“地名をタイトルに冠した楽曲”を発表してきたアーティストに、実際にその場所でインタビューを行うこの連載。「なぜその街を舞台にした曲を書こうと思ったのか」「その街からどのようなインスピレーションを受けたのか」「自分の音楽に、街や土地がどのような影響を及ぼしているのか」……そんな質問をもとに“街”と“音楽”の関係性をあぶり出していく。
前回はカーネーション直枝政広に「Edo River」について話を聞いたが(カーネーション直枝政広が江戸川土手で語る「Edo River」)、第5回となる今回は、その直枝がかつてプロデュースに関わったシンガーソングライター・大森靖子にスポットを当てる。テーマとなる楽曲は2013年リリースの「高円寺」。10年以上前、まだ再開発が行われていない雑然としたこの街を拠点に活動していた彼女は、何を思ってこの曲を生み出したのだろうか。本人いわく「微妙な勢力図があった」というかつてのシーンから、変わりゆく高円寺への率直な心境まで、当時を振り返りつつ語ってもらった。そしてたどり着いた“私が東京”という言葉の真意とは。
なおYouTubeでは、大森の活動を追い続けてきた写真家・二宮ユーキ撮影による高円寺ロケ動画を公開しているので、そちらも合わせてチェックしてもらいたい。
取材・文 / 石井佑来 撮影 / 二宮ユーキ 取材協力 / はやとちり、sheep
ヴィレヴァンに陳列されていない声がここにある
この連載に前回出ていた直枝さんと、ちょうどこの前お会いしたんですよ。
──あ、そうなんですね。
「ストリート・キングダム」(銀杏BOYZ・峯田和伸と若葉竜也が主演を務める、東京ロッカーズの史実に基づいた音楽映画。正式タイトルは「ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。」)を観て影響を受けたのか、急に「大森さんはどこの界隈いたの?」と質問されて。「高円寺のこういうところにいて、ほかには誰々がいて」と話したら、「それ絶対映画にしたほうがいいよ!」と言われました(笑)。
──あはははは。
確かに、あの頃の高円寺には面白い人がたくさんいたし、いろんなことがあったけど、高円寺というくくりで話を聞いたものって意外とないんですよね。だから、記憶が薄れないうちにこうして話せる機会をもらえたのはうれしいです。
──こちらこそ当時のお話をお聞きできるのが楽しみです。大森さんにとっての高円寺といえば、やはり初期の活動拠点というイメージが強いですが、今でも高円寺に来ることはあるんですか?
ありますよ。当時から仲がいい「はやとちり」という服屋さんに行くのがメインですけど。はやとちりに行くついでにほかのお店に寄ることはたまにあります。でもよく高円寺にいたのはもう10年以上も前で。その頃はまだ駅の上にデニーズもなかったし、深夜にやってるお店と言ったら駅前のマクドナルドくらい。そのマックでコーヒーを飲んで、飽きたら外に出て弾き語りして、みたいなことをみんなしてましたね。そのあとに、300何十円均一で24時間営業の居酒屋ができるんですよ。で、そのまたあとにデニーズができるという歴史があって(笑)。
──深夜営業店の歴史、興味深いです(笑)。
その歴史とともに、ミュージシャンは高円寺の夜を過ごしてきたと思います。夏とかは駅前の広場に集まってみんなで缶チューハイを飲んだりしてましたけど。いつ外に出ても仲間がいるし、音楽のことを話してるだけで、なんか音楽をやってるっぽい気分になれるじゃないですか。そういう楽しさに甘えちゃってる部分はけっこうあったと思います。
──もともと大森さんは愛媛県の松山市に住んでいて、武蔵野美術大学に進学するとともに上京されたんですよね。当時ファンだった銀杏BOYZ峯田さんに紐付いていたイメージも強いと思いますが、松山に住んでいる頃は高円寺という街にどういった印象を抱いていたんでしょうか?
