ていたし、取材でも何度か使ってます。
──吉祥寺は、初期のceroの活動拠点とも言える場所だと思いますし、最近で言うとアルバム「e o」は、作業部屋として借りた吉祥寺のマンションの一室から制作がスタートしたんですよね。バンドとしても個人としてもとても縁深い街だと思いますが、高城さんにとって吉祥寺はどういう場所ですか?
出身が三鷹なので、もうほぼ地元という感覚ですね。チャリですぐに来れるし、なんなら犬の散歩で井の頭公園まで来ることもあって。本当に自分の一番ベーシックな部分にある場所というか。近所にこんな街があるもんだから、大学生ぐらいまでほかの街にほぼ行かなかったんですよ。僕が高校生ぐらいの頃は、今よりももっと遊べるところがありましたし。
──吉祥寺で特に思い入れの深いスポットは?
もうなくなっちゃったんですけど、珈琲家族という喫茶店は思い出深いです。商店街の中にレンガ館モールという商業施設があって、そこの3階に入っていたんですけど、10年近く通っていて。いろんな人とデモを交換したり、近くのディスクユニオンで買ったCDを聴かせ合ったり。あらぴー(荒内佑 / Key)が高校の頃に組んでいたバンドも珈琲家族という名前でした(笑)。商店街に面した窓があるんですけど、それが少し斜めになっていて、水族館みたいに街を見下ろせるんですよ。そういうところも好きでしたね。
──吉祥寺という街の魅力ってどんなところにあると思いますか?
江口寿史さんや高田渡さん、あとは楳図かずおさんとか、街のマスコットキャラクターみたいな方を当たり前のように見かけるのが面白いんですよね。ディズニーランドにミッキーマウスがいるのと同じで(笑)、ローカルヒーローたちがそのへんを普通にふらふら歩いている。そのフレーム内に一緒にいられるのが、高校生の頃とかは妙に心地よかったんです。本当にしょっちゅう見かけるから、「高田渡さんですよね!」と話しかける感じでもなくて。「またいるな~」と思いつつ、少しうれしい気持ちになっていました。
──そういった吉祥寺ならではの魅力がある一方で、時の流れとともに変化している面もおそらくありますよね。
いろんなお店がどんどんなくなってるのは感じますね。珈琲家族もそうだし、いろいろ変わっていっているなと思います。
──都心から少し離れている街ならではの文化が失われているというか。
そうですね。ドン・キホーテができ、ラウンドワンができ……街にコンプがかかっちゃったというか、平均化しつつあるような気はします。ただ、その一方で残り続けているものもちゃんとあるんですよね。今年は積極的に街歩きをしていこうと思って、少し前に吉祥寺を歩き回ったんですよ。そしたら、「これが残ってるんだ」という発見がたくさんあった。それはお店に限らず、住居やマンション含め。そういうものを見ると「このままでいてくれてありがとう」と手を合わせたくなる(笑)。もう、ただの家にすらそんな気持ちを覚えてしまうし、そのままでいてほしいと思ってしまうんですよね。「なんでもいいから残っててくれ」って。
“微妙な位置付けの東京”もあるんだよ
──今日は「武蔵野クルーズエキゾチカ」のことを中心にお聞きしたいと思っています。1stアルバム「WORLD RECORD」と2ndアルバム「My Lost City」の間に、7inchのみで発表された楽曲ですが、ご本人の中ではどんな存在の楽曲なんでしょうか?
