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カジヒデキ“空白の1年”を振り返る|デビュー連載(後編)

カジヒデキ
21分前2026年08月06日 10:04

音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く連載「あの人に聞くデビューの話」。前回に引き続き、カジヒデキをゲストに迎えてお届けする。後編となる今回はbridge解散以降、ソロデビューに至るまでの葛藤の日々を中心に振り返ってもらった。

取材・文 / 松永良平 撮影 / 小財美香子

レコード会社の争奪戦を経てメジャーデビュー

──bridgeの活動はわりと早々に軌道に乗ったんですよね。

ありがたいことに、最初からけっこう恵まれていたんです。デビューライブも雑誌「英国音楽」の主催イベントにオープニングアクトみたいな感じで混ぜてもらえましたし。あの時期、海外のバンドをVinyl Japanとか輸入レコード店が呼んで、そのフロントアクトをbridgeがやらせてもらうことが多かったんです。それでお客さんがどんどん増えていきました。当時は瀧見憲司さん(DJ / 音楽プロデューサー)の存在が大きかったですね。瀧見さんがフリッパーズ・ギター周りのバンドを集めて何かやりたいと構想して、Crue-L Recordsというインディーレーベルを立ち上げたんです。その第1弾コンピレーション(「BLOW-UP」1991年)に参加させてもらったことも大きかった。91年になるとバンドもすごくいい感じで活動できていて、メジャーからの誘いもたくさんありました。

──bridgeのデビューは92年11月のシングル「WINDY AFTERNOON」ですよね。すでに91年からメジャーレーベル各社の争奪戦が始まっていた?

最初に声をかけてくれたのは、ビクターで当時若手ディレクターだった富樫くん(富樫陸。のちにSUPERCARや羊文学を手がける)。bridgeをすごく気に入ってくれていました。でも「英語で歌うのはダメ」というレーベル側の判断があった。僕らは英語詞にこだわっていたので、結局ビクターからデビューする話はなくなりました。そのあとソニーからも話が来たんですが、やっぱり英語詞の問題で折り合いがつかず。その頃、ポリスター内に小山田(圭吾)くんが主宰するトラットリアレコードができたんです。僕らの近くで活動していたVENUS PETERのデビューが決まったので、次はbridgeが呼ばれるかなと思っていたんですけど、なかなか呼ばれなくて(笑)。

──じらされますね(笑)。

そしたら、今度はミディのディレクター、渡邊さん(渡邊文武。のちにサニーデイ・サービスを手がける)が声をかけてくれたんです。英語詞もOKで、一旦はミディで決まりそうな感じだったんですけど、そのタイミングでようやくトラットリアから話が来た。そしたらメンバー全員、満場一致で「トラットリアでやります」となりました(笑)。「Fab Gear」(1990年)と「bend it! -Fab Gear II-」(1992年)という小山田くん監修のコンピレーションに参加していたし、やっぱりデビューするならトラットリアがよかった。

──それにしても、のちに新しい音楽シーンを作っていく重要人物の皆さんが、bridgeに目を付けていたんですね。

これは裏話というか、当時ミディにはElectric Glass Balloonが所属していたんですけど、渡邊さんと杉浦(英治 / Vo,G)くんから「相談したいことがあるから会えないか」と連絡が来て、下北沢の喫茶店で会ったんです。その相談は「エレグラにベーシストとして入らないか」という勧誘で。

──なんと!

エレグラからベースが抜けちゃったタイミングだったのかな? 杉浦くんに「僕とカジくんだったら、レノン=マッカートニーみたいになれるから」って、すごく熱心に誘ってもらいました。僕自身、まだそれほど作曲に自信はなかったし、ちょうどbridgeでメジャーデビューに向けてレコーディングを始めた頃だったので、丁重にお断りして。でも……今だから言えますけど、一瞬心が揺らぎました(笑)。エレグラもすごくカッコよかったので。

ネオアコブームに半年乗り遅れる

──でも、カジさんはbridgeを選んだ。だからこその今があるというか。

ただ、bridgeのデビューアルバム「Spring Hill Fair」(1993年3月)は、すごくレコーディングに時間がかかってしまったんです。当時、トラットリアを統括していた牧村(憲一)さんに「2つ方法がある」って言われました。1つは大きくていいスタジオで短期間で作る。当時はみんな仕事を別に持ってたけど、それを休んで一気に集中して作るというやり方ですね。もう1つは、仕事をやりながら、ちっちゃなスタジオでゆっくり自分たちのペースで作るというやり方。レコーディングは仕事から帰ってきて夜だけにするとか。僕自身は短期間でやったほうがいいんじゃないかと思っていましたけど、バンドとしては後者を選んで、すごくゆっくりレコーディングしていくことになりました。急いで作ったら92年のうちにデビューアルバムを出せたかもしれないんですけどね。結局、翌年の3月リリースになったんですけど、当時、HMVの邦楽バイヤーだった太田(浩)さんから「あと半年早ければよかったのに。ネオアコブームが落ち着いたタイミングでこういうアルバム出しても売れないよ!」と言われました(笑)。

──厳しい現場の声! カジさんにもその実感はありました?

