伝説のヒップホップイベント「さんピンCAMP」の全貌に迫る連載企画「『さんピンCAMP』とその時代」の第4回は、RYO-Z(RIP SLYME)とDABO(NITRO MICROPHONE UNDERGROUND)の対談をお届け。90年代中盤のシーンを振り返った前回に続き、後編では「さんピンCAMP」当日の思い出と、2人が歩んだその後のキャリアについて語ってもらった。
取材 / 猪又孝、高木“JET”晋一郎 文 / 猪又孝 撮影 / 沼田学
DABOが「さんピンCAMP」のステージに上がった経緯は?
──お二人は「さんピンCAMP」開催の情報をどのように聞いたんですか?
RYO-Z 僕は洋服屋さんで働いてたからフライヤーで知りました。「ポスター貼ってください」「わかりました」とか言って。
DABO 最初はもっとデカい話だったよね。ヒップホップの映画を作るって。
RYO-Z そう。「ナイトフライト」(TOKYO FM「HIP HOP NIGHT FLIGHT」)でも宣伝してたし。
DABO 日本版「WILD STYLE」を作るって聞いてたから、えらいことになるぞと思ってたら、結局イベントになったんだ、みたいな。
RYO-Z それでも当時にしたらすごいことだよね。日本初のヒップホップオンリーフェスだったんだから。
──「さんピン」当日、DABOさんはMUROさんのステージに上がりましたが、どういう流れだったんですか?
DABO あの日、俺たちは「袖で見れるぜ、イェイ!」でしかなかったんですよ。シード枠のヘッズって感じで。だから、出番前で集中してるMUROくんに「がんばってください」とか声かけたりして。うざいよね(笑)。
RYO-Z がんばるに決まってるのにね。今、声かけんじゃねえよ、みたいな(笑)。
DABO そしたらMUROくんが「みんなもステージに出て盛り上げちゃってよ」って言うのよ、急に。あと30秒でDJ WATARAIが音を出しますよっていうタイミングで。野音のステージなんか立ったことないし、3000人の前に立つこと自体ないから「マジか!」って。それで初めてのモブ(笑)。
RYO-Z モブじゃなくて、ポッセね(笑)。
DABO でも何やっていいかわかんないし、手を挙げるぐらいしかできない。ステージの前のほうなんて怖くて行けないし、客の目も見れないし。ただ、忘れもしない。MUROくん一流のあのキザな紹介の仕方で、「俺の右の翼と左の翼を紹介しよう」ってMACKA-CHINとGORE-TEXが呼ばれるわけですよ。そのときの俺は、自分の仲間がこの日本初の華々しいフェスのステージに出たということだけでうれしかったんです。俺のマイメンだぞっていう誇らしさがあって。
ステージ上のDABOを羨望の眼差しで眺めていたRYO-Z
──RYO-Zさんは、「さんピン」当日どこにいたんですか?
RYO-Z 客席にいました。RHYMESTERにゲストで入れてもらったんだと思うけど、1人で行ったんですよ。うちのメンバーみんな「別にいいや」って感じだったから。でも雨がすげえ降ってるし、「キツいな、このイベント」と思ってた(笑)。
──最初から観ていたんですか?
RYO-Z リハからいました。そしたらリハにスチャダラパーのBoseさんとANIさんがいたんですよ。「もしかして今日出られるんですか?」って聞いたら、「違うよ。ブッダのリハーサルを観に来たんだ」って。で、リハだけ見て帰っちゃった。雨がすごいし、帰りたいけど、RHYMESTERを観るまで帰れない。「ライムス早くやってくれー!」と思ってました(笑)。
──楽屋ゾーンには行ってないんですか?
