細野ゼミ 5コマ目(前編) 細野晴臣と歌謡曲

細野ゼミ 5コマ目(前編) 細野晴臣と歌謡曲

「細野ゼミ」メインビジュアル

活動50周年を経た今なお、日本のみならず海外でも熱烈な支持を集め、改めてその音楽が注目されている細野晴臣。音楽ナタリーでは、彼が生み出してきた作品やリスナー遍歴を通じてそのキャリアを改めて掘り下げるべく、さまざまなジャンルについて探求する連載企画「細野ゼミ」を展開中だ。

ゼミ生として参加しているのは、氏を敬愛してやまない安部勇磨(never young beach)とハマ・オカモト(OKAMOTO'S)という同世代アーティスト2人。第5回では細野とも関わりが深い歌謡曲をピックアップする。自身名義の音楽活動の一方で、松田聖子、イモ欽トリオ、和田アキ子などさまざまなアーティストの楽曲も手がけてきた細野。前編では細野にとっての歌謡曲の定義を探った。

取材 / 加藤一陽 文 / 望月哲 題字 / 細野晴臣 イラスト / 死後くん

歌謡曲に囲まれて生まれ育った細野晴臣

──今回のテーマは歌謡曲です。そもそも歌謡曲といっても、捉え方によって各々イメージするものが違うと思うのですが。ちなみにWikipediaによると「歌謡曲とは昭和時代に流行した日本のポピュラー音楽の総称である」とのことです。皆さんは、歌謡曲という言葉からどんなイメージを思い浮かべますか?

ハマ・オカモト なんとなく1980年代いっぱいまでのヒット曲、みたいなイメージですね。僕らが物心付いた頃には、もう歌謡曲という言葉はあまり使われていなかったような気がします。あと歌謡曲には、レコードの時代の音楽というイメージもあって。80年代後半くらいからだんだんCDが主流になってきて、その時代のヒット曲はあまり歌謡曲という感じがしない。僕の中では、7inchシングルで発売されたような曲が歌謡曲というイメージがあります。

──安部さんは?

安部勇磨 メロディが人懐っこいというか。生まれる前の曲なのに、なぜか懐かしいと思ってしまうような。歌謡曲って、僕の中ではそういうイメージです。

──では細野さんの中で歌謡曲はどのようなものなのでしょうか?

細野晴臣 僕は歌謡曲に囲まれて生まれ育った世代ですから。街を歩くと、理髪店とかいろんな店で歌謡曲が流れていたりして。自分では買わないけど、しょっちゅう流れてたから覚えちゃうのね。僕が子供の頃は春日八郎の「お富さん」とか大流行してた。

ハマ “流行歌”っていう言い方もあるじゃないですか?

細野 そうそう。当時、歌謡曲とは、あまり言わなかった。

ハマ やっぱりそうなんですね。

細野 そもそも歌謡曲以前、戦後に笠置シヅ子と江利チエミあたりを通じて日本に洋楽が紹介されたんだよね。

ハマ それはカバーですか?

細野 そう、カバー。江利チエミはデビュー作が「Tennessee Waltz」とか、そこらへんね。ドキュメンタリーをYouTubeで観たら、すごく面白かったよ。

ハマ 江利さんは「Tennessee Waltz」でデビューしてるんですね。デビュー曲が洋楽のカバーって面白い。

細野 笠置シヅ子が歌っていたのは服部良一が手がけた和製ポップスなんだけど、わかりやすく言うとブギウギなんだよね。戦後の復興期はそういう曲が一世を風靡してたから、最初はやっぱり洋楽っぽかったね。

ハマ ブギウギとかが当時最先端の音楽だったということですよね。

細野 そうだね。で、笠置シヅ子とかの前には「リンゴの唄」という曲が流行って。マイナー調の叙情的な歌だったけど、それも子供の頃によく歌ったね。それから昭和20年代の後半あたりに、江利チエミ、雪村いづみ、美空ひばりの“3人娘”が登場して。美空ひばりで始まったと言えるんじゃないかな。日本の歌謡曲は。

──なるほど。

細野 それに、作曲家で歌謡曲の流れが違ってくるというか。戦後の歌謡界を切り開いたのは服部良一だけど、その後、美空ひばりの一連の曲を書いた古賀政男が台頭してきて。

ハマ 古賀政男さんって聞いたことあります。

細野 あの人はギターを弾きながら作曲するんだけど、マイナー調の曲ばかり作ってたわけ。それが歌謡曲の原形かもしれない。あのマイナー調のメロディが。

洋楽の影響が強かった流行歌

ハマ 演歌とかの流れっていうのは?

