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「さんピンCAMP」とその時代|RYO-Z×DABO対談(前編)

RYO-Z(RIP SLYME)とDABO(NITRO MICROPHONE UNDERGROUND)。
8分前2026年06月15日 10:01

伝説のヒップホップイベント「さんピンCAMP」の全貌に迫るべく、当時の関係者や出演アーティストへのインタビューなど、さまざまなコンテンツをお送りする連載企画「『さんピンCAMP』とその時代」。第4回となる今回は、RYO-Z(RIP SLYME)とDABO(NITRO MICROPHONE UNDERGROUND)の対談をお届けする。

ポップなスタイルで数々のヒット曲を生み出し日本語ラップの魅力をお茶の間レベルにまで広めたRIP SLYMEと、US直系のサウンドと8人のMCによる存在感抜群のマイクリレーで2000年代初頭のアンダーグラウンドシーンを牽引したNITRO MICROPHONE UNDERGROUND。一見両極端ともいえるグループで活動してきた2人ではあるが、ともに90年代初頭にヒップホップに目覚め、多感なミドルティーンの時期にマイクを握り、同じクラブに出入りするうちに顔見知りとなり、ときにオープンマイクでしのぎを削るなど、標榜するスタイルこそ違えど10代の頃から“盟友”ともいえる関係を築いてきたのだという。前編となる今回は、同学年である両者に、突如現れたというキングギドラやBUDDHA BRANDの衝撃など、「さんピンCAMP」前夜である90年代中盤のヒップホップシーンを現場目線で振り返ってもらった。

取材 / 猪又孝、高木“JET”晋一郎 文 / 猪又孝 撮影 / 沼田学

手っ取り早くマイクを握れるのはオープンマイク

──まずは「さんピンCAMP」前夜の話から聞かせてください。RYO-Zさんは1994年にRIP SLYMEを結成したんですよね。

RYO-Z 94年9月が初ライブですね。まずRYO-Z、ILMARI、PESという3人のMCの頭文字から「RIP」というワードが浮かんで。俺とILMARIの2人でやっていたときからバックDJをしてくれていたShigeとShojiの5人でRIP SLYMEという名前でやろうと、夏ぐらいから話してたんです。で、下北沢のCLUB251で初ライブをやって。

──どんなライブだったんですか?

RYO-Z イベントですね。MELLOW YELLOWのK.I.NさんとEAST ENDのYOGGYさんに「お前、イベント打つらしいじゃねえか」みたいな話をされて。「まずは遊びでやろうぜ」って、3人でボンジュールエスプリってイベント集団を組んだんですよ(笑)。そこにはRHYMESTERのMummy-Dさんもいたりしたんですけど、完全にYOGGYさんとK.I.Nさんの悪ノリで始まったことに、なぜか俺も参加して、「デッツ」っていうイベントをやったんです。そこで初めてRIP SLYMEという名前でライブをやりました。

──一方、DABOさんもすでにマイクは握ってますよね。当時はどのあたりで活動していたんですか?

DABO 俺は池袋のCHOICEというハコで、月イチでK-BOMBとラップしてて。当時は練馬に住んでいて、池袋に出やすかったんですよ。CHANNEL 5(DABO、SUIKEN、K-BOMB、DJ HAZIMEによるヒップホップユニット)を組む前夜ぐらいっすね。

──同学年のお二人は、その頃20歳前後ですが、先は見えていましたか?

DABO 全然。真っ暗っす(笑)。

RYO-Z 今思えば真っ暗な時代だなって思うけど、別にね(笑)。楽しいからやってるだけ。

DABO これを仕事にしようみたいな、そういうフェーズではなかったですよ。明日は見えない。でも、明日が見えないこともあんまり気にしてない(笑)。

RYO-Z その頃、俺はCHOICEで初めてDABOと会ったのかな?