RYO-Z 行ってないです。だからDABOが出てきて、「すげえ!」と思った。こっちは呼ばれてもいないのに(笑)。
DABO だから順番がおかしいんですよ、俺とRYO-Zの。
RYO-Z 俺らは先にCDを出したけど、DABOは「さんピン」のステージに上がってて、「ずりい」とか思って。それより前にさかのぼると、雷が西麻布のYELLOWでやった「亜熱帯雨林」のオープンマイクに俺とPESで行ってスタンバってたんです。「行くぞ行くぞ」って感じで構えてたら、TWIGYくんが、「ニューカマー、RIP SLYME!」って俺らのことを紹介してくれたんですよ。「俺らTWIGYに声かけられた!」って大喜びして。
DABO 俺、その光景を観てたんですよ。SUIKENと一緒にいて「よし俺らも行くか」「いや、あと2分待とう」みたいなシャバい感じでタイミング図ってて。そしたらTWIGYが2人にマイクを渡したんですよ。あれは、すごく悔しかった(笑)。
RYO-Z そういう切磋琢磨があったから、「さんピン」のステージに出てるDABOに俺はジェラスですよ。俺たちがデビュー間もない頃に錦糸町のNudeで一緒にイベントやってたSOUL SCREAMも出てるし。実は、ソウスクは「さんピン」に出ることによって、メンバーのSHIKIが辞めるんですよ。「俺はこういう商業的なところに出て行くのは嫌だ」って。
DABO そうだったの?
RYO-Z で、TWIGYくんも出てないでしょ。SHIKIも辞める。それがアンダーグラウンドの判断なんだなと勝手に思ってた。
DABO シーンが次のフェーズに入っていたのかもね。「お前ら、歌えてうれしいだろ?」「うれしいっす」で終わらない動きが出てくるくらいシーンが成熟していたっていう。あえて出ないという判断が出てくるってことは、そういうことですよね。
RYO-Z そう。「こんな大きなフェスから声がかかったんだから絶対出ます!」っていうんじゃなく、SHIKIは自分の信念を通して、「さんピンに出るなら、俺辞めます」って言ったわけで。
DABO 暗闇にある俺たちの宝物が日の当たる場所に出ちゃうような感覚だったんだろうね。そこでSHIKIは「暗闇でいい、暗闇にいたい」と思ったのかも。
RYO-Z でも、そういう考え方もあるんだなと思った。「だから俺も出ないんだ」って、出てない自分を正当化してた(笑)。自分は呼ばれてないだけなのに。
RHYMESTER「口からでまかせ」がシーンに与えた影響
──当日は、RHYMESTERが出演していますが、FUNKY GRAMMAR UNITで出ようという話はなかったんですか?
RYO-Z それはなかったですね。クルーとしては「FG NIGHT」や「YOUNG MC’S IN TOWN」をやってたけど、それ以外は当時から全部個別の活動だったから。むしろRHYMESTERがこういうことをやるんだったら俺たちは違うことをしようとか、全員そういう感じでしたね。クルーといえど、ちょっとしたライバルでもあるという。
DABO RHYMESTERって当時、特別な使命を帯びてて、どことも付き合える人たちだったじゃん。キングギドラとSOUL SCREAMをフィーチャーしたRHYMESTERの「口からでまかせ」がシーンに与えた影響はめちゃくちゃ大きかったと思う。「全然スタイルは違うけど認め合ってるんだ、ここ」みたいな。それによってシーンのコクが深くなったというか。
RYO-Z それまではバラバラだったからね。ペイジャー一派がいて、FGがいて、雷がいて、LBがいて。一見、それぞれ対立してるような図式になってたけど、実はそうじゃないんだというのがあの曲で可視化されたかもしれない。
DABO 「口からでまかせ」はゲームチェンジャーだと思うね。それをRHYMESTERが送り出したっていうこともデカい。FGのメンバーではあるけど、Dくん(Mummy-D)が雷に参加してた時期もあるわけで。ラップスキルで認めさせて、「俺はこっちとも対等に話ができるよ」というところを見せていた。
RYO-Z まだ雷が始まる前、西麻布のZOAでやってた「BLACK MONDAY」にDさんが1人で乗り込んだんですよ。「ナメた口きいてるやつがいたら、ラップで返してやる」という空気で。それがすごかったな。
DABO 侍みたいだったよね。マイク1本でどの派閥でも乗り込んでいく。そんなDくんとZeebraがくっついて、そのあといくつも曲をやるのは、もう必然っていうか。そりゃそうだよってなるよね。シーンのハブの2人なんだから。
シーンに異常な一体感があって、その到達点が「さんピンCAMP」だった
──お二人の目から見た「さんピン」の印象は?
