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鈴木雅之のルーツをたどる|ブラックミュージックだけじゃない、ラブソングの王様を作った10曲

鈴木雅之の音楽履歴書。
6か月前2024年05月25日 8:06

アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。記念すべき50回目となる今回は、“ラブソングの王様”マーチンこと鈴木雅之が登場する。

今年68歳、音楽活動44年のキャリアを積み上げてきたマーチン。ブラックミュージックのイメージの強い彼だが、いったいどんな音楽を愛聴してきたのか。「影響を受けた10曲」を軸に話を聞くと、「あまり語ってこなかった」という貴重なエピソードが次々に飛び出した。

取材・文 / 秦野邦彦

マーチンが影響を受けた10曲

「だからここに来た」岡林信康&はっぴいえんど(1970年「全日本フォークジャンボリー」)
「12月の雨の日」はっぴいえんど(1970年)
「ぼくの好きな先生」RCサクセション(1972年)
「Sunrise」Uriah Heep(1972年)
「Mary Jane On My Mind」ストロベリー・パス(1971年)
「Super Bad」ジェームス・ブラウン(1970年)
「You Are Everything」Diana Ross & Marvin Gaye(1973年)
「Superstar(Remember How You Got Where You Are)」The Temptations(1971年)
「A Woman Needs Love(Just Like You Do)」Ray Parker Jr. & Raydio(1981年)
「Never Too Much」ルーサー・ヴァンドロス(1981年)

初めて自分で買ったレコードはSam & Dave

僕は東京都大田区大森ってところで生まれ育ったんだけど、小さい頃に聴いてた音楽と言えばラジオから流れるアメリカンポップスの日本語バージョン。例えば、のちにピンク・レディーのディレクターになる飯田久彦さんが歌ったジーン・ピットニーの「Louisiana Mama」とか、「あの子はルイジアナ・ママ やってきたのはニューオリンズ」っていうすごい日本語だけど軽快でカッコいいな、と思ってたね。それからグループサウンズ、そしてモータウンやアトランティックのR&Bを、とにかくごちゃ混ぜに聴いてきたんだよね。

小学3年生くらいになると、4歳上のお姉ちゃん(歌手の鈴木聖美)が中学に上がって盛んに音楽を楽しむ世代になって。その頃はお姉ちゃんと相部屋だったから一緒にラジオを聴いたり、お姉ちゃんが買ってきたレコードを聴かせてもらったりしてたんだ。小学5、6年生の頃は子供ながらにR&Bに傾倒していく感じになる。初めて自分で買ったレコードはSam & Daveだった。その頃、テレビで唯一リアルタイムにR&Bを歌ってくれたのがグループサウンズのバンド。ズー・ニー・ヴーがSam & Daveの「Hold On, I'm Comin'」やFour Topsの「Reach Out I'll Be There」を本格的にカバーしてるのを目の当たりにしてレコードを買ってた時代が、まず小学生のときにあったんだ。

こういう音楽的ルーツを語る企画はこれまでも何度かあって、だいたいブラックミュージックを中心に話してきたんだけど、僕の音楽遍歴はいろんな切り口があるから、今回はこれまであまり言ったことのないところも紹介していこうかな。

歌うという行為の出発点 / 「だからここに来た」岡林信康&はっぴいえんど(1970年「全日本フォークジャンボリー」)

※はっぴいえんどとのライブ音源は未配信。アルバム「狂い咲き」の演奏メンバーは柳田ヒロ、高中正義、戸叶京介。

中学に入ると友達の兄貴にフォークギターを習って、聴くだけじゃなく自分が歌う側にシフトしていく。それで「帰って来たヨッパライ」が大ヒットしたザ・フォーク・クルセダーズの曲とかをコピーして楽しみ始めたんだ。フォークブームの中、いろんなミュージシャンが現れたけど、とにかく僕は岡林信康さんが大好きだった。

その頃、「全日本フォークジャンボリー」(第1回は1969年8月開催)っていう野外フェスが開催されたんだ。「日本のウッドストック」なんて呼ばれてたけど、いろんなミュージシャンが一堂に会して。そこで僕の大好きな岡林さんが、はっぴいえんどを従えて歌ったのは衝撃的だったね。ボブ・ディランとThe Bandみたいで、なんてカッコいいんだろうと思って。「だからここに来た」は「フォークジャンボリー」のテーマ曲みたいなものだったんだよ。

