1990年代に日本の音楽シーンで起きた“渋谷系”ムーブメントを複数の記事で多角的に掘り下げてきた本連載。最終回となる今回は、エディター / ライターの川勝正幸を取り上げる。ピチカート・ファイヴ、フリッパーズ・ギター、スチャダラパー、ORIGINAL LOVE など、川勝は独自の審美眼で多くの渋谷系アーティストを雑誌やラジオを通じて、いち早く紹介してきた。2012年に不慮の事故で逝去した川勝ではあるが、星野源を筆頭に多くのアーティストやクリエイターが彼からの影響を公言しており、川勝正幸の遺伝子“ポップウイルス”は今も連綿と受け継がれている。
今回登場してもらった小泉今日子も川勝のポップウイルスを受け継ぐアーティストの1人だ。90年代前後にかけて、川勝は小泉のラジオ番組に構成作家として携わる一方、雑誌連載やツアーパンフレットの編集を担当するなど多くのクリエイションを手がけている。本稿では川勝が立ち上げた事務所「川勝プロダクション」の一員であるエディター / ライターの辛島いづみを聞き手に迎え、小泉に川勝との交流や彼が遺した功績について語ってもらった。
取材・文 / 辛島いづみ(川勝プロダクション) ヘッダ写真撮影 / 長濱治 (c)NEIGHBORHOOD 物撮影 / 永田章浩(提供:川勝プロダクション)
川勝さんだったらどうしたかな
「もうバッタバタ。今日も“高津”に行ってたんです。高津装飾美術。舞台で使うステージ用の椅子とか小道具を借りに。イメージするラグマットがなかなか見つからなくて。あれでもないこれでもないって探してたら、私が以前、もう使わないからって寄付したラグマットが出てきたのね。『これたぶん小泉さんのものだと思うんですけど』『そう、それ』って(笑)」
インタビューをしたのは2020年9月下旬。彼女は、翌10月に行うイベント「asatte FORCE」の準備に追われていた。それは、本多劇場で16日間にもわたって開催した日替わりイベントで、「西城秀樹を語りあう夕べ」があったり、殿山泰司のエッセイを朗読する舞台があったり、旧友である高木完やスチャダラパー、川辺ヒロシらと共に演劇の殿堂を“クラブ化”する日があったりと、なんともパワフルな企画だった。
「もともとは『ピエタ』というお芝居をやろうとしていたんです。石田ひかりさんと峯村リエさんと私がメインキャストだったけれど、コロナでできなくなってしまった。でも、押さえていた劇場をそのまま手放すのはもったいない。せっかくだったら何かやろうって」
近頃のコイズミさんは忙しい。大手芸能事務所を辞め、自身の会社「明後日」を立ち上げてからは、演劇や映画を企画したり、それまでの歌手 / 女優としての小泉今日子だけではなく、プロデューサーとしての活躍がめざましい。何より、心底楽しんでそれを発信している様子がうかがえる。
「こうやっていろいろ動いていると、川勝さんを思い出してならないんです。川勝さんだったらどうしたかな、どう思うかな、どんなキャッチフレーズを考えるかなって絶対思っちゃう。例えば、今年8月に無観客ライブをやったとき、レコード会社の人はカッコいいタイトルを考えてくれるんだけど、『いやいやいや、もっとユーモアがあったほうがいいんじゃない?』って、『唄うコイズミさん』はどうでしょう?って私が提案したんです。こういうことも川勝さんから学んだ気がする。簡単に意図が伝わるけれど、カッコつけてないフレーズ。若い世代は、私の歌手時代を知らない人が多いから、実は歌うんですよっていうような意味も含めてね」
確かに。川勝さんならそういうタイトルを付けただろう。
川勝正幸。自らを「ポップウイルスに感染した“ポップ中毒者”」と呼んだエディター / ライター。80年代から雑誌で活躍、深夜テレビやラジオに構成作家として参加することもしばしば。90年代にはクラブカルチャーや渋谷系など自らが体感したポップカルチャーの現場を、コラムなどで積極的に発信することで、ブームの盛り上げ役となった。中でもスチャダラパーは川勝がフックアップし世に出したと言っても過言ではない。学生時代の思い出としてラップコンテストに出ただけの彼らをメディアで初めて紹介したのも川勝だったし、渋谷系のアンセムと呼ばれた「今夜はブギー・バック」(1994年発表)のジャケとミュージックビデオをディレクションしたのも川勝だった。ついでに言うなら、SAKEROCKのメンバーとして活動していた星野源の才能にいち早く目を向けたのも川勝だ。星野は川勝からの影響を公言しており、のちに国民的ポップスターとなった彼の5thアルバムに付けられた「POP VIRUS」というタイトルがそれを表している。そして、「なんてったってアイドル」だった小泉今日子。彼女が大人へのステップを踏み出した80年代末、彼女のブレーンの1人だったのも川勝だ。彼は国民的アイドルと最先端のポップカルチャーをつなぐ役割を果たした。
