西寺郷太が日本のポピュラーミュージックの名曲を毎回1曲選び、アーティスト目線でソングライティングやアレンジについて解き明かす連載「西寺郷太のPOP FOCUS」。NONA REEVESのフロントマンであり、音楽プロデューサーとしても活躍しながら80年代音楽の伝承者としてさまざまなメディアに出演する西寺が、私論も織り交ぜつつ、愛するポップソングについて伝えていく。
第11回では西寺にとって思い出深いという米米CLUBの「TIME STOP」にフォーカス。挿絵を担当するしまおまほとの米米エピソードを交えながら、変わりゆくトレンドに流されない彼らの音楽スタイルを解き明かす。
文 / 西寺郷太(NONA REEVES) イラスト / しまおまほ
「TIME STOP」で窮地を救う
“カラオケ文化”が一般化したのは僕が高校生だった1980年代末から90年代初頭にかけて。それ以前、カラオケといえばスナックやバーのような空間で大人たちが演歌やムード歌謡を歌っているイメージしかありませんでした。ちなみに自分にとって“カラオケ文化”最初の記憶は、1976年11月27日土曜日、3歳の誕生日のこと。当時140万枚のセールスを記録し大ヒットしていた都はるみさんの「北の宿から」を母親と共に歌ったんです。近鉄伏見駅前の大型スーパー・イズミヤのイベントスペースに機械が置かれ、司会者が参加者を募っていたところ誕生日プレゼントを買いに店を訪れた僕が「どうしても歌いたい」と直訴したようで。父親の回想によると、当時はまだ「人前で素人が歌う恥ずかしさ」「カラオケ自体に不慣れ」という理由で歌うことに二の足を踏んでいた人が多かったそうです。ともかく、その日は参加賞として歌った音源がもらえたので僕自身の最も古い歌唱音源は、このとき歌った「北の宿から」ということになります。「ザ・ベストテン」などのテレビの歌番組を観ている影響で、当時は幼い子供もリアルタイムの演歌をヒット曲としてよく覚えていたんですよね。
さらに思い出すのが、それから7、8年を経た小学生高学年の頃。家族や地元の仲間と貸切バスのパック旅行で兵庫県、有馬温泉を訪れて。温泉のヘルスセンター大宴会場で、天童よしみさんのショーを観たんですよ。終わったあとの握手会で「私、有名になるから思い出してなー」みたいなこと言われたんですが。それから天童さんをテレビやメディアで観るたびに毎回「昔、有名になったら思い出してって言われたなあ」と思うんですよね(笑)。だからなんやねん、というどうでもいいエピソードですけど(笑)。ともかく、カラオケボックスが生まれる前、80年代前半から半ばまでの“カラオケ”って、そういう親世代の演歌調のムードと一緒になってたことを記しておきたかったんです。
高校時代は、仲間とカラオケに行きましたね。僕は男子校だったんで、ほかの女子校の女子とグループで行ったりしたときはカッコつけてバラードを熱唱したりしてました(笑)。よく歌っていたのが尾崎豊さんの「I LOVE YOU」「OH MY LITTLE GIRL」、BEGINの「恋しくて」。当時からバンドもやってましたし、オリジナル曲も作ってましたけど、「カラオケにはカラオケ用の曲がある」「TPOをわきまえる」と言いますか。それはそれで好きに歌ってました。特にその中でも米米CLUBの「TIME STOP」が、僕の十八番で。イントロのブーンというベースのスライドから、精鋭集団・BIG HORNS BEEによるホーン隊のゴージャスなアレンジで場の空気が変わるんですよね。カラオケだとシンセ音源ですけど、それでも編曲がしっかりしているんで、ちゃんときらびやかなムードで響くんです。長めのイントロを使ってお辞儀してみたり、ベタですけど1人ひとりと握手したりして(笑)。数年前に、RHYMESTERの宇多丸さんのラジオ番組「ウィークエンド・シャッフル」でも話したエピソードなんですが、高校3年生のときかな? 文化祭が終わったあと、友達と打ち上げと称して地元京都の祇園に遊びに行ったことがあって。