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西寺郷太のPOP FOCUS 第28回 RIP SLYME「楽園ベイベー」

「西寺郷太のPOP FOCUS」
約1年前2023年08月30日 9:03

西寺郷太が日本のポピュラーミュージックの名曲を毎回1曲選び、アーティスト目線でソングライティングやアレンジについて解説する連載「西寺郷太のPOP FOCUS」。NONA REEVESのフロントマンであり、音楽プロデューサーとしても活躍しながら、80年代音楽の伝承者として多くのメディアに出演する西寺が私論も盛り込みながら、愛するポップソングを紹介する。

第28回では2002年6月に発売されたRIP SLYMEのシングル曲で、日本を代表するサマーチューンの1つ「楽園ベイベー」にフォーカス。RIP SLYMEのデビュー当時を振り返りながら、ラップブームの立役者とも言える彼らの魅力や、メンバーとの交流秘話を語る。

文 / 西寺郷太(NONA REEVES) イラスト / しまおまほ

電流が走るほどの衝撃

RIP SLYMEは、自分にとって特別な思い入れのあるグループです。NONA REEVESは、1997年秋にワーナーミュージック・ジャパンからデビューして、2001年末までの丸4年間、作品をリリースしていました。そのワーナーから、RIP SLYMEのメジャーデビューシングル「STEPPER'S DELIGHT」がリリースされたのは2001年3月22日のこと。発売される少し前に、信頼していたレーベルのスタッフから「めちゃくちゃいいよ」と彼らのサンプル盤をもらって聴いた瞬間、全身に電流が走るくらいの衝撃を受けたことを鮮明に覚えています。すぐ彼らのライブ現場に足を運んだのですがその夜、アフターパーティに呼ばれて訪れたクラブで体感した、上昇気流に乗っている集団特有のオーラの眩しさは今も忘れられません。

RIP SLYMEのデビューとほぼ同じタイミングで、ワーナーはKICK THE CAN CREWやSBKといったストリート感の強いヒップホップアーティストとどんどん契約し、怒涛のリリースを重ねてゆきます。彼らにはそれまで日本を代表し、道なき道を開拓してきたどことなくシリアスで求道者的なムードを持つ“90年代日本語ヒップホップパイオニア勢”とも違う、よりミクスチャーバンド的だったり、ポップで楽しい草創期のオールドスクール回帰、パーティ感のあるイメージを僕は感じていました。中でもRIP SLYMEの特徴は個性的で声質やフロウのまったく違う4人のMCがいた、ということではないでしょうか。日本語ラップのそれまでのグループの王道は1人のDJと2人の強烈なMC、というフォーマットだったように思います。Boseさん、ANIさん、DJのSHINCOさんによるスチャダラパー、Zeebraさん、Kダブシャインさん、DJ Oasisさんによるキングギドラ、Mummy-Dさん、宇多丸さん、DJ JINさんによるRHYMESTERなど。それぞれレジェンドであり、今も輝きを失わず魅力を更新され続けている少数精鋭の面々ですが、RIP SLYMEはMC4人がいる5人組であることがある種、「おもちゃ箱をひっくり返したような」、誤解を恐れず言えば彼らのアイドル、ボーイバンド的で遊び心あるダイナミックなイメージにつながっていたと思います。

RIP SLYMEがもたらした大きな功績

年齢的にはグループ最年長のSUさんと僕は1973年生まれの同学年、ここ10年ほどとても仲よくしている飲み仲間のRYO-Zくんは1つ年下。このあたりまでは完全に同世代なのですが、1979年3月生まれの最年少トラックメイカー、DJ FUMIYAさんはメジャーデビュー当時22歳になったばかり。かなり年齢に幅があるグループで、同じ5人組ということもあり時代を象徴する人気グループだったSMAPにも似たムードを感じるほど、ともかく瑞々しく勢いがあって魅力的でした(のちに知ったのですがSUさんとFUMIYAさんは、SMAPの中居正広さんと地元が神奈川県藤沢市で同じ、小中学生の頃から知り合いだったそう)。

