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猪野秀史が語る愛機フェンダーローズ

猪野秀史
8分前2024年11月28日 8:04

アーティストがお気に入りの楽器を紹介するこの連載。第28回にはシンガーソングライター / キーボーディスト猪野秀史に登場してもらった。ローズピアノの甘美な音色を軸にしたサウンドで国内のみならず海外からも高い評価を受けている猪野。またMondo Grosso、TOWA TEI、小泉今日子、藤原ヒロシら、さまざまなアーティストの作品やライブに参加するなど、ソロ活動と併行して鍵盤奏者としても精力的な活動を展開している。そんな猪野にローズピアノとの出会いや、その楽器としての魅力を語ってもらった。

取材・文 / 佐野郷子 撮影 / 沼田学

90年代福岡のバンドシーンで活躍

5歳から高校3年までピアノを習っていたんです。でも、中学のときにロックに目覚めて道を外れてしまった。僕は1970年生まれなので、ロックを聴き始めたのが80年代のニューウェイブ全盛期でした。高校時代は友達に誘われて、ヤマハが主宰していたコンテスト「TEENS' MUSIC FESTIVAL」に出場し、ベストキーボーディスト賞を受賞したこともあります。そのときは、兄に借りたシンセサイザー、ROLAND・JUNOでProcol Harumの60年代の代表曲「青い影」を弾きました。それが審査員の大人たちにウケたんでしょうね。「今どきの高校生にしては珍しい」って。その気になって、高校を卒業したら東京に行ってミュージシャンになりたいと思いましたが、親が猛反対。それで音大を目指して、故郷の宮崎から福岡の予備校へ行くことになったんです。

浪人時代は受験勉強そっちのけで、レコード屋と映画館と本屋通いの日々。予備校には2年通いましたが、進学はあきらめて、福岡でLublitesというバンドを結成。キーボードとボーカルを担当することになりました。キーボードは、KORG SG-1Dというデジタルピアノを購入し、ハモンドはKORG CX-3を友達から譲り受けて使っていました。その頃からローズピアノが欲しかったんですが、赤貧暮らしには高くて手が出なかったし、6畳1間ではローズを置く場所もなかった。Lublitesは60年代のロックやR&Bを中心にしたバンドで、Booker T. & the M.G.'s、The Rascals、The Beach Boysなどのカバーを演奏していたのがちょっとした噂になって、モッズバンドのThe Hairと対バンしたり、東京や大阪のライブに呼ばれることもありました。去年亡くなったベースの森裕史は、のちにNUMBER GIRLのマネージャーになるんですが、彼が80年代末から90年代にかけて、福岡で「Freak Out!」というDJやバンドが出るイベントをやってたんです。ほかにも当時はダブ、レアグルーヴ、ブリストルサウンドなど、さまざまな音楽を浴びるように聴いて吸収していったことは大きかった。東京で流行っていた渋谷系を横目に見つつ、はっぴいえんどやBuffalo Springfieldのカバーなんかも演奏していました。

映画「燃えよドラゴン」でローズの魅力に目覚める

僕が初めてローズの音色に惹かれたのは確か子供の頃に観たブルース・リー主演の映画「燃えよドラゴン」だったと思います。映画の中でアフロヘアの黒人空手家がヘッドフォンで音楽を聴いて決闘に向かうシーンがあって、そのヘッドフォンから聴こえてきた曲。映画音楽を手がけていたラロ・シフリンの曲が頭に焼き付いていて、こういう音楽を作れたらいいなと思ったのが最初でした。ローズは70年代の映画音楽やソウルミュージックに多用されていて、日本ではテレビドラマ「太陽にほえろ!」や「傷だらけの天使」の劇伴を手がけていた井上堯之バンドの大野克夫さんもローズをよく使用していました。実は僕が最初に手に入れた88鍵仕様のローズは大野さんが所有していた物だとお店の人に言われました。まだ福岡に住んでいた1996年に、下北沢にあったANDY'S MUSICという中古楽器店で出会って、ローンを組んで衝動買いしてしまった。アンプのキャビネットには井上堯之バンドのステッカーが貼ってありました。