DABO そうだと思う。

RYO-Z 俺とILMARIの2人時代から、DABOとK-BOMBとは面識があったんですよ。EAST ENDの後輩として、ローディじゃないけど、そんな感じのことをやっていて。その流れでCHOICEにも行ってたし、SUIKENも顔は知ってるっていう感じ。で、DABOだけムラサキスポーツの広告みたいなことやってて。

DABO ラジオCMね。CMというか、要は30秒の曲ですよ。そこでMICROPHONE PAGERの「病む街」(1995年)よりも早く、あのループ(シャメク・ファラー「First Impressions」ネタ)を使ってたんです。それが自慢(笑)。

RYO-Z 出た(笑)。「時代の先っぽ。ムラサキスポーツ」をやってたんすよ。俺らからしたら「ムラサキのCMソング、あいつがやってるんだ!」っていう驚きがあって。俺たちはまだ録音物を出してないけど、「あいつはもうメディアでラップが使われてる!」って。

──ラジオCMの話はどこから?

DABO それが面白いことにブルヤスっす。

RYO-Z へえ、ブルックリン・ヤスだ!(日本のヒップホップビジネスの土台を築いた名物裏方。ZeebraやSOUL SCREAMらを擁したレーベル・Future Shockを1997年に設立)

DABO ブルヤスがニューヨークから帰ってきて最初にツルんだラッパーが俺なんですよ。雷とかの前に。で、俺はブルヤスの車で街を意味なくドライブするみたいな毎日を送ってて。ムラサキスポーツは、ブルヤスが呼び屋時代に持ってきてくれた仕事だったんです。

──当時、ラッパーとの出会いはクラブが多かったですか?

DABO 俺らの時代は、みんなオープンマイクで知り合うんですよ。出れるハコが少ないから、「FG NIGHT」だろうが「BLACK MONDAY」だろうが、歌えそうなところに突っ込んでいく。俺はいつもいるし、RYO-Zもいる。そういう中でKREVAとも知り合って、みたいな。

RYO-Z じゃないとステージに立てる機会がないんですよ。グループを組んで会場を予約してチケット売りましょうっていうより、手っ取り早くマイクを握れるのはオープンマイクだから。そこで「あいつ、やるな!」っていうプロップスをもらわないとダメだった時代。

DABO KREVAが来たときは嫌だったね~(笑)。

RYO-Z 嫌だった~(笑)。クレちゃんは好戦的なんだよね。俺たちは楽しくやってるのに、クレちゃんは客をいじるわ、出演者をいじるわ。

DABO トガってるんだよね(笑)。

RYO-Z そう。「全員ツブす!」みたいな感じで来るからさ(笑)。

「FRONT」「ナイトフライト」ヒップホップメディアの登場

──でも、そうやって知り合って、徐々に輪が広がっていった。

RYO-Z 原宿の路地裏が裏原宿と呼ばれるようになった頃、俺はプロペラ通りにあったトレジャーアイランドというショップで働いてたんです。隣のBluesにはDJ HAZIMEがいて、いつもDABOが遊びに来てる。近くのCRIBにはPESとクレちゃんとCUEZEROがいて、レコード店のFat Beats TokyoにはMACKA-CHINがいて、BLACKANNYにはILMARIとS-WORDがいた。さらにFUMIYAが原宿に住んでるっていう状態だから、あのへんの半径数km圏内に、みんないるような時代だったんです。

──DABOさんも遊びに行っていたという「FG NIGHT」はFUNKY GRAMMAR UNITのイベントですが、どういう経緯で始まったんですか? そもそもFUNKY GRAMMAR UNITは、1993年に発売されたRHYMESTERの1stアルバム「俺に言わせりゃ」に収録された、EAST ENDとMELLOW YELLOWの客演曲「FUNKY GRAMMAR」が結成のきっかけになったクルーで、のちにRIP SLYME、KICK THE CAN CREWも加わりました。

RYO-Z 当時、その3組を中心に代々木チョコレートシティで「YOUNG MC'S IN TOWN」というイベントをやっていて。終わると、みんなで代々木公園に酒持って集まって飲んでたんですよ。で、せっかくこういう会をやってるんだったら、夜中にイベントをやろうということになって。池袋のCHOICEで、「YOUNG MC'S IN TOWN」のアフターパーティっぽく始まったのが「FG NIGHT」だったんです。

──その後、1994年10月にはヒップホップ専門誌「FRONT」が創刊されました。

RYO-Z 読んでましたね。第1号の表紙がBeastie Boys。ヒップホップ、ないしはブラックカルチャーの音楽専門誌として「FRONT」は一番影響力があったから、「これに出られたら!」という思いはありました。

DABO あったね。

──シーンが徐々に大きくなっていってる体感はありましたか?