やっぱり峯田さんのブログに出てくる街という印象でしたね。あと銀杏BOYZの歌詞に出てくる「グミ・チョコレート・パイン」(大槻ケンヂの著書)を読んだら、高円寺周辺の光景がよく描かれていたので、そのイメージもあって、とにかく憧れを抱いてました。初めて高円寺に来たのは受験のとき。「アイデン&ティティ」(峯田和伸の主演映画)で麻生久美子さんが薬局でシャンプーを買ってあげるシーンがあるんですけど、それを真似して同じ店でシャンプーを買ったりする、イタい高校生でした(笑)。
──具体的にどういう街だというイメージがありましたか?
なんかもう、自分にとっての東京そのものという感じでした。似たような憧れを下北沢とかに抱くことはなくて。自分が上京した2006、7年頃って、「スイーツ(笑)」みたいな、今で言う冷笑的な文化が広がり始めた時代だったんですよ。そういう冷笑からいろんなサブカルチャーが生まれていた。ただ、自分はそのサブカルチャーにもアンチテーゼを持っていて。「自分は本当のアンダーグラウンドだ」という歪んだ自意識を強く持っていたし、それは今でも根付いていると思います。
──「自分は本当のアンダーグラウンドだ」という意識からすると、下北沢よりも高円寺のほうがしっくりきたと。
そうそう。やっぱりヴィレヴァンに並んでるカルチャーは、人に認められているカルチャーで。ヴィレヴァンにすら陳列されていない声がここにはあるんだぞっていう。一番底辺にいるのに一番高尚な意識を持っているめんどくさいやつだったと思います。cero、シャムキャッツ、昆虫キッズとかに対しても「おしゃれな音楽め!」って当時は思ってましたからね(笑)。
加地等に豊田道倫……当時の微妙な勢力図
ただ、その中でも昆虫キッズは高円寺と下北沢の両方を行き来してるとか、微妙な勢力図があったんですよ。今考えると面白い人がいっぱいいたなと思います。同世代で言うとスカートの澤部(渡)くんとか、平賀さち枝ちゃんとか、私と同じ大学だった柴田聡子ちゃんとか。あと、加地等さんという大阪のシンガーソングライターの方が高円寺に上京してきて。その加地さんを拠点にまたいろんな人が集まってくるんです。加地さんのライブに来る豊田道倫さんと、そこに付いてくる豊田さん一派の澤部くんとか昆虫キッズ高橋(翔)くんとか。で、加地さん信者の私と前野健太と、前野健太と仲いいから来る三輪二郎。あとは、加地さんのCDをプロデュースしていたのがLABCRYの三沢(洋紀)さんで、三沢さんが発掘したのがカネコアヤノさんなんです。でもカネコアヤノさんは世代が少し下だし、加地さんが亡くなってすでに界隈が解散しかけてる頃に発掘されたから、微妙に合流しきってはいない感じで。そういう細かな勢力図がありましたね。みんながみんなに対してバチバチだけど、言うのもダサいから言わないみたいな。
──あくまで水面下でバチバチしていた。
まあ私が勝手にバチバチしてただけかもしれないけど(笑)。笹口(騒音)くんとか、一緒になることはなかったけど竹原ピストルさんとかも、毎日のようにライブをやってましたからね。私と笹口くんと竹原ピストルさんは“とにかくライブをやる派”だったので。
──先日ナタリーで公開されたインタビューで、GEZANのマヒトさんが「実は大森靖子の存在もデカいんですよ」とお話しされていたのも印象的でした(マヒトゥ・ザ・ピーポー[GEZAN]のルーツをたどる)。
そう、あるときGEZANが上京してくるんです。当時、私の家が座・高円寺の隣にあったんですけど、すぐ近くに壱之助というスタジオがあって。たぶんGEZANもそこを使ってたんですよね。自転車とリアカーをつなげて機材を運んでたんですけど、そこにメンバーも乗っていて。だからGEZANが移動するとめちゃくちゃ目立つんです(笑)。本当に3日に1回はGEZANを見かけるくらい。だからこっちのほうがGEZANのことを見ていたし、意識してたと思いますよ。
──「私がバチバチしてただけかも」とのことでしたけど、マヒトさんはそのインタビューで「大森さんは人とのつながりを丁寧にしていたし、他者へのリスペクトがあった」とおっしゃってました。
そんないいように言ってもらえるような感じではなかったと思いますけどね……。もちろん「何クソ」という気持ちだけじゃなくてリスペクトは持っていましたよ。自分より集客力がある人たちばかりだし、つまりそれは自分よりも認められているということなので。そこに対して、どうカウンターで立ち向かっていくかということばかり考えてました。だから、結局いつも自分が楽屋で一番殺気立ってたと思います。でもGEZANはGEZANで殺気立ってたから、彼らからしたら、私はまだ人と関わってるように見えたのかな。
“今日が幸せならオッケー”という精神性
──当時と今とで、高円寺の雰囲気などに変化は感じますか?