本当にポンッて感じで作った曲なんですよね(笑)。でもceroは得てして「とりあえず出すか」というノリでリリースしたもののほうが根強い人気があったりして。「街の報せ」とか「ロープウェー」もそうだし、肩の力が抜けた曲のほうが、素の状態が出ていてウケがいいのかもしれない。「武蔵野クルーズ」は特に“ローカル”というのが1つのテーマになっていて、よりネイキッドな空気が出ているから、それも人気の理由なのかな。「あの曲はもう二度とやらないんですか?」って、いまだにいろんなところで聞かれますからね。中国でライブをやったときに「これにサインしてください」って7inchを持ってきた人がいたのは、さすがにびっくりしましたけど。
──中国でのライブに! すごいですね。制作当時のお話についてもお聞きしたいです。
「武蔵野クルーズ」は知り合いから借りたサンプラーを使ってみようと思って作った曲なんですよ。もともとはアラン・トゥーサンの「サザン・ナイツ」をサンプリングしたものにラップを乗せていて。どこに出すでもなく仲間内に聴かせたりしていたくらい。それが、確か「あれいいからライブでやろうよ」みたいな感じになっていって……あ、なんかいろいろ思い出してきた。アラン・トゥーサンバージョンではなく、バンドとして作り直そうという話になって、当時荒内くんが住んでいた西荻のアパートに集まったんだ。「21世紀の日照りの都に雨が降る」のミュージックビデオにも出てくる家なんですけど、そこにマイクを立てて、ポップガードもなかったからあらぴーの靴下をマイクに被せて。俺が歌っている隣で荒内くんの飼い猫がうんちをし始めたから、あまりの臭さにレコーディングを中断したんですよ。そんな感じで一番適当なノリでやっていた時期というか。うんちの臭さで中断したことを今急に思い出しました(笑)。
──あはははは。でも、そういうラフな雰囲気でレコーディングされたからこそ、パーソナルな出来事を歌った曲が、聴き手にダイレクトに届いてくるというのは確かにあると思います。
歌詞はほぼ日記みたいなものですからね。最初に作っていたバージョンは春の出来事について歌っていたんだけど、リリースが夏だったので歌詞を書き換えたんです。「またやっちゃいそうだよ寝煙草」という歌詞を「また食っちゃいそうだよガリ梨」に変えたりして。僕がソロで手売りした「第一岡山荘の怪物」というCD-Rがあるんですけど、それなんかはもろ日記なんですよ。曽我部(恵一)さんの1st(「曽我部恵一」)みたいな感じ。「武蔵野クルーズ」もその延長線上で作った作品です。
──タイトルに「武蔵野」という地名を冠したのはなぜでしょう?
“西東京出身”が自分たちのアイデンティティだというのを押し出している時期だったというのはあると思います。東京と言ってもいろんなレイヤーやグラデーションがあるけれど、外側からは同じ東京にしか見えていない。そういうことに徐々に気付き始めたんですよね。それまでは東京から出たことがほとんどなかったけど、「WORLD RECORD」をリリースしたあたりからライブで地方に行くことも増えて、東京という場所の見られ方を客観視するようになった。東京は東京でも三鷹から先はだいぶ景色が変わるし、“少し行けば高尾”みたいな場所って、いわゆる東京とはまた違う。そういう“微妙な位置付けの東京”もあるんだよ、ということを紹介したかったのかなあ。
──ご本人的にも西東京出身というのは、やはりアイデンティティとして強かったんですね。
その気持ちはいまだに強いかもしれないです。というか、当時は単純にそれ以外の場所を知らなかったんですよね。東京の東側は大人になってから初めて行ったけど、景色が全然違うじゃないですか。東のほうは街の作りが碁盤目状になっているけど、西東京は本当に地図がぐちゃぐちゃで。作りからして違うんですよ。だから東側のエリアに憧れる気持ちもあるけど、住んでいる感覚が想像できなくて。
エキゾと言いつつ身近な景色を
──今おっしゃったような「西東京で育ってきた」というアイデンティティはご自身の作品にどういった影響を与えていますか?
「具体的にこういった影響が」と説明するのは難しいけど、さっき言った高田渡さんや楳図かずおさんみたいなローカルヒーローとの精神的な結び付きは強いと思います。じゃあ高田渡さんと音楽的に近いことをやっているかと言うとそういうわけではないけれど、個人的にはシンパシーを感じていて。シンプルに武蔵野や吉祥寺が好きでそこにい続けている人たちと、精神的な結び付きをどう表現しようか、みたいなことはけっこう考えていました。
──武蔵野とひと口に言っても、「武蔵野市」と「武蔵野」で示す範囲が全然違うんですよね。「武蔵野」の定義については諸説ありますが、埼玉の川越までを含むことも多いらしくて。
あ、そうなんですね! 全然知らなかった(笑)。川越までというとかなり広範囲ですね。
──想像するよりもだいぶ広いですよね。
そういえば、以前ナタリーで坂本慎太郎さんと永積(崇 / ハナレグミ)さんの対談があったじゃないですか(参照:ハナレグミ「GOOD DAY」特集|ハナレグミ×坂本慎太郎、三多摩に流れる独特な空気を語る)。その対談の前日に坂本さんとお話しする機会があったんですよ。「明日、永積くんと三多摩についてしゃべるんだけど、三多摩ってなんだろうと思って、調べたんだよね」と言っていて(笑)。そのときに「なるほど、三多摩というくくりもあるのか」と思ったんですよ。国分寺あたりは三多摩でもあり、武蔵野エリアでもあるということですよね。
──おそらくそうだと思います。
なるほどなあ。どこからどこまでを指しているのかとかはあまりわからず使ってました。
──「武蔵野」という言葉を使ううえで思い浮かべていたのはやはり吉祥寺や三鷹あたりですか?
