伝説のヒップホップイベント「さんピンCAMP」の全貌に迫るべく、当時の関係者や出演アーティストへのインタビューなど、さまざまなコンテンツをお送りする連載企画「『さんピンCAMP』とその時代」。最終回となる今回は、観客として「さんピンCAMP」の会場に足を運んでいたサイプレス上野(サイプレス上野とロベルト吉野)とSATUSSY(韻踏合組合)による対談をお届けする。前編では、「さんピン」直撃世代である2人にイベントにまつわるエピソードを聞きつつ、当時のヒップホップシーンに渦巻いていた異常とも言える熱気について振り返ってもらった。
取材 / 猪又孝、高木“JET”晋一郎 文 / 高木“JET”晋一郎 撮影 / 沼田学
当時10代だった人はいかにして「さんピンCAMP」を知ったのか
──日比谷野音で行われた「さんピンCAMP」の現場には、3000人のB-BOY / B-GIRLが集ったことが、この連載の第1回で明らかになりました。
SATUSSY ってことは、僕らはその3000分の2ですか?
サイプレス上野 組合長(SATUSSY)もいたんですか?
SATUSSY 行ってますよ!
サ上 大阪から? 半端ないっすね! 組合長とは付き合いが長いけど、「さんピン」の話をちゃんとしたことはなかったな。
──組合長は1人で行ったんですか?
SATUSSY そうです。誘ったけど誰も来なかったですね。なんせ東京やし。でも僕は1人でも行くみたいなバイブスでした。僕は大阪で行われた「さんピン」にも行ってますからね(連載初回でも触れられているように「さんピンCAMP」は東名阪ツアーとして行われた)。その両方に行ったのは、おそらく僕1人なんじゃないかなと自負してます(笑)。
サ上 俺は当時やってたグループ・DREAM RAPS(MCの上野、WATA、TERA、DJの油井俊二によるユニット)の3MCで行こうと思ってチケットを取ったら、ほかの2人が「行かねえ」って。それでヒップホップにあんまり興味がない高校の同級生と行きました(笑)。
──SNSもない時代に、テレビで大々的に告知されていたわけではなかった「さんピンCAMP」の存在は、どのようにして知ったんですか?
SATUSSY 僕は当時のCISCO大阪店ですね。試聴機のところにフライヤーがブワッと置いてあって、「なんなん、これ?」と。しかもフライヤーのサイズがデカかったんですよ。A4サイズぐらいで、映画のパンフレットみたいな感じで2つ折りになってて。作りが珍しいから目について、広げたら「すげえ! こんなメンツが出るイベントがあるんや!」と衝撃を受けて。今もそれを明確に覚えてますね。
サ上 メンツの豪華さにびっくりしましたよね。俺は最初、雑誌の「Fine」で知ったのかな。とにかく七夕は空けとかなきゃって。そのあとに俺もレコ屋でそのフライヤーを見て、さらにワクワクしました。
SATUSSY フライヤーが映画のパンフレット形式になってるのは、「さんピン」のドキュメンタリー映画を撮ろうっていうところから逆算してのことだったのかな?
サ上 プロデューサーのECDさんの中で日本版「WILD STYLE」を作るっていうのが前提にあったみたいですね。
SATUSSY イベントをやります、それを映画にします、それに先がけてサントラ(コンピレーションアルバム「さんピンCAMP ECD PRESENTS THE ORIGINAL MOTION PICTURE SOUNDTRACK」)を出します、という一連の動きの中に、パンフレット形式のフライヤーがあった気がする。イベントの告知もそうやけど、サントラの宣伝的な意味合いも、あのフライヤーからは感じたよね。
サ上 そうっすね。当時あのサントラを聴いて「メジャーのエイベックスからこんなCDが出せるんだ!」と単純に思ったんで。
大阪から野音に駆け付けたSATUSSY、一方のサ上は日比谷線で…
──「さんピンCAMP」が開催された1996年は、組合長が19歳、上野さんは16歳になる年ですね。その時点で日本語ラップはかなり聴いていた?
