1980年代末にその萌芽が見られ、やがて日本の音楽史に影響を及ぼすようになった渋谷系のムーブメント。その広がりをさまざまな視点から検証する本連載で今回舞台となるのは、2000年代に入ってから“渋谷系”のブームが巻き起こった韓国。ナビゲーターは、韓国を拠点にギタリスト、プロデューサー、DJとして活動する長谷川陽平だ。彼は95年に初めてソウルを訪れて以降、黎明期にあったソウルのインディーシーンで活動。のちに韓国インディーズの代表的バンドであるチャン・ギハと顔たちの正式メンバーとしても活躍する一方で、近年はDJとしても精力的に活動しており、韓国におけるシティポップDJの第一人者として人気を集めている。
渋谷というローカルな場所で育まれた音楽は、ソウルというもう1つのローカルに持ち込まれたとき、どのように変異していったのだろうか。その現場をつぶさに見つめてきた長谷川ならではの分析と共にお届けしよう(なお、本稿では韓国の独自解釈による渋谷系について話す際は、“渋谷系”と括弧付きで表記している)。
パソコン通信で韓国に広まった渋谷系
──長谷川さんが初めて韓国を訪れたのは1995年ですよね。当時の韓国に渋谷系の動きは伝えられていたんでしょうか。
今でも覚えてるのは、95、6年にソウルのヒャンミュージックというCDショップに行ったとき、「今度こっちに来るときフリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴのCDを買ってきてくれないか」と言われたことがあったんですよ。その頃にはすでに渋谷系とされる日本のアーティストをチェックしているリスナーがいたということでしょうね。
――そういったリスナーはどうやって情報を得ていたんでしょうか。
90年代半ばの韓国ではパソコン通信が爆発的に流行していて、オルタナやUKインディーを好きな人たちはパソコン通信上のサークルで情報交換をしていたんです。そういう場所でフリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴに関する情報もやりとりされていたようですね。韓国ではそれまで欧米の音楽、80年代であればヘヴィメタルの人気が高かったんですけど、90年代半ばになると、UKインディーなどヘヴィメタル以外のロックも柔軟に受け取る層が少しずつではあるものの出てきて、パソコン通信の中に「モダンロック小集団」というサークルを作るんです。そういう人たちが渋谷系にも興味を持っていたということですね。
――欧米の音楽と同じ流れで聴いていた、と。
そうですね。当時、OasisやPrimal ScreamのようなUKのバンドを取り上げていた「sub」という音楽雑誌があったんですけど、その中で日本の音楽を紹介する連載があったんですね。いま手元にある2000年の号では、僕も一時期ギターを弾いていたDeli Spiceのベーシスト、ユン・ジュノさんがトラットリアについてコラムを書いているんですよ。そこではカヒミ・カリィ、VENUS PETER、bridgeなんかを挙げながら、Corduroyみたいな同時代の欧米のバンドも取り上げているんです。
――パソコン通信上の音楽サークルから結成されたバンドもいるんでしょうか。
オンニネイバルグァンなんかはパソコン通信上ででっちあげた架空のバンドから始まってますよね。Deli Spiceもメンバー全員、ハイテル(パソコン通信サービス)の参加者でしたね。あと、マスタープラン(ホンデのライブハウス / レーベル。同時期には黎明期にあったヒップホップシーンの中心地となり、同名のクルーとしても活動を展開する)周辺のバンド。マスタープランの社長であるイ・ジョンヒョンさんはフリッパーズ・ギターやカジヒデキさんが大好きで、おそらくマスタープランに出演しているバンドに渋谷系のCDを聞かせたりしながら広めていたとも思うんですよ。彼は日本に来るたびに何百枚もCDを買っていくような人だったので。
――イ・ジョンヒョンさんはのちにマスタープランのサブレーベルとしてハッピーロボット(韓国における“渋谷系”の代表的レーベル。フリッパーズ・ギターやカジヒデキの韓国盤もリリースしている)を立ち上げ、日本人アーティストを韓国で数多くリリースする方ですよね。
そうですね。2007年には「Grand Mint Festival」(ソウルのオリンピック公園で開催されている大規模な野外フェス。韓国のインディー系バンドが多数出演するほか、日本人アーティストも毎年ブッキングされている)を始める人です。韓国のインディーシーンで長年活動している人って、90年代から日本の音楽に精通していた人が多いんですよ。
韓国独自の“渋谷系”とは
――では、韓国で渋谷系という言葉が使われるようになったのはいつ頃なんでしょうか。
それはもっとあと、2003、4年くらいからじゃないですか。ただ、その頃紹介されていたのは、いわゆる渋谷系のアーティストではなかった。韓国には僕らが知っている渋谷系とは違う“渋谷系”が存在しているんです。90年代にパソコン通信上でフリッパーズ・ギターの情報を交換していたリスナーとはまったく別の層で、そうした“渋谷系”とされるアーティストが人気を博すようになったんですね。
――それはどういったアーティストだったんでしょうか?
