1990年代に日本の音楽シーンで起きた“渋谷系”ムーブメントを複数の記事で多角的に掘り下げていく本連載。第2回は、小西康陽、田島貴男(ORIGINAL LOVE)、ヒックスヴィル、GREAT3のメンバーなど、のちの渋谷系ムーブメントを支えるアーティストが80年代中盤から後半にかけて出入りしていた“ネオGSシーン”にフォーカスを当てる。東京・三多摩地区のガレージ~サイケ愛好家の若者たちにより形成されたローカルシーンから、何ゆえ多くの才能が輩出されたのか。シーンを代表するバンド、ザ・ファントムギフトの中心人物だったサリー久保田(現SOLEIL)の証言を交えながら検証していく。
小西康陽のポップ音楽観
先頃発売された、小西康陽自らの選曲・監修によるピチカート・ファイヴのボックスセット「THE BAND OF 20TH CENTURY:Nippon Columbia Years 1991-2001」が好評だ。あくまで日本コロムビア時代の作品にフォーカスした内容ではあるものの、まだJ-POPなどという言葉もなかった時代……ポップスをドーナツ盤などでワクワクしながら聴いていた時代の、もしかすると最後の産物ではないかと思えるような佇まいこそが、小西康陽のポップの美学そのままだと思えるからだ。
今となっては、小西とピチカート・ファイヴは渋谷系の代表として認識されているわけだが、その認識が正しいのかどうかはさておいても、小西が80年代から90年代にかけて、それまで誰もやっていなかった新しい音楽の聴き方を提案していたのは間違いないところで、わけても野宮真貴をボーカリストに迎えた日本コロムビア時代の作品は、確実にそうした小西のポップ音楽観の1つの巨大なシンボルだったと言っていい。
では、彼が80年代から提示していたポップ音楽観とはどういうものか。それは音楽が、ゴージャスさ、華やかさ、あるいはそれと相反するような可憐さ、優雅さ、そしてカルチャーとしての強さやユーモアをも伴ったものであってほしい、という彼自身の願望とでもいうべきものだろうか。ともすれば、それは時代の徒花的な側面も持つし、流行やトレンドによって左右されるものでもあるだろう。あるいは一定の資本力を求められるウェルメイドな環境も条件になるのかもしれない。だが、R&BもソウルもファンクもヒップホップもロックンロールもハウスもMPBもサルサもアフロも、総じてポップスという名のもとに精製させてきた小西は、誰よりもポップミュージックの解放を目指してクリティカルな存在として活動し続けてきた。そんな小西がピチカート・ファイヴのブレイク前夜に、渋谷系的な価値観にも近いポップ観を、自らプロデュースすることによって表出させたバンドがいる。
それが、ザ・ファントムギフトである。
そこで、こんな仮説を唱えてみようと思う。“小西康陽的なポップ観、すなわち渋谷系的源流は80年代の東京のアンダーグラウンドシーンで巻き起こっていた60年代音楽やカルチャーへの再評価にあった”。果たして事実はどうだったのか? 60年代の音楽カルチャー再考をもっとも端的に表現していたネオGSムーブメントの代表的バンドであるザ・ファントムギフトのメンバーによる証言をもとに、その仮説を紐解いていきたい。
GS=国産の60'sガレージロック
ネオGSとは1960年代のグループサウンズに影響を受け80年代に活動を開始した日本の若手バンドたちのことを指す。The Beatles以降のロックと日本の歌謡曲の要素を合流させた60年代のグループサウンズ──言うまでもなく、ザ・スパイダース、ザ・テンプターズ、ザ・タイガース、オックス、ザ・ゴールデン・カップス、ザ・ダイナマイツなど枚挙にいとまがないが──のバンドさながらに、おそろいのきらびやかな衣装に身を包み、情熱的なボーカルや挑発的な演奏で客をノックアウトさせていた彼ら。その代表的な存在が、80年代中盤から後半にかけて活動していたザ・ファントムギフトだった。今回そのベーシストであり、バンドの主要人物であったサリー久保田に話を聞いたので、ここから先は久保田の証言を元に話を進めていこう。
「僕は多摩美術大学に通っていたんですけど、当時、The 20 Hitsというガレージロックのバンドに所属していたんです。大学の先輩で、その後イラストレーターになるジミー益子さんが中心になって活動していたバンドですが、ザ・ファントムギフトより前から活動していて、僕も在学中はその界隈にいたんですね。で、大学卒業後に始めたのがザ・ファントムギフト。最初はギターのナポレオン山岸の弟がベースをやっていて、その頃はThe Crampsみたいな、ガレージ色の強いバンドだったんです。その山岸くんの弟が大学受験で辞めるからという理由で僕がベーシストとして誘われて。でも最初は、正直乗り気じゃなかった。当時はパンクとかニューウェイブと一緒にGSにハマっていた時期だったので、『GSのカバーをやるなら入ってもいい』と話して(笑)。けっこう強気な感じで一緒にやることになったんです」