サ上 聴いてました。俺は「さんピン」の映像に収録されてる、BUDDHA BRANDが帰国したときの六本木ヴェルファーレでのライブも観に行ってたんで。
SATUSSY それはヤバい!
サ上 でも、あれは“帰国ライブ”じゃなかったみたいですけど。すでに、ちょっと前に日本に帰ってきてたっていう(笑)。「さんピン」の映像でも、ブッダのメンバーがニューヨークから帰国するシーンがあるけど、アメリカから帰ってきたっていう画作りのために空港で撮影して、実はスーツケースは空だったそうで(笑)。あくまで“帰国”を前面に押し出して。
SATUSSY あるよね。そういう“言ったもん勝ち”に俺らも夢を見てたわけで(笑)。
サ上 最高ですよ。でも今思えば、ブッダが凱旋帰国して、「さんピン」に向かっていくぞ、大トリに出るぞ、シーンもデカくなるぞって、ストーリーがつながってはいたんですよね。そういうシーンの胎動を感じさせるような空気は、俺も含めて多くのリスナーやファンが感じていたと思うんです。「さんピン」に来なかったDREAM RAPSのほかの連中以外は(笑)。
SATUSSY 当時はヒップホップを聴くやつが限られてたから、みんな情報を探っていたよね。
サ上 マインドとしては“ソルジャー”でしたよ(笑)。
SATUSSY そう! 当時のヒップホップファンは、みんなヒップホップのために戦うっていう、ソルジャーマインドがあったよね(笑)。
サ上 だから「さんピン」に向かう道中も怖かったっすよね。みんな気合い入ってた。俺は地下鉄の日比谷線で向かったんですけど、目の前に座ってたB-BOYっぽいやつに「お前、ラッパー? 俺、上千代っていうんだけど」っていきなり声をかけたんですよ。
SATUSSY (ラッパーネームが)“上千代 THE 闇スナイパー”時代(笑)。
サ上 それで、「言刃(コトバ)」って曲が入った自作のデモテープを「これ聴いてくれよ」って渡して謎のマウントを取ったんです(笑)。16歳のガキが精一杯イキがって。
──かわいすぎる(笑)。
サ上 でも、連絡先を書いてないから、そこからなんの発展もなくて。向こうも変なやつに急にデモテープを渡されただけ。
(一同笑)
──相手もただダボダボの服を着てただけの人かもしれないんでしょ?
サ上 そう、「さんピン」に行くかもわからない(笑)。
SATUSSY ははは! でもそういう時代だったよね。同じような格好してるやつを見たら、仲間みたいに思うノリがあったわ。だから、上ちょ(サイプレス上野)が日比谷線で声かけたのもすごくわかる。
サ上 なんていうか……寂しかったんですよ(笑)。日比谷線なんて乗ったことなかったし。それで同じような格好してるやつを見たから、うれしくなって慌ててデモテープ渡しちゃって。本当に渡すべき人には渡してない。
SATUSSY 会場で関係者とかに渡さんと!(笑)
サ上 そうなんすよね~。それぐらい舞い上がってたし、緊張もしてた。
SATUSSY でもわかるな。僕も行きの新幹線は、上ちょの日比谷線とは比べものにならないくらい心細かった。もちろん野音も初めてやったし。でも日比谷駅から同じような格好の人についていったら野音に着いた(笑)。
サ上 迷彩服に身を包んだ軍隊みたいなやつらと一緒に(笑)。
SATUSSY そうそう!(笑) 俺も迷彩のショートパンツを履いてたと思う。当時のヘッズはみんな迷彩服を着てたよね。
サ上 俺は「さんピン」の映像に客として映ってるんですけど、意外とおしゃれにエディー・バウアーを着てるんですよね。
SATUSSY しゃれてんな。どこが闇スナイパーやねん(笑)。
サ上 MUROさんにサインしてもらったキャップをかぶって。ヘッズとしてのマウントが半端じゃない(笑)。
SATUSSY が語る90年代の大阪ヒップホップシーン
──せっかくなので90年代の大阪のヒップホップシーンについてもお話を聞かせてください。当時の大阪のシーンは、組合長からはどのように見えていましたか?