まず、ブームの背景には2000年代頭頃からインターネットが広く浸透したことが大きかったんですよ。2002年の日韓ワールドカップや日本文化解禁の影響も多少あったと思うけど、一番大きかったのは間違いなくサイワールド(1999年にサービスを開始した韓国のソーシャルネットワーキングサービス。一時は3200万人もの会員数を誇り、2005年には日本でのサービスも開始した)。日本のmixiみたいな国内基準のSNSですね。
――パソコン通信のときのようなサークルがサイワールドの中にあったということですか?
いや、それが違うんです。サイワールドって加入者それぞれのホームページにアクセスしたとき、BGMが流れる仕様になってたんですね。そこで流れていたのがHARVARDの「Clean & Dirty」であり、m-flo loves melody. & Ryoheiの「miss you」、Fantastic Plastic Machineの「Days and Days」、Nujabesの「Aruarian dance」などだったんですよ。その頃の韓国の歌謡曲というと、どうしても泣きのバラードが多かったわけですが、そうしたものとは明らかに違う洗練されたダンストラックがそこで鳴っていた。2003年から2004年という時期はまさにサイワールド全盛期だったんですが、この4曲もすべてこの2年のうちに出てるんですね。
――そして、そうしたアーティストが“渋谷系”と捉えられるようになった?
そういうことですね。
――韓国の“渋谷系”における代表的レーベルであるハッピーロボットからはHARVARDの「Lesson」(2003年)を皮切りにさまざまな日本人アーティストの作品がリリースされていますが、STUDIO APARTMENTやDJ KAWASAKIなど、日本では間違いなく渋谷系としては紹介されないアーティストも多いですよね。
そうですね。韓国ではFreeTEMPOやJazztronik、DAISHI DANCEはものすごく人気があって、彼らも“渋谷系”に含まれてしまうんです。ポップでラウンジーな感覚のあるものに、メインストリームにはないオシャレを感じていたんでしょうね。
――なおかつサイワールドという新しいメディアと結び付いたことにより、それまでの韓国にはなかった新しい文化として一気に浸透したと。
そうなんですよ。だから、今でもDJでHARVARDの「Clean & Dirty」をかけると、2000年代中盤に青春時代を迎えた世代が大騒ぎするんです。「これこれ!」って。1つ言えるのは、HARVARDの「Clean & Dirty」やFantastic Plastic Machineの「Days and Days」は歌詞が英語なんですね。ということは、韓国のラジオ局でも流すことができたんです。そこも大きかったかもしれない。あと、サイワールドの中にはクラブ情報を交換するグループもあって、そういう場所でも日本人アーティストの情報がやりとりされていたんです。
――そうした音楽が人気を集めた背景には、日韓ワールドカップ以降のソウルでカフェが急増したことも関係しているんでしょうか。
それはあると思いますね。サイワールドの加入者ホームページのBGMとして“渋谷系”が使われていたように、カフェのBGMとしても同じタイプのものがもてはやされるようになった。そこで重要だったのは、“決して有名になりすぎていない、私だけが知っている音楽”という感覚。自分たちはヒップなものを聴いているんだという感覚が後押ししたんだと思います。
韓国産“渋谷系”インディー勢の登場
――同じ時期からはそうした“渋谷系”からインスパイアされた韓国のバンドが出てきますよね。Humming Urban Stereoのミニアルバム「Short Cake」やCLAZZIQUAI PROJECTの「Instant Pig」が2004年、Peppertonesの1stアルバム「Peppertones vol.1 - Colorful Express」が2005年に出ました。99年に結成されたRoller Coasterもこの時期に「Absolute」などのアルバムをリリースしています。