RYO-Z すごく楽しいイベントだったはずなんだけど、とにかく雨がムカついたっていう(笑)。その翌週に「大LB夏まつり」があって、そっちは晴天の中でめっちゃイケてて。スチャさんの周りの方たちも超楽しそうで、来てるギャルもめっちゃかわいいんですよ。もう絶対こっちだと思った(笑)。
──「大LB夏まつり」も1人で行ったんですか?
RYO-Z そっちはILMARIと行ったんですよ。ILMARIはそっちには来る(笑)。
──DABOさんはどんなイメージで「さんピン」を捉えていますか?
DABO 僕たちは90年代前半のシーンを見てるじゃないですか。RHYMESTERになる前のライムスターオールスターズが、「モグラネグラ」(1992年~94年頃にテレビ東京で放送されていた深夜番組)に出てる姿とかを観てるわけですよ。今でもDくんに「お前そのVHSは絶対捨てろ」って言われるんですけど(笑)。
──よく覚えてますね(笑)。
DABO ラッパーが映ってたらなんでも見てましたから。メディアに乗らないカッコいいことがどんどん起き始めて、地下のマグマがもうボコボコボコボコ吹き出してきていて。あの頃は演者だけじゃなく、ヘッズもシーンに参加してたんですよ。レコ屋はもちろん、洋服屋さんもシーンの一部だと思ってやってるし、客も自分がシーンの端くれにいる意識だったと思う。異常な一体感があって、その1つの到達点が「さんピンCAMP」だったんじゃないかな。でもそこに自分が入り込みたいとか全然思ってなくて。俺の好きなカッコいい先輩たちが1個のお祭りを作り上げて、盛り上がってるヒップホップを外に向かってアピールするんだ、これは楽しみだっていうくらい。エイベックスというメジャーなレコード会社からの支援が入って、こういうことになってるんだっていうふうにも見てたし。
──ちゃんとビジネスになっていくんだっていう。
DABO そう。でも俺もSHIKIみたいなところがあって。アンダーグラウンドのピュアネスを愛してたんで、ラップを商売につなげるっていう考えがなかったんですよ。ただ、生活はどんどん限界に近付いていて(笑)。
RYO-Z 当時バイト先で店番してたら、閉店ギリギリにDABOが来て、「電気が止まっちゃったんだけどさ、お金貸してくんない」って(笑)。いまだに忘れられない(笑)。
DABO だんだん身内も「あいつヤベえぞ」って感じになっていって。その頃、HAZIMEが相棒だったんだけど、俺がいないところでSUIKENとかに「DABOはもうダメかもしれねえ」って言ってたぐらい生活がヤバかったんですよ。
「さんピンCAMP」を通じてシーンの節目を感じた
──「さんピン」を境に、RIP SLYMEは動き方が変わりましたか?