私が高円寺に来た頃は「日本のインド」と言われるような空気がまだ残ってたんですよ。今でも残ってるところには残ってると思うけど……デニーズができたのは大きかったですね。私もファミレスは好きですけど、高円寺には合わないというか。デニーズができて、生態系が崩れ始めた気がします。
──デニーズができてから10年余りが経ち、今では高架下の再開発が進んでいたり、純情商店街が巨大な道路になるという話が持ち上がっていたり、高円寺という街自体が過渡期にあるように思えます。
いろいろ破壊されてますよね。でも、自分は「この街にい続けたら、もう一生このまま終わる」と感じて高円寺を出た人間なので、とやかく言えはしないです。やっぱり好きな街だし、思い入れ深い場所もあるけど、人が変われば街も変わるのは当然ですしね。それに、高円寺の人の“今日が幸せならオッケー”という精神性が、ちょっとやそっとの再開発なんかで変わるとも思えないんですよね。高円寺の古着屋とかって、お店が3時頃に開くんですよ。みんなお昼寝しながら暮らしてるので。そういうお店が変わってないのを見ると、落ち着くなあと思います。変わっていくところもあるけど、変わらないところもたくさんあるんだなって。
──大森さんから見て高円寺に住む人たちは、“今日が幸せならオッケー”という刹那的な感覚を持っている?
刹那的ともまた違うんですよね。なんなら老後に近いというか。多くを求めてはいなくて、物価が安ければそれでいい、という人が集まっている。最近は高円寺も物価が上がっているので、それは問題だと思います。高円寺って、ここ数年で芸人さんの街になったじゃないですか。バンドのライブを観に行くのには最低でも2000円はかかるから、お金のない若者は500円で観れる若手芸人のライブに行くんですって。そういう話を、はやとちりに来る若者とかがしているらしくて。
──確かに今はバンドマンやミュージシャンよりもお笑い芸人の街というイメージのほうが強いですが、そういう背景があるという説は興味深いですね。
今はもう音楽の街って感じじゃないですよね。そういう変化はあって当然だと思います。と言いつつ、中野みたいにタワマンができたらヤバいなとは思いますけど。ただ、高円寺みたいな場所は、変わらずどこかにあるはずで。少し前の高円寺の空気を、西荻あたりで感じなくはないというか。もしかしたら、“今日が幸せならオッケー”という人が集まる場所が、だんだん西のほうに移動していってるのかもしれないですね。
みんな身を削って自分のことを歌ってた
──大森さんゆかりの高円寺のスポットといえば、やはりライブハウス・無力無善寺や、レコードショップ・円盤が真っ先に思い浮かびます。大森さんのキャリアを語るうえでとても重要な場所ですよね。
小さなライブハウスって、基本的にお金を払って出るものなんですよ。特に私が高円寺にいた2007年から2012年頃って、ライブハウスがバンドマンにけっこうな場代をふっかけて、そのお金をもとに営業しているという時代で。そんな中、無力無善寺は1000円払えば出してもらえたので、修行のつもりで毎月ライブをしてましたね。
──円盤についてはいかがでしょうか?