そのとき、フラフラと店を探していたら街で声をかけられてカラオケに誘われたんですが、そこはいわゆる“ぼったくりバー”だったんですよ。バブル全盛の時期で、店の中央に小さいけどキラキラに彩られたステージがあって。頼んでもないフルーツがいきなり出てきて焦るみたいな。「これはヤバい。最悪や」と思ったんですけど(笑)、どうしようもないなら、1曲くらい歌うかと。開き直って「TIME STOP」をリクエストしてステージに上がって熱唱したら、そこにいた一番偉いであろう強面のオッサンが「兄ちゃん、歌めちゃめちゃうまいやないか」みたいなノリで急に褒めてくれて。未成年であることはバレバレだったんで「酒はあかんぞ」と言って、飲食代をおごってくれました(笑)。今思えば、最初から単にいい人だったのかもしれませんが(笑)。ともかく一緒にいた友達には窮地を救ってくれたと当然感謝されたし、自分にとって“歌を武器にできた”最初の経験でしたから、この曲には感謝してるんですよね。
日本エンタテインメントのDNA
米米CLUBがシングル「I・CAN・BE」でデビューしたのは、1985年10月21日。連載にも登場した少年隊の「仮面舞踏会」より2カ月早い感じですね。そう思うと、時代の空気より少し早いというか、米米CLUBのすごさが分かります。1985年は、春にU.S.A. For Africaのアフリカ救済ソング「We Are The World」がリリースされ、夏にQueenの映画「ボヘミアン・ラプソディ」でもクライマックスに使われた大規模イベント「Live Aid」が開催された年でもあります。デヴィッド・ボウイとミック・ジャガーによるモータウンソング「Dancing in the Street」を筆頭に、当時はビッグアーティストたちによるコラボレーションもブームで。なんというか、海外も日本もある意味浮かれていたと言いますか、若いミュージシャン同士で集まっていろんな企画番組やイベントを作るのが流行っていたんじゃないですかね。ただし、やっぱり突貫工事的に作り上げたイベントやお祭りってクオリティがキープできないバカ騒ぎで終わってしまうことも多くて。そう考えるとEarth, Wind & Fireや、Funkadelicといった70年代の大所帯バンドから影響を受けている米米CLUBって、ステージに立ったときの華やかさやしっちゃかめっちゃかした刺激、危うい魅力を自分たちだけで賄える珍しいグループでしたし、景気もよく享楽的な時代の要請にも合っていたんだろうな、と。
ただ彼らもデビューしていきなりお茶の間に認知されたわけではなくて。初めて僕自身が彼らの楽曲を知ったのは、デビューから2年後、中2の春。4枚目のシングル「PARADISE」でした。僕は生徒会に入ってたんですが、同じ生徒会の3年生の女子で同じ会計という役職を担当していた青野さんって先輩が教えてくれたんです(笑)。彼女はかなりの米米CLUBマニアで、すでに洋楽に完全にハマっていた僕にも米米を受け入れる素養があると見抜いていたんでしょう。受け身だった僕が、米米のアルバムを初めて自主的に買って夢中になって繰り返し聴いたのは、1988年のアルバム「GO FUNK」。アルバムに先駆けてリリースされ大ヒットした88年のシングル「KOME KOME WAR」はイントロからのベースラインがマイケル・ジャクソンの「Don't Stop 'Til You Get Enough」の引用で、メロディは「Bad」そのままというパロディソング。アウトロに「アオーーッ!」って狼みたいに、「Thriller」ばりに吠えてみたり、同じレコード会社なのに大丈夫かと思いましたが(笑)。「KOME KOME WAR」は曲として、どういうファンクなら日本全国の中高生から受け入れられるのだろうか、という彼らなりの黒人音楽への愛と実験の集大成という気がします。