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小西康陽が語る「俺たちがキラキラ輝いていたとき」

小西康陽
10か月前2025年01月21日 10:02

音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く「あの人に聞くデビューの話」。この連載では多種多様なデビューの形と、それにまつわる物語をじっくりと掘り下げていく。第7回のゲストは、1985年にピチカート・ファイヴのメンバーとしてメジャーデビューを果たした小西康陽。前編では、10代の頃からソングライターを目指していた小西が本格的に作曲活動を始め、憧れの細野晴臣と出会い、彼の主宰レーベルからデビューするまでを振り返ってもらった。

取材・文 / 松永良平 撮影 / 草野庸子

小西康陽は何度もデビューをしている気がする。小西さんを前にして、僕はそう言った。「ピチカート・ファイヴで、ノンスタンダードから1985年にデビューした」という事実はもちろん知っている。だけど、ピチカート・ファイヴにしても、ボーカリストの交代(佐々木麻美子→田島貴男→野宮真貴)、レーベルの移籍(ノンスタンダード→CBSソニー→日本コロムビア)と、そのたびごとにモードチェンジがあった。また解散後の21世紀にはPIZZICATO ONE名義での活動を経て、昨年発表された最新アルバム「失恋と得恋」は、ついに小西康陽名義での1stソロアルバムになっている。それで最初の質問が「ご自身にとってのデビューを1つ選ぶとしたら?」になったのだが、その答えは、ある意味では予想した通り、ある意味では意外な、というものだった。小西さんにとっては、起きたままの話をたどっているだけだろう。むしろその戸惑いのような感覚は、小西康陽という音楽家のスタートラインについて、これほど率直に話が聞けるとは思っていなかったから生まれたのかもしれない。

はっぴいえんど3rdアルバムの衝撃

──小西さんは、これまでにさまざまな“デビュー”をされている印象もあるんです。ピチカート・ファイヴ、ピチカート・ワン、そして、2024年にはついに小西康陽名義での初ソロアルバム「失恋と得恋」もリリースされて。でも、その中でご自身にとってのデビューを1つ選ぶとしたらどこになるんでしょう?

それはやっぱり1985年8月、ノンスタンダードからのレコードデビューですかね。

──そこに至る発端を探るとなると、どこまでさかのぼりますか?

ここ数年、ギターで弾き語りをするようになり、フォークが好きだった10代の頃に親しんでいたレコードを改めて聴くようになったんです。そうしているうちに細野晴臣さんのことばかり考えるようになって。決定的だったのは、今年3月に下北沢のmona recordsでやったライブ。3月だからという理由で細野さんの「終りの季節」を歌ったとき、「そういえば自分は細野さんのおかげでデビューできたんだよな」と改めて思ったんです。1973年2月の終わりに、はっぴいえんどの3rdアルバムを発売日に買って家で聴いているとき、A面最後の「無風状態」を聴き終えた瞬間、「僕もこういうレコードを作ったりする人間になりたい」、あるいは「作詞作曲できるようになりたい」と思った。「ミュージシャンになってレコードを作りたい」と、はっきり思った瞬間ですね。

──はっぴいえんどの3rdアルバム「HAPPY END」は1973年2月25日に発売されています。当時、小西さんは14歳ですね。アルバムから受けた衝撃は、どういうものだったと今思われます?

なんだろう? あのアルバムの時点で、もうはっぴいえんどは全然バンドサウンドじゃなくなってるんですよね。カービー・ジョンソンという、Harpers Bizarreの作品に関わっているような人がアレンジをやっていて、今聴くともう完全にバーバンクサウンド。特に細野さんが作詞作曲した「風来坊」「無風状態」が印象的でしたね。松本隆さんじゃなくて、細野さんが歌詞も書いていたので。

──はっぴいえんどに関して言うと、当時「風をあつめて」などは知っていたんですか?