中学2年生のとき、僕は「土曜日の放課後、音楽室を開放してください」って校長先生に直談判して、コンサートを開催した。「だからここに来た」をテーマ曲にして。「家から会社から学校から逃げ出したくて 自由がほしくてここに来た」って歌を、自分もフォークロックバンドを組んで、はっぴいえんどをバックにやるような気持ちで音楽室で歌ってた。集まってくれたのは2、30人だったけど、自分で歌うという行為の出発点はこの曲だね。

ただ、このあと僕の興味は岡林さんからはっぴいえんどに移行していく。シャネルズでデビューして初めて大阪に行ったとき、岡林さんのラジオ番組にゲスト出演する機会があって。ドゥーワップをやってる若者が「岡林さんの曲、よく聴いてました」って言うのもおかしな話だし、「そのままはっぴいえんどが好きになりました」って失礼にも言っちゃったんだけど(笑)、すごく喜んでくれたことを今でも覚えているよ。

いいなと思うのは全部大瀧さんの曲だった / 「12月の雨の日」はっぴいえんど(1970年)

通称「ゆでめん」っていう、はっぴいえんどの1stアルバム「はっぴいえんど」(1970年)は、細野晴臣さんが6曲、大瀧詠一さんが5曲作曲して、松本隆さんが作詞(「飛べない空」は細野、「いらいら」は大瀧が作詞も担当)してるんだけど、最初は誰が作ってるかわからないまま聴いていたのに「12月の雨の日」とか「かくれんぼ」とか「朝」とか、いいなと思うのは全部大瀧さんのクレジットだった。そこから大瀧さんという存在が僕の中ですごく大きなものになったんだ。

「12月の雨の日」はアルバム発売の翌年、シングルで出たからそっちも買ったんだけど、シングルとアルバムでテイクが違うんだよね。同じ曲なのに、なんでこんなに違うんだろうってすごく不思議だった。大瀧さんのこだわりでシングル用に新たに録り直したっていうのはだいぶあとになって知るんだけど、そのときは全然わからなかったんだ。

忌野清志郎=気になる存在 / 「ぼくの好きな先生」RCサクセション(1972年)

中学の卒業式の前に3年生を送る会があって、卒業生のために在校生が寸劇とかいろんな催しをしてくれたんだよね。そのとき、同じ学校の1学年下の桑野信義がトランペットを持って出てきて、「ただいまから10時何分をお知らせします」みたいなことを言って時報を吹いたの。「何やってんだ、こいつ」と思いながら、桑野がトランペットを吹くことを知ったのはその瞬間。あの時報がなかったら桑野はシャネルズに入ってないからね(笑)。

そのあと、今度は卒業生から在校生へってことで僕が当時組んでたバンドのライブを聴かせたの。まずは先生に対してRCサクセションの「ぼくの好きな先生」を贈って。のちに僕が「スローバラード」をカバーしたのは、フォークロック的なアプローチの中で忌野清志郎さんがすごく気になる存在だったからだね。そして在校生にはGAROの「たんぽぽ」と「地球はメリー・ゴーランド」。当時Crosby, Stills, Nash & Youngに代表されるウエストコーストの音も好きで、それを日本に置き換えるとGARO。彼らの1枚目のアルバム「GAROファースト」(1971年)はCSN&Yをものすごく意識したアルバムだったんだ。僕はそういう本家本元を目指すイミテーションゴールドみたいなものが好きでさ。イミテーションゴールドって、時として本物よりきれいに光ったりする瞬間があるからね。そういうところからもカバーすることの心地よさみたいなものを知らず知らずのうちに学んでたんだと思うよ。

「ウッドストック」のSha Na Naとリンク / 「Sunrise」Uriah Heep(1972年)

中学3年生のときにラジオから流れてきた「メリー・ジェーン」という曲に僕はすごく魅せられたんだよね。のちにシングルカットされて、つのだ☆ひろさんの代表作になる楽曲なんだけど、もともとはつのださんと成毛滋さんがやってたストロベリー・パスというバンドのアルバム「大烏が地球にやってきた日」(1971年)に収録された「Mary Jane On My Mind」がオリジナル。この頃、成毛さんが音楽雑誌で海外のロックバンドを紹介してて、僕はそれでLed Zeppelinを知った。この頃はLed ZeppelinとGrand Funk Railroadが自分の中の2本柱で、Deep Purpleには行ってない。やっぱりどこかブルースを感じる音楽が好きだったんだよね。