“パンパース・コイズミ”
「TOKYO FMの番組『KOIZUMI IN MOTION』(1989~91年放送)の構成を川勝さんがやってくれたのが大きかった。そこで、高木完ちゃん、藤原ヒロシくん、いとうせいこうさん、スチャダラくんたち、そういった人たちを川勝さんが紹介してくれて仲よくなって。そうすると、みんなが新しい音楽の話やカルチャーの話を教えてくれて、それに私もどんどん感化されていって。当時、“パンパース・コイズミ”っていうキャッチフレーズを考えてくれたの、川勝さんが。私がどんどん吸収するっていう意味でね(笑)」
スーパーアイドル・キョンキョンにそんなキャッチフレーズを付けるとは。ちなみに同時期、川勝は雑誌「宝島」で小泉の連載企画「K-iD」を編集。イギリスのカルチャー誌「i-D」にオマージュを捧げたものだが、それにちなんだコンサートのパンフレットも作っている。アートディレクションは安齋肇。内容に凝りすぎたため、コンサート初日に間に合わなかったという伝説も。
「間に合わなかった事件、覚えてる(笑)。厚木が初日だった気がするんだなあ。あのときのグッズは、渡辺俊美くん(TOKYO No.1 SOUL SET)が担当してくれたんです。俊美くんは当時、セルロイドっていうお店をラフォーレ原宿でやっていて。でも、俊美くんが発注したグッズはアジアの国からちゃんと届いたのに一番売れなきゃいけないパンフが届かない!って(笑)」
川勝曰く、後に「i-D」の創始者テリー・ジョーンズは「K-iD」を見てたいそう喜んでくれた、とのこと。そしてそれは「裏小泉」(1992年刊)というビジュアル本に発展している。
渋谷系の人たちと知り合いになれたのも川勝さんがいたから
川勝正幸と小泉今日子の最初の出会いは、アルバム「KOIZUMI IN THE HOUSE」(1989年発表)であった。近田春夫が楽曲のほとんどをプロデュースした本作はクラブミュージックに傾倒したアルバムで、川勝はプロモーションのブレーンとして参加。「お茶の間にハウスを」というコピーを考えたのが川勝だ。しかし、そもそも「近田春夫にアルバムを」という発想はどこから来たのかといえば、それはコイズミ発だったというから彼女らしい。
「『次のアルバムどうする?』って聞かれたときに、私は前から近田さんが好きだったので、『近田春夫さん、どうですか?』って言ったら、担当ディレクターが連絡してくれて。中学生の頃、近田さんがプロデュースしたジューシィ・フルーツの『ジェニーはご機嫌ななめ』が好きだったんです。曲もテクノポップでかわいくて、ボーカルのイリアさんに憧れてピンクのデップローションを買っちゃうぐらい大好きだった。のちにカバーしたりもしたんです」
若い世代のために少々補足しておくと、“ピンクのデップローション”は、当時のニューウェイブ族には欠かせないアイテム。ショートヘアをツンツンさせるための整髪剤で、ロカビリー族やパンクスも愛用していた
「で、近田さんと会ったのは、表参道のモリハナエビルのカフェ・花水木。近田さん、会うなり言ったの。『最初に断っておくけど、俺、今ハウスだから』って(笑)。それで『Fade Out』というハウスの曲を作ってくれて。当時テレビの歌番組とかツアーで歌うと、みんなの目がテンになる。『付いてきて、みんなー』って思いながら歌っていたのはよく覚えてます(笑)。でも、それまでのファンには目がテンだけど、また別の人たちが聴けば『この曲、カッコいい!』と思ってくれる。当時、DJの人がよくかけてくれたんです。だから、あそこで近田さんが舵を大きくグイッと切ってくれたことはホントに大きかった。あのとき『アイドルなんだからポップスでいきましょう』って近田さんが言ったら今の私はいない。ハウスだったからこそ、ポップカルチャーの目利きの川勝さんに出会えたのだし、川勝さんを通していろんな人と出会うことができた。世界がポンと開けたんです。視野が広がった。世界は1つじゃないんだなって」