やっぱり高円寺のカルチャーの拠点でしたよね。東京や大阪のコアな面白いCDがたくさん集まってたし、ミドリとかを最初に扱ったのも店長の田口(史人)さんだったはず。円盤に自分の作品が置かれるのが1つの名誉、という感覚がみんなにあったと思います。でも、私は最初「こんなの置けない」って言われたんですよ。
──そうなんですか。
円盤でバイトしていたジョニーさん(水中、それは苦しいのジョニー大蔵大臣)と仲よくなったので、ジョニーさんがバイトしてるときにこっそり置いてもらって。そこから松本亀吉さんが初めて私の記事を書いてくれたり、九龍ジョーさんが「絶対に売れるよ」と言ってくれたり、徐々に口コミが広がって、すごく売れるようになったんです。売上ランキングの1位から10位までがお店に並ぶんですけど、けっこう長いこと1位にいて。それがもうめちゃくちゃ誇り。私自身、円盤に好きなミュージシャンのライブを観に行ってたし、一度認められなかったのもあって、すごくうれしかったです。
──そのほかに高円寺で思い入れの深いスポットはどこでしょう?
あとは、どついたるねんの家かなあ(笑)。どついたるねんのみんなも高円寺に住んでいて、一番仲よかったんですよ。どついたるねんハウスにはよく行ったし、その流れではやとちりにも行くようになったので。
──どついたるねんもそうでしょうし、高円寺という磁場の中だからこそ出会えたであろう人がきっとたくさんいたはずですよね。
そうですね。メジャーデビューするときに横並びでいたような人たちって、結局みんないなくなっちゃったんです。もとから「すぐ辞めそうだな」と思ってたし。でも高円寺で一緒にライブをやってたような人たちは、ずっと音楽をやっている。そういうところへのリスペクトは当時から持っていたかもしれないですね。ちゃんとライバル視していいと思えたというか。誰かに与えられた自分をやっている人と、自分の生活を下手くそでもいいから歌おうとする人とでは、圧倒的な違いがありますから。高円寺にいるミュージシャンは、技術がない人や、やる気あるときしかやらない人、なんかボケっとしてる人も多いけど、ちゃんと身を削って自分のことを歌ってた。そういう面白みはみんな持ってたんじゃないかなあ。
──ただ、一方で大森さんは「高円寺から早く抜け出さなきゃ」という思いも強く持ってたわけですよね。
それはもう、絶対売れないと思っていたので。「ここにいたら絶対売れない」って。やっぱり、高円寺にいるとそれだけでなんとなく満たされちゃうんですよ。缶チューハイ片手に駅前に行ったら友達がいて、楽器を弾いて楽しいね、みたいな感じで満たされちゃう。でも、別に自分が満たされたくて音楽を始めたわけではないので。「自分が楽しいだけでは本当の意味では満たされない」という感覚はずっとどこかにありました。
高円寺にいる人間にすらなりきれない
──2013年リリースのアルバム「魔法が使えないなら死にたい」には、そんな大森さんの拠点である場所をストレートに冠した楽曲「高円寺」が収録されています。この曲は、どのようにして作られたのでしょうか?