そんな中でイギリスのバンド・Uriah Heepをよく成毛さんが紹介してたから、ものすごくインプットされて。楽曲を聴いたらカッコいいから、当時出てたアルバムも全部そろえたよ。「Sunrise」は彼らの5枚目のアルバム「魔の饗宴」(1972年)の1曲目で、僕も観に行った初来日公演(1973年3月、東京・日本武道館)の1曲目でもあったから、すごく印象に残ってる。

ただ、このときのPA環境がものすごく悪かったんだよね。正直、Uriah Heepってこんなもんなのかな?という印象を受けた。客のノリもそんなによくなくて。ところがアンコールで「Blue Suede Shoes」とか「At the Hop」とか、50'sのロックンロールをメドレーでやったらものすごいウケちゃって、オリジナル楽曲より客がノったんだよ。それでロックンロールってすごいなと思って。日本ではキャロルとかが出始めた頃だったけど、当時最先端のUriah Heepですらオールディーズのロックンロールをやるってことは、やっぱり本人たちも好きなんだよね。たぶんスタジオで遊んでて、これ面白いからやっちゃおうぜみたいな感覚だったんじゃないかな。

それまでドゥーワップやロックンロールを現代によみがえらせているバンドは、Sha Na Naくらいしかいなかった。「ウッドストック」のドキュメンタリー映画「ウッドストック / 愛と平和と音楽の三日間」(1970年)が日本でも公開されて、僕はSly & The Family StoneやCrosby, Stills, Nash & Young、ジミ・ヘンドリックス目当てで観に行ったんだけど、Sha Na Naが出てきていきなり50'sのロックンロールをやってるのを観て、何これ?と思った。当時Sha Na Naはまだ大学生バンドだからネームバリューからしたらフィルムに入るわけないんだけど、最終日のトリがジミヘンで、その前のSha Na Naから撮影クルーがカメラを回してたんだね。そのときの記憶とUriah Heepのロックンロールメドレーが完全にリンクしちゃったんだよね。そこからドゥーワップやロックンロールのレコードを後追いで買い漁り始める。いろんなレコード店を回っては、見つけていくのが楽しくて。

よく行ったのは原宿の竹下通りにあった「メロディハウス」っていう輸入レコード店。セコハン的なところだと、蒲田にあった「えとせとらレコード」。あそこはもともと蒲田のちょっと先にある雑色駅の質屋が、駐車場にプレハブを建てて質流れのアナログ盤を売り始めたのが最初なんだ。その情報を知って見に行ったら、ドゥーワップとかそういうレコードが惜しみなくある。上野のアメ横にある「蓄晃堂」や銀座・数寄屋橋の「ハンター」にもよく行ったね。あとは大阪の「FOREVER RECORDS」が年に1回、神保町にレコードをいっぱい持ってきてバーゲンセールをやるんだけど、そこで僕は同じくレコードを買い漁ってる山下達郎さんと出会ってるんです。だから音楽を一緒に奏でる人とは、偶然じゃなく必然的に出会う運命なんだと思う。ロックンロールに魅せられなかったら、そういう出会いもないから。

ダンスフロアのチークタイムで再会 / 「Mary Jane On My Mind」ストロベリー・パス(1971年)

※埋め込みはつのだ☆ひろの「メリー・ジェーン」。

グループサウンズブームが終わって、日本のロックシーンに「ニューロック」と呼ばれるバンドたちが登場すると、日本ではフラワー・トラベリン・バンドやブルース・クリエイションみたいに英語で歌って海外バンドっぽくやるか、はっぴいえんど、あんぜんバンドみたいに日本語をロックにする美学を追求するかの真っ二つに分かれて。僕は日本語のバンドなら、はっぴいえんどを聴いてたし、英語の楽曲はというと「メリー・ジェーン」を聴いて、つのださんみたいなドラム&ボーカルになりたいと真剣に思っていたんだよね。