当時は渋谷系に向かう“プレ渋谷系”みたいな時期で、音楽好きな人たちの間で目まぐるしく流行りが移り変わっていたんです。フリーソウルやアシッドジャズが盛り上がっていた反面、ネオアコが徐々に忘れ去られる存在になりだしていたというか。

──bridgeは94年7月に2ndアルバム「PREPPY KICKS」を出して、翌95年には解散してしまいます。

ボーカルの大友さんがバンドを脱退したいと言ったのが解散への最初の引き金でした。しかも、けっこう早い段階で脱退発言があって。93年7月に「PAPER BIKINI YA-YA」という4曲入りのEPを作ったんですけど、そこからbridgeは日本語詞でやることにしたんですよ。大友さんはそれがちょっと嫌で、もっと純粋なインディーポップがやりたかったんだと思うんです。でも、僕らとしてはまだ1枚しかアルバムを出してないし、もうちょっとがんばろうよと思ってました。当時、僕らのディレクターだった桶田(賢一。RCサクセションの初期メンバー・破廉ケンチ)さんも大友さんを説得してくれて、みんなが納得するいいタイミングで解散しようということになったんです。

──つまり、デビューアルバムが出た年に、すでに解散を前提とした話をしていたということですか。

解散の話が出てから2年ぐらいはバンドが続いたんです。2ndアルバムも出したし、その後にbridge監修のコンピレーションアルバムも作った。それで95年の夏に解散したんです。遅かれ早かれ解散するという気持ちがみんなの中にあったので、2ndアルバムのレコーディングは、メンバーがそれぞれの個性を出そうとしてる感じがすごくありましたね。みんな自分の曲は自分でプロデュースするみたいな感じになっちゃって。僕も自分が作った3曲は自らイニシアチブを取りました。僕自身、解散に向けて、自分でボーカルを取るバンドを組んで下北沢SLITSでライブやってみたり、次に向けた準備をしていましたね。本当はbridgeをもっと長く続けたいと思っていたんですけど。

──解散する頃には、自然とカジさんがバンドの中心メンバーのように見えていました。

bridgeは、もともとリーダーを決めていないバンドだったんです。みんな平等。取材のときだけ、6人で稼働するのは大変なので、僕だけとか、僕と大友さんが代表でインタビューを受けることが多かった。だから、わりとスポークスマン的な感じの立場ではあったんですけど。

ソロデビューに向けてとんとん拍子で話が進むも…

──ソロアーティストとしては、どういうことをしようと思っていましたか?

ありがたいことに、bridgeが解散する頃にはトラットリアから「ソロ作品を出さないか?」という話をもらっていたんです。だから、なんとなくソロでやることは決まっていた。bridgeの解散ライブを95年6月に原宿クロコダイルでやったんですけど、その翌日に、雑誌「米国音楽」が企画した「カジくんと行くスウェディッシュ・ポップ・ブリーズ・ツアー」というツアーに出発しました。20人ぐらいでタンバリンスタジオに見学に行ったり、The Cardigansが僕らのためにやってくれたスタジオライブを楽しんだり、彼らが「Roskilde」というデンマークのフェスに出演するので、みんなで観に行ったり。そのツアーが終わってみんなが帰ったあとも、僕だけ2週間くらいスウェーデンに滞在して、タンバリンスタジオでEggstoneのメンバーと毎日のように交流していたんです。そうしたら「ヒデキのアルバムをスウェーデンで作ろう!」という話になって。

──とんとん拍子じゃないですか。

レコーディングはタンバリンスタジオでやりたいという話をプロデューサーのトーレ・ヨハンソンにしたら、「12月にやろう!」と言って、黒板に「HIDEKI」と書き込んでくれて。それで意気揚々とスウェーデンから帰ってきたんです。ソロを始めるにあたっては、名前も「カジヒデキ」じゃなくって、それこそ「Cornelius」みたいに何か名前を付けたほうがいいんじゃないかと思ってたから、「カジップルズ」とか、いろんな名前を考えたりして。レコーディングも決まったし、これから曲をガンガン書いてソロでがんばっていこうという気持ちになっていたんですけど……。

──え? 今、いい話しかなかったですけど?