若い世代のためにもう1つ補足しておくと、小泉今日子は1982年にアイドル歌手としてデビュー。同期は、中森明菜、松本伊代、早見優、堀ちえみといったアイドルたちが勢ぞろいする“花の82年組”だ。デビューしたときは、当時のアイドルが全員そうだったように、彼女の髪型も“聖子ちゃんカット”だった。しかし、5作目のシングル「まっ赤な女の子」でショートカットにしてイメージチェンジ。そこでブレイクを果たす。しかしこのショートカット、大人たちに言われたからではなく、事務所にも言わず勝手に切ったというから面白い。以降、彼女は自分自身のことを「コイズミ」と呼び、ひらひらフワフワではない、確固たる自分を持つアイドルという、それまでにはなかったトンガった立ち位置を得て、ファッションアイコンになっていった。当時のマネージャーやレコード会社のディレクターなど、「寛容な大人たち」に巡り会えた幸運もあったが、彼女にはそもそも鋭い勘が備わっている。セルフプロデュース能力が高いのだ。だからこそ、近田春夫を指名したのだし、川勝正幸に出会うこともできたのだ。ちなみに、川勝は学生時代の頃から近田春夫の“おっかけ”。近田のラジオ番組を熱心に聴き、録音し、ハガキもせっせと送っていた。“好き”が高じてやがてそれが仕事になってしまう人が稀にいるが、川勝はそういうタイプの人間だった。ウイルスに罹患し、熱にうなされ、中毒者になる。「ポップ中毒者」というフレーズも川勝自身があみ出した言葉だが、ズバリ自分のことを言い当てている。
「もともと、音楽や映画やファッションや、いわゆるメジャーフィールドではない、サブカルチャー、ポップカルチャーといったものに興味はあったんです。でも、私の中ではそれぞれ点でしか存在してなかった。ポツポツと気になるものが点在している感じ。それを川勝さんが、『これとこれはこうだよ』『これが好きならこういうのがあるよ』って太い線としてつなげてくれた。そういう存在だったんです。『KOIZUMI IN MOTION』のライブイベントをやったときは、まだDJ DRAGONがいたときの4人編成時代のソウルセットとか、GONTITIさんとか、スカパラとか、そういう人たちを呼んできてくれたし、ORIGINAL LOVEの田島貴男くんとかフリッパーズ・ギターとか、渋谷系の人たちと知り合いになれたのも川勝さんがいたからだったんです」
川勝さんが作った映画パンフはモノとしてもかわいい
ところで、渋谷系は音楽を中心とした“古今東西のポップなものを掘り起こすカルチャームーブメント”だったわけだが、その中の1つにミニシアターブームというものがあった。60~70年代の映画のリバイバルや、非ハリウッドのインディーズ映画やヨーロッパ映画の上映が小さな映画館で盛んに行われていた。川勝はそういった映画のパンフレットをよく手がけていた。いわゆる大判のカタログのようなパンフではなく、女子のバッグに入る小さめサイズで、装丁に凝り、解説やコメントもいわゆる映画評論家だけのものにしないという、マニアックなこだわりと編集の妙が冴えるパンフレットだ。川勝は、そこに小泉を登場させることがたびたびあった。90年代を経て、アイドルから女優へと進化した彼女に新たなる魅力を感じていたからだろう。
「映画のパンフでコメントしたり、トークショーにもよく呼んでもらった。ポール・トーマス・アンダーソンの『パンチドランク・ラブ』(2003年公開)のときは、私と(ソウルセットの)BIKKEが“ヨッパライ代表”(笑)で登場したし、ウディ・アレンの『ギター弾きの恋』(2001年公開)のときは、エドツワキくんと原宿の小さなスペースでトークした。北野武監督の『座頭市』(2003年公開)のパンフでも私とたけしさんの思い出を語ったり。とにかく、私が興味を持ちそうだと思う映画は必ず声をかけてくれたんです。川勝さんが作ったパンフでは、『バーバレラ』(1993年リバイバル上映)がすごく好き。絵本みたいになっていて、モノとしてもすごくかわいいんです」
川勝さんに最後に会ったのは……
そして、2012年1月31日。川勝正幸は事故で急逝。小泉はドラマの撮影中にそのニュースを知ったという。