細野 演歌っていうのは、意外と新しい言葉なんだよ。

安部 えっ、そうなんですか?

細野 うん。藤圭子が登場した、70年代初頭あたりから一般的に使われるようになった気がする。

安部 へえ! そうなんだ。

ハマ じゃあ、それまでは演歌的な曲も、普通に流行歌と呼ばれていたんですか?

細野 そう。ヒットしてる曲はすべて流行歌。

ハマ 流行歌の細分化が始まるのが、そういうタイミングだってことなんですね。

細野 あとは三橋美智也とか民謡系の流行歌手もいるし。でも日本の歌謡界は戦後しばらく米軍キャンプの存在が強かったんじゃないかな。江利チエミも雪村いづみも、みんな14、15歳から米軍キャンプで歌っているわけで。笠置シヅ子も米軍キャンプの兵隊たちの応援があったんだよ。レコーディングに兵隊たちが見学しに来たぐらいだから。米軍が東京から撤退するにつれて、流行歌が和風になっていった。

ハマ そうなんですね。

細野 僕はずっと洋楽しか聴いてなかったけど、心に残っている歌謡曲はいっぱいあるわけだよ。最近それを聴き直したりしてる。そうすると、再現ができない音楽っていう意味では、アメリカの40、50年代の音楽にも似てるんだよね。名曲がいっぱいあって。

ハマ 年代的には子供の頃ですか?

細野 昭和30年代かな……例えば橋幸夫とか、いいんだよね。「潮来笠」とか。曲のテーマは全然わかんないんだけどね(笑)。

ハマ ははは(笑)。当時の歌謡曲って演奏はジャズ畑の人たちなんですか?

細野 うん。素晴らしいんだよ、その演奏がなかなか。コロムビア・オーケストラとか。昔のほうが洋楽っぽかった。演歌も含めて。洋楽の影響が強いんだよね。

新しい装いをしているようで中身はフォーク

安部 でも、歌謡曲より演歌という言葉があとに生まれたというのは面白いですね。

ハマ それこそシティポップとかもそうじゃん。流行り始めた頃は「シティポップ」という言葉はなかったわけで、やっぱり後付けというか。

細野 シティポップの前にフォークがあったでしょ? そういえばフォークが歌謡曲の代わりになってきた時代があったね。

ハマ 70年代くらいですかね。

細野 かぐや姫とかアリスとか。そのあたりの人たちが、その後、歌謡界の中枢を担うようになっていく。谷村新司さんなんて歌謡曲以上に歌謡曲だから(笑)。

ハマ 確かに(笑)。谷村さん、歌謡曲の塊みたいな方ですよね。

細野 実は今の時代の音楽も一見新しい装いをしているようで、中身はフォークだったりするから。

一同 ああー。

細野晴臣の初歌謡曲仕事は

──細野さんもこれまで多くの歌謡曲のお仕事をされてきたと思いますが、最初のお仕事は覚えていらっしゃいますか?

細野 最初は和田アキ子さんだね。シングル用に曲を書いて。

ハマ 「見えない世界」(1975年)ですか?

細野 そう。よく知ってるなあ(笑)。

ハマ めっちゃカッコいいですよね、あの曲。

細野 作曲を頼まれたのはいいんだけど、全然書けなくて、高校生の頃に考えたメロディを仕方なく使っちゃったんだよね(笑)。

安部 それがそのまま採用されたんですか?

細野 うん。「大丈夫かな……」とか思いながら(笑)。

ハマ すごいですね(笑)。先方から何かオーダーはあったんですか?

細野 あったね。

ハマ こういう感じにしてください、みたいな?

細野 それはちょっと覚えてないけど。難しかったね。やったことなかったから(笑)。

安部 でも一応は、やってみようと思ったんですね。

細野 うん。やっぱり頼まれると断れないっていうか(笑)。

ハマ 今思えば、細野さんにお仕事を振った人、すごいですね。当時の和田アキ子さんのシングルで、「細野晴臣に作曲をお願いしよう」っていう話になったわけですもんね。

ちょっとマニアックに作っちゃった「アワー・コネクション」

──最初の歌謡曲仕事が和田アキ子さんというのもすごい話ですね。

細野 それ以降しばらく歌謡系の仕事は全然やっていなかったんだけど、いしだあゆみさんのアルバムで声をかけてもらって。いしださんは橋本淳さんという作詞家がずっとプロデュースしてたんだけど、新人作家の発掘か何かで僕が呼ばれてね。

ハマ あのティン・パン・アレーがバッキングしてるアルバムですか?