ストロベリー・パスのステージはよく観に行ってた。メンバーが2人しかいないから成毛さんが左手でギター、右手でハモンドを弾きながらフットペダルでベース音を出してて、すごい人だなと。それから間もなくストロベリー・パスは、ESCAPEってバンドで高校生ギタリストだった高中正義さんをベースに迎えて、トリオ編成のフライド・エッグになるんだ。

僕は最初フォークロックのバンドを組んだけど、その後クラスメイトとThe Rolling Stonesのコピーバンドを始めてドラム&ボーカルを担当することになる。つのださんの影響でね。当時はR&Bを演奏するやつが周りにいなくて、ロックテイストでちょっとブルージーなものを感じるバンドとなると、ストーンズだったんだよね。高校に入学後はベースとギターとドラムの3人編成で、フライド・エッグ、Mountain、Grand Funk Railroadのカバーをやるようになるんだけど。

そんな感じで、ずっとロックとして聴いてきた「メリー・ジェーン」とダンスフロアのチークタイムで再会したときは本当に驚いた。あの頃は踊り場──のちにディスコと呼ばれる店に行くと、自分のアルバム(2001年発表「Soul Legend」、2024年発表「Snazzy」)でもカバーしたビリー・ポールの「Me and Mrs. Jones」(1972年)や、マイケル・ジャクソンの「Ben(ベンのテーマ)」(1972年)とか、Harold Melvin & The Blue Notesの「if you don't know me by now(二人の絆)」(1972年)といったバラードをDJたちがチークタイムに選んでレコードをかけてくれてね。そこに「メリー・ジェーン」も入っていた。中学生のときにラジオで聴いて衝撃を受けた僕が、今度はラブソングとしてこの曲にもう1回出会えたことに運命的なものを感じたんだよね。

誰が一番うまく踊れるか / 「Super Bad」ジェームス・ブラウン(1970年)

当時のダンスフロアはチークタイムだけじゃなく、ショータイムといって誰が一番うまく踊れるかみたいな遊びがあったんだ。そこでとびきり人気だったのがジェームス・ブラウン。特にのちにPファンクの主要メンバーになるブーツィー・コリンズたちをバックバンドに「Get Up I Feel Like Being Like a Sex Machine」(1970年)とか「Soul Power」(1971年)をやり始めた頃の音はダンスフロアでものすごくもてはやされて。「Super Bad」なんて最たるもので、タイトルは直訳だと「ものすごいワル」だけど、そうじゃなく「ものすごくカッコいい」って意味のスラングなんだ。ファンクのカッコよさはこの頃のジェームス・ブラウンを通して学んだね。

デュエットの心地よさを知った / 「You Are Everything」Diana Ross & Marvin Gaye(1973年)

マーヴィン・ゲイにはボーカリストとしてたくさん影響を受けた。マーヴィン・ゲイは70年代になると「What's Going On」(1971年)とか「Let's Get It On」(1973年)といったダンスフロアでも流れるような楽曲を作り始めるんだけど、そうした中でダイアナ・ロスと「Diana & Marvin」(1973年)っていう全曲カバーのデュエットアルバムを出すの。日本でもスマッシュヒットした作品だけど、このアルバムがあったから僕は女性とデュエットすることの心地よさを知ったし、カバーの魅力にも気付くことができたんです。「You Are Everything」はThe Stylisticsの曲だけど、ダイアナ・ロスとマーヴィン・ゲイが歌い上げてくれることによって全然違うものとして聴けるから、ボーカリストって本当にすごいなと思わされたよ。

僕が一番盛んに音楽を聴いて自分のものにしようとしていたのが16歳から19歳。1972年から1975年だね。それでシャネルズを結成したのが19歳。その間は本当にソウルとロックざんまい。社会風刺も含めてブラックミュージックが発するメッセージがものすごく世の中に浸透していた時期だったから、そういう空気も自分の音楽に自然と取り入れていたんだろうなと改めて思うね。

兵隊たちから覚えた流行りのステップ / 「Superstar(Remember How You Got Where You Are)」The Temptations(1971年)