1人で音楽を作るようになったのは、バンドが解散して、初めてのローズが届いた頃からです。僕はバンドで東京に出て行きたかったんですが、メンバーが乗り気じゃなかった。福岡は適度に都会で、食べ物もおいしくて、住みやすい街なのでなかなか離れにくいところがあるんですよ。Lublites時代、福岡にまだ高校生だった原田郁子さんがいて、一緒にレオン・ラッセルを観に行ったり、当時から面白いコだなと思っていましたが、いつの間にかメジャーデビューしていました。バンド解散後は、福岡でアパレルブランドのA.P.C.に就職して、仕事の傍らローズと打ち込みで音楽を作り続けていましたが、このまま居心地のいい福岡に住み続けていたら人生があっという間に終わってしまう……と感じて、30歳のときにローズとともに上京しました。

朝本浩文、小西康陽との出会い

2000年に東京に出てきてからしばらくはデモテープを作りながら過ごしていたんですが、ある日、友達の洋服店で店番をしていると、元MUTE BEATの朝本浩文さんがお客さんとしてふらりと現れたんです。朝本さんが試着室に入ったときに思い切って自分のデモテープを流したら、「今、かかっているのは誰?」と反応されたのが最初の出会いです。前からMUTE BEATの「After the Rain」が大好きだったので、朝本さんが自分の音楽を理解してくれたことはうれしかったですね。それがご縁で朝本さんとは家に遊びに行くような関係になり、なかなかリリースの目処が立たずに悶々としていた僕の背中をずっと押し続けてくれました。

自分の音源をレコード会社からリリースしてもらうために、いくつかのレコード会社のディレクターにデモテープを持ち込んだこともありますが、「こういうインストは売れないんだよね」と、ほとんど門前払い。金銭的にも追い詰められ独立してレコードを出そうと思い立ち、人生初めての借金をして、2002年に音楽レーベル兼カフェ・TENEMENTを妻と2人で開業しました。それまでは自分でレーベルを立ち上げるなんて発想はまったくなかったんですが、納得できる音楽を作って発表するにはそれしか手立てがなかった。ただ、カフェを始めた当初は、「1杯500円のコーヒーを何杯売ったらレコードの制作費を捻出できるんだろう?」と、気が遠くなりましたね。なけなしのお金をつぎ込んで、ようやく7inchアナログで「Billie Jean / Never Can Say Goodbye」をリリースできたのが2005年。それが当時2000枚くらい売れたので7inchをシリーズとしてリリースすることができたんです。innocent recordというレーベル名はカフェの常連のお客さんだった小西康陽さんが命名してくれました。2006年には1stアルバム「Satisfaction」をリリース。ローズピアノによるインストアルバムという内容にもかかわらず、そこそこ評判となり、30代半ばにしてやっとデビューすることができたんです。

独自の美学を追求した演奏スタイル

ローズピアノは、1940年代にアメリカ人のハロルド・ローズが戦争で傷を負った兵士や人々を慰安する目的で発明され、最初期のものは軍用機のパーツを使って組み立てられたという楽器なんです。50年代から70年代前半までは楽器メーカーのフェンダー社と組んで「Fender Rhodes」として生産・販売されて、ジャズ、ソウル、ロックのミュージシャンに人気を博しました。10ccの「I'm Not in Love」やダリル・ホール&ジョン・オーツの「She's Gone」など、70年代にはローズが印象的なヒット曲がたくさん生まれ、日本でもティン・パン・アレーの佐藤博さんや松任谷正隆さんが絶妙なプレイを数々のアルバムに残しています。でも、僕が音楽を熱心に聴き始めた80年代以降はシンセサイザーやデジタルピアノが主流となり、重くて扱いづらいローズは隅に追いやられるようになってしまった。そんな脇役になった楽器を僕はあえて主役にしたいと思ったんです。当時、ほかにそういう音楽をやっている人がいなかったというのもあるし、自分の原体験にローズの響きが刷り込まれていたことの影響もあるでしょうね。

