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スチャダラパーBoseが振り返る「ポンキッキーズ」

左からコニーちゃん、Bose(スチャダラパー)、Pちゃん。
4か月前2023年12月14日 23:04

フジテレビ系列で放送されていた子供番組「ポンキッキーズ」が今年10月で放送開始から30周年を迎えた。

1993年10月に、前身番組「ひらけ!ポンキッキ」をリニューアルする形でスタートした「ポンキッキーズ」は、放送枠の移動や番組名の変更を繰り返しながら、2018年3月の放送終了まで25年にわたり続いてきた。ガチャピンとムックという国民的キャラクターでも知られる「ポンキッキーズ」だが、番組を語るうえで欠かせないのがバラエティ豊かな楽曲の数々だ。番組にはBose(スチャダラパー)、ピエール瀧(電気グルーヴ)、鈴木蘭々、安室奈美恵、Folderといったアーティストが出演していたほか、オリジナルのミュージッククリップとともに楽曲がオンエアされるコーナー「P-kiesメロディ」には、斉藤和義、和田アキ子、米米CLUB、大江千里、山下達郎、スチャダラパー、電気グルーヴ、小沢健二、モダンチョキチョキズなど、多岐にわたるアーティストの楽曲が使用されていた。

子供番組でありながら上質な音楽を提供し続けてきた「ポンキッキーズ」は、多くの人にとって“ポップミュージックの原体験”としての役割を果たしていたのではないだろうか。その証拠に、番組開始から30年が経った今でも、PUNPEE、STUTS、Awich、常田大希(King Gnu、millennium parade、PERIMETRON)、岡崎体育をはじめとしたさまざまなアーティストが、幼少期に観た「ポンキッキーズ」からの影響を口にしている。そんな今、改めて「ポンキッキーズ」の音楽面を掘り下げるべく、音楽ナタリーは2度にわたる取材を実施した。前編となるこの記事では、番組初期よりMCを務めていたBoseにインタビュー。「ポンキッキーズ」をきっかけにラップミュージックに目覚めたというライター・渡辺志保を聞き手に迎え、Boseに当時のことを振り返ってもらった。

取材・文 / 渡辺志保 撮影 / 塚本弦汰 ヘッダーイラスト / コニーちゃん:(c)kero/GM Pちゃん:(c)KITADA TETSUYA/GM

「ポンキッキ」イコール“音楽的にもいい番組”というイメージ

“パーパラパッパパラッパ…
おはようさ~ん、みなさん、準備はいいですか~?(ハーイ!)
行きますか!
元気(元気!)
勇気(勇気!)
ポンポポンポポンキッキーズ!”

1990年代前半、小学生低学年だった筆者の朝は必ずこのオープニングソングでスタートしていた。Boseが中心となって歌うこのテーマソング。ラップもヒップホップもまったく知らなかったけれど、「言葉遊びのような歌で面白い」とすぐにこの曲の虜になった。手拍子でリズムを刻む様子も、シンプルで大好きだった。年齢を重ねるにつれて、この言葉遊びがラップと呼ばれる歌唱法であること、ラップを内包しているヒップホップというカルチャーがあることを知った。その後もずっとラップミュージックに魅了され続け、このオープニングソングを初めて聴いてから早30年。今では多くのヒップホップアーティストにインタビューをしたり記事を書いたり、はたまたラジオ番組やトークイベントでしゃべることで生計を立てており、その扉を開いてくれたのは間違いなく「ポンキッキーズ」だった。

「『ポンキッキーズ』との出会いが自身の音楽の原体験であった」と語るミュージシャンは少なくない。多くの人々にひらめきを与えるきっかけとなった「ポンキッキーズ」だが、Boseと番組との出会いには、そもそもどんな経緯があったのか。

「最初に事務所に連絡があって、『ボーちゃん、ポンキッキーズの仕事が来てるけど』『えーっ?』って感じだったと思います。『ひらけ!ポンキッキ』は僕も子供の頃すごく好きで、番組からヒット曲が次々と出ていたことももちろん知っていたし、番組内のちょっとしたところでThe Beatlesの曲を使っているのも好きでした。だから『ポンキッキ』イコール“音楽的にもいい番組”というイメージがあったんですよね。もともと『ポンキッキーズ』は朝の番組としてスタートしたけど、放送帯が夕方になるということで、それまで幼児向けだったのを小学生くらいまで対象年齢を広げようという方向転換があったみたいで。そのときに、僕や(ピエール)瀧、(鈴木)蘭々、安室(奈美恵)の名前が挙がったみたいです。当時から電気グルーヴや前身の人生は好きだったから『瀧とやれるなら面白そうだな』と。それが出演の話を引き受ける直接のきっかけになっていたかもしれないです」