「『最後から二番目の恋』というドラマを撮影していて、渡辺真起子と一緒だった。真起が、『キョンちゃん大変! 川勝さんが!』って。もう、何も言葉が出なかったし、何も考えられなかった。真起もファミリーだったから(渡辺真起子はモデル時代にThe Orchidsというヒップホップユニットを結成。高木完プロデュースでアルバムも発表した)、2人でもう呆然としちゃって……。たぶん川勝さんに最後に会ったのは、その前の年の夏頃だったと思う。8月の終わり。藤原ヒロシくんとYO-KINGさんがAOEQというユニットでライブをやったとき。私は川辺ヒロシくんと一緒に観に行って、川勝さんとバッタリ会った。そのとき、ゆらゆら帝国の『空洞です』を藤原ヒロシくんと川辺ヒロシくんのユニット・HIROSHI II HIROSHIと一緒にカバーした音が上がったばっかりで(2011年に発売されたナタリーと映画「モテキ」のコラボによるコンセプトアルバム「モテキ的音楽のススメ COVERS FOR MTK LOVERS盤」に収録。2017年に12inchアナログで発売)、そのサンプル盤を渡したと思う。川勝さん、ニコニコしながら『聴いてみますね』って言ってたのをよく覚えてるんです」
みんなで束になれば川勝さんになれると思う
当たり前だが、川勝さんはその後、コイズミさんが出演した話題作をことごとく観ていない。「あまちゃん」(2013年放送)を観ていないし、「監獄のお姫さま」(2017年放送)も観ていない。「いだてん」(2019年放送)も観ていない。というか、そもそも配信が当たり前の世の中になる直前だったのでNetflixを知らないし、大好きだったポン・ジュノが「パラサイト 半地下の家族」でアカデミー賞を取ったことも知らない。そしてもちろん、今現在のコイズミさんを知らない。彼女がプロデュースした舞台や映画も観ていないのだ。
「時が経ってみると、『うっかり死んでるんじゃないよ!』って腹立たしく思ってきますよね。『バカ! もったいない!』って」
こんなことを言っても詮無いことだが、川勝さんに彼女の「プロデューサー・コイズミ」論を「TV Bros.」で書いてもらいたかったし(川勝は「TV Bros.」で1987年から2012年までコラム連載を執筆)、今の彼女にキャッチフレーズを付けてもらいたかった。そして、ふと思う。もしかしたら今のコイズミさんは、昔川勝さんが彼女にそうしたように、人と人をつなぐ仕事をしているのではないだろうかと。
「私は今まで、川勝さんはもちろん、レーベルの人たちやクリエイターの人たち、ミュージシャン、演出家、映画監督、いろんな人たちの中で育てられてきたし、みんなに『こっちだよ』って道しるべを与えられてここまで来たんです。私、パンパースではあるけど、絹のおむつじゃないんですよ(笑)。もともと歌も上手じゃないし、容姿も平凡、この中途半端さだからこそ面白いことができたと思っていて。もっと私に歌唱力があったなら、私の世界はこんなに広がらなかった。得意な歌が求められたはずだから。でも、そうじゃなかったから、近田さんも『ハウスやろうよ』って気軽に言ったんだと思う。『五木ひろしみたいに歌ってよ』って(笑)。そのお題に答えることがきっと楽しかったんだと思います。そういう中に川勝さんもいて、そのお題に答えていく私を説明する言葉をいつも考えてくれていた。つないでくれていたんです。受け取る人と私の間でね」
そして、“オモテ”ではなく“ウラ”のコイズミを引き出し、小泉今日子の魅力をさらに倍増させたのも川勝だった。
「だから、私もそうありたいなって。おこがましいかもしれないけれど、『こっちこっち』って教えてあげたいんです。『こっち面白いよ!』って。そうやって教えてあげることで誰かの心の世界が広くなるのを見たい、というのがあるんです。私のことを好きになってくれるより、『キョンキョン、教えてくれてありがとう!』って言われるほうがずっとうれしい。『わかってくれた? いいでしょ?』って。仲間が欲しいんだと思うんです。自分のファンじゃなくてね。常にそういう感覚があるんです。川勝さんもきっとそうだったと思う」
