ミュージックビデオ制作をはじめ、さまざまな形で音楽に関わる映像作家たちに焦点を当てるこの連載。今回はMOROHAやBiSHをはじめ、さまざまなアーティストのドキュメンタリーやミュージックビデオを手がける映像作家・エリザベス宮地に登場してもらった。
高知県出身の宮地は、電気通信大学人間コミュニケーション学科に進学すると同時に上京。エンジニアのJ小川とタッグを組み、“ハイパーメディアクリエイティブチーム”と銘打ったプロジェクト・ドビュッシーを立ち上げる。2009年には宮地本人が射精回数でギネス記録を目指すという内容のドキュメンタリー映画「みんな夢でありました」で自身初の監督および主演を務めた。ドキュメンタリー制作を軸に活動する彼の生い立ちや仲良しの母・ジュンコさんへの思いを含め、これまでの経歴を語ってもらった。
母の隣で野島伸司ドラマを観ていた
18歳まで高知に住んでいました。僕は母のことをジュンコさんと呼んでいるのですが、ジュンコさんがドラマ好きで、録り貯めた1週間分のドラマを日曜日の午前から一気に観ていたんです。僕も隣で一緒に観ていたんですけど、小1の頃に観た野島伸司のドラマ「高校教師」の主題歌が森田童子の「ぼくたちの失敗」で。最初は「なんだこの幽霊みたいな歌声」と思っていたんですけど、気が付いたら癖になっていて。友達のお母さんから廃盤になっていた森田童子のCDをもらって、ずっと聴いていました。野島伸司のドラマはレイプ、近親相姦、いじめとか当時話題になった社会問題を全部扱っていて、幼いながらにヤバいものを観ている感覚でした。だけど、振り返れば映像を作るうえで、今だと放送できないんじゃないかと思うような題材をリアルに扱う野島伸司作品には大いに影響を受けていると思います。その時代、その頃じゃないと描けないリアリティが、少年だった自分にはとにかく刺激的でした。
中学1年生の頃にラジカセを買ったのがきっかけで、GOING STEADYやNUMBER GIRLとか当時インディーズだった音楽と出会い、どんどんと音楽にもハマっていきました。好きになる音楽もテレビ番組と一緒で、生々しくてリアルな歌詞で描かれたものが好きでした。
カンパニー松尾作品との出会い、処女作品「みんな夢でありました」
2004年に大学進学と同時に上京しました。テレビとラジオと共に思春期を過ごして「就職するなら放送関係かな」と思っていたので、なんとなく放送研究部に入って、初めてカメラを手にしました。最初は「ガキ使」(日本テレビ系「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」)みたいなお笑いショートフィルムばかりを撮っていたのですが、真面目すぎる部活の雰囲気になじめず、半年で辞めてしまいました。監督、撮影、録音、照明など、数人のスタッフで1つの作品を作るのがモットーとされていたので、当時チームプレイが苦手だった自分には映像制作は向いてない気がしました。ただ、「なんかすごいことをやりたい」っていう気持ちだけを抱えて、処女作の「みんな夢でありました」を撮り始めるまでの3年間は、1人で悶々としていました。
大学3年のときに、友達の紹介でビデオマックス調布店というアダルトビデオショップでバイトをすることになりました。それまで人生でAVを2本くらいしか観たことなかったんですが、お客さんに売るためには知識がないとダメだと思い1日7、8本は観るようになって、そこでカンパニー松尾さんの作品を知ったんです。最初に観た「パラダイス オブ トーキョー」は僕の人生において、ものすごく影響を受けた作品です。AV監督たちが女優をオーディションして選び、作品を撮り順位を決める「D-1 クライマックス」というコンテストが開かれたんですけど、そこで松尾さんは1人だけ、女性選びからハンディカメラを回してて、その時点で裏をかいていたんです。出来事に対してどうアプローチをするかという、まさにカウンターをしていた。女優との出会いから映像が始まっているから、観ているほうも没入しやすい。松尾さんと女優の距離が近付けばこちらもドキドキするし、まるで一緒に旅をしている気持ちになれた。それに2人はセックスしている以外の時間も共有しているからこそ、女優の子がどんどんかわいく見えてくる。これって何が素晴らしいかというと、女の子をかわいく撮っているからすごいんじゃないんです。女性のエロさだけじゃなくて、人となりをしっかり映しているからこそ、僕ら観ている側が感情移入する仕組みになっているんです。「この子、こんな一面があったんだ」って。それがハンディカメラ1台の強みだと思いました。映像作品はチームで作るものだと思い込んでいたので、「セルフドキュメンタリーにはこんな魅力があるのか」と思い知りました。しかも、松尾さんは曲の使い方がめちゃめちゃうまい。途中で曲が流れてMVみたいに映像が切り替わる手法も好きでした。いろんな視点から、松尾さんの作品には自分の好きなものがすべて詰まっていたんです。