特にストイックにベースラインが一定のまま、Aメロやサビでキープしたファンキーなグルーヴを、2分40秒あたりからの“旨味のある大サビ”、ブリッジ部分で急に流麗なメロディと保守的なコードを混ぜ“歌謡曲”としてまとめる感じが彼らの真骨頂。緊張と緩和。共同プロデューサーとして参加された萩原健太さんの影響もあるのでしょうか、白人的、黒人的音楽の伝統のみならず、演歌やムード歌謡も好きな、それまでの日本人の音楽芸能の遺伝子をもきちんと押さえた曲作りができたことこそ、彼らの人気が国民的なものまで拡大した理由だと思います。スナックやいわゆる“夜の街”で映えるんですよね。端的に言えば彼らには“あまりにもカラオケ向き”の歌詞とメロディが作れてしまう才能があった。初期の大ヒット「浪漫飛行」に関してはカールスモーキー石井さんがインタビューで、自分が中心になって作ったとおっしゃっていましたが、確かにプログラミングサウンドで。80、90年代は今以上にカラオケで鳴らせるサウンドは貧弱でしたし、生演奏の微妙なグルーヴは出せませんから、「浪漫飛行」のようにそもそもデジタルな打ち込みの曲のほうがオリジナルとカラオケとの“差異”は生まれにくくて受け入れられやすいわけです。そのあたりが成功したがゆえの大所帯バンドのジレンマだったのかもしれません。
ボケ倒す石井さん
カールスモーキー石井さんが自身の音楽作りについて「彼女がいきなり最寄り駅に来て『家に遊びに行きたい』と言い出して、10分ぐらいで慌てて部屋を掃除した、そういう締切前の焦りと積み重ねで音楽を作ってきた」という例え話をしていて。すごくいい話だなと個人的に座右の銘にしていたり、彼が映画「河童」を撮ったときは映画館に行きましたし、そういう事実を列記してみると、大学生までの僕は彼と米米のけっこうファンだったんじゃないかと思ったりもしますね。ただ、僕がデビューした数年後、スペースシャワーTVのいとうせいこうさんが司会をされていた「梁山泊」というクイズ番組で共演させてもらったことがあって。石井さんが全部の問題にボケ倒して1回も当てにいかないんですよ。ずっとふざけていて、周りがどう対処していいかわからないくらい最初から最後まで注意されることしかされないんですよ。そのときは「普通に答えるのも混ぜろよ!」と正直腹が立ちました(笑)。でも今思えば、究極的に繊細でシャイな方なのかなとも。そういうすべての身のこなしも含めて“THIS IS 石井竜也”なのでしょう。
一昨年、2018年の「YATSUI FESTIVAL!」に出演したときは「TIME STOP」を歌いました。昨年のイベントでは、これも大好きな米米のシングル「ひとすじになれない」をこの連載で挿絵を担当してくれてる米米CLUB愛好家のしまおまほちゃんと、Calmera(カルメラ)の生演奏でデュエット。特に「TIME STOP」は、いつかソロとしてきちんとレコーディングして記録に残してみたい、人生の1曲です。
西寺郷太(ニシデラゴウタ)
1973年生まれ、NONA REEVESのボーカリストとして活躍する一方、他アーティストのプロデュースや楽曲提供も多数行っている。7月には2ndソロアルバム「Funkvision」をリリースした。文筆家としても活躍し、著書は「新しい『マイケル・ジャクソン』の教科書」「ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い」「プリンス論」「伝わるノートマジック」「始めるノートメソッド」など。近年では1980年代音楽の伝承者としてテレビやラジオ番組などさまざまなメディアに出演している。
しまおまほ
1978年東京生まれの作家、イラストレーター。多摩美術大学在学中の1997年にマンガ「女子高生ゴリコ」で作家デビューを果たす。以降「タビリオン」「ぼんやり小町」「しまおまほのひとりオリーブ調査隊」「まほちゃんの家」「漫画真帆ちゃん」「ガールフレンド」「スーベニア」といった著作を発表。イベントやラジオ番組にも多数出演している。父は写真家の島尾伸三、母は写真家の潮田登久子、祖父は小説家の島尾敏雄。