RYO-Z EAST ENDが「DA.YO.NE」でドカンと売れたときにシーンの中でいろいろ言われるようになって、直系の後輩である僕らもいろいろ言われてたんですよ。でも、上にはRHYMESTERがいて、フリースタイルではK.I.Nさんという実力者がいる。さらにFGにはKREVAもいるわけで。僕らはナメられはしないけど、認められてもいない感覚がありました。
DABO そうだよね。FGは戦力が高かった。
RYO-Z 誰も文句は言ってこないけど、ひそかに「あいつらセルアウトだろ?」みたいなふうに見られてて。それを一変してくれたのが「ナイトフライト」。DEV LARGEさんが僕らの「白日」という曲を番組で紹介してくれたんです。そしたらオセロじゃないけど、急に周りの態度が変わった。そういうことって自信につながるじゃないですか。「DEV LARGEさんが俺たちの曲を聴いてるんだ!」っていうのが大きな励みになるし、雑誌「FRONT」でもライターの大前至さんがRIP SLYMEを「De la Soul的成熟」みたいに書いてくれて手応えを感じられたというか。「俺たちはキャッチーなことをやってシーンの連中からナメられてる」という実感がありながら、裏ではそういうふうに認めてくれる人たちがいるんだ、うれしいなって。
──「白日」は、「さんピン」後の1996年12月にシングルとしてリリースされました。
RYO-Z 1枚目の「Lip's Rhyme」は、File Records社長の佐藤(善雄)さん直々のディレクションだったんです。EAST ENDの2匹目のドジョウを狙ってるわけだから、キャッチーにやっていくんだって言われてたんですけど、俺らはそれが嫌で嫌で。それで、しばらくグループの動きが止まってたんだけど、その反動があるからこそ「白日」のときは、自分たちが本当に面白いと思うことを好きにやろうという状態になったんですよ。
──「さんピン」が、その方向転換の1つの要因になっている?
RYO-Z シーンの節目を感じたんでしょうね。SHIKIは辞めていくし、TWIGYくんは出ない。そこから見えてくる棲み分けのようなものがあって。そういう意味で、「さんピン」が影響を及ぼしたところはあるかもしれないです。だから、「白日」で好きなことをちゃんとやっていこうという方向に気持ちがシフトしていった。だけどRIP SLYMEは、もともとポップネスのあるグループだから、結局ポップになっていくんです。それも「さんピン」や「LB」がきっかけになってるかもしれない。1週間違いの開催なのに、一方は雨で、一方は晴天。陰と陽みたいなものを感じるし、僕らはそこで明るいほうに出ようと思ったんだろうな。
SHAKKAZOMBIEがラッパーとしての仕事を教えてくれた
──DABOさんは「さんピン」後、どのようにモチベーションのスイッチが入ったんですか?
DABO ダメな生活を送ってた俺を変えてくれたのはSHAKKAZOMBIEです。「共に行こう」のリミックス(「共に行こう(Ver.Pure)」)に俺、GORE-TEX、SUIKEN、MACKA-CHINで参加して。そこからミックステープに声がかかるようになったんです。
──「共に行こう(Ver.Pure)」は1997年1月にアナログ盤で発売されました。
DABO その年の七夕にコンちゃん(DEV LARGE)が「HUSTLERS CONVENTION」を開催するんですよ。そのイベントに俺、GORE-TEX、SUIKEN、MACKA-CHINがソロで出て、そこからみんなラッパーとして名前が広まっていった。俺が出た初めてのミュージックビデオは、シャカの「共に行こう」で、まさに「HUSTLERS CONVENTION」の翌日に撮ったんです。静岡の中田島砂丘ってところに拉致られてね(笑)。だからシャカが、ラッパーとしてのだいたいの仕事を教えてくれたんです。ビデオを撮る、ステージに出る、地方に行く。営業のやり取りとか、ギャラの精算とか、そういう経験を通して、ラップを仕事にする感覚が少しずつわかってきた。そうこうするうちに、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDもだんだん認知されてきて。人って、評価されたらやる気出るじゃないですか。プラス、自分のラップがお金になることもわかってきたから、そろそろちゃんとやってみますかっていう気持ちになったんです。
──DABOさんの初めてのソロ名義作品「Mr.Fudatzkee」は99年に12inchシングルで発売されました。