DABO まだないっすね。それは「さんピンCAMP」からじゃないですか? けど、俺らが20歳の頃に「FRONT」が出てたんだ。

──お二人は、ヒップホップの情報にどのように触れていましたか?

RYO-Z メディアとしては「HIP HOP NIGHT FLIGHT」(1995年9月17日26:00~29:00第1回放送のラジオ番組)がデカいすね。「さんピンCAMP」にもつながっていく導線になっている番組だった。当時TOKYO FMにいた森田(太)さんが「深夜の枠なら好き勝手できる」ということで、「ナイトフライト」を立ち上げて。自分たちの中では東京の片隅でやってるカルチャーのイメージだったけど、ヒップホップを聴いてるやつが全国にいるんだろうなっていう意識をあの番組が広げてくれた。

DABO 「FRONT」の前に、まず「Fine」が一番の情報源でしたね。サーファー雑誌だったんだけど、クラブカルチャーを取り上げる機会がどんどん増えていって。MUROくんがモデルとして出てたりとか。

RYO-Z 確かに。「Fine」に出れたとき、すごくうれしかったもん。

──ヒップホップメディアが少しずつ登場してきて、お二人はそれに憧れる側でもあり、同時にシーンの当事者にもなっていった世代なんですよね。

RYO-Z 俺らの世代は一番恩恵を受けたなと思っていて。Zeebraさん、RHYMESTER、スチャダラパー、EAST ENDといった先達がいて、そこにすっと入っていけたんですよね。

上の世代がアベンジャーズみたいに一気に集まり出した

──95年になると、ECD「ホームシック」が3月に発売され、4月にスチャダラパー「5th WHEEL 2 the COACH」、5月にBUDDHA BRAND「人間発電所」、6月にRHYMESTER「エゴトピア」、7月にMICROPHONE PAGER「DON'T TURN OFF YOUR LIGHT」、12月にキングギドラ「空からの力」と、日本語ラップを代表する作品が次々に発売されました。それらの作品をどう記憶していますか?

RYO-Z 強烈に覚えてるけど、急にみんなが出てくるんすよ。僕らの上の世代が一気に集まり出した。

DABO アベンジャーズみたいにね。

RYO-Z まさに。上の世代がアベンジャーズみたいに次々登場してきた。まだZeebraさんの存在も知らなかったんだから。

DABO 異物だよね。でも「Fine」には載ってたんだよ。Kダブシャインは髪長くてさ、渋谷のTHE CAVEで女の子と撮ったスナップ写真とか載ってて。かと思えば、ニューヨークに住んでるコンちゃん(DEV LARGE)の手描きの絵が入った、ちょっと独特な日本語のグラフィティが載ってたり。それがキングギドラとBUDDHA BRANDの存在を認識したきっかけだったんだけど、もう異質だったんですよ。

RYO-Z 「誰なの、この人たち⁉ 聞いたことないんですけど」って感じだった。

DABO 突如現れていきなりシーンの中心に入っていったから。すごい時代だったよね。

RYO-Z ある日、LAMP EYEというグループが代々木のチョコレートシティでライブをやると聞いて、ロックさん(ROCK-Tee)と観に行ったんですよ。その車中で、ロックさんに「俺、今日、Zeebraってやつに会ってデモテープもらったんだけど」って言われて、初めてキングギドラのデモテープを聴いたんです。「すげえやつらがいるな」と思いながらも、「けっこう、うまいっすね」とか言っちゃって(笑)。だって存在を知らないから。ロックさんに新人として聴かされてるから、俺らと変わらない存在だと思ってるわけですよ。で、その足でLAMP EYEを初めて観て、「下剋上」を聴いて「もう! なんだこいつら!」みたいな(笑)。キングギドラとLAMP EYEという、とんでもないグループの存在を一気に知ったから、あれは自分にとって忘れられない特別な日ですね。「この人たち、今までどこにいたの?」って驚いて。カルチャーショックとも違う。あの感じって、なんだったんだろう。