中学1年のとき、遠足のバスの中で持ち回りで歌うことになってね。周りのみんなはだいたい小学唱歌とか歌うんだけど、僕はThe Temptationsの「My Girl」(1964年)と、ショーケン(萩原健一)がいたザ・テンプターズの「帰らなかったケーン」(1969年)を歌った。「My Girl」は小学生のときに買ったレコードの1枚。「帰らなかったケーン」はザ・スパイダースのかまやつひろしさんが書いたシングル曲で、ヒットした「神様お願い!」ほど売れなかったけど、僕は大好きでさ。クラスの担任が「お前歌うまいな」って言ってくれたのを今でも覚えてる。ここで人前で声を出す気持ちよさを知って、友達とバンドを組んで音楽をやり始めるんだよね。

「Superstar(Remember How You Got Where You Are)」はノーマン・ホイットフィールドがプロデュースしていたサイケデリックソウル期のThe Temptationsの曲で、高校生の頃よくダンスフロアで踊ってた思い出のナンバー。当時は全員が同じステップで踊るのが恒例で、最近だとドージャ・キャットが「Say So」のミュージックビデオでやってる感じだね。あの頃はクック・ニック&チャッキーっていう日本のソウルブラザーズがいて、新宿だと「ジ・アザー」「ゲット」といった踊り場、のちのディスコで活躍してて、そういうところに週末になると踊りに行くんだ。立川の米軍基地から黒人の兵隊たちが余暇で遊びに来て、流行りのステップを踊ってるのを目の当たりにできるから。それを見よう見まねで覚えて、家に帰ってレコードをかけながら、みんなでそろいのステップを踊る。それがシャネルズの原点。「Superstar」はみんなで踊ることの喜びを教えてくれた楽曲なんだ。

僕が一番行ってた踊り場は新宿だと「ゲット」。六本木だと「六本木PIT INN」っていうライブハウスができる場所にあった「アイ」。アイは土曜日は同伴じゃなきゃ入れない。そうすると誘われるのを待ってる女の子たちが入り口付近にいたんだ。彼女がいない男の子は「一緒に入ってくれる?」と誘って入って、その子とは中で別れる。そのあとチークタイムでもう1回誘うチャンスがある。「よかったら踊ってくれない?」って。断られたらまた1人になってしまう。「かぐや様は告らせたい」(鈴木雅之が主題歌を担当しているアニメ)じゃないけど、我々もそういう男女の駆け引きは体験してたね(笑)。

ファッションもブレザーでそろえたり、コンポラのスーツを作ったり。そういう大人のマナーも踊り場が全部教えてくれたよ。高校の学生服も吊るしじゃなく仕立ててた。上着はいわゆる中ランといって普通よりちょっと長い丈で、ズボンは腿の太さ33cmぐらい。横浜銀蝿系のものすごく太いドカンとか、「ビー・バップ・ハイスクール」の短ランは我々よりあとの世代。短ランなんて僕たちにはありえなかったからね。大森の近くの鵜の木って町に特注で作ってくれる親父さんがいて「ダブルは何cmで」とか全部指定して。今でもスーツと衣装は全部仕立ててるよ。好みのブランドがあっても、やっぱり自分に一番フィットするのはオーダーメイド。そうやって学生時代から音も服も上手に着こなそうとしてたね。

シャネルズがデビューする前、城南地区(港区、品川区、目黒区、大田区)のアマチュア組織に参加して、日比谷野音でロックンロールフェスティバルをやってさ。「アマチュアじゃ俺たちが一番だ」という気持ちだったんだけど、リハーサルスタジオがヤマハの特約店的なところで、ヤマハが主催する「EastWest」ってバンドコンテストに腕試しで出てみないかと誘われてね。行ってみたら、サザンオールスターズとかカシオペアがほかの地区から出てきて、エリアが広がるとこんなに強者たちがいるんだと思い知ったんだ。井の中の蛙だったって。ちなみにその年、1977年の「EastWest」で優勝したのは「たぬきブラザーズ」ってバンド。シャネルズもサザンもカシオペアも、たぬきに負けた(笑)。だけどそこで桑田佳祐くんと仲よくなったし、経験したことは全部自分の中で後押しになってる。だから音楽の神様ってけっこう信じているんだ。

なるほど、ラブソングはこうやって作るんだ / 「A Woman Needs Love(Just Like You Do)」Ray Parker Jr. & Raydio(1981年)