DABO 2000年の手前ってラップとビートが変わっていく時代なんですよ。90年代半ばに一世を風靡したRawkus Recordsが牽引してから出た、さらにアングラみたいなものが盛り上がっていて、その一方ではティンバランドが出てきてハイファイな音を鳴らしてて。99年にシングルを出した頃は、まだ僕の音選びやラップにもアングラ臭があったんですよ。理解されようとしてないラップというか、アート志向のラップというか。でも、そんな中、ニトロがブレイクして、「えー、ウソでしょ!」って心の底からびっくりして。そのあとソロでDef Jam Japanから声がかかったとき、僕は愛しいアングラを一旦やめるんですよ。一気に日の目を浴びる準備をして、トラック選びからラップの仕方から全部リニューアルしたんです。変な早口とかやめて、聴く人の耳に届くようにって。
RYO-Z 僕らは、90年代の終わり、アメリカのヒップホップがどんどん変わっていくときに、その感覚についていけなくなって。ちょうど「Underline No.5」を作ってる頃だけど、あの曲はFUMIYAがUnderworldをイメージしながらトラックを作ったんです。なんなら普段聴いてるヒップホップもヨーロッパのほうに傾倒していって、ドラムンベースだったり、もっと広い意味でのダンスミュージックの方向に意識が向かっていったんですよね。
1996年はピュアなアングラの集大成が日の目を見た年
──お二人の話を聞いていると、「さんピンCAMP」を特別視するのではなく、違う方向を目指すためのきっかけと捉えているように思います。
RYO-Z 通過したからこそわかったことがあるかもしれないですね。「さんピン」や「LB」を経て、さあ、どんなふうに好きな方向に行こうか、みたいな。
──囚われていないということですよね。
DABO 歴史的な節目として語られていますけど、「さんピン」が大成功したとは思ってないんですよね。もちろん、切り取ってみると素晴らしいシーンはいっぱいあって。RHYMESTERはやっぱり最高だったと思うんです。DくんのMCは胸アツだし。
RYO-Z あのシーンも熱いし、RINOくんの口笛は最強だし、MUROくんはそれまでで一番だと思ったぐらいカッコよかった。
DABO ただ、イベントとしては詰めが甘い部分もあったと思うんです。やるならもっとちゃんとやればいいのにとか、生意気にも思ってたし。石田さん(ECD)の第一声、「J~~~~~~ラップは死んだ、俺が殺した」を客が聞き取れてないんですよ、明らかに。
──それは機材的な面で? それとも雨で?
DABO 「ジェ~!」が「イェ~!」だと思ってたんですよ、客は。熱い思いが先に来ちゃって、第三者的な目線があまり入ってないイベントだったというか。だから俺は、いろんなところで言ってるんですけど、「これは決して完成形ではなく、1つの節目であることは間違いないけど、ここからもっとすごいところに行く過程だ」って思った。そういう意識は当時からあったんですよね。
──つまり、「さんピンCAMP」はゴールではなかった?
DABO ちっちゃく日本語ラップのブームは作ったっすよね。「日本語のラップなんてあるんだ」っていう人がまだ全然いた時代だったし。RINOくんでもいいしコンちゃん(DEV LARGE)でもいいけど、知識や理論がわからなくてもカッコいいと思える演者が出てきて、「日本語ラップってエッジィなカルチャーなんだ」みたいなことにはなったと思うんです。最先端のカルチャー=日本語ラップみたいな感じにはなったから。
──だからこそ、取り上げるメディアが増えたんでしょうしね。
DABO でも、「さんピン」に出た俺らの先輩たちが詰め甘な時代なんで。「さんピン」バブルによって地方営業も増えたけど、ヘッズはだんだん次を求めるようになっていった。そこに俺らがいたんですよ。
──そうしてニトロやリップの時代が来ると。シーンの景色も変えていきましたからね。
RYO-Z ニトロとリップは、すごくわかりやすく、アンダーグラウンドとオーバーグラウンドの両方でバーッと走っていった感じがあったと思う。
DABO 僕らは、先輩を見て「こういうところは真似しよう」「でもこういうところは真似しないでおこう」ということを何年も肌で感じてきた世代じゃないですか。「雷大好き! だけどアルバム出さない。全然出さない。じゃあ俺らは作ろっか」とか(笑)。俺らもそっちの界隈なんで詰め甘ですけど、先輩たちから学んだことを、自分たちなりに更新しようとしていたんだと思います。
──「さんピンCAMP」が残した功罪はなんだと思いますか?