その通りだ。川勝さんがアンテナを張り巡らせ続けたのは、自身の視座をズラし、刺激を与えてくれる存在に巡り会うためではあったけれど、玉石混淆のポップカルチャーの海の中から、「これが面白い」「見逃すな」というサインを周囲に教えるガイド役でもあったからだ。それが結果として、渋谷系と呼ばれたカルチャームーブメントを牽引する力にもなった、と思う。以前、スチャダラパーの3人は、「渋谷系とは何だったか?」という問いに、こんなふうに答えたことがある。「それはつまり、“川勝さんそのもの”ということでしょ」と。
「それを体現していた人だった。だからこそ、川勝さんが亡くなったことで、カルチャーの“目利き”がいなくなってしまった。川勝さんのような人はもう出てこないし、私はもちろん、誰も川勝さんの代わりなんてできないんです。でも、私も含めて、川勝さんのポップウイルスを受け継いでる人たちはたくさんいる。そして、受け継いだ細胞は生き続けていく。受け継いだ人たちが、それぞれの場所で、道しるべを立てることができればいいんじゃないかなって。みんなで束になれば川勝さんになれると思う。だから、私は、演劇や映画をプロデュースすることでそれができればいいのかなと思ってる。そしてその細胞がそれぞれの場所でどんどん分裂を繰り返していけば、日本全体がポップウイルスで満たされて、やがて空気のようなものになっていく。そんな世界になるんじゃないかなって、夢みたいなことを考えているんです」
川勝さんの凝り方はハンパなかった
実はコイズミさん、本の編集にもこっそり関わったことがあるという。2018年に発売されたムック本「脚本家 坂元裕二」だ。クレジットに彼女の名前はないが、企画から関わったというから面白い。
「私が言い出しっぺなんです。『坂元さんのことをまとめた本を出したほうがいいんじゃない?』って。そうしたら、満島ひかりさんもそういったものを作るのが好きだから、私もやりたいと手伝ってくれて。編集の人はもちろんちゃんといるから、私たちはこんな内容がいいとアイデアを出したり、写真をチェックしたり、どんな版型でどんなデザインでどんな手触りの本がいいと口出しするだけだったけれど、川勝さんだったらきっとこんなアイデアを出すだろうなって思いながらやってたんです。でね、本の最後にドラマ『カルテット』の架空のチケットを付けたんです。川勝さんがこういった本やパンフを作るときの凝り方ってハンパなかったじゃない。私のパンフを作ってくれたときも、『コイズミは<地下鉄のザジ>の監督のオファーを断った』みたいなフェイク記事を書いてくれたんだけど、それを信じた人が続出して(笑)。だから、川勝さんなら、絶対こういうオマケを付けると思ったんです。これも川勝イズムの遺伝子が入ってるからなんですよね」
コイズミさんの話を聞いていて、ふと「ミーム(meme)」という言葉を思い出した。生物学者リチャード・ドーキンスによる造語で、人から人へと伝播し、増殖していく文化的遺伝子のことなのだが、それは川勝さんのお気に入りの言葉だった。そう、川勝正幸が伝えた「ミーム」は、まさにコイズミさんが言う通りで、「ものの考え方」なのだと思う。それはつまり“ポップの軸”をどこに置くのか、ということ。だからこそ彼女は、2020年のコロナの時代に殿山泰司のエッセイを朗読する舞台をプロデュースし、本多劇場をクラブ化したのだろうと思う。
私は思い出がいっぱいあるから大丈夫だよ
今夏、下北沢の古書店「BSE」で川勝正幸の蔵書を販売するコーナーができた。オープン初日、コイズミさんは行列に並んだという。
「ちょうど下北沢で用事があったから寄ってみたら、たくさんの人が並んでいて。狭いお店だし、コロナのこともあるから入店制限をしていたんです。1、2人ずつお店に入って。で、私の前には、スーツを着たサラリーマン風の同世代の男性が並んでいたんです。彼は最初から私に気付いていたみたいなんだけど、ずっと知らん顔をしてくれていて。たぶん、川勝さんのことが大好きな人だったんでしょうね。彼がいっぱい本を抱えて出てきたんです。私が入れ違いにお店に入ったら、『僕、いっぱい取っちゃったから、もしこの中から欲しいものがあったら』って言ってくれたんです。私は『大丈夫、大丈夫。ホントに好きな人が持ってたほうがいいから』って辞退して(笑)。ああ、川勝さんの言葉を指針にしていた人ってたくさんいたんだなって改めて思ったんです。そういう人が川勝さんの本を持っててくれるといいなって。だから私は川勝さんの本を買わなかった。私はその人にね、『私は思い出がいっぱいあるから大丈夫だよ』ってカッコいいこと言っちゃったんです(笑)」