やっぱりHumming Urban Stereoなど韓国産“渋谷系”インディーバンド / アーティストの登場が大きかったんじゃないですか。ここ数年、韓国でもシティポップが日本の音楽として聴かれるようになって、自分たちでもバンドをやってみようと動き出した人たちがいたわけですが、この時期“渋谷系”に触れた人たちが新しいバンドを始めた。その中でもHumming Urban Stereoは象徴的なバンドだったと思います。あのバンドは韓国産“渋谷系”の元祖みたいな存在ですから。
――その頃の韓国ではフリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴはどのように聴かれていたんでしょうか。
どちらもマタドールレコード経由で聴かれていたと思います。当時のUSインディーの流れで聴かれていたということですね。ただ、そういう人たちと“渋谷系”の話をしても、フリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴの名前は出てこない。やっぱりHARVARDであり、FPMなんです。それぐらい韓国における“渋谷系”のイメージが頑丈にできあがってしまったということだと思いますね。
――ただ、そうした韓国独自の“渋谷系”が90年代の東京で生まれたカルチャーのまがいものかというと、必ずしもそうだとは思わないんですね。韓国のポップミュージックは1950年代から外来の音楽を咀嚼し、少々の誤解を含みながら韓国独自のものを作ってきたわけですよね。それこそ妄想のサイケデリックロックを作ってしまったシン・ジュンヒョンやサヌリムのように。韓国産の“渋谷系”も同じ流れにあると言えるんじゃないかと思うんですよ。
韓国の場合、料理と一緒で“いくら本格的なものでも自分たちの口に合わないと無理”という感覚が音楽にも反映されているんです。自分たちのフィルターを通さないと受け入れられづらい。例えばブラジル音楽にしてもガツンとした本場仕様のサンバなんかだと、韓国の人たちには少し泥臭い。でも、2000年代以降の日本人アーティストがやっている洗練されたブラジル仕様の音楽であれば、みんな受け取ることができるんです。
――なるほど。
それは日本のシティポップも一緒で、80年代以降のアーバンなものはみんな受け入れられるけど、70年代のもの、例えば少しスワンプぽいものだったりファンクの匂いが強いものだと、みんな抵抗感を持ってしまう。そこは“渋谷系”も一緒だと思います。
――Humming Urban StereoにしてもCLAZZIQUAI PROJECTにしても、この連載で語られてきた渋谷系の視点からすると、音楽的には少しズレるところがありますよね。「えっ、これが渋谷系?」という。でも、そこには韓国ならではの感覚が反映されていると。
日本で言う渋谷系から変異したものであることは確かだと思いますよ。あと、今思い出したんですが、僕がソウルでやっている「This Is The CITY LIFE」というパーティに遊びに来てくれた若い子と話していたとき、彼はこう言ってたんですよ。「フリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴは自分たちにとって、少し難しかった」と。
――難しかった?
そう。フリッパーズ・ギターにしてもピチカート・ファイヴにしても、音楽的にはものすごくマニアックなものをポップに昇華しているわけじゃないですか。ある程度音楽を聴いている人は「さすがだな」と思うけど、日本のようにマニアックに音楽を聴く習慣があまりなかった韓国だと、どうしても難解に聴こえてしまうんでしょうね。それよりもフリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴのテイストが入った2000年代以降のダンスミュージックのほうが受け取りやすかったんだと思います……そう言えば、もう1つ思い出しました。
――おっ、なんでしょうか。
クレイジーケンバンドと小西康陽さん、それとDJソウルスケープが韓国で一緒にやったことがあったんですよ(2002年6月22日に開催されたイベント「CONTACT 2002」。DJソウルスケープなど韓国ヒップホップ第一世代を代表するDJたちのほか、日本からは須永辰緒も出演した)。ソウルのポリメディアシアターというところで行われたんですけど、小西さんのDJのとき、めちゃくちゃに盛り上がったんです。小西さんキレッキレで、DJブースからピチカート・ファイヴのレコードをフロアに向かって投げてましたから(笑)。
――小西さんはどういう曲をかけてたんですか?