松尾さんの作品を知ったのと同時期に、アダルトショップの売り上げを伸ばすために「私のあそこはベートーヴェン」というブログを開設して、店の商品を紹介しながら1年で1500回射精する企画を始めました。ブログの人気がどんどん上がっていく中、24時間の射精回数の限界にチャレンジしたギネス記録があることを知り、「これは映画のネタになるな」と思ったんです。そして、放送研究部で出会った先輩のJ小川さんと、高校時代からの同級生ガンダーラ北村を誘って僕がマスターベーションのギネス記録に挑戦する「みんな夢でありました」というセルフドキュメンタリー映画を撮ることになりました(宮地は2008年にデンマーク・コペンハーゲンで行われたマスターベーションの世界大会「マスターベータソン」に参加して、7時間に28回の射精を達成して優勝を果たした)。
同世代のバンドマンたちとの出会い
「みんな夢でありました」は最初3人で作り始めたのですが、みんな疲れちゃって最後には僕1人になってしまい、編集中に自分が映っている映像を観続けるという苦行を経験しました。その作業が本当にきつくて、自分を題材にするのはもうやめようとなり、「次は自分が好きな人たちを撮ろう」と、バンドのほうに気持ちが向きます。当時はよく吉祥寺WARPに出入りしてて、そこで乍東十四雄(のちのヤング)をはじめ、シャムキャッツ、SEBASTIAN Xらに出会い、「映像を撮らせてください」っていろんなバンドに声をかけました。まだminiDVカメラ(テープで撮るビデオカメラ)が主流の時代で、映像を撮っている人が少なかったのもあり、みんな撮影することを承諾してくれました。自分と同世代の人たちがめちゃくちゃカッコいい音楽を作って演奏していたので、それを少しでも伝えたいという気持ちが強かったです。最初に手がけたMVは、乍東十四雄からお願いされて作った「透明」という曲になります。
MOROHA「三文銭」MVにまつわる思い出
MOROHAと出会ったのは2010年のことです。知り合いのカメラマンから「MOROHAって知ってる? 彼らがMV撮ってくれる人を探してるんだけど会ってみない?」と言われて紹介されたのがきっかけでした。初めて2人に会ったのは、新宿にある珈琲西武という喫茶店。YouTubeでライブ映像を観たときは少し破天荒なイメージがあったんですけど、実際にしゃべってみると “真面目でしっかり話ができる人たち”だと思いました。それまでは乍東十四雄やSEBASTIAN Xなど、自分から声をかけた知り合いのミュージシャンのMVしか作ったことがなかったのですが、MOROHAは初めてお仕事の関係から始まったアーティストだったから、僕自身すごく気合いが入っていて。1本目の「奮い立つCDショップにて」を撮ったのが2011年3月なんですけど、すべてのカットを細かく描いた絵コンテを用意するほど、とにかく張り切っていました。そのあと2011年6月に「恩楽」のMVを撮り、しばらく期間が空いて2013年に「三文銭」のMVを撮ることになります。
「三文銭」のMVをどうするか話していると、2人から「いわゆるMVっぽいことをやりたい」と言われたんです。当初は、中型トラックの荷台で演奏する内容でした。でも撮影の1週間くらい前に「この内容は違うかもな」と思ったんです。「三文銭」の一番の魅力はライブのときの熱量だと思っていたので、「奮い立つ」のときみたいに曲を流しながらそれに合わせて演奏するスタイルだと熱量が伝わりきらないんじゃないかと。そのタイミングで「群馬ロックフェス」(現「山人音楽祭」)にMOROHAが出演することが決まっていたので、急遽イベントの数日前にアイデアを練り直して「群馬ロックフェスでのMOROHAを追ったドキュメンタリーにしたい」と提案しました。
MOROHAのMVにドキュメンタリーをぶつけた背景としては、時代性も影響していたと思います。当時、一眼レフカメラやスマートフォンが一気に普及して、誰でも高画質の映像を撮影、編集できる時代に変わって、MVも簡単に撮れるようになったんです。プロとアマチュアの線引きが曖昧になったとき、自分がMVを撮るうえで考えなければいけないのは、“音源を耳で聴くだけじゃない、映像だからこそ生まれる新たな感動”を提示することだと思いました。だからこそ、「三文銭」の魅力を広げるためにライブ映像というドキュメンタリーの手法を使いました。