1973年にスタートした幼児向け番組「ひらけ!ポンキッキ」(以下「ポンキッキ」)が、放送20周年のタイミングで大胆なリニューアルを遂げたのが「ポンキッキーズ」の始まりだった。1993年10月に番組がスタートし、当初は平日の朝7時半からの放送枠だったが翌年春には夕方帯へ移動する。それに伴い、Bose、ピエール瀧(ピエール)、鈴木蘭々(ランラン)、そして安室奈美恵(アムロ)が番組メンバーとして加わることになった。

「『ポンキッキーズ』は、プロデューサーの小畑(芳和)さんのこだわりが強く反映されていたと思います。ディレクターも、小畑さんが好きな人たちを集めた感じ。小畑さんはもともと『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』などのバラエティ番組を担当されていた方で、『ポンキッキーズ』に対して『もっと明るい感じがいいよね!』みたいな意見を持っていたんだと思います。『ポンキッキ』リニューアルのタイミングで小畑さんが加わったのは、やっぱりデカかったんじゃないかな。なんせ、僕と瀧をブッキングしたくらいだから(笑)。あとで聞いた話では、番組にブレーンとして参加していた糸井重里さんが『スチャダラパー、いいよ』と推薦してくれたみたいなんですよね。糸井さんは、もともと何か異物を入れたがる人だから、糸井さんの推薦だと聞いて納得しました」

「Welcome to Ponkickies」がもたらした“ラップとの出会い”

「ポンキッキーズ」がスタートした当初、オープニングを飾っていたのは森高千里の「ロックン・オムレツ」。そして夕方帯への移行とともに、スチャダラパーによる「Welcome to Ponkickies」がオープニングソングとなる。あの印象的なオープニングは、どのようにしてできあがったのか?

「もともと、原型になっているスチャダラパーの『GET UP AND DANCE』があって、それを聴いた小畑さんが『これ、元気な感じでよくない? オープニングで使いたいんだけど』と言ってくれたんです。ただ、使うのはいいんだけど『ラップはちょっと変えよう』ということになって。最初はもうちょっとややこしいことを言おうと思って、少し長かったり、違うワードを入れたりしていたんだけど、最終的に番組側の要望も聞きながら『元気、勇気』というフレーズに落ち着いた。レコーディングスタジオとかじゃなく、収録現場で書いてそのまま撮る、みたいな感じだったかな」

PUNPEEやSTUTS、Awichなど、「Welcome to Ponkickies」を「音楽やラップとの出会い」と公言しているアーティストは少なくない。時代が巡り、日本のヒップホップシーンにおいても、その扉を開いた1つのきっかけを作ったのが「ポンキッキーズ」でありBoseである、ということになる。

「それは結果論だよね(笑)。楽曲のサンプリング元になっているFreedomの『Get Up and Dance』がそれだけ強いエネルギーを持っていたってことだろうし、僕の力とかではなく、あのときに僕を起用したプロデューサーが偉いんだろうし。巡り合わせだなって思う。でも『よかったな』という思いはありますね。スチャダラパーの『GET UP AND DANCE』はいまだにライブでもやるんですけど、子供からおじさんまで盛り上がってくれるから、それはすごいなって思います」

「Welcome to Ponkickies」は、Boseが番組を離れた1999年10月以降も、しばらく番組のオープニングテーマとして愛されてきた。先述した通り「ポンキッキ」時代から、音楽は番組の中心とも言えるコンテンツだった。子門真人による「およげ!たいやきくん」に「ホネホネロック」、なぎら健壱が歌う「いっぽんでもニンジン」など、世代を超えたアンセムばかり。当然、本業はスチャダラパーであるBoseにも、番組側から楽曲制作のオファーが掛かる。