そうですね。前年に「風街ろまん」がリリースされて、たぶん出てから半年後くらいに買いました。「風街ろまん」も大好きなレコードで聴きこんでいましたけど、その時点ではまだ僕にとって細野さんはソングライターというよりも、ベーシストという印象だったんで。「はいからはくち」や「抱きしめたい」のベースをコピーしていました。

──はっぴいえんどの3rdアルバムでは、「ベーシスト」ではなく「自分を“作曲”に突き動かす人」に、細野さんの存在が変化した?

そういうことですね。大滝詠一さんの最初のソロアルバム(「大瀧詠一」)も、やっぱり発売日(1972年11月25日)に買ったんですよ。それもすごく感動して衝撃を受けたんですけど、また別の何かを感じたというか。「自分でも曲を作ってみたい」という衝動に突き動かされましたね。いつも思ってるんだけど、例えばThe Beatlesやボブ・ディラン。あるいは村上春樹、ジャック・ケルアック、J・D・サリンジャー、ゴダール、北野武とか、「これって俺にもできるかも?」って受け取る側に思わせるようなものを作る人っているじゃないですか? ああいう人ってやっぱりすごいんだよな。エルヴィス・プレスリーとかもきっとそういう存在ですよね。

──実際、小西さんは、はっぴいえんどの3rdアルバムを聴いて、自分でも何かしら作ってみようと思った。

「曲を作りたい、作る人間になりたい」と思いました。以来、ずっと作詞作曲を試みてはいたけど、全然できなかったですね。10年ぐらい完成しない時間があった。ところが、大学卒業後だったんですけど、ある日、大学のサークル(青山学院大学の音楽サークル「ベターデイズ」)仲間の宮田繁男さんと高浪慶太郎さんが家に来て、歌謡曲のデモを作り始めたんです。それを横で見てて、次の日に自分で作ってみたら作詞作曲ができちゃったんですよ。

デモテープ制作集団からスタートしたピチカート・ファイヴ

──小西さんの家に来てお二人が作業を始めたという状況は要するに、若者たちのノリというか、「曲でも作ろうぜ」みたいな感じだったんですか?

もうちょっと真剣な感じだった気がします。僕らが所属していたサークルの先輩に佐藤さんという方がいて、ソニーに就職して松田聖子の仕事とかをやってらしたので、その人に曲を聴いてもらうチャンスができたという、そういう理由でしたね。

──なるほど。具体的なルートがあった。

それでデモを作ろうと。当時、僕が住んでた家が白金トンネルの料金所の真横だったんですね。夜中に大きな音を出しても全然怒られないということもあって、僕の家で作業をすることになったと思うんです。

──スタジオ代わりに(笑)。

そうそう。最初のほうはお茶を出しただけで、横で作業を見ていました。だけど、当時の宮田さんはギターのコードとか和声にあまり詳しくなくて。そのうち、宮田さんが考えたメロディを僕が聴いて、「たぶんそれはこのコードです」みたいな感じで徐々に口を出すようになった(笑)。

──小西さんも交えての“デモテープ制作集団”になったわけですね。

そうなんですよ。そのあとすぐ宮田さんは来なくなっちゃって。高浪さんと僕と鴨宮諒さんの3人でデモテープを作るようになった。大学の先輩とかいろんなツテをたどったり、全然つながりのないレコード会社にもデモテープを送ったりしてました。

──いわゆるバンド活動とは違うけど、3人で作曲活動を続けるようになったんですね。

そうです。で、ある日、当時から親交があった元はちみつぱいの和田博巳さんが、水族館レーベルという鈴木慶一さんが立ち上げたレーベルの「陽気な若き博物館員たち」というオムニバス作品に参加することになった。「今日も鈴木慶一に会うから小西くんたちのデモテープを渡してあげるよ」と言ってくださったんです。デモテープは前日に用意しておいて、その日の午前中に和田さんが取りに来る。その前にシャワーを浴びていたら、「PIZZICATO V」というバンド名が突然降りてきた。「PIZZICATO」のスペルがちょっと怪しかったから辞書で調べ直したりして(笑)。そのバンド名をカセットのインデックスに書いた。それまでに作っていた歌謡曲のデモと曲は同じなんですけど、バンド名を付けてみようかって。

──ラベリングすることで全然違うものに感じられますよね。

そうそう。その名前にしたら、けっこう反応が増えた(笑)。

──それ以前はデモテープを個人名で提出していた?