RYO-Z 世にどれだけいるかわからなかったB-BOYないしはB-GIRLが見えるようになったことじゃないですか。日本語ラップと言ったら「今夜はブギー・バック」と「DA.YO.NE」しかないみたいなところに、「それとは全然違う、こんなすごい人たちがいるんだぞ」ということを広めて、シーンを大きくするきっかけになったことは功だと思う。罪は、なんだろうな……。
DABO 先輩たちがバブルで弾けちゃったことじゃない?(笑) あとは「イル」っていう言葉に振り回されすぎたっすね。
RYO-Z わかる、わかる(笑)。
DABO イカれてるほうが偉いみたいな。イルネスに振りまわされて、みんな無理やりクレイジーな態度を取っていたところはあると思う。
RYO-Z イカれてるところを出さないと!みたいな。
DABO イルの終着駅ですよ(笑)。今でもイルネスを追いかけている人はいるけど、その頃よりちゃんとしてるから。
RYO-Z 今の子たちはみんな真面目だよね。そもそもD.Lさん(DEV LARGE)は真面目なんだから。イルと言いつつ、全然真面目に音楽やってたんだから。
──最後になりますが、改めて「さんピンCAMP」が開催された1996年は、お二人にとって、どんな空気感の1年でしたか?
DABO ピュアなアングラの集大成が日の目を見た年なんでしょうね。日向にモグラが出てきちゃったみたいな。でも日向で暮らすために進化していくモグラもいるわけで。
RYO-Z モグラって地上に出てくると目が潰れちゃうっていうじゃないですか。見えなくなっちゃった先輩たちもいたと思うし、俺らは俺らで、なんとか日向になじもうとしていた。96年はまだまだ暗中模索だったけど、幸せな時間でもあったなと思いますね。
DABO 「さんピン」は、アーティストとヘッズが初めて大きく交わった場でもあったと思うんですよ。だから、うまくいかなくてもしょうがない。今この歳になって振り返ると、若い子がみんなでがんばってたなっていう感じもあるじゃないですか。俺らも若かったし、先輩も若かったんだから。中心になって動いてた石田さんだって当時は30代だし。
RYO-Z 俺、今日この取材を受けるにあたって、1回「さんピン」を観直そうと思ったんだけど、通して観れなかったもん。恥ずかしくて。
DABO わかるよ、それ(笑)。演者も浮き足立ってるしね。みんな大舞台に慣れてない。でも、先にやってる人がいないと「俺ならこうする」というアイデアは出てこないから。そういう意味ではやっぱり偉大なイベントですよ。
RYO-Z
1974年、東京都生まれ。1994年にヒップホップユニットRIP SLYMEを結成。2001年3月にシングル「STEPPER'S DELIGHT」でメジャーデビューを果たす。ソロでは多数のアーティストとのコラボレーションや客演などに加え、TERIYAKI BOYZ®、アスタラビスタといったヒップホップユニットにも加入。2024年にはソロ名義で初となるシングル「Obsession feat. YOUR SONG IS GOOD, 高橋一(from 思い出野郎Aチーム),SONPUB」、これまでに参加した客演曲や新曲を収録したソロアルバム「Obsession」を発表した。
DABO
1975年生まれ、千葉県出身。NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDの主要メンバーとして活躍する。インディーズでの活動を経て、Def Jam Japan第1弾アーティストとして2001年にシングル「拍手喝采」でメジャーデビューを果たした。また客演ラッパーとしてBoAやPUSHIMといったシンガーからキエるマキュウなどさまざまなアーティストと共演。2026年8月11日に神奈川・Kアリーナ横浜で開催されるMCバトルイベント「BATTLE SUMMIT III」に漢 a.k.a. GAMIとタッグを組み出場する。