「『曲を作ってほしい』と言われてたんだけど、『ポンキッキーズ』が始まった当初から、番組では米米CLUBの『Child's days memory』や山下達郎さんの『パレード』が使われていた。アッコさん(和田アキ子)の『さあ冒険だ』も素晴らしかったし、大御所の方々の曲がたくさんできあがっている中に、『電気とかスチャダラもここに入ってください』と言われて……『はい』とだけ答えて、延ばし延ばしにしていたんですよ。『ここに加わるのは、なかなかねえ(笑)』って。結局、けっこう時間が経ってからスチャダラパー名義の『大人になっても』(1997年発表)ができました。『ポンキッキーズ』はなんせスタッフも音楽が好きな人が集まっていたから、番組で使用される曲は全部よかったんですよね。『ポンキッキーズ』というブランドがあるから大御所ミュージシャンたちがバッと集まるし、みんなちゃんと子供たちのためにいい曲を提供する。大江千里さんとか矢野顕子さんとかもね」

1991年にFILE RECORDS内に設立されたMAJOR FORCEからデビューしたスチャダラパーは、その後ほどなくしてメジャーデビューを飾る。ポンキッキーズ出演開始当時25歳だったBoseだが、夜のクラブのステージも乗りこなすラッパーとしての顔を持ちながら、いわゆる“歌のおにいさん”的なキャラクターで子供番組に出演するという当時のライフスタイルは、いったいどんなものだったのだろうか。

「番組はたまに生放送もあったけど、基本的に収録でした。けっこう丁寧に作っていたから、撮影は深夜に及ぶという感じで。週に2回ほど、当時河田町にあったフジテレビのスタジオに行って、ずーっと撮ってた。今とは違って合成がきれいに仕上がらないこともあったし、あとからコピペして編集することもできなかったから、当時の技術であれだけのものを撮るのは大変だったと思う。番組のスタッフはバラエティをやってる人も多かったし、隣のスタジオで『ダウンタウンのごっつええ感じ』を撮っていることもあったりして、わちゃわちゃした感じはありました。蘭々は『ごっつ』にも出ていたから、それをいいことに一緒に『ごっつ』の収録を観に行ったこともありました」

「ポンポポンポ」はガンショット?

「ポンキッキーズ」への出演がスタートする直前の1994年3月、スチャダラパーと小沢健二のコラボレーションシングル「今夜はブギー・バック」がリリースされる。その後スチャダラパーの人気は鰻登りで、1994年に「スチャダラ外伝」とベストアルバム的な「ポテン・ヒッツ ~シングル・コレクション~」、翌1995年に「5th wheel 2 the Coach」と、マスターピースと呼ばれるアルバムを立て続けにリリース。ラッパーと子供番組のMC。イメージとしては相反するものがあるような気もするが……。

「『今夜はブギー・バック』のヒットよりも前に、『ポンキッキーズ』への出演が決まっていたし、最初のほうはスケジュールに余裕があったから、収録で週2日押さえられても特に問題はなかったんです。ピエール瀧と相部屋で、待ち時間に畳に寝転がってゲームの話をするのも楽しかったし。でも『ブギー・バック』がヒットしてから、徐々にスチャダラパーの活動が忙しくなってしまって。僕らの制作作業って、けっこう時間がかかっていたんですよ。メンバーで集まって曲を作って歌詞を書いて……という作業を朝までやって、そのままフジテレビに『ポンキッキーズ』の収録に行く、という感じになってきて。収録のあとにまた戻ってスチャダラパーの作業を続ける、みたいな。『ポンキッキーズ』への出演とスチャダラパーとしての活動を両立すること自体は面白がっていましたけどね。もともとのキャラクターとしても、怖かったり、悪かったりするわけではないから、子供番組に出てもギリギリセーフだったというか。もちろんクラブで遊んでいたりはするけど、そもそもピエール瀧と僕が出ているんだから、それはね(笑)。今の時代だとダメかもしれないけど」

視聴者に面白く、そしてわかりやすく物事を伝えることが最善ともされる「ポンキッキーズ」の世界。そこに飛び込んだBoseは、いったいどんな点にこだわっていたのだろうか。