うん。個人名でした。「宮田繁男・高浪慶太郎・小西康陽デモ」って書いていた気がする。でも、ピチカート・ファイヴ名義の音源を当時アルファレコードの人にも聴いてもらったけど、すごくけなされました(笑)。のちにその人と仕事しましたけど、向こうは、しれっと覚えてないフリをしてた(笑)。

──差し支えなければ、どんな評価だったか教えていただけますか? 小西さんたちの目論見が、どのように理解してもらえなかったのか。

その人には「君の曲、“裏コード”使ってるでしょ?」って言われたんです。「“裏コード”ってなんですか?」と聞いたら、スケールの中で転調を促すコードを使ってるということだったんです。「転調のあるコードとか、そういうのダメなんだよ」って。あと、キティレコードの人がデモテープに興味を持ったというから話に行ったら、けなしはされなかったんだけど、「もっと山下達郎みたいな曲を書いてほしい」って言われた。その人とも、のちに仕事をしたんですけどね(笑)。

──当時は、連絡を取るのは電話、打ち合わせは対面という時代ですよね。メールで MP3の音源を送って、というにはいかないですから。少なからずの期待を胸にレコード会社に行くわけで、かなり心にコタえる作業でもあったわけですよね。

でも、「ダメだろうな」という気持ちのほうが大きかったかな。だからそんなにガッカリはしなかった。

細野晴臣主宰レーベルからデビュー決定

──以前インタビューをしたとき、小西さんは、いかに当時のシティポップみたいな歌詞とは違う歌詞を書くかを命題にしていたとおっしゃっていました。

そうなんですよね。サビで突然英語が出てくるような歌詞が苦手で(笑)。これだけは作りたくないと思っていました。

──でもプレゼンに行くと、そういうものを求められたり?

そうだったかもしれない。

──デモテープ制作集団が、突然思いついたピチカート・ファイヴという名前になってから好転したことって、ほかには?

ピチカート・ファイヴという名義で、青山にあったパイドパイパーハウスというレコードショップの店長で、細野晴臣さんの元マネージャーだった長門芳郎さんにデモテープを渡したんです。そしたら1週間後ぐらいに長門さんから電話がかかってきました。「今度ビリーブ・イン・マジックというレーベルを始めるから小西くんたちにも参加してほしい」というお誘いでした。実はその前の週に、細野さんが僕の家に来てくれたんです。その話をしたら、「早いね、さすが細野さん」って長門さんは言ってました(笑)。

──それってすごい展開ですけど、どういう流れだったんですか?

当時、和田さんが細野さんのマネージャーになったばかりだったんです。就任2日目くらいのタイミングで、細野さんを車でご自宅に送る途中で僕の家に連れてきてくださったんです。もう、びっくりしました。

──そりゃそうですよね!

次の日、知り合いほぼ全員に「昨日、細野さんが家に来た!」って言っても誰も信じなかった。「へー」みたいな(笑)。

──細野さんとは、そのときがファーストコンタクトですよね。

もちろん。

──すでに和田さんに渡していたデモテープを細野さんは聴いていた?

いや、その場で聴いてもらった。でも、あまりよく言ってくれなかった。「これは僕の感じじゃない」と言ったのは覚えている。それも今思うとすごくわかるんだけど、やっぱりちょっと残念な気持ちになりました。だけど、なぜかそのあと細野さんが立ち上げたノンスタンダードレーベルでデビューすることになったんですよね。和田さんが何か言ってくださったのかな? 詳しい背景はわからないんですけど。

──細野さんの中で印象に残る要素があったのかもしれないですね。

ですかね? 最近、元ゲルニカの上野耕路さんと初めて会ってしゃべったんです。上野さんが「当時、小西さんの名前は細野さんから何度か聞いてました」って教えてくださって。でも、それは僕が作っている音楽じゃなくて、リスナーとしてすごいやつがいるんだという話だったみたいで(笑)。とはいえ、細野さんにデビューさせてもらったというのは自分の中で大きいんだなと最近つくづく思いますね。

──だって、はっぴいえんどの3rdアルバムで聴いた細野さんの曲から始まってる話ですから。ノンスタンダードでのデビューは、そこからトントン拍子で?