MVを撮影する一方、2013年というのは映画でも印象的な出来事がありまして。音楽と映画の祭典「MOOSIC LAB 2013」に呼ばれて、「マスターベータソン」で世界チャンピオンになったその後を追ったセルフドキュメンタリー映画「ミヤジネーション」を上映しました。しかも、映画を公開したらカンパニー松尾さんが観に来てくれたんです。初めてお会いしただけでもうれしかったのに、“6年分を40分にまとめた構成”、“テンポ感”などの編集能力を褒めていただいたんです。それ以降、松尾さんの現場とか「BiSキャノンボール」(2015年公開)の撮影に呼んでもらうようになり、ドキュメンタリーの仕事がちょっとずつ増えていきました。セルフドキュメンタリーの魅力を教わった松尾さんがきっかけでドキュメンタリー制作に戻ることができたので、本当にうれしかったです。
アーティストのドキュメンタリーを作ること
ドキュメンタリーを撮るうえで、僕はアーティストだけでなくいろんな人にインタビューをします。MOROHAのドキュメンタリー「劇場版 其ノ灯、暮ラシ」(2017年公開)は、そこが顕著に現れていると思います。MOROHAの密着撮影と並行してライブを観に来ていた一般のお客さんにも声をかけ、その人の家に泊めてもらった様子も作品に収めました。MOROHAを好きな人は普段どんな暮らしを送っているのか、彼らの音楽が日々の生活の中でどのような支えになっているのか知りたかった。お客さん同様に、自分の家族や人生もMOROHAの楽曲と照らし合わせました。多角的に捉えることで、今まで見えてこなかったMOROHAの魅力を伝えられると思ったんです。
「其ノ灯、暮ラシ」を作った年にはBiSHのドキュメンタリー作品「ALL YOU NEED is PUNK and LOVE」も作りました。作品を撮ることになった発端は、「アイドルキャノンボール2017」に参加したときに僕がBiSHのメンバーのアイナ(・ジ・エンド)ちゃんに恋をしまして。本当は映像の中で告白をして、映像作家として形に残さなければいけなかったのに、フラれるのが怖くて何もできなかったんです。そのときのケジメをつけるために、渡辺(淳之介 / WACK代表)さんにプレゼンをしてドキュメンタリーを撮るチャンスをもらいました。一番大事にしたのは「BiSHのために自分ができることは何か」。ファンだったら特典会に参加したり、いろんなライブに足を運ぶことで彼女たちに貢献できる。じゃあ自分ができることは何かを考えたら、彼女たちのまだ伝わり切れてない映像を撮ることでした。……なんですけど、いざカメラを回したら「結局、アイナを撮りたいんでしょ?」と一度失ったメンバーの信頼を取り戻すのに苦労しました。「BiSHのため」と思いつつ、いつの間にか「自分のため」「映画のため」にカメラを回していたことに気付いて。セルフドキュメンタリーは、自分も含めすべての出来事が物語になり得るのですが、それが過剰になりすぎたせいで、最初の目的を見失ってしまいました。その後に作ったドキュメンタリー「SHAPE OF LOVE」で、やっと目的を果たせたと思っています。
MOROHAとみゆちゃんが作らせてくれた「バラ色の日々」のMV
僕は、自分が撮った作品はほとんど見返すことがありません。プライベートで撮った写真や映像なら、なおさらです。だけどMOROHAの「バラ色の日々」を聴いたときに、ふと昔の彼女・みゆちゃんと付き合っていた頃に撮った写真のことを思い出しました。普段はそんなことをしないんですけど、なぜか見返してみようと思ったんです。そしてサムネイルになった写真を見て、「バラ色の日々」と合うんじゃないかと閃きました。MOROHAには「ノーギャラでいいから作らせてください」と頼んで、みゆちゃんにも2年ぶりに連絡を取ってMVにする許可をもらいました。ただ……いざ自分の手で1枚1枚昔の写真をスキャンしてみたら、それが精神的にすごくキツくて「今日は編集するぞ」と思ってはできないの繰り返しだったんです。編集するときに決めていたのは、彼女への手紙にするつもりで作ること。かつテロップでは「愛してる」という言葉は絶対に使わない、という決まりを自分に課しました。それは「愛してる」という言葉を使わずに、映像でその気持ちを表現できなければ意味がないと思ったんです。だけど最終的に思いついたテロップは「みゆちゃん、あなたと過ごした日々を、愛してます。」でした。何度も、何十回も、何千時間以上も向き合った結果「愛してます。」しか出てこなかった。結局、完成にさせるまでに半年がかかりました。正直に言えば、諦めようと思ったことは何回もありました。だけどMVにすることを了承してくれたみゆちゃん、僕を信じてくれたMOROHAが原動力になっていたんです。