DABO  2組ともそれまでの系譜とは違うところから出てきたからね。俺はペイジャーを追っかけてたけど、RHYMESTERも聴いてたし、スチャダラパーはもっと前から聴いてて、その3組が好きなんですよ。そしてほかにもキミドリとか、ああいう下北周辺の人たちがいることも知ってた。でも、そういう系譜とは別のところから、急に異質な人たちが現れた。言ったらTWIGYもそう。「何、この人たち?」みたいな。超人がいきなり集まってきた(笑)。

RYO-Z 今まではどっかのハコに行って顔を見りゃだいたいわかったんですよ。あいつはあのへんの人たち、この人はあのへんの人たちとか。新宿、六本木、渋谷、池袋って、みんな活動の拠点があったから。でも、ブッダやギドラ、LAMP EYEは、「どこから現れたんだ?」っていう衝撃があった。しかも、みんなスーパースターのような雰囲気があって。「えっ? 知らないんですけど」みたいな。

90年代は“そう簡単には認めねえぜ”カルチャーが基本だった

DABO ただ、90年代は“そう簡単には認めねえぜ”カルチャーが基本だったんで、最初は様子見するんですよ。オープンマイクでラップしたからって、すぐに仲よくならない。「ああ、あいつらじゃん」って感じでスカしてる。でも、いつもクラブにいるやつはこっち側なんすよ。「いつも現場にいる」ってことは正義だから(笑)。

RYO-Z あはは!

DABO 「あいつ、いつもいる。俺、知ってるわ」。これはもう正義なんです。だから知らないやつが入ってくると、「あいつ、誰?」が始まるんですよ。「認めねえ、あいつ」ってことになる。だからギドラやブッダが入ってきたときも「誰なの?」って嫌悪感を抱くんすよ。俺らより先に「Fine」に載りやがって!とか(笑)。ところが、ラップとかトラックを聴いたら、もう違う星からやってきた宇宙人じゃないですか。

RYO-Z 悔しいから俺はしばらく認めてなかった(笑)。友達の家で初めてブッダのアナログに針を落としたときのことを覚えてるんだけど、偉そうに「デモテープみたいな音質じゃん」とか言って(笑)。カッコいいと思ってるのに、認めちゃいけない自分がいるわけですよ。「こんなんデモテープじゃん。マスタリングしてんのかな?」とか。こっちは「Lip's Rhyme」で一応レコーディング経験者だから、必死で専門用語を使って(笑)。聴いたのは、確か「FUNKY METHODIST」だったと思う。

DABO 俺はもともと海外のラップが好きだったから、当時、ガツンと来る日本語ラップがあまりないなと思っていて。「日本語は英語に比べてリズムに乗りにくいのかな?」とか思ってたんですよ。そんな中で超人たちがいっぱい出てきたから「日本語ラップは、まだまだカッコよくなるんだ」という確信を得たというか。すごく刺激を受けました。

──それはどのグループ?

DABO 一番衝撃を受けたのはギドラっすね。俺はオーソドックスなものを基本的に愛するんで。だからRHYMESTERも好きなんですよ。俺の中ではRHYMESTERが一番ライミングがうまいと思っていた。だから、RHYMESTERとギドラで1回教科書が完成したなって。でもブッダは教科書とか、そういう問題じゃないんすよ。さらに異物。TWIGYにしても、LAMP EYEのRINOくんにしても、真似するとか、そういう話じゃない。

RYO-Z 雲の上に君臨する感じの人たちだよね。

DABO エロ本を見てる感じだった(笑)。

RYO-Z そうそう。エロ本見て「こんなエロい女いねえよ!」とか言ってる感じ(笑)。「実在しないだろ」みたいな。TWIGYくんがCLUB CITTA'で開催されたダンサーのイベントに出てたときも衝撃で。ダンサーは基本、洋楽のヒップホップを聴いてる人が多いから、日本語ラップなんて「は?」みたいな感じだったんですよ。そのイベントのときも出演者の中で唯一、ペイジャーだけは認めるみたいな雰囲気で。そんな中、TWIGYくんが出てきて、いきなりアカペラで16小節ぐらいヴァースをやって、みんなシーンとなってる。で、最後に「Say Ho~」って言ったら地鳴りのようなレスポンスが湧いたんですよ。ちょっと神がかった感じでしたね。