文章にするとすごく初歩的なことではありますが、ラジオやCDなど音声のみで4人以上の歌声を完全に聴き分けるというのはコアなマニア以外には実は困難なことです。突き抜けて人気が出たプロフェッショナルなアイドルグループやラップグループは一般層にも認知され、愛されてゆくわけですが、その基本的な部分(聴き分けやすい声、唱法の違い、名前や見た目のキャラクターの差別化)をクリアできているからこそ、その高みにたどり着いているとプロデューサーとしての観点から僕も常に思っています。

その意味で、まずはフックとなる旋律を主に紡ぐメロディメーカーでもあるPESくんの爆発する才能は特筆するべきでしょう。本稿執筆にあたりPESくんに直接確かめたところ、この「楽園ベイベー」のサビのメロディも彼自身によるもの。ある時期までは今以上に“ヒップホップ”“ラップ”と“メロディ”“ソング”が分断されているイメージがありました。そのボーダーを大胆に取り払ったことはRIP SLYMEの大きな功績の1つだと思います。そのPESくんの明るく突き抜けてカリッとしながらも毒気のある最強のハイトーンボイスと対比するSUさんの胸と喉を鳴らす野性的な魅力をはらんだキャッチーな低音。ILMARIさんのスモーキーで色気と深みのあるふくよかな美声は、どこかラッパーの枠を飛び越えたジャズシンガーのよう。そしてトークの中心となるリーダーRYO-Zくんの余裕とユーモア、独特のスピード感がありつつも縦横無尽なムチのようにリズムがしなるフロウはRIP SLYMEの背骨。ラッパー4人全員が輝いていて、全員違って、どのパートをマネして歌っても心地よくなれる。10代半ばで年上のメンバーたちからも信頼とリスペクトを集め加入することになった若き天才DJ、トラックメイカーFUMIYAさんを擁するRIP SLYMEは、すでにミュージシャンになって何年も経っていた自分にとっても最強で、とにかくカッコよかったです。

Four Topsの楽曲をサンプリング

勢いよくスター街道を駆け上るRIP SLYMEの人気を決定づけたシングルが、2002年6月末発売のサマークラシック「楽園ベイベー」。のちに、飲んでいる席や僕のポッドキャスト番組(Amazon Music「西寺郷太の最高!ファンクラブ」)などでRYO-Zくんから聞いて驚いたのが、この完璧に思えるさわやかで切ないトラックと魅力的なラップの融合は思いがけないアクシデント、ハプニングから生まれた“偶然の産物”だったという事実です。彼曰く、「もともとは、ワーナーのスタッフからシングルで『名曲のサンプリングをガッツリやってもいいからヒット曲を作ってほしい』と言われた。それで、インディーズの頃にFour Topsの楽曲『All My Love』(1974年)を16小節丸々サンプリングしたが、権利的に無理ということで断念した楽曲をそのタイミングで復活させようと思った。それが『楽園ベイベー』の元曲だったんだけど」とのこと。

あえて説明すると、ヒップホップ黎明期や、10代の学生などが趣味でトラックを作る場合には、さまざまな過去の名作のレコードを大胆にサンプリングすることが可能(というより、新しい文化だったので考え方も整理されておらず無法地帯のような状況)だったのですが、90年代半ば以降は日本でもヒップホップからメガヒットが生まれ続けたことにより、リリース前の段階でサンプリングした楽曲の権利者に正式にオファーし契約を結ぶことが当然という時代になっていました。ただし、これは非常に面倒臭く、ある意味人間的なやり取りでもあることが難しい問題で……。先方が作品を聴いて「いいよ、この額で」と認め交渉成立すれば可能ですが、どれだけお金を支払っても嫌だと断られる場合もあり、スピード感にも欠けるので特にレコード会社は嫌がるわけです。せっかく作った楽曲がリリースできないというリスクを常にはらんでいますし、あまりにも大金を提示された場合、仮にヒットしても制作側にそのライセンス料を払うと作った側の取り分がなくなる場合も多くて。ということで、このタイミングでレコード会社から「サンプリングをガッツリやってもよい」と言われたことは、ある意味ご褒美というか、ここで大きなヒットを出すんだという姿勢の表れ、最高の状況だということ。それを彼らも喜び、過去にあきらめていたアイデアを復活させてすこぶる心地よいサマーソングを完成させました。それが、RYO-Zくんが「スチャダラパーの名作『サマージャム'95』のようにメロウな夏の曲の涼しい感じのムードを自分たち流に作ってみようとして作った」という最初の「楽園ベイベー」だったのです。