SATUSSY すごく局地的で狭いシーンだったと思いますね。イベントの本数も限られてたし、そもそもプレイヤー自体が少なかった。だけど、それぞれの個性はめちゃくちゃ濃かったと思いますね。ファミコンのカセットで「いっき」ってあったじゃないですか? ゲームとしてのクオリティは今と比べものにならないんだけど、めちゃくちゃ個性的で、のちのちまで語り継がれるっていう、そういう感じ(笑)。
──当時は大阪や地方のシーンの情報を見聞きする機会が本当に少なくて。
SATUSSY そもそもヒップホップの記事が少なかったし、そうなるとやっぱりメディアが集中してた東京のシーンが取り上げられますよね。それは仕方ないとわかりつつも、それに対して僕らのような地方のラッパーは、「俺らのほうがイケてるんちゃう?」と思うことはやっぱりありました。名古屋のTOKONA-Xが東京をディスったりしてたのも、そういうフラストレーションがあったからだと思うし。
サ上 俺は「Fine」で情報をチェックして、今はCOCOLO BLANDというアパレルをやってるHARA-Qさんの12inchとか買ってましたよ。
SATUSSY すげえな。HARA-Qさんは大阪の第1世代やからね。
サ上 その話をすると「昔の話をするな!」ってすげえ怒られるんですけど(笑)。ちなみに大阪でいうと、脱線3はどんな立ち位置だったんですか?
SATUSSY 脱線3は大阪の第1世代から生まれたスターって感じ。パブリックイメージとしてはお笑いみたいな感じがあると思うし、実際そういう部分もあるけど、実は脱線3はめちゃくちゃハードコアな、大阪のヒップホップシーンの核みたいなところから出てきた人たちやから。僕が聴き始めた頃には、すでにソニーから「XXX JAPAN」(1995年)でメジャーデビューしていて、所属事務所は吉本興業という、もう完全に「売れてる人」だった。
──音楽番組やCMにも出ていましたからね。
SATUSSY 確か、メンバーの丹南さん(KING 3LDK)から聞いたけど、高木完さんの紹介で吉本から「顔合わせがしたい」って言われて、軽い気持ちで会社に行ったら、「で、いつからの契約にするんや?」って大崎(洋 / 吉本興業ホールディングス元会長)さんに言われたという(笑)。
──昔のイメージ通りの吉本興業!(笑)
サ上 わはは。でも、そもそも大阪でもプロップスがある人たちだったんですね。
SATUSSY もちろん。超ストリートなゴリゴリのアメ村第1世代。俺もすごくリスペクトしてる。
──KING 3LDKさんは韻踏合組合でも「口癖」などのプロデュースに関わっていますね。
SATUSSY でも、当時はスチャダラパー側の、LBの人たちというイメージだったよね。
──実際、LBネイションのメンバーだし、「さんピンCAMP」の1週間後に同じく日比谷野音で開催された「大LB夏まつり」にも出演していました。
SATUSSY 当時のヘッズは「『さんピン』はハードコア、『LB』はおしゃれでナード」みたいなイメージで分けてる感じがあったよね。
サ上 そうっすね。高木JETくんに映像を貸してもらって「大LB夏まつり」を観たんだけど、本当に「さんピン」とは真逆な雰囲気なんですよね。ソルジャーが誰もいない(笑)。
SATUSSY そうなんや。
サ上 俺はスチャも大好きだったから「大LB夏まつり」も行きたかったんですよ。でも、高校野球の予選大会の日と重なっちゃって。当時、俺は応援団に所属してたから絶対、野球の応援に行かなきゃいけなかったんです。それで「大LB夏まつり」はあきらめました。悔しくて泣きながら応援してましたね、あの日は(笑)。
アンダーグラウンドシーンの総力戦
──組合長は「大LB夏まつり」には行かなかった?