「さんピン」前夜のRYO-Z とDABO

──「さんピンCAMP」が開催された1996年、RIP SLYMEはThe Pharcydeの来日公演の前座を務めました。「FRONT」の1996年8月号には彼らの対談が掲載されています。

RYO-Z 確か来日は春頃だったと思います。招聘元のポジティブプロダクションに直電して、「The Pharcydeの前座をやらせてくれ」って言ったのを覚えてる。「いいけど、君らじゃまだバリューが弱いから」って、MELLOW YELLOW先輩とRIP SLYMEでやることになったんです。MELLOW YELLOWはロックステディクルーとかダンサーも入れて、すごく豪華なステージをやったんだけど、俺らはメンバーだけでステージに立ったんですよ。FUMIYAはさらに客入りDJもして。Y'all So Stupidの曲をかけて、「これ、The Pharcydeに伝わるかな」とか言ってましたね。まだFUMIYAが正式にリップに入る前のこと。

DABO その来日公演って渋谷のON AIR(現・Shibuya O-EAST)でしょ? 「証言」のミュージックビデオでZeebraのパートを撮ったのがそのときじゃなかったっけ? 

RYO-Z えー、そうなんだ?

DABO The Pharcydeが終わって、客が会場の外でたむろしているところで撮ったんじゃないかな。Zeebraの後ろにKREVAがちらっと映ってる。

──RIP SLYMEがそのように活動を広げる中、DABOさんはどんな動きをしていたんですか?

DABO その頃には、CHANNEL5でライブをしつつ、渋谷のSTILL DIGGIN'というショップに溜まったりしてたっすね。

──STILL DIGGIN 'の名付け親はMUROさんですが、当時どんな交流を?

DABO 俺はMUROくんの店のお手伝いをしたことはないんですよ。働いてたのは、のちにNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDになるメンバーたちで。俺はMUROくんが好きで、ただ追っかけてただけ。あとラップの相談をしてましたね(笑)。「どうしても8(小節)から先が書けないんですよ」つって。「慣れだねぇ」って言われて、「ですよねー」みたいな(笑)。

RYO-Z MUROさんは渋谷のDJ's CHOICEによくいたよね。DJ ' s CHOICEではMAKI & TAIKIの2人が働いてて、MAKIくんはいつも寝てた(笑)。「いらっしゃい」もないもん。

DABO 95年になると、もうペイジャーは実質活動してないじゃないですか。「俺たちと同い年のP.H.FRONはもうやらないんですか」「MASAOくんはもう聴けないんですか」みたいな感じでフェードアウトするように終わっていく。それに代わってフェードインで始まっていったのが雷。彼らはWu-Tang Clanイズムを体現した感じじゃないですか。片や、RIP SLYMEやMELLOW YELLOWはThe Pharcydeイズムというか、時代の空気をめっちゃ吸い込んで、歌うようにラップしていて。俺はそういうラップも好きだから、面白いと思っていたし、同時代の2大トレンドを雷周辺とFG周辺でやってた印象がありますね。

──それを見ながら、自身はどんなふうに活動していこうと?

DABO 俺は、何をしてたのかなあ。レコーディングをするとか作品を作るっていう考えがあまりなかったんですよね。あのときが一番明日が見えなかったかもしれない。バイトしない。借金しまくり。フラフラしてる時代で、別に曲も作らないし。

──でも、周りの動きは活発になっていくわけで。

DABO 確かに周りが動き出していった感じはありましたね。でも、俺はあまり声がかからなかった。MUROくんが「SUIKEN、うちの店で働かないかな」とか言ってて。「あ、俺には言わねえんだ」みたいな(笑)。そういうのがあったんですよ。トラ(GORE-TEX)もSUIKENもS-WORDも、MUROくんの店、SAVAGE!で働いてたから。

RYO-Z トラくんがMUROくんところの一番の若頭って感じだったな。

DABO あの頃って、履歴書を持って行くというよりも、知ってる人が引っ張るっていうかさ。職場でも音楽でも知ってる人のフックアップが大事じゃないですか。でも、「なんか俺、声かかんねえな」と思って。今思えば俺がダメなやつだったからなんですけど(笑)。なんか寂しいな、とか思ってた時代ですね。