そのへんですね。当時僕は日芸(日本大学芸術学部)に通っていたんですけど、校舎が所沢だったので入曽のほうに住み始めて。そこで初めて西東京から離れたんです。ホームシックも相まってか、当時の僕は武蔵野を“近場の桃源郷”だと感じていて。エキゾと言いつつめちゃくちゃ身近な景色について歌っていたのもそういう感覚の表れです。ホームタウンであるはずの武蔵野をなぜかエキゾの対象として捉えてしまっているという妙なねじれ。それが「武蔵野クルーズ」や「WORLD RECORD」には出ているんじゃないかな。
──具体的にどこかを指しているわけではなく、概念としての武蔵野というか。
そうそう。ホームタウンとの精神的な距離を表すために「武蔵野」という言葉を使っていたんだと思います。はっぴいえんどの“風街”も、ホームタウン的なエリアの東京オリンピック以前の姿を概念化したもので、そこにある種のノスタルジーが投影されている。それと近いのかもしれないですね。あと、「TOKYO TRIBE」というストリートギャングのマンガにムサシノSARU、ブクロWU-RONZ、シンヂュクHANDSという“族”がいたんですけど、自分はムサシノSARUに一番シンパシーを覚えていて。そういうのを見て「やっぱり武蔵野っていいな」とか思ってましたね(笑)。
都心との距離感は今でもあまり変わらない
──荒内さんが、ナタリーでの「e o」の特集で、ODD Foot Worksの有元キイチさんが制作した楽曲「私は貴方」に対して「同じ東京西部の多摩川沿いの地域で育った空気感やセンチメントの在り方に、親近感が湧きました」とコメントされていたのが印象的で(参照:cero インタビュー|5年ぶりアルバムで手にしたシグネチャー、表現者5人のコメントで紐解く「e o」)。そういう“東京西部で育ってきたがゆえの空気感”は、ceroの作品に強く表れているものだと思いますか?
やっぱりそれは表れているはずだし、「武蔵野クルーズ」含め、「WORLD RECORD」の頃の曲には特にそういった感覚がダイレクトに出ていると思います。例えば、荒内くんが作った「あののか」の「新宿はあっちだね」という歌詞とかね。あれは実体験のまんまなんですよ。当時僕らはやたら高いところに行きたがっていて(笑)。あまり人が上らないような非常階段を見つけては「あれ、上れるぞ」と言って上ってみたり。
高台に行くと、都心部のビルがちょうどいい距離感にあって、それを見ながら「新宿はあっちのほうにあるんだね」という話をしたんです。お金もないし、お酒を飲む習慣もなかったから、シラフでそんなことばっかりしていた。そういう都心との距離感は今でもあまり変わってなくて。自分は今、杉並あたりに住んでいるんですけど、そこからも新宿がちょうどいい距離感で見えるんですよ。それを見ると、当時とまったく同じ気持ちになる。40歳になっても、全然変わってないなと思います。
──シラフで高いところに上っていた頃と。
全然変わってないですねえ。あれに勝る娯楽はないですよ(笑)。
──その“都心との距離感”は初期の曲の核としてあるように感じられます。「『My Lost City』には、自分たちの楽曲が図らずもシティポップと呼ばれてきたことへのアンサーが含まれている」というお話を当時よくされていましたけど、それは西東京という、都会と付かず離れずな距離感の場所にいるからこそできる表現のような気もするんです。
そうかもしれないです。僕らはいわゆるシティポップが描くような、キラキラした想像上の都市について歌っていたわけではなくて、少しずれた人の視点で身近な街の景色を歌っていたんですよね。つげ義春さんのマンガの作風に近いというか。ものすごく写実的で現実感のある景色の中に、ふわふわした人物が存在しているあの感じ。つげ義春さんも調布に住んでいらっしゃって、エリアとしては近いので、そこにもシンパシーを感じていたのかもしれない。
──ご自身の作品がシティポップと呼ばれることについてはどのように感じていたんですか?