幼少時からザ・タイガースなどのGSが好きだったという久保田に言わせると、彼が多摩美に進学した頃、周囲にはGS好きは皆無に等しく、東京の中古レコード店でもGSのレコードは今ほど価格が高騰しておらずディグし放題だったそう。だが、潜在的に60年代のガレージロックやサイケデリックロックが好きな仲間は少なからずいたようで、「GSを国産の60'sガレージロックとして捉える」という久保田の解釈とも相まって、メンバーが見ていた方向はほぼ同じだったという。
三多摩界隈から生まれた新たな潮流
「ドラムのチャーリー森田以外は多摩美出身で、みんなガレージ~サイケ界隈の仲間ではありました。だから、ザ・ダイナマイツの『トンネル天国』とかをカバーしようということになっても、けっこうすんなり受け入れてましたね。ボーカルのピンキー青木も実はGSをわりと好きで聴いていたようでした。ファントムではGSバンドが当時カバーしていたような60年代の洋楽の曲もやったりしていました。The Rolling Stonesの『Under My Thumb』とか『Tell Me』とか。あと、1910 Fruitgum CompanyやThe Seeds……アメリカのガレージ系の曲もやってました。そうこうしているうちに、じわじわと仲間も増えて。ヒッピー・ヒッピー・シェイクスのサミー中野くんとは最初知り合いじゃなかったんですけど、向こうもGSマニアだったんで、ずっと僕のことを探したり調べたりしていたようでした(笑)。『GSのレコードを買い漁ってる人がいる』というところでお互い気になる存在だったんです。当時の東京でGSのカバーをやってるバンドってファントムとヒッピー・ヒッピー・シェイクスくらいだったんですよ。中野くんたちは中央大学の学生で、中央大は八王子にキャンパスがある。僕らが通ってた多摩美も近くで、ネオGSは三多摩界隈が発祥の地だと言われているのはそういうことなのかな」
ジャックスの早川義夫やオックスの野口ひでとを思わせるセクシーでカリスマ的なボーカリスト、ピンキー青木。刺激的なファズギターによってサイケデリックな音像を抽出するギタリストのナポレオン山岸。ドライブ感あるベースラインで艶かしい低音を聴かせるサリー久保田。シャープでかつダイナミックなドラミングが印象的なチャーリー森田。その4人によるアンサンブルは、彼らのライブを当時何度も観ていた筆者には強烈以外の何物でもなく、それがネオGSだろうとガレージロックだろうと、もはやどうでもよかった。ただただ、イカしたロックバンドでしかない。それで十分すぎるくらい十分だった。さらに、エモーショナルでパンチの効いたその演奏のみならず、彼らと同じように60年代風のファッションに身を包んだオーディエンスたちの狂熱。膝上20cmのミニスカートのカラフルなワンピースの女の子たち、ストライプのスーツにマッシュルームヘアの男の子たち……そこだけマジカルなワンダーランドを思わせる異世界に紛れ込んだような空気が彼らのライブ現場にはあったのだ。ちなみに、マンガ家の岡崎京子もザ・ファントムギフトの熱心なファンとして知られていた。
もう1人の重要人物・高護
そんなザ・ファントムギフトのライブに足繁く通っていたのが小西康陽だった。すっかり彼らのライブに魅せられた小西は自らサウンドプロデュースを買って出てアルバム制作にまで乗り出すこととなる。そうしてリリースされたのが1stアルバム「ザ・ファントムギフトの世界」(1987年)である。そしてもう1人、ザ・ファントムギフトにとって重要な存在だったのが、バンドのマネジメント / 制作をサポートしていた高護(現ULTRA-VYBE代表取締役)だ。
「小西さんはB級GSだろうが洋楽のカバーだろうが面白いものは面白いという感じでファントムのことを評価してくれていたんです。そして、もう1人の重要人物が、のちに僕らのマネジメントをしてくれることになる高護さん。高さんは当時、GSや歌謡曲をマニアックに掘り下げる『季刊リメンバー』という雑誌を刊行していたんですけど、僕は『季刊リメンバー』を愛読していて、GSや洋楽をボーダーレスに聴く感覚を身に付けていたんです。だから、ライブを観に来てくれた小西さんと会って話をしたときに『ああ、僕と同じような感覚の人っているんだな』と思えたんです。小西さんと僕は同世代なんですけど(小西が1歳年上)、今思えば時代やジャンルを超えて純粋にいい音楽を評価するという、あのボーダーレスな感覚が、のちの渋谷系につながっていくような感じもありますね。小西さんは『ネオGSはパンクムーブメントに匹敵する日本初のインディーズシーンではないか』とおっしゃっていて。2003年にファントムが未発表音源集(『ザ・ファントムギフトの奇跡』)を出したときにもそういうことをコメントで書いてくださっていました」