僕はいわゆる正統派のローズの使い方をしていないので、1stを出したあと、「音を歪ませすぎだ」とか「ローズの基本をわかってない」とか、一部バッシングもありました。僕はジャズ / フュージョン系の饒舌なローズ奏者にはあまり魅力を感じなかったんです。何か粋じゃない気がして。それより言葉数を少なくローズを弾くことを美学としていたところがありますね。ジャンルを問われたときは、自分では“B級イージーリスニング”と答えていました。ベースをブーストさせたりしたから音の作り方が非常識だと言われましたが、それこそが本懐。その感覚は根がパンクだからかもしれないですね。

敬愛する鈴木茂とライブで共演

「Satisfaction」に収録されている映画「スパルタカス」のテーマ「Spartacus」をカバーしたのは、ヨセフ・ラティーフのバージョンをA.P.Cのデザイナー、ジャン・トゥイトゥに教えてもらったからなんです。Nujabes氏も「The Final View」でサンプリングしていますが、当時の僕は彼の存在も作品もまったく知らなくて、同時期にたまたま被ったんです。のちに引っ越した家の隣に共通の友人が住んでいて、そこで初めてNujabes氏にお会いしました。お互いすぐに打ち解けて、いつか何か一緒にやりたいねって2人で話していた矢先に亡くなってしまったので、とても残念でした。東京に出て来てからの10年は本当にいろんな人との出会いがありました。

ライブ活動をスタートしたのは2007年から。ライブの現場スタッフの人たちはローズを懐かしがってくれたんですが、ステージでディレイやリバーブをバリバリかけるもんだから、「どういう使い方してんの?」と驚かれることも多くて、当時は肩身が狭かった。鈴木茂さんと2人名義でライブをさせていただくようなときは、茂さんの楽曲に合うようなローズの音で演奏します。僕がローズの使い手として日本で一番好きな佐藤博さんの話を茂さんから聞くのも楽しかったし、昔から愛聴し、敬愛してきた茂さんのギター、林立夫さんのドラムで贅沢に歌ったり演奏させていただいて勉強になったし、当初はライブをするつもりもなかった自分にとっては夢のようでした。また一緒にやろうと言っていただいているので、近々ツアーとかご一緒できる日を楽しみにしています。

一生付き合っていける楽器と出会うべくして出会った

もともと歌を歌ってましたが、インストアルバムで認識されてしまったので、ライブで僕が歌うと、お客さんがびっくりしたことも過去にはありました。初の歌モノアルバム「SONG ALBUM」を2018年に発表してからは、シンガーソングライターと呼ばれるようになって、9月にリリースした新作「MEMORIES」もホームスタジオで1人で作った歌を中心に据えたアルバムです。自分はインストや歌モノだったりカテゴライズされにくいかもしれないですが、どういうミュージシャンなのかは聴いてくれたリスナーの耳に委ねるのみです。

今ではローズの音はサンプリング音源でも出せますし、みんなが飛びついたnordのような優れたデジタルキーボードもありますが、僕はオリジナルのローズピアノと、これからもずっと付き合っていくつもりです。ローズがなければ、東京に出て来ることもなかったし、デビューすることもなかったかもしれない。

「人と違うことがしたい」と面倒な生き方を選んできたからなのか、自分は一生付き合っていける楽器と出会うべくして出会った。そういう運命だったんだろうなと思います。

猪野秀史(イノヒデフミ)

1970年宮崎県生まれ、ミュージシャン。フェンダーローズをメインに自身の音楽レーベル・イノセントレコードを拠点として活動を行う。歪ませた音像でつづられたメロウオルタナティブなアルバム「Satisfaction」はその反逆的できらびやかな世界観が海外からも注目を浴び鮮烈なデビュー作品となる。これまでに13枚の7inchレコード、5枚の12inchレコード、9枚のCDアルバムをリリース。 ライブ出演や、他アーティストへの楽曲提供、アレンジなど活動は多岐にわたる。

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