SATUSSY そっちは行かなかったですね。今から考えたら絶対に行っておいたほうがよかったよね。でもヘッズの肌感覚としては、「大LB夏まつり」は「クルーのイベント」、「さんピン」は今でいう「ヒップホップフェス」的な感覚があったと思う。フェス的な概念が新しかったし、それをフレッシュに感じたところもあって、「さんピン」に興味を持ったんですよね。
サ上 確かに。
SATUSSY それに、その時点でスチャダラはもう完全に売れてたけど、「さんピン」に出てた人たちはこれから来るみたいな感じもあった。ECDさんやMUROさんのようにずっとシーンを牽引してきた人たちに加えて、あの時期に一番勢いのあった新進気鋭のスターが総登場するというのも大きかったと思う。
サ上 オールスター戦みたいな感じでしたよね。「イケてるラッパーを一挙に観られるのに、このチケット代は安い!」って。
SATUSSY 「アンダーグラウンドシーンの総力戦」みたいな感じだった。だからこそ今でも語り継がれてるんじゃないかな。
サ上 当時は「これから行くぜ!」みたいな結束感がシーンにあふれてましたよね。その空気を俺たちみたいなソルジャーが感じて、「日本のヒップホップを俺たちがマジで押し上げる!」みたいな熱気がさらに高まっていく。実際、会場全体にすごい一体感があったし、そういう意味で「さんピン」は非常に危険なイベントだった(笑)。
SATUSSY 濃縮したムーブメントに、さらに先鋭化したファンがついていくという、ある種、カルト的なノリというか(笑)。
サ上 それでみんな迷彩服ですからね。
「HIP HOP NIGHT FLIGHT」の影響力
──集団決起ですね、もはや(笑)。上野さんは雑誌などに加えて、MUROさんが働かれていたStill Diggin'や、四街道ネイチャーの北&澤(KZA)さんやHACさんが店員だったCISCOなど渋谷のショップで情報収集をしていたと著書「ジャポニカヒップホップ練習帳」でも書かれています。
サ上 あとはユウ(YOU THE ROCK★)さんがホストを務めてたラジオ番組「HIP HOP NIGHT FLIGHT」ですね。毎回エアチェックしてました。テープに録音しながら、2時から5時までリアルタイムで聴いて。1時間くらい寝て、通学中にずっと聴き直して、授業はずっと寝てるっていう(笑)。
SATUSSY あれ、大阪では聴けなかったんだよね。
サ上 みたいっすね。東京でもいつ放送するかわからなかったんですよ。
SATUSSY 定期的に放送してたわけじゃないんだ?
サ上 めちゃくちゃ不定期でした。渋谷のレコ屋に「いついつ放送決定!」みたいなフライヤーが置いてあったり。新聞のラテ欄には「ナイト」だけ書いてあって、「これで誰がわかるんだよ!」っていう(笑)。あと俺、番組で名前を呼ばれたことがあるんですよ。友達の家に集まって、夜中にみんなで聴いてたら「戸塚区の恭ちゃん! 元気にしてっか!」ってユウさんが呼びかけてくれた。
SATUSSY それはファックスか何か送ったの?
サ上 手紙を書いて送ってたんですよね。投書攻撃。
──D.Lさんや宇多丸さんも衝撃を受けていた福岡のヒップホップグループ、TOJIN BATTLE ROYAL「Nan Shot-Ya」並みの(笑)。
サ上 「名前、呼ばれたぜー!」ってテンション上がりましたね。
SATUSSY いい時代やな(笑)。
サ上 あと留守電をチェックしてもらえるコーナーもあったんですよ。それで風呂場に電話を持っていって、「俺のラップ聴きたかったら、電話返してこいよ!」とか言って。
SATUSSY あの時代、みんな好戦的だったよね。
──番組に登場した般若(当時はYOSHI〈現:般若〉とRUMIの2MC時代。登場したのはYOSHI)のフリースタイルも10代とは思えないぐらい攻撃的で。
SATUSSY あれはクラシック。
サ上 肝が据わってますよね。
SATUSSY 電話をつないだときに、ユウさんの隣にジブさん(Zeebra)がいたっぽくて、「勢いがあるのはいいけど、調子こいてると……」みたいな感じでいさめるのもオモロい。
サ上 その後の関係も面白いですよね。
SATUSSY みんな若くていいよね。
ミックステープを通して知った関西シーンの情報
──大阪にはそういうラジオ番組はあったんですか?