2枚の自主製作シングルを発表したのちザ・ファントムギフトがリリースした4曲入りコンパクト盤「魔法のタンバリン」(1987年)の制作に携わったのがソリッドレコード / SFC音楽出版を運営していた高で、彼と親交の深い小西が「僕がレーベルを紹介する」と声をかけてつないだのがミディレコードだった。ザ・ファントムギフトの躍進の影には、そんな要人たちのバックアップがあったということだ。
「小西さんはサウンドプロデューサーというより、正確に言えば、スーパーバイザー的な立場でアルバムの制作に関わってくれたんです。僕らがスタジオで、ああでもないこうでもないといった感じで音を出してるときに、小西さんが的確なアドバイスをしてくれたり。ある意味、バンドのまとめ役みたいな感じでしたね。小西さんといえば、ヒッピー・ヒッピー・シェイクスのサミー中野さんを通じてデザイナーの信藤三雄さんと知り合ったのもこの頃です。信藤さんがギタリスト兼リーダーを務めていたスクーターズもネオGSと近いところにいたバンドで。僕が知り合った頃には、もうユーミンのジャケットのデザインとかも手がけていて、すごい人なんだなと思った記憶があります。その信藤さんが、のちにピチカート・ファイヴやフリッパーズ・ギターなど渋谷系と呼ばれるアーティストたちのアートワークを多数手がけるようになるわけで……そう考えると面白いですね」
キーワードは「60年代音楽再評価」
一方で、久保田はネオGSシーンの周辺で次々と活動を始めていた同世代のバンドたちとの“共闘”が、渋谷系への胎動を加速させたのではないかと分析する。例えば、東京発のネオモッズを標榜していたTHE COLLECTORS、The Jesus and Mary Chainの初来日公演でフロントアクトを務めるなどネオサイケと言われるような覚醒的なギターロックを聴かせていたワウ・ワウ・ヒッピーズ、ロリポップ・ソニック時代の小山田圭吾が大ファンで、しばしばライブに足を運んでいたというレッド・カーテンなど。THE COLLECTORSには加藤ひさしや古市コータローらが、ワウ・ワウ・ヒッピーズにはのちにロッテンハッツを結成する木暮晋也や高桑圭、白根賢一らが、そしてレッド・カーテンにはORIGINAL LOVEの田島貴男が、と渋谷系~90年代の音楽シーンを作っていく重要人物がそれぞれこの時代に力を付けていたのである。
「ネオGSシーン界隈で活動していたバンドはだいたいみんな60年代の音楽に影響を受けていました。僕らはガレージロック、ワウ・ワウ・ヒッピーズの木暮くん、白根くんやレッド・カーテンの田島くんはサイケ、THE COLLECTORSの加藤くんはモッズとか、それぞれ嗜好性は異なりましたけど、自分たちのサウンドを追求するうえで60年代の音楽を参照していたという点では共通していました。60年代の音楽を再評価するという動きは、XTCとかThe Dukes Of Stratosphear(アンディ・パートリッジを中心としたXTCの変名バンド)あたりの存在が大きかったのかなと思います」
1987年、そうした動きを象徴するような作品がリリースされる。MINT SOUND RECORDSが発表したオムニバスアルバム「ATTACK OF...MUSHROOM PEOPLE」だ。そこにはザ・ファントムギフト、ヒッピー・ヒッピー・シェイクス、THE COLLECTORS、ワウ・ワウ・ヒッピーズ、レッド・カーテン、ザ・ストライクスといったネオGSシーン界隈のバンドが総結集していた。
「ファントムってモッズ方面とは交流がなかったんですよ。そんな中で加藤くんは音楽的な間口が広かったのでTHE COLLECTORSとはよく対バンするようになって。あと、モッズシーンで活動していたザ・ロンドン・タイムスの片岡健一くんが“脱モッズ”みたいな感じで新たなアクションを起こそうとしていて、三多摩地区を中心に活動していたファントムを新宿JAMとかでやるイベントに誘ってくれたのも大きかったと思います。そのあたりから、『ATTACK OF...MUSHROOM PEOPLE』に参加しているような、いろんなバンドとつながりが生まれるようになって。そういえば、真城めぐみさんがやっていた女性3人組のコーラスグループ、ペイズリー・ブルーのバックをファントムのメンバーで務めたこともありましたね」
その真城めぐみは、ワウ・ワウ・ヒッピーズの木暮、高桑、白根、ザ・ハワイズの中森泰弘、そしてネオGSシーンの周辺にいた片寄明人と、のちにロッテンハッツで合流。そこから枝分かれしたヒックスヴィルとGREAT3は共に90年代の音楽シーンを支える存在となり、特にヒックスヴィルの木暮と真城は渋谷系の象徴的存在ともいえる小沢健二のアルバムやライブをサポートするに至った。60年代の音楽やカルチャーをキーワードにしたような東京のアンダーグラウンドインディーロックとも言えるような領域で活動していた彼らは、渋谷系の時代に軒並み活躍していくのである。
お手本は筒美京平?