「さんピン」だけじゃなくて、同時多発にいろんなことが起こってる時代だった

──DABOさんの「さんピン」前夜は、そんな感じだったんですね。

DABO 俺、ラップ友達があまりいないから、下北沢SLITSの「スラムダンクディスコ」にいつも1人で行ってたんですよ。酒も飲まずに、ずっとかかる曲をチェックしてる感じだったんだけど、いろんな系統のラッパーが1つのステージに集まる光景をそこで目の当たりにして。規模こそちっちゃいけど、そういう光景を見てたから、1つのアーティストに一辺倒になるのはクールじゃないな、みたいな感覚が若いときからあったんですよね。だからペイジャーを聴いて、ライムスも聴く。「POWER RICE CREWがSOUL SCREAMって名前にリニューアルしたんだ、聴いてみよう」とか、耳は常にオープンにしておこうという気持ちが自分の中にあって。その「スラムダンクディスコ」イズムが、「さんピンCAMP」につながっていったのかなって思うんです。ショーケースっぽい、いろんなスタイルの人が同じステージに立つところが。

──それだけ弾もそろってきた、ということですよね。

RYO-Z いろんな人たちが出てきている状態で、さらにレゲエの波もやって来て。沸々としていたものが、その頃から一気に融合し始めていった気がします。俺の地元でもともとラップをやってたやつが急にレゲエのクルーに入って。その流れでダブを聴けるようになったときに、CHOZEN LEEとかATOOSHY(現ATOOSHI)とか、大阪のTOKIWA(※90年代後半の日本のレゲエシーンを牽引したレゲエクルー)の人たちとかを知って。「なんじゃ、こいつら。化け物みたいにうめえじゃねえか!」みたいな。

──ランキン・タクシーさんがプロデュースした若手レゲエアーティストのコンピ盤「Large Up ~勝ち上がり~」が1996年4月に発売されて、そこにATOOSHYやJUMBO MAATCH、TAKAFINが参加しています。

RYO-Z TOKIWAが渋谷のclub asiaに来て、HIFANAとアルファと一緒にイベントをやったことがあって。全然知らないレゲエのクルーだと思いながら観てたんだけど、それがJUMBO MAATCHとNG HEADとRYO the SKYWALKERだったんですよ。「とんでもねえ、すげえのいるぞ」「レゲエ版The Pharcydeみたいなやつらがいるぞ」ってびっくりして。それで「Talkin' Cheap」を作ってる頃に、ATOOSHYにフィーチャリングで参加してほしくて、新宿のHI-TIMEまで口説きに行ったんですよ。そのときに、TAXI Hi-Fiのサウンドシステムで、PUSHIMを生で初めて観たんですけど、「うわ、もうプロじゃん!」って、ぶっ飛びまくって。

DABO TOKIWAは忘れちゃいけないね。韻をめちゃくちゃ踏むレゲエの人がついに出てきた感じで。

RYO-Z それでいて高速ラップのラガマフィンだから。みんな滑舌よくて、声も出るわ、半端じゃねえって思いましたね。だから「さんピンCAMP」だけじゃなくて、同時多発にいろんなことが起こってる時代だったんですよ。

<後編に続く>

RYO-Z

1974年、東京都生まれ。1994年にヒップホップユニットRIP SLYMEを結成。2001年3月にシングル「STEPPER'S DELIGHT」でメジャーデビューを果たす。ソロでは多数のアーティストとのコラボレーションや客演などに加え、TERIYAKI BOYZ®、アスタラビスタといったヒップホップユニットにも加入。2024年にはソロ名義で初となるシングル「Obsession feat. YOUR SONG IS GOOD, 高橋一(from 思い出野郎Aチーム),SONPUB」、これまでに参加した客演曲や新曲を収録したソロアルバム「Obsession」を発表した。

DABO

1975年生まれ、千葉県出身。NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDの主要メンバーとして活躍する。インディーズでの活動を経て、Def Jam Japan第1弾アーティストとして2001年にシングル「拍手喝采」でメジャーデビューを果たした。また客演ラッパーとしてBoAやPUSHIMといったシンガーからキエるマキュウなどさまざまなアーティストと共演。2026年8月11日に神奈川・Kアリーナ横浜で開催されるMCバトルイベント「BATTLE SUMMIT III」に漢 a.k.a. GAMIとタッグを組み出場する。

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