「ラップもそうだけど、僕はもともと、みうらじゅんさんとかサブカル的な、テレビとは違う世界のものが好きで。瀧もいることだし、『番組にはちょっと変なことを挟み込みたいな』と思っていました。テレビでやるにはわかりやすくしなきゃいけないし、難しかったですけどね。でも、うまいこと、コソコソっと子供たちに伝えられないかなと思っていて。『ポンキッキーズ』でラップを知って、そこからスチャダラパーを聴いた子供たちが『変なことばっか言ってんな』って感じてくれればなと思っていたんです。オープニングソングの『ポンポポンポポンキッキーズ!』っていうフレーズも、ガンショットをイメージしたんだよね。盛り上がったらライブでも『ポンポンポン!』って言ってたから、その雰囲気が出ればなと。そういうあそびをプロデューサーに気付かれない程度に入れていこう、みたいな(笑)。あと、当時の『ポンキッキーズ』は、フジテレビの中でも大事な子供向けコンテンツとして守られていた感じがあったんです。『視聴率を取るよりも、とにかくちゃんといいものを作ってください』みたいな。まだそれが許されている時代で、ちゃんと番組作りをやっていれば怒られないというか。小畑さんにも『自由にやっていいんだよ』と言っていただいて。時代の変化とともにそれもだんだん難しくなっていったと思うけど、当時はまだそういうおおらかさがあったから、僕や瀧みたいなサブカル的な要素を挟み込む隙間があったんでしょうね」

「一度、小沢(健二)くんが番組に出てくれたときがあったんです。小沢くんとは普段から仲がいいし、友達みんなでワイワイ一緒に遊んでいたんだけど、カメラに映っているときの僕は普段とは少し違って。小沢くんは表現に対して純粋だから『いつもみたいにもっと楽しくやれないの?』っていう感じで、すごく不思議そうにしてましたね(笑)。僕は『小沢くん、それは無理なんだよー』と言ったんだけど、小沢くんはそこを越えようとしてくれたから、あの回はけっこういいものが撮れたんじゃないかと思っています。そんな感じで、面白さとわかりやすさの狭間を探るのが難しかったですね。山田邦子さんがゲストで来てくれたことがあったんだけど、やっぱりそういう人はプロだから、そのラインをちゃんとわかってる。それを見て『なるほどな』って勉強になることもありました」

「あのポンキッキーズの人ってラップの人なんだ」

自身が蒔いた“サブカルの種”が育っているなと感じたことはあるのだろうか? まさに筆者も子供の頃に「ポンキッキーズ」でラップを知り、当時のBoseの企みに見事引っかかった1人ということになる。

「それは何十年も経って、『ポンキッキーズ』に影響を受けたと言ってくれる人たちが現れてからだよ(笑)。『ポンキッキーズ』で僕が着ていた服がきっかけでファッションの仕事をやってるという人もいて、そういう話を聞くと『あのときPOLOのショーツとかNIKEのスニーカーを履いててよかった』って思います。『何十年も経って、返ってくるもんなんだなあ』って」

「ポンキッキーズ」でのBoseは、いつも赤いキャップにショーツを合わせた衣装だった。普段着らしさもありつつ、どこかコンセプチュアルな魅力もあるスタイルが今も強く印象に残っている。

「もちろん衣装もスタッフと相談して決めていたんだけど、僕は普段着みたいな格好をしたくて、『どこらへんがちょうどいいんだろう?』と模索してました。そこで、自分で選んだ赤いキャップを被って短パンを履いて“僕”っていうキャラクターを作ったんだよね。そしたら、番組に出ていた僕のコスプレみたいな格好した子がライブに現れるようになったりして。そういうのは面白かったな」

平日の朝、毎日テレビに登場する生活。“「ポンキッキーズ」のBose”として、番組出演当初はどんな反応を感じていたのだろうか。

「『ポンキッキーズ』が始まってしばらくすると、どこに行っても自分たちよりちょっと上のお母さん世代の人たちが子供と一緒に声をかけてくれるようになったんです。『いつも観てます』って。それは自分にとってデカい変化でしたね。でも、そうやって声をかけてくれる人たちは、スチャダラパーの活動と『ポンキッキーズ』のBoseは全然結びついてないんだよね(笑)。お母さんたちも『何をやってる人なんだろう?』って思っていたんじゃないかな。逆に、スチャダラパーのファンの人たちは、『ポンキッキーズ』もやってるんだねって目で見ていたと思うけど。『ポンキッキーズ』から僕のことを知ってくれた人とスチャダラパーのリスナーが重なってくるのは、しばらくあとになってから。『今夜はブギー・バック』をきっかけに、いろんな人に聴かれるようになったけど、『ポンキッキーズの人ってラップの人なんだ』って気付いた人が増えたのは、そこから何年かあとだと思います」