シャネルズがデビューするちょっと前にレイ・パーカーJr.が出てきて、のちにブラックコンテンポラリーと呼ばれる都会的で洗練されたサウンドを構築していくんだよね。まだ映画「ゴーストバスターズ」主題歌(1984年)が大ヒットする全然前の話。声質も心地いいし、この人ものすごく自分に近いニュアンスがあるなと思った。

この頃、お気に入りの曲を90分テープに入れて車の中でいつも聴いてたんだけど、レイ・パーカーJr.の「A Woman Needs Love」は、ものすごく大事な曲だった。特に女の子といるときは。「おしゃれ・ドラマティック・セクシー」を僕は「ソウル的三要素」と呼んでるんだけど、それを最初に味わせてくれた人だね。70年代からディープなソウルミュージックを聴いてきた身としては彼の作り出す音の心地よさに、これは大人のBGMだなと思った。こういう作品を作ろうっていうのが、ソロになったときの自分のテーマの1つだったね。

となると、この音はどんなふうに作ってるんだろうって気になるじゃない? 僕の3枚目のアルバム「Dear Tears」(1989年)に収録された「Love Overtime」「Our Love Is Special」をレイ・パーカーJr.と一緒に作ったのは、その思いがあったからなんだよね。「Dear Tears」は「小田和正プロデュースで鈴木雅之がAORに踏み込む」じゃなく「鈴木雅之が小田和正とAORを作るとブラックコンテンポラリーになる」という絵を描きたかったから、そこにレイ・パーカーJr.がいたらいいなと思って僕からリクエストしたんだ。

うちのエピックというレーベルのすごいところは、僕のわがままを実現させてくれたこと。ソロ1枚目、2枚目のアルバムと、シャネルズ、ラッツ&スターのアルバムを全部レイ・パーカーJr.に送って「あなたと一緒にやりたい」と伝えて。そしたら「すぐ来い」って連絡が来たから、LAにあるAmeraycan Studiosっていう彼のスタジオに2週間行くことになった。ドキドキしてたら、彼は白人のガールフレンドを膝の上に乗せててさ。で、僕がボーカルブースで歌ってるとトークバックで「もう1回行ってみようか」とか彼女の耳元でささやくように言ってる。なるほど、ラブソングはこうやって作るんだなって(笑)。

そのあとコーラスを入れるからって連れて来られたのが、ライオネル・リッチーが抜けたあとThe Commodoresに新しく入ったJ.D.ニコラス。彼はもともとレイ・パーカーJr.の秘蔵っ子で、The Commodoresの「Nightshift」(1985年)って曲でブレイクして当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった。「あ、ニコラスだ」ってすぐわかってさ。ほかにもクレジットで見たことのあるミュージシャンがたくさんいて、やっぱりこっちに来れば本人がその音でやってくれるんだなと思ったよ。

海外レコーディングは、2枚目のソロアルバム「Radio Days」(1988年)でもやった。あのアルバムは佐藤博さんが半分プロデュースして、もう半分を山下達郎さんと作ったんだけど、そのときに僕が憧れていたサウンドが、Earth, Wind & Fireのモーリス・ホワイトがAORの強者たちと作ったソロアルバム「Stand by Me」(1985年)でね。ポール・ジャクソンJr.がギター弾いてたり、アーニー・ワッツがサックス吹いたりして、ものすごくカッコいい。それで佐藤さんに「こういう音で作りたいんですけど」と言ったら「全員知り合いだよ。俺、LA行って録ってくるから」って。僕が達郎さんと日本のスタジオでレコーディングしてる間、佐藤さんはそのメンツと音を録ってきたから、「Radio Days」の佐藤さんプロデュース曲はモーリス・ホワイトのソロアルバムと同じ音をしているんだ。本場に行けば夢は叶うってことを最初に教えてくれたのは佐藤さんなんだよね。だから3枚目のアルバムも決して無謀なわがままじゃなく、やればできるって思いでやれた。楽曲的にも自分の立ち位置的にもレイ・パーカーJr.との出会いは「大人のBGMを作る」という意味での出発点だったね。

なぜ“ソウルミュージック”と言うのか / 「Never Too Much」ルーサー・ヴァンドロス(1981年)