個人的に気に入ってる曲ではあるけど、特別「高円寺のことを歌おう」と思って書いたわけじゃないんですよね。電車で高円寺に帰って行くときのふわーっとした感覚を、ふわーっとしたまま書いちゃった、みたいな曲で。“なんか作っちゃった曲”なんですよ。例えば「東京」というタイトルの曲を作るときって、みんな気合いを入れて作るじゃないですか。それとは正反対の曲だと思います。だから曲中に高円寺の情報もあまり入ってないですし。
──「高円寺」と題した曲が、「いらない BABY BABY / いらない I&YOU / いらない BOYS&GIRLS」と銀杏BOYZやGOING STEADYの作品を思わせるフレーズから始まるのも印象的です。しかも大森さんにとって大きい存在のはずのそれらを「いらない」と断言している。
自分って、銀杏BOYZの世界にいない人間なんですよ。銀杏BOYZの世界には君と僕しかいないし、男性社会しかなくて。「この世界に私はいないのに、なんで高円寺にいるんだろう」という感覚にたまになるんです。そういう所在なさを、どこにいても感じてしまって。中学生のときは早く中学を卒業したかったし、高校生のときは早く高校を卒業したかった。それは東京に来ても同じで、早く高円寺を出たいと思ってしまう。そういう「ここじゃない」というわがままな感覚が、ずっと私にはあるんです。「高円寺」はそういう感覚を歌った曲なんですよね。自分の好きな世界にすら自分がいないという感覚。
──なるほど。
そもそも自分が歌手になろうと思ったのも「あ、自分の曲ないな」という感覚がきっかけで。美大に行って、「もうあらゆる技法がやり尽くされてるから、新しいものなんてないよ。だから古きを学びなさい」と教えられたけど、じゃあなんで自分はこんなにムシャクシャして生きてきたんだよ、と思うんです。マンガを読んでも映画を観ても、自分のことなんてどこにも描かれてなかったけどなって。完全なフェミニストでもなければ、男社会にも乗り切れず、どっちも嫌いだしどっちも好きだし。でもそれは別に間違ってなんかないはずで。いろんな気分を抱えながら、それを理性で抑えているだけで、被害者になるかもしれなければ、加害者になるかもしれない。男になるかもしれなければ、女になるかもしれない。そういう自分が間違ってるとは思えないのに、まだどこにも描かれていない。そんな感覚があるんです。その感覚を歌にしたものです、この「高円寺」も。
──あらゆる場所に対して「ここは自分の居場所じゃない」と思いながら生きてきて、その結果たどり着いた高円寺すらも例外ではなかったと。
例外ではなかったですね。「銀杏BOYZの世界のモブにすらなれない」「高円寺にいる人間にすらなりきれない」という感覚がずっとありました。ただ、高円寺は自分みたいな人間が少なくなかったと思います。自分くらい斜に構えていたり、「こんなの俺じゃない」という感覚を持ってたりする人が、身の周りにもけっこういたので、ほかの場所よりは居心地よかったですね。
──「魔法が使えないなら死にたい」には、最後から3曲目の「高円寺」と対をなすように冒頭3曲目に「新宿」が収録されています。新宿も大森さんの活動において重要な街ですよね。
ずっとライブをしてきたところがいくつもあるので、今のホームという感覚ですね。でも、新宿は高円寺以上にこの10年くらいでだいぶ変わったなと感じます。当時は“新宿っぽいファッション”みたいなものもなかったし、歌舞伎町とかももっと怖い空気があって。その怖い空気がなくなった結果、トー横がああいうことになっていて、別の危なさにつながっているとは思うけど。ただ、それこそ“誰でもなさ”を受け入れてくれる街だというのはずっと変わらないはず。自分が何者でもなくて、どんなひどいことをしてでも生きたいと願ってる人が集まってできたのがトー横だと思うし、その雰囲気は10年前にもあった気がします。
──「“誰でもなさ”を受け入れてくれる」という感覚は「新宿」の「あのまちを歩く才能がなかったから 私 新宿が好き」という歌詞にも表れていますよね。“誰でもなさ”を受け入れてくれるという点で、高円寺と新宿ではまた違いがありますか?