確か、和田さんから「小西くんたちのレコードを(ノンスタンダードで)出すことになったから」と言われたんです。しかも、細野さんはデモテープをそのまま出したらいいと言っている、と。だけど僕たちのほうがそのクオリティでは嫌だなと思ったんです。音が悪すぎるので。それで、スタジオでレコーディングさせてほしいと言ったら、細野さんのLDKスタジオを使わせてもらえることになりました。エンジニアも細野さんが手配してくださって。細野さんはスタジオにほんの一瞬、来ただけだったし、特に内容をプロデュースされた記憶もないんですけど、今になって思えば、スタジオとエンジニアを決めたことで十分プロデュースなさってるんですよね。レコーディングから数日後に、契約のことでノンスタンダードの親会社であるテイチクに行ったのを覚えています。宇佐美さんというテイチクのプロデューサーに会って、会社の隣にある中華料理店でランチをおごってもらいました。

ボーカリストが加入してバンド形態に

──その契約は、レコーディングアーティスト、ピチカート・ファイヴとしてのもの。ということはデモテープ制作集団から発展した作曲ユニットだった人たちが、“バンド”という実体になったということですよね。

そうですね。1984年にはもうバンド形態にしようという話は出ていて、9月からボーカルの女性を探し始めたんです。友達のツテをたどってボーカルを探していたら、初代ボーカルの佐々木麻美子さんに出会った。素敵な人だけど、彼女の歌は正直、僕にはピンと来なかった。その年のクリスマスイブ、僕は銀座の並木座に「下郎の首」(1955年 / 伊藤大輔監督)という映画を観に行ってたんですよ。家に帰ってきたら、なぜか部屋が暗くなって、みんながクリスマスパーティをやっていた。そこに佐々木さんもいたんですよ。そのとき「じゃあ(ボーカリストは)この人にしよう」と決まりました。なので、1984年のクリスマスイブがバンドとしてのピチカート・ファイヴの結成日なんです。

──最初にピンときていなかった佐々木さんのボーカルを軸に曲作りをしてゆくことに。

でもその頃、フランス・ギャルや、Compact Organizationのヴァーナ・リンドとかニューウェーブのいろんな女性シンガーのレコードが好きだったし、一緒にやるようになってみたらわりと自然に受け入れられたかな。歌謡曲のアイドル的な歌と佐々木さんの声は結びつかなかったけど。あ、でも高浪さんが教えてくれたレコードで、小泉今日子さんのシングル「まっ赤な女の子」(1983年)のB面に入っている「午後のヒルサイドテラス」という曲があって、あれを聴いたとき、こういう音楽をやりたいよねって話をしたんです。それで、何よりまず声がかわいい人がいいかなと思ったところはあります。

──バンドとして実体を持つことに対する躊躇はなかった?

いや、もうとにかくレコードデビューさせてもらえることが大きかったし、レコーディングさせてもらえたときは本当にうれしかった。その前に作家として曲を誰かに使ってもらえたとか、そういう経験があったのなら違ったかもしれないけど、何も引っかからなかったところだったんで。

──バンドとしてのピチカート・ファイヴのデビューライブは?