SATUSSY 当時、ヒップホップの番組はなかったと思うな。FM802で西田新さんがメインMCをやってた「Nite Receptor」っていう番組が2000年ぐらいに放送されて、僕らの曲とかもかけてくれたりしたんだけど、「さんピン」の頃はなかったですね。俺らの周りで大きかったのはやっぱりミックステープ。レコードの入荷枚数も大阪はそこまで多くなかったし、ミックステープは1000円ぐらいで、曲がいっぱい入ってるから「お得!」みたいな(笑)。だから新譜や日本語ラップの曲はミックステープから知ることも多かった。DJ KENSEIさんの「ILL VIBES」とか、本当に擦り切れるぐらい聴いた。
サ上 「ILL VIBES」、ちょうど今日持って来ました。
SATUSSY 熱い! 僕らの周りで言うと、DJ DOUBLE Kくんの「壱」とか、日本語ラップが入ってるミックステープも徐々に増えていったんですよね。
サ上 DOUBLE Kさんのミックステープは、俺も買って聴いてました。関西ってこんな感じなんだっていう空気が伝わってきたし、大好きなクラシックです。確かに、関西のヒップホップシーンの情報がミックステープで入ってくるっていうのはありましたよね。
SATUSSY ミックステープは情報を広めるっていう意味でも機能してたよね。レゲエもミックステープ文化やったし。
──大阪だとTOKIWA DEM CREWとか。
SATUSSY そうそう。
サ上 あとDJ Kensaw feat. Owl Nite Foundation'zの「OWL NITE」の衝撃も半端なかった。
SATUSSY 「証言」への関西からのアンサーというか。
誰もが「俺が次の『さんピン』に出る」みたいな熱い気持ちでステージを観てた
──「さんピン」開催時には、組合長も上野さんも10代でしたが、会場に詰めかけたオーディエンスも、みんなそれぐらいの年齢層でしたか?
サ上 そうっすね。10代中盤から20代前半がほとんどだったんじゃないかな。
SATUSSY 少なくとも、今の俺たちぐらいの世代はほぼいなかった。出てる人たちも20代が中心だし、中心人物のECDさんだって30半ばだもんね。
──出てる人たちも、観てる人たちも若いという状況だったと。
SATUSSY だから一体感があったのかも。たぶん客席にいた人たちの“演者率”も相当高かったと思う。実際、俺もラップやってたし。DJやラッパー予備軍みたいなやつが集まってるわけだから客席のバイブスも強烈ですよね。さっき上ちょが「ソルジャー」って表現したのは、すげえ正しいなと思うんですよ。
サ上 そうですね。もう戦う側になる準備をしてたし、誰もが「俺が次の『さんピン』に出る」みたいな熱い気持ちでステージを観てた。でもバイオレンスはなく、全員で同じ曲を大合唱してるっていう(笑)。
SATUSSY ヒップホップに対して、すごくピュアな時代だったんでしょうね。
──ヒップホップで世の中が変わる、自分たちが変えられると信じられるピュアさがあったというか。
SATUSSY 「ヒップホップを正しい方向で根付かせる」という意思を、「さんピン」に出てた人たちは本気で提示してたと思うんですよ。そして、それに賛同したソルジャーが会場に3000人集ったっていう。
サ上 みんなが「ヒップホップは俺たちのもの」と思ってる感じがすごかった。RHYMESTERの「B-BOYイズム」じゃないけど、“譲れない俺の美学”をみんなが持ってた。
情報の少なさが生んだ「さんピン」勢×LBネイションの対立説
──異常なぐらいの熱気を当時のB-BOYは持っていたと思うんですが、その正体はなんだったと思います?