たまに「作品にするつもりで写真を撮っていたんですか?」と聞かれることがありますけど、そんなわけなくて。僕は会話の代わりに写真を撮っていたんです。それがみゆちゃんと交わす、コミュニケーションの1つだったんです。彼女と別れてから2年後に、音楽と写真と映像が僕に「バラ色の日々」のMVを作らせてくれた。恋愛が終わっても続く苦しさはあったけど、その先にある人生の美しさがあの作品に凝縮されている。きっと映像作家としての愛は、一般の愛とは違うと思うんです。1組の男女としては悲しい映像だったと思いますけど、何を伝えたいのかと聞かれたら“MOROHAとみゆちゃんへの感謝”なんですよ。本当に手紙のようなものだったんです。
点と点をつなげて物語を作っている
映像の仕事を始めて10年以上が経ちました。撮り続けて思うのは「人は感動なしでは生きていけない」ということです。だからこそ、みんな日常で起こった出来事の点と点をつなぎ合わせて物語を作って、そこに感動している。僕自身、それを強く求めているからこそ、現実を捉えるドキュメンタリーに強く惹かれるんだと思います。人生こそが物語そのものなんです。だけど、自分自身の物語ってよくわからないじゃないですか。自分の歩んできた人生は、物語と言えるほどの価値なんてないんじゃないか、とすら思う。僕だって、自分の人生はすごく不確かなんですよ。でも……だからこそ、僕は“あなたと出会わなければ見ることができなかった物語がある”というのを映像や写真で提示していきたいと思っています。MOROHAの「バラ色の日々」にしたって、みゆちゃんの写真を並べて、そこに曲が乗っかるだけで人は物語を感じたわけじゃないですか。「この写真は、こういう背景があったんじゃないか」って。みんな無意識に物語を考えるし、求めていると思うんですよ。星座にしても、星と星が並んでいるだけなのに「アレはさそりに見えるから、さそり座だ」と決めて神話が生まれた。同じように、僕はみんなが忘れてしまいそうなことをカメラで記録して「あなたの物語はコレなんだよ」と伝えたいです。
母・ジュンコがついた「世界で一番優しい嘘」
最後にジュンコさんとの話をしてもいいですか? 忘れられない思い出がありまして、世界で一番優しい嘘を付いてくれたことがあるんです。僕が5歳のとき、ひいばあちゃんが亡くなったんですけど、当時は死がどういうものかわからなかったんですよ。それからしばらくして、“この世で一番怖いこと”を考えたときに「地獄かな?」みたいに思い浮かべて。でも地獄に閻魔大王とか鬼がいたら、もしかしたらいい鬼がいて友達になれるかもしれない。天国には神様や天使がいて、きっと友達になれる。“この世で一番怖いこと”を考えて行き着いたのは、自分以外誰もいない世界。真っ暗な宇宙を、1人乗りの人工衛星で永遠にさまようことだろうなと。星もないから、進んでいるのかも止まっているのかも分からない。死んだらそこに行くって考えると、今でも怖いくらい。その妄想に取り憑かれちゃって、毎晩泣いていました。2段ベッドの上でお兄ちゃんが寝てたから、声を漏らさずに。通っていた小学校がすぐ近くにあるので、窓から真っ暗な校庭を眺めて、昼間遊んでいたこととかを思い出して、気持ちを落ち着かせてから寝る日々を2年くらい繰り返していて。そんなある日、家族が出かけていた日曜の夕方、家に誰もいなかったときに居間で真っ暗な宇宙のことを考えてまた泣いていたら、ジュンコさんが帰って来て見つかっちゃったんです。
「慶どうした? なんで泣きゆう?」って、見つかっちゃったから正直に「死ぬのが怖い」と打ち明けたら、ジュンコさんは「大丈夫、慶は死なんよ」「私も死なん、誰っちゃあ死なんき」と言って慰めてくれました。「死なない」というのは嘘だってわかったのに、ジュンコさんがそう言ったら本当に死なない気がして。真っ暗な宇宙に、小さな光が差したような安心感があって、その嘘を信じてみたくなりました。母の横でドラマを観ていた幼少期を振り返っても、一番影響を受けたのはジュンコさんかもしれませんね。
エリザベス宮地が影響を受けた映像作品
森田童子「ぼくたちの失敗」(1976年)
音楽にハマるきっかけになった森田童子の唯一のミュージックビデオ。映像はMV用に撮影されたものではなく、黒色テント劇場「夜行」を追ったドキュメンタリーを紡いだものです。途中にある、森田童子がフィルムカメラで写真を撮る姿は、何度観ても美しい。1度でいいから、彼女の歌声を生で聴いてみたかったです。
取材・文 / 田中和宏 構成 / 真貝聡 撮影 / 梅原渉