年が明けて85年になったら、「ライブをやらないと」ということで、いろんなツテをたどりはじめたんです。持つべきものは友で、ポータブル・ロックの鈴木智文くんが知り合いだったVOICEというバンドがマンスリーでライブをやっていて、その3回目にピチカートで出ないかと誘ってくれました。場所は渋谷のLive Inn。85年の4月です。そのときに対バンしたのがカーネーションの直枝(政広 / 当時は直枝政太郎)さんがやっていた政風会というバンド。先ほども話題に挙がった「陽気な博物館員たち」というオムニバスが僕は大好きで、その作品に直枝さんも参加していたから会えてうれしかった思い出があります。渋谷の居酒屋いろはにほへとでライブの打ち上げをしたんですけど、そこに当時好きだったVARIETEというバンドの有近真澄さんもいらして、あの日はうれしい日だったな。そのあと、原宿のクロコダイルや渋谷のLa.mamaでもライブをやりましたね。

──ピチカート・ファイヴのアマチュアバンド時代。話を聞いてるとキュンキュンしますね。

当時、情報誌の「ぴあ」とか「シティロード」に、ライブハウスが出演者募集の告知広告を出していたんですね。それを見てライブハウスにデモテープを持ち込んでいました。四谷にFOURVALLEYというライブハウスがあるんですが、当時応対してくれた店員がとにかく口が悪い人で(笑)。「どういう曲やってんの?」って聞かれたから、サイモンとガーファンクルのカバーとかやってますって言ったら「俺、サイモンとガーファンクルが大っ嫌いなんだよね」って、クソミソに悪口を言うんですよ(笑)。頭に来て「2度と来るかこんな店!」と思ったんだけど、ある日情報誌を見たら、その店の出演者欄に僕らの名前が書いてあった(笑)。もちろん出演してませんけど、あれはびっくりしました。

──とはいえ、アマチュア時代は短いですよね。すぐにデビューしちゃうから。

その年の6月15日には、はっぴいえんどの再結成ライブもあった国立競技場での大きなイベント「ALL TOGETHER NOW」にコーラス隊で出演した。それで、8月21日には12inchシングル「オードリィ・ヘプバーン・コンプレックス」でデビュー。ステージデビューから、メジャーデビューまで4カ月くらいだったんですよね。あの4カ月というのが自分にとっては生涯で一番まぶしい時期だったかもしれない(笑)。ゴールデンウィークの時期にレコードデビューできるという話が来たと思うんですけど、その頃、高浪くんと公園通りのパルコにあった映画館にマキノ雅弘の特集上映を観に行ったんですよ。ぴあのフィルムフェスティバルで「鴛鴦歌合戦」(1939年)を観た。もう最高の映画で、帰りに公園通りの坂を降りながら、高浪くんと「昨日The Style Councilの『Our Favourite Shop』を買ったけど最高だったよ」という話をした。あのときの記憶が今も忘れられないです。

──めっちゃ胸アツな話です。

俺たちがキラキラ輝いていたとき(笑)。

<後編に続く>

小西康陽(コニシヤスハル)

1959年、北海道札幌生まれ。1985年にピチカート・ファイヴでデビュー。豊富な知識と独特の美学から作り出される作品群は世界各国で高い評価を集め、1990年代のムーブメント“渋谷系”を代表する1人となった。2001年3月31日のピチカート・ファイヴ解散後は、作詞・作曲家、アレンジャー、プロデューサー、DJとして多方面で活躍。2011年5月に「PIZZICATO ONE」名義による初のソロプロジェクトとして、アルバム「11のとても悲しい歌」を発表。2024年10月には、ピチカート・ファイヴ時代のレパートリーを中心に、他アーティストへの提供曲やカバー曲を自らが歌うボーカルアルバム「失恋と得恋」を発表した。

READYMADE JOURNAL

小西康陽「失恋と得恋」アルバム発売記念ライブ

2025年1月24日(金)大阪府 Billboard Live OSAKA
1st STAGE:OPEN 16:30 / START 17:30
2nd STAGE:OPEN 19:30 / START 20:30

2025年2月1日(土)福岡県 福岡ROOMS
1st STAGE:OPEN 17:00 / START 17:30
2nd STAGE:OPEN 20:00 / START 20:30

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