そして、さらに「渋谷系のお手本になっていたのは筒美京平だったのではないか?」と久保田は話す。筒美京平は主に1960~80年代にかけて歌謡曲のフィールドをメインに膨大な数のヒット曲を手がけた作曲家 / アレンジャーだが、90年代に入ると筒美の作品をまとめたボックスセットがリリースされるなど急速に再評価が進んでいく。ストリングスを生かしたきらびやかなアレンジ、都会的で洒落たメロディやコード進行、歌謡曲なのに体を揺らせて踊らせることもできるグルーヴィな音作り。小沢健二と筒美が共作した「強い気持ち・強い愛」などはあの時代の筒美京平再評価を象徴する1曲だ。
「結局、渋谷系的な音楽の在り方に共通しているのって筒美京平さんの仕事なのかなと思うんです。最先端の洋楽の要素を時代ごとに引用しながら、日本の新たなポップミュージックを作り出すというようなスタイルですよね。そういった和洋折衷的なセンスが90年代に入って花開いたのが渋谷系だったんじゃないですかね。京平さんがやっていたようなことを当時体現していたのが、まさに小西さんや田島くんだった。ファントムは青木くんが抜けるような形で終わっちゃいましたけど、小西さんや田島くんのようにその後もずっと活躍していく人がいたことが、ネオGS界隈と渋谷系がつながることになった大きな理由なのかもしれないです。あとはやっぱり高護さんというキーパーソンの存在も改めて大きいなと思います」
柔軟でハイブリッドな音楽の聴き方を提案していた小西と高という核となる重要人物の働きが、渋谷系という音楽誕生の背景の1つになったのは揺るぎない事実だろう。その礎の1つがネオGSだった。同じように当時の東京のインディーシーンで60年代の音楽の影響を受けたガレージロック、サイケデリックロック、モッズ系のバンドたちのエネルギーが1つになり、来たる90年代の幕開けにバトンをつないだからこそ渋谷系という価値観がオーバーグラウンドで形になったのではないか、と。
今回の取材の最後に、サリー久保田にこんな質問をしてみた。「ところで、ネオGSという言葉はそもそも誰が名付けたものなのですか?」
「高護さんです。ファントムがミディから作品を出す頃に、THE COLLECTORSやザ・ストライクスといった同じように60年代の音楽に影響されたバンドが出てきていたから、このムーブメントを適切に言い表すようなジャンルみたいなものを考えようということになって。そこで、高さんが『ネオGSってどうかな?』って(笑)。THE COLLECTORSの加藤くんが『俺たちはネオGSじゃない、ネオモッズだ』って当時怒っていたのも無理はなかったと思いますよ(笑)。出てきた背景も違うし、ファンも少しずつ違っていましたから。でも、そう言いつつ加藤くんは僕らを好きでいてくれたと思うし、一緒にライブもよくやりました。音楽の方向性は違えど、どこかで互いに理解し合っていたと思います。そういう柔軟な姿勢が渋谷系の時代につながる、1つの大きなエネルギーになっていたんじゃないですかね」
サリー久保田
1980年代中盤よりネオGSバンド、ザ・ファントムギフトのベーシストとして活躍。バンド解散後はles 5-4-3-2-1、サリー・ソウル・シチュー、SOLEILといったグループで音楽活動を続けている。またアートディレクター / グラフィックデザイナー / 映像ディレクターとしての顔も持ち数々のアーティストの作品を手がけている。
取材・文 / 岡村詩野
制作協力:MINT SOUND RECORDS / ミディレコード