失楽園ベイベー

ただし、ここから予想外の展開が。いい感じに完成して喜んでいたメンバーを驚かせたのが「Four Topsの楽曲が結局使えない」という連絡。「なんだよ、いいって言ったからそれで作ったのに!」と文句を言ったとて、リリースは決定してしまっている。リリックや歌詞は当然完成している。やむを得ずバックトラックをすべて入れ替えなければ、という追い詰められた状況の中で、FUMIYAさんが3日間スタジオに篭り、その結果生まれたのが現在我々が知るボサノバ的なトラック。完成したとき、FUMIYAさんの髭がボーボーに伸びていたと、RYO-Zくんは微笑みながら回想していました。

結局トラックを最初のゆったりしたバージョンから変え、改めて勢いよくラップし直したその変更が功を奏し、タイムレスなヒット曲につながったとのこと。Four Topsをサンプリングした幻のバージョンは「失われた楽園ベイベー」「失楽園ベイベー」とメンバーに呼ばれ、時折ライブで披露したりしたこともあったそうですが「必ずスベっていた」そうです(笑)。当初の予定通りメロウなサンプリングバージョンでリリースされていたとして、「楽園ベイベー」が今のようにヒップホップクラシックとして広く認知されていたかどうかはわかりません。ただ、やはりあのリリースされた鮮やかなバージョン、ヒットした「楽園ベイベー」のイメージがそれぞれの夏、青春と強くリンクしているからこそ、ファンやオーディエンスにとってみれば違うトラックの「失楽園ベイベー」だと「それじゃない!」となってしまう。いかに名曲というものが、作り手だけの思いではない、さまざまな時代背景や状況、思いがけない出来事の組み合わせによって生まれるか、という証明なのかもしれません。

21年経っても、自分にとっても大好きで特別な曲です。今年も関西の実家に帰省するとき、高速道路を走りながら聴きつつ、過ぎた若い季節や現在のさりげない幸せに思いを馳せていました。

西寺郷太(ニシデラゴウタ)

1973年生まれ、NONA REEVESのボーカリストとして活躍する一方、他アーティストのプロデュースや楽曲提供も多数行っている。2020年7月には2ndソロアルバム「Funkvision」、2021年9月にはバンドでアルバム「Discography」をリリースした。文筆家としても活躍し、著書は「新しい『マイケル・ジャクソン』の教科書」「プリンス論」「伝わるノートマジック」「90's ナインティーズ」など。近年では1980年代音楽の伝承者としてテレビやラジオ番組などに多数出演している。2023年3月、3rdソロアルバム「Sunset Rain」リリース。

しまおまほ

1978年東京生まれの作家、イラストレーター。多摩美術大学在学中の1997年にマンガ「女子高生ゴリコ」で作家デビューを果たす。以降「タビリオン」「ぼんやり小町」「しまおまほのひとりオリーブ調査隊」「まほちゃんの家」「漫画真帆ちゃん」「ガールフレンド」「スーベニア」「家族って」といった著作を発表。最新刊は「しまおまほのおしえてコドモNOW!」。イベントやラジオ番組にも多数出演している。父は写真家の島尾伸三、母は写真家の潮田登久子、祖父は小説家の島尾敏雄。

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