細野 そう。あれは、なんてタイトルだったかな?

ハマ 「アワー・コネクション」(1977年)ですね! 最近再発されたんですよ。すっごい人気の盤だったんだけど。

細野 けど、その仕事も単発で、継続することはなかった。ちょっとマニアックに作っちゃったから(笑)。

聖子ちゃんは歌がうまいから……

ハマ でもあれはすごい化学反応ですよね。ちなみに時系列的にいうと荒井由実さんのお仕事は?

細野 その前だよ、ユーミンは。

ハマ ユーミンさんに関しては、細野さんの中で、いわゆる歌謡仕事とは一線を画していたんですか?

細野 じゃなかったね。わりと自分たちのテリトリーの中から出てきた人だったから。

ハマ そうですよね。でも、たぶん今多くの人はユーミンさんを歌謡曲の人だと思っていますよね。そういう認識になっていたのって、やっぱり80年代くらいですか?

細野 そうだね。松本隆のせいだけど(笑)。

ハマ 「松本隆のせいだけど」(笑)。細野さんにしか言えないですね(笑)。確かに、その後、松田聖子さんの「赤いスイートピー」を筆頭に、多くのヒット曲の作詞作曲家クレジットでユーミンさんと松本さんの名前が並ぶことになるわけですし。

細野 そうそう。

ハマ 「天国のキッス」「ガラスの林檎」「ピンクのモーツァルト」など、細野さんも松本さんと組んで聖子さんの曲を作曲されていますけど、そういうときって、「松本隆さんが歌詞を書きます」とか事前に伝えられるものなんですか?

細野 いや、仕事自体が松本隆から直接来るんだよ。

ハマ なるほど! そういうことなんだ。「細野さん、曲作って」ということなんですね。

細野 そう。

安部 お二人別々にオファーが来るんじゃなくて、そういう流れがあったんですね。

細野 松本隆はその時点で本格的に歌謡曲の仕事をしていたからね。筒美京平さんとコンビを組んで急成長してた。それで80年代に入って松田聖子さんの仕事をして、それも非常にいい成績だったでしょ。それであるとき松本から「松田聖子のアルバムに1、2曲作ってほしい」って依頼があったんだよ。たぶんお試しだったんだろうね(笑)。

ハマ へえ! 細野さんは、レコーディングのとき歌録りに立ち会ったりしてたんですか?

細野 あんまり深入りはしないけど、松田聖子さんの歌入れには1、2度、顔を出してる。

ハマ 作曲家としてどういう気持ちだったんですか? ご自身が作った曲が、みんなが知っている曲になっていくっていう。

細野 松田聖子さんの場合、1、2度練習してからレコーディングしてOKが出ちゃう。それほど歌がうまいんだよね。特に僕から話すこともないっていうか(笑)。

一同 はあ……。

その時点で持っているものを全部出さないとダメ

安部 ちなみに細野さんの中で「聖子ちゃんにこんな曲を書いてみたい」というような気持ちはあったんですか? それとも、聖子さんサイドの要望に応えるみたいな感じだったんですか?

細野 作曲を頼まれた時点で、松田聖子さんが歌うって決まってるから、過去にどんな曲があるのか、やっぱ聴くじゃない? それで大体わかるわけだ。そこに合わせて曲を作っていくから、こっちに引き寄せる必要もないというか。

安部 例えば曲を提供したとき、「この曲めっちゃいいじゃん! 自分でやりたくなっちゃったから出したくない」とかなったりしないんですか? 「聖子ちゃんにあげたくない」みたいな(笑)。

細野 なんて言ったらいいかな……とにかく、その場でできることを全部出しちゃわないと曲ができないわけ。

ハマ そんなに余裕がないんですね。

安部 そのときのベストを尽くすしかないっていう。

細野 うん。だから前に自分が作った曲を出すこともあるし。その時点で持っているものを全部出さないとダメだから、なんにも残んない(笑)。

──すごく気力のいる作業ですよね。

細野 でもそれがすごく練習になったところもある。

ハマ 楽曲提供する際の、スイッチの入れ方というか。

細野 そう。僕の場合、切羽つまんないとダメだね(笑)。

安部 はははは(笑)。

細野 松田聖子さんに提供した曲が気に入られたのかどうかはわからないけど、その後シングル曲の依頼が松本から来るようになって。そうこうしているうちに作曲の仕事が増えていった。

ハマ それはもう評判も広がるでしょうからね。

安部 細野さんは森進一さんの曲(1983年発表の「紐育物語」)も書かれているんですよね?