僕自身は別に憤ったりしていなかったし、「なるほどなあ」と思っていたくらいです。それだけ概念が拡大しているんだろうなって。概念が拡大しているのであれば、それを問い直す批評的な視点を持つというのも、1つの方法としてあるかもなと。そんなことを考えながら「My Lost City」とかを作っていましたね。
“怠け”と“フロンティア精神”の合流
──今日何度か「ローカル」という言葉が出てきましたが、当時のcero周辺のシーンを考えるうえで「ローカル」は1つのキーワードのように思えます。以前ナタリーの記事で、カクバリズムの角張渉さんも「いわゆる東京インディーは“東京ローカル”という意味でもあった」という話をされていて(参照:2012年の「下北沢インディーファンクラブ」)。あの頃の西東京を中心としたシーンの盛り上がりはとても興味深かったなと。
すごい面白かったですよね。今も今で面白いシーンはあるけど、当時はみんな「売れよう」みたいなことを全然考えてなくて。「それよりも手近なアイデアで世界をひっくり返してやろう」という考えの人たちがたくさんいたんですよ。「バンド音楽とはこういうものだ」という考えが90年代に極まって、そこからどうやってスキルを上げていくか、みたいな空気があった中、僕らは「練習したくないな~、アイデアであっと言わせたいな~」と思っていて(笑)。そういう“怠け”と“フロンティア精神”が合流しているようなところがあった。もちろんそれは、良し悪しあるんですけどね。その結果、スキルフルなものが全然出てこなかったし、下の世代は鬱憤も溜まっていたはずで。2010年代中盤にSuchmosをはじめスキルフルな人たちが出てきたのは、その反動だったんだろうなって。
──2015年前後を境にシーンの潮目が劇的に変わった印象は確かにあります。ceroが「Obscure Ride」をリリースしたのもそれを象徴する出来事だったと思いますし。
その頃は、僕らもアイデア1本のところから抜け出そうともがいてましたからね。自分たちなりにゲームチェンジしようと舵を取ったのがちょうど2015年。そのあたりから空気が変わっていった実感はあります。ある方が昔Twitterで「1970~80年、1980~90年みたいなディケイドで考えるより、1975~85年、1985~95年みたいな区切りで考えたほうが実は体系立っている」ということを投稿されていて、本当にそうだなと思ったんですよ。それで言うと今は2025年だから、何かの節目になっているのかもしれない。最近そういうことをよく考えます。
──ちょうど10年前、「Obscure Ride」について高城さんは「街の猥雑さだったり、うらぶれた部分だったり、ゲスな部分だったり、そういう70年代80年代の煌びやかなシティポップが歌ってこなかったところも引っくるめて2015年の街の景色を音楽にすることができたら」とおっしゃっていました(参照:ceroは日本のポップミュージックをどう変える? 「2015年の街の景色を音楽にすることができた」)。それから10年経って、2025年の街の景色を音楽にするとしたら、どういった作品になりそうでしょうか?
うーん、難しいなあ。さっきも話したように、最近はどうしてもノスタルジーな方向に気持ちが向かってしまうんですよね。ただ、海外ツアーとかで初めての街に行くと、やっぱりいろいろ発見があって。「あ、ここはどこどこっぽいな」と思ったり、逆に日本で「この石畳は中国っぽいな」と感じたり、遠くにある街と街がつながっていくような感覚はすごく面白い。そういうある種のトリップ感のようなものを描けたら面白いだろうなと思います。
──いちリスナーとして、ぜひ聴いてみたいです。ちなみに先ほど話に出てきたファンの質問じゃないですけど、「武蔵野クルーズエキゾチカ」がライブで披露されることはもうないんですか……?
いやあ、どうだろう。解散ライブとかだったらやるかもしれない(笑)。でも、昔の曲を掘り出したりはちょいちょいしてるんで、いずれやると思いますけどね。特別なタイミングとかいつもと違う形のライブがあれば、やる可能性もなくはない……ぐらいの感じでお願いします(笑)。
──再発や配信の予定は?
今のところないけど、特に理由があるわけではないので、いずれ聴けるようにしてもいいかもしれないですね。
──当時ceroの存在を知らなくて、後追いで「『武蔵野クルーズエキゾチカ』という曲があるらしい」と知った人も大勢いると思いますし、ぜひ配信してほしいです。
そうですよね。僕ももう細かいところはけっこう忘れちゃってるし(笑)。帰ったらひさびさに聴いてみようかな。
プロフィール
高城晶平(タカギショウヘイ)
バンドceroのボーカル / ギター / フルート担当。2011年にカクバリズムより1stアルバム「WORLD RECORD」を発表した。最新作は2023年5月リリースの5thアルバム「e o」。また2020年4月にはソロプロジェクト・Shohei Takagi Parallela Botanicaの1stアルバム「Triptych」をリリースしている。
※高城晶平の「高」ははしご高が正式表記。
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