「ポンキッキーズ」が気付かせてくれたこと

時代が進むにつれ、「ポンキッキーズ」にも徐々に変化が現れていく。メンバーの入れ替わりや時間帯の変更が続くも、Boseは1999年9月まで番組のレギュラーを務め、約6年間を「ポンキッキーズ」とともに過ごした。同期のピエール瀧らが番組から離れていく中、出演期間の当時の最長記録を築いたのだった。

「僕が出ていたときでも、最後のほうはだいぶ変わってきて。まず初めに、安室が忙しくなりすぎて番組を辞めたんだよね。瀧とはお互いに『急に1人になると困るから、辞めるときは言おう』と約束していたんだけど、ある日、瀧から『今年で辞めるから』といきなり言われて(笑)。そのあとに蘭々も去って行って、最後は僕だけ残った。蘭々とは最後まで一緒の出番が多かったけど、その時期に市川実和子ちゃんたちが加わったり、爆笑問題の『爆チュー問題』がスタートしたりして。みんな、理想はちゃんとキープしてがんばってやっていたけど、風潮というか世の中の感じ、テレビ局の事情とかでだんだん子供番組を悠長に作っている余裕はなくなってきてしまったのかな。セットも始まった頃と比べると、だんだん寂しくなっていく……という感じはあったと思う。もちろん番組を作っていたスタッフは最後まで一生懸命だったし、つながりもあったので、別のところで一緒に仕事をすることもあったんですよ。だから、見えないところでもひとつになってやっていた、という実感はあります」

2001年以降、「ポンキッキーズ21」「beポンキッキーズ」と番組の名称も変化し、やがて放送局もBSフジへと移動する。2012年にはBoseが番組に復帰。彼は復帰の経緯について「自分に子供が生まれたということもあり、何事もなかったかのように出戻った」と語る。そして、2018年3月25日をもって、45年にわたる「ポンキッキ」シリーズは幕を閉じることとなる。しかし、今振り返ってみても、そして音楽面だけを取り上げても、「ポンキッキーズ」のレガシーはとてつもなく大きい。Bose本人にとって、「ポンキッキーズ」で過ごした6年間は、どんな意味を持つのか。

「番組をありがたがられるようになったのは、本当にだいぶ時を経てからなんですよ。今30歳を迎えたぐらいの子たちから、『ポンキッキーズの影響を受けている』ということをよく聞くようになって、『あ、そうなんだ』と。確かに、自分も子供の頃に読んだマンガなんかに影響を受けて曲を作ったりしているわけだから、それと同じですよね。でも、あのとき子供たちがみんな『ポンキッキーズ』を観ていたんだと思うと、テレビに影響力があった時代に自分もいることができたんだなって感じます。自分が何かしたわけじゃないけど。当時はもっとめちゃくちゃな『ウゴウゴルーガ』も放送されていたし、『ポンキッキーズ』は優等生的な番組とされてきた。僕自身は優等生じゃないけど、『ポンキッキーズ』に出ていたおかげでまともな人に見られがちだったから、番組との相性はよかったんだろうなと思います。番組出演中は大変なこともあったけど、小畑さんが『とにかく悪いことにはならないから』と言っていたんですよ。あと、『みんなのためとか気負わず、気楽にやってね』って。振り返ると、自分にとってはお得な経験でしたね。本当はもっと根暗でアンダーグラウンドなことが好きな人間で、『元気ー!』なんて言ってるけど、全然元気じゃねえんだけどなって。でも、『いつも元気で楽しそうだねって思われているのも僕なんだ』って気付かせてくれました」

<後編に続く>

プロフィール

Bose(ボーズ)
スチャダラパーのMC担当。スチャダラパーは1990年にアルバム「スチャダラ大作戦」でデビューし、30周年を迎えた2020年には、アルバム「シン・スチャダラ大作戦」を発表した。2023年4月にシングル「リンネリンネリンネ feat. ロボ宙 & LUVRAW」を配信リリース。Bose個人としてはテレビ、ラジオ、CMへの出演やナレーション、執筆、ゲームなど、幅広いジャンルで活躍している。

スチャダラパー
ボーズ (@bose_sdp) ・Instagram

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