細野 森進一さんもやったね。あれは前例として、大瀧詠一くんが書いた「冬のリヴィエラ」がヒットしていたんだ。じゃあ今度は細野だっていうので(笑)。

歌謡曲と言えば筒美京平

──先ほどもお名前が挙がりましたが、筒美京平さんは細野さんにとってどのような存在だったんですか?

細野 歌謡曲の世界と言ったら、やっぱり筒美京平さんですよ。はっぴいえんどの初期の頃とかは、日本の音楽を全然聴かなくなっていたんだけど、筒美さんの曲だけは耳に飛び込んでくるんだよね。西田佐知子さんの「くれないホテル」という曲がすごくいいなって思って、シングル盤を買っちゃったんだよね。メンバーもびっくりしてて。

ハマ 「え、細野さんが『くれないホテル』を買ったの?」みたいな(笑)。

細野 すごく洋楽っぽかったんだよね、その曲は。ちょっと前に流行っていたエンゲルベルト・フンパーディンクの「The Last Waltz」という曲のエッセンスが色濃く感じられて。

ハマ 当時それがわかって聴いている人と、わかって聴かない人もいて、細野さんは「やっぱこれだな!」って、わかってたってことですもんね。

細野 アレンジにその曲の要素がすごくうまく取り入れられていて。でも、はっぴいえんどの頃って歌謡曲とはそういう接点しかなかったなあ。洋楽のエッセンスを感じるかどうか。だから僕にとっては“歌謡曲=筒美京平”だったんだよね。

<後編に続く>

細野晴臣

1947年生まれ、東京出身の音楽家。エイプリル・フールのベーシストとしてデビューし、1970年に大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成する。1973年よりソロ活動を開始。同時に林立夫、松任谷正隆らとティン・パン・アレーを始動させ、荒井由実などさまざまなアーティストのプロデュースも行う。1978年に高橋幸宏、坂本龍一とYellow Magic Orchestra(YMO)を結成した一方、松田聖子、山下久美子らへの楽曲提供も数多く、プロデューサー / レーベル主宰者としても活躍する。YMO“散開”後は、ワールドミュージック、アンビエントミュージックを探求しつつ、作曲・プロデュースなど多岐にわたり活動。2018年には是枝裕和監督の映画「万引き家族」の劇伴を手がけ、同作で「第42回日本アカデミー賞」最優秀音楽賞を受賞した。2019年3月に1stソロアルバム「HOSONO HOUSE」を自ら再構築したアルバム「HOCHONO HOUSE」を発表。この年、音楽活動50周年を迎えた。2020年11月3日の「レコードの日」には過去6タイトルのアナログ盤がリリースされた。

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安部勇磨

1990年東京生まれ。2014年に結成されたnever young beachのボーカル&ギター。2015年5月に1stアルバム「YASHINOKI HOUSE」を発表し、7月には「FUJI ROCK FESTIVAL '15」に初出演。2016年に2ndアルバム「fam fam」をリリースし、各地のフェスやライブイベントに参加した。2017年にSPEEDSTAR RECORDSよりメジャーデビューアルバム「A GOOD TIME」を発表。日本のみならず、上海、北京、成都、深セン、杭州、台北、ソウル、バンコクなどアジア圏内でライブ活動も行い、海外での活動の場を広げている。2021年にソロ活動を開始し、6月30日に自身初となるソロアルバム「Fantasia」を自主レーベル・Thaian Recordsよりリリースする。

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Thaian Records
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ハマ・オカモト

1991年東京生まれ。ロックバンドOKAMOTO'Sのベーシスト。中学生の頃にバンド活動を開始し、同級生と共にOKAMOTO’Sを結成。2010年5月に1stアルバム「10'S」を発表する。デビュー当時より国内外で精力的にライブ活動を展開しており、最新作は2021年4月に配信リリースした「M」。またベーシストとしてさまざまなミュージシャンのサポートをすることも多く、2020年5月にはムック本「BASS MAGAZINE SPECIAL FEATURE SERIES『2009-2019“ハマ・オカモト”とはなんだったのか?』」を発売した。

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