新宿は言っても住んでる人が少ない街なので。外から集まってきていたり、本当に家がなかったり……そういう点が違うかも。高円寺はその人のことを受け入れたうえで、囲っちゃうんですよね。高円寺の人間にされちゃう(笑)。
──高円寺という場所がアイデンティティになっている人はたくさんいるだろうけど、新宿はまたそれとは違うというか。
“誰でもなさ”がアイデンティティになっている人が、「新宿が自分のホームです」と言っているんじゃないかなという気がします。
私が東京
──「高円寺」「新宿」だけでなく、例えば「TOKYO BLACK HOLE」と題したアルバムを2016年にリリースしたことなども含めて、当時の大森さんの表現には“東京”という概念へのある種の執着のようなものを感じます。ご本人的にそのあたりはいかがでしょうか?
やっぱり執着はありましたよ。だって愛媛から東京に出てくる人って、本当に全然いないですもん。上京的な感覚で行く場所が大阪、福岡、広島あたりなので、東京に行くという発想自体がなくて。だからなんていうか……けっこうなモチベを持って来たんです。以前、和歌山出身の志磨(遼平)くんと「東京って、天下一武道会みたいにすごいやつがいっぱいいると思ってたけど、別にそんなことなかったよね」という話をしたことがあって。それくらい、夢を抱いて東京に来てるんですよ。
──夢を抱いて来たからこそいろんなギャップもあっただろうし、変わらない憧れもあるだろうし、それが当時の作品に表れていたと。
そうですね。でも、2019年に初めて47都道府県ツアーをやったときに、「これっていろんなところに“自分の東京”を作っていくみたいな作業だな」と感じたんです。私は「自分の憧れとか自分がなりたいものをつかみ取れる」と思わせられるのがロックだと思っていて。私のライブに来ている地方の子を見ると、キラキラギラギラとねじれたものを観て「ああ、生きてるな」という感覚になってくれてるのを感じる。それって私が東京に抱いていた空虚な憧れと一緒で。ってことは、私は東京を作れてるんですよ。
──東京への執着云々を超越して……。
もう、私が東京。だから東京に来なくても、私のツアーに来れば東京旅行を味わえるよ、みたいな気持ちです(笑)。でも、そもそも音楽を聴くってそういうことですよね。実際に行ったことがなくても、「Edo River」を聴けば「江戸川ってこんな感じなのか」と思える。音楽ってそういうものなのかなと。
──では最後の質問です。大森さんは2014年のインタビューで、「高円寺は自分にとってスタート位置だし、ものを作る人のスタート位置みたいなところがあるから、そこからどれくらいやれてるかっていうのが冷静にわかる」とおっしゃっていました(「Rooftop」2014年1月号)。それから10年以上が経ち、今でも高円寺はスタート地点のような感覚がありますか?
どうなんだろう……。これまでは、自分で自分のことを「がんばって上がっていってるぞ」と思い込んでいたから、それを測るための秤として高円寺を使ってたんです。でももう高円寺に来ても、あまりそういうことは考えないかもしれない。もっとフラットな感覚です。「あ、ここドラマのロケ地だ」とか考えちゃうくらいの距離感。ほかの街よりは今でも好きだし、友達と高円寺に来たらちょっとは街のことを紹介できますけどね。「ここの山形料理屋さんは以前はあっちにあってね、売れたからこれくらいのキャパのところに移転してね……」とか、「ここのケーキ屋さんおいしくてね、桃のコンポートがね……」とか。今となっては、そういう知識がやたら自分の中にある街です(笑)。
プロフィール
大森靖子(オオモリセイコ)
愛媛県生まれのシンガーソングライター。2013年3月に1stフルアルバム「魔法が使えないなら死にたい」を発表し、その後2014年9月にエイベックスからメジャーデビュー。数々の作品を世に送り出す傍ら、ZOCX、MAPA、THE PINK MINDS、Zavage、絶対少女といったアイドルグループのプロデュースも手がける。2025年に株式会社パンクチュアルと専属契約し、2026年3月より全国47都道府県ツアー「大森靖子のライブに行くと幸せになれる47都道府県ツアー『PUNKTUARY 2026』」を行なっている。