小西さんが手がけたリミックスもの中心だったと思います。四つ打ちのダンスミュージックだったから韓国のオーディエンスにも受け入れやすかったのかもしれない。ロックでもテクノでもなく、四つ打ちでお洒落という。当時、渋谷系についてみんなが漠然と持っていたイメージをそのまま打ち出したようなDJだったんですよ。それでめちゃくちゃ盛り上がったんだと思います。
渋谷系再解釈の可能性
――サイワールド以降の流れで言えば、2000年代も後半になると、DAISHI DANCEがBIG BANGの「HARU HARU」(2008年)の作曲を手がけたりと、K-POPのフィールドにも韓国流“渋谷系”のテイストが持ち込まれるようになります。2000年代初頭までRoller Coasterのメンバーとして“渋谷系”を演奏していたジヌ(B / Programming)は、バンドが解散したあと、Hitchhiker名義でBrown Eyed Girlsの「Abracadabra」(2009年)を手がけたことで、以降K-POPのソングライターとしても大活躍しますね。
サイワールドから火が点いた“渋谷系”のブームが徐々にメインストリームにも広がっていったという感じですよね。K-POPが今のようにEDM色が強くなる前は、トラックに“渋谷系”の匂いがするものってけっこうありましたし。ジヌさんもバンドが解散したあと、一時期は音楽をやめようとしていたみたいですけど、いきなり忙しくなったようです。
――ところで、韓国の今の若いリスナーの間で“渋谷系”という言葉は通じるんでしょうか。
うん、通じます。サイワールド全盛の時代にティーンエイジャーだった子たちは今30歳前後になってるわけですが、その世代がノスタルジーを感じる言葉になってますね。さっきも言ったように、クラブでHARVARDの「Clean & Dirty」やm-floの「Miss you」がかかると、そういう人たちが大合唱しますし。
――韓国流“渋谷系”を現在に受け継ぐバンドは今の韓国にもいるんでしょうか。
今は“渋谷系”というよりも完全にシティポップですね。ただ、シティポップといっても、あくまでも韓国流の“渋谷系”を通過したシティポップという感じ。あとは、今後“渋谷系”がどう捉え直されていくか、ですね。今のソウルは空前のレトロブームで、「渋谷系とは何だったのか」をテーマにしたトークショウも行われるようになってるんです。ここ2、3年は僕や仲間のDJもシティポップだけでDJをやることがあったんですけど、「これからは渋谷系を混ぜていかないとダメだろう」と話しているんです。
――そこでいう渋谷系というのは、韓国流の“渋谷系”ではなく、90年代の日本のもの?
そうですね。韓国の場合、80~90年代の韓国歌謡を通してブレイクビーツやグラウンドビートに慣れ親しんでいる若い子も多いんですね。なので、そうしたビートを使いつつ、渋谷系の匂いがするものが今後再評価されていくんじゃないかと思ってます。韓国では「今夜はブギー・バック」もあまり知られていないし、韓国の人たちにとっては少しとっつきにくかったカヒミ・カリィもグラウンドビートを使った曲であれば踊りやすい。TOKYO No.1 SOUL SETあたりもDJでかけていて反応がすごくいいんです。
――なるほど。韓国で再び渋谷系の再解釈が行われる可能性があるわけですね。しかもシティポップの延長線上で。
そうなっていくと思います。ただ、渋谷系で有名な曲をかければすぐに盛り上がるというわけではなく、韓国流“渋谷系”をいかに理解するかにかかってくるので、韓国でDJをやるというのはすごく難しいことでもあるんです。
長谷川陽平
ギタリスト / プロデューサー / DJ。1995年に韓国へ初渡航。97年に韓国での音楽活動をスタートする。2005年には大韓ロックを代表する伝説的バンド、サヌリムに参加。2009年には韓国の新たな音楽シーンを牽引するバンド、チャン・ギハと顔たちにプロデューサー / ギタリストとして加入を果たす。近年はDJとしても活躍。現在、日韓を股にかけた活動を展開し、アジア音楽シーンの新たなキーパーソンとして国際的な注目を集めている。
取材・文・編集 / 大石始 ヘッダビジュアル / 大石慶子