シャネルズが80年にデビューした翌年、ルーサー・ヴァンドロスのデビューアルバム「Never Too Much」が出るんだけど、同じエピックのレーベルメイトだから早いうちにサンプル盤をもらってね。一聴して、すごいなと思った。それまで彼はデヴィッド・ボウイをはじめ、いろんな人のバックコーラスをやりながら、楽曲提供したり、Changeというユニットにボーカルで参加したり、長い下積みの時期を経て、初めてブレイクしたのが「Never Too Much」だから僕の中ではルーサーといえばこの曲のイメージがある。

とにかくルーサーはCarpentersやディオンヌ・ワーウィックの楽曲をカバーして、自分のものにする天才なんだよね。それから89年にベストアルバムを出すんだけど、その中に新曲「Here and Now」を入れることで過去の集大成じゃなく今を生きるベストにした。なるほど、こういうやり方があるんだと思って、僕は「MARTINI II」(1995年)という2枚目のベストアルバムに新曲「愛の掟」を入れて、初めてミリオンセラーを達成することができた。ルーサーに出会わなかったら僕はそこまで到達しなかったと思う。そういう意味でも「Never Too Much」(決して多すぎることはない)って気持ちを味わった気がする。

とても残念なことに彼は2003年に「Dance With My Father」という自分の父親をテーマにしたアルバムを制作中、脳梗塞で倒れて2005年に亡くなってしまうんだけど、出会った人たちや影響を受けた人たちの楽曲を自分のものにしながら歌ったり語り継いでいくことは、いろんな意味で大事だなと思った。ルーサーにしろ、マーヴィン・ゲイにしろ、ブラックミュージック系の人は特にカバーすることに喜びと命を懸けてるところがあるよね。好きだからこそ“魂”を継承して、自分なりの音として残してマーキングするんだと思う。だから“ソウルミュージック”って言うんだろうね。

鈴木雅之(スズキマサユキ)

1956年東京生まれ。1975年にシャネルズ(のちのラッツ&スター)を結成し、1980年にシングル「ランナウェイ」でデビュー。1986年にシングル「ガラス越しに消えた夏」でソロデビューを果たす。現在までに「もう涙はいらない」「恋人」「違う、そうじゃない」「渋谷で5時」など数々の名曲を発表した。2019年より放送されているテレビアニメ「かぐや様は告らせたい」シリーズのテーマソングを担当し、伊原六花、鈴木愛理、すぅ(SILENT SIREN)、高城れに(ももいろクローバーZ)とコラボを展開。2024年3月にアルバム「Snazzy」とライブ映像作品「masayuki suzuki taste of martini tour 2023 ~SOUL NAVIGATION~」をリリースし、4月より全国ツアーを行っている。

公演情報

masayuki suzuki taste of martini tour 2024 ~Step123 season2 "Snazzy"~(※終了分は割愛)

2024年5月25日(土)愛知県 愛知県芸術劇場 大ホール
2024年5月26日(日)静岡県 静岡市民文化会館 大ホール
2024年5月31日(金)宮城県 仙台サンプラザホール
2024年6月2日(日)青森県 リンクステーションホール青森(青森市文化会館)
2024年6月6日(木)熊本県 市民会館シアーズホーム夢ホール(熊本市民会館)
2024年6月8日(土)福岡県 福岡サンパレス
2024年6月9日(日)長崎県 長崎ブリックホール
2024年6月14日(金)神奈川県 カルッツかわさき
2024年6月15日(土)東京都 江戸川区総合文化センター
2024年6月20日(木)北海道 函館市民会館
2024年6月22日(土)北海道 札幌文化芸術劇場hitaru
2024年6月23日(日)北海道 札幌文化芸術劇場hitaru
2024年6月29日(土)岡山県 倉敷市民会館
2024年6月30日(日)広島県 上野学園ホール
2024年7月4日(木)大阪府 フェスティバルホール
2024年7月5日(金)大阪府 フェスティバルホール
2024年7月7日(日)群馬県 高崎芸術劇場 大劇場
2024年7月14日(日)東京都 NHKホール
2024年7月19日(金)埼玉県 大宮ソニックシティ 大ホール
2024年7月21日(日)茨城県 水戸市民会館 グロービスホール
2024年7月27日(土)長野県 ホクト文化ホール
2024年7月28日(日)富山県 オーバード・ホール
2024年8月3日(土)香川県 サンポートホール高松

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