SATUSSY 若さに加えて「情報の少なさ」もあったと思う。今はライブ中継がどこでも観られるし、情報もスマホで簡単に手に入る。でも、当時はこっちから動かないと情報を手に入れられない時代やったし、そもそも情報自体が少ないから、足りない部分を自分の中で補完しないといけなかった。その過程で生まれる思い入れが熱につながったんだと思う。とはいえ別に今の若い人らが情報をディグしていないわけじゃなくて。単純に情報量が多すぎるし、やらなきゃいけないことが当時に比べて多すぎる。当時の情報を1だとすれば、今は1000ぐらいになってるでしょ。そうするとチェックするだけで精一杯やし、自分で情報を補完する必要もないわけで。
──想像や妄想が入り込む余地がないというか。当時の情報の少なさは、「『さんピン』勢とLBは仲が悪い」という集団妄想につながっていくという(笑)。
SATUSSY みんなそう思ってたよな。
サ上 「さんピン」の会場でスチャダラパーのBoseさんとANIさんを見かけたとき、観客なのになぜか緊張感が走りましたよ(笑)。「え! BoseとANIいるじゃん!」みたいな。
SATUSSY 「証言」のリリックでユウさん(YOU THE ROCK★)がスチャダラの名前を出したりとかもあったしね。
サ上 「ナイトフライト」でも、D.Lさんがフリースタイルでラップしたよね。「♪次の週の小鳥とはちょっと違うリアルなメンツ」。
SATUSSY&サ上 「♪俺たちがビッグバード」!
サ上 あの放送も大きかったよな~。俺はLBも好きだから、D.Lさんのラップを聴きながらモヤモヤしてる自分がいたんですよ。「D.Lさん、なんでそんなこと言うんだよ! 俺、どんな気持ちで『さんピン』を観に行けばいいんですか!?」みたいな。超純粋だった(笑)。
SATUSSY あとあと聞いたら、全然不仲ではなかったみたいで。「フツーに仲よかったよ」って。そこはメディアが煽った部分があったんだろうね。
サ上 「さんピン」の映像監督だって、Boseさんの実弟の(光嶋)崇さんじゃないですか。仲間を超えてもはや身内だったのか!みたいな感じで(笑)。
SATUSSY ははは。でも、「フツーに仲がよかった」というのも今になったからこそ言えることで、当時は皆さん若かったし、やっぱりライバル意識みたいなものはあったと思うよ。
<後編に続く>
プロフィール
サイプレス上野(サイプレス上野とロベルト吉野)
サイプレス上野とロベルト吉野のMC担当。通称「サ上」。2000年のグループ結成以来、「HIP HOPミーツallグッド何か」を座右の銘に掲げ、ロックフェスへの出演やアイドルとの対バンなど、ジャンルレスな活動を繰り広げ、ヒップホップリスナー以外からも人気を集めている。また、サイプレス上野のDJ名義、LEGENDオブ伝説a.k.a.サイプレス上野としての活動や、テレビ朝日「フリースタイルダンジョン」、テレビ東京「流派-R」への出演のほか、テレビCMのナレーションなど幅広く活躍中。
SATUSSY(韻踏合組合)
SATUSSY(MC)、ERONE(MC)、DJ KAN(DJ / 以上CHIEF ROKKA)、HIDADDY(MC)、遊戯(MC)、DJ KITADA KEN(以上、HEAD BANGERZ)からなる韻踏合組合の組合長(リーダー)。韻踏合組合は2000年に大阪府で結成され、現在も大阪を拠点に活動。グループ名の通り押韻にこだわるラップスタイルで知られる。2026年1月には、初のベストアルバム「GOAT(Greatest Of All Time)」がリリースされた。SATUSSYはソロアーティストとしても活動を展開しており、2008年発表のアルバム「THE NOVEL」を皮切りにこれまで複数のソロ音源を発表している。