日本に帰ってきて、最初に数曲書いてみたんです。それはネオアコっぽかったり、スウェディッシュポップみたいな感じの曲でした。でも、いざ1人になったら、何をどうすればいいのかがわからなくなってきて。バンドだったらスタジオに入って、みんなでセッションとかすればいい形が見えてくるけど、そういう人も周りにいない。そこから全然曲が書けなくなったんですよ。どんどん悩みが進行して、95年の年末くらいには、もう「誰にも会いたくない」みたいな感じになってしまったんです。

──本来ならスウェーデンでレコーディングしてるはずの12月に引きこもり!

そうなんです。その間に原田知世さんがタンバリンスタジオでレコーディングすることになり、原田さんに先を越されました(笑)。

──原田さんのアルバム「clover」(1996年リリース。収録曲の半分をトーレ・ヨハンソン、もう半分を鈴木慶一プロデュースのもと制作した)のレコーディングですね。

本当に「どうしよう……」っていうくらい悩んでいましたね。年が明けてからも、トラットリアのディレクターやマネージャーとは月1でミーティングをしていたんですけど、ものすごく悶々としていて、いつも「僕はどうしたらいいですかね……」という感じでした。

誰にも会いたくなくてマンションの屋上に脱走

──帰国後から半年以上、悩まれていたんですね。

よく覚えてることがあるんです。当時、僕は世田谷代田に住んでいたんですけど、そのマンションに小山田くんや瀧見さんなど、いろんな友達が10人くらい大勢でよく遊びに来て、みんなで一緒にレコードを聴いたりしていたんです。でも、あるとき「今からカジくんちに行ってもいい?」って電話がかかってきたとき、思わず「イヤだよ」って断っちゃったんですよ(笑)。「いやいや、本当に来なくていいから!」と言ったんだけど、みんなマンションまで来てしまって。でも僕は本当に誰にも会いたくなかったんで屋上に逃げました(笑)。

──なんと脱走!

屋上から下を覗いてみたら、みんながマンションの下に集まっている。そのシーンを今もすごく覚えています。それくらい誰にも会いたくなかったんでしょうね。何をやってもハッピーな気持ちになれなかったし、自分が苦しんでいる姿を友達に見せたくなかった。みんな優しいから「カジくん、こうしたらいいんじゃん?」とか、きっといいアドバイスをしてくれたと思うんですけど、あの頃の僕は、そういう言葉にも答えられないくらい気持ちが落ち込んでいた。

──本当にヘビーな時期だったんですね。

自分がソロでフロントに立って歌うというのは憧れでもあった。でも、いざ1人になったら怖くなっちゃったんですかね。

──マネージャーさんによると「AORをやろうと思うんだけど」と突然相談されたこともあったそうですね。頭の中でアイデアがぐるぐる迷走していたんでしょうか。

そうそう。仲のいい鍵盤奏者の高野勲くんがAOR好きだったんで、彼に影響されて一時期AORのレコードをたくさん買ってましたね。素直にスウェディッシュポップに行けばよかったのに(笑)。自分が進むべき方向に、本当に悩んでいました。ギターポップの流行は終わっていたし、Corneliusも「69/96」(1995年)みたいな面白い作品を作っていたし、一方ではデス渋谷系みたいなムーブメントも盛り上がっていた。その中で自分はどういう音楽をやっていくべきか悩んで、迷い道に入ってしまったんです。でも、最終的には「やっぱりギターポップでいいじゃん」って思うようになったんですけど。

──そう思えたきっかけは?

96年の初めに、広末涼子さんが出演したNTTドコモのポケベルのCMソングのオファーが来たんです。僕はまだソロ活動をスタートしていなかったんですけど、小山田くんがCMソングの話を僕に振ってくれていたと、あとで知りました。「ネオアコとかスウェディッシュポップみたいな曲をお願いします」という依頼だったので、「そういう曲を僕は今書けないけど、カジくんなら書けると思いますよ」とパスしてくれたみたいで。それで、CM用に書き上げたのが、のちに「マスカット」になる曲だったんです。

──それは光明になりますね。

はい、大きかったです。そのCMソングがオンエアされると、今度はキユーピーマヨネーズのCMソングの話をいただいて。そっちも「スウェディッシュポップみたいな曲でお願いします」という依頼だったから、スウェーデンから帰国してすぐに書いていたうちの1曲を気に入っていたので、それをプレゼンしました。先方にもすごく気に入ってもらえて、それがのちに「君のハートのナチュラル」という曲になります。そこからまた、どんどんCMソングの話が来るようになって、「やっぱりギターポップでいいじゃん」って自分でも思えるようになったんです。こういう音楽を求めてくれる人がいるということがわかったから。

紆余曲折を経て、ついに実現したスウェーデン録音

──カジさんのソロ活動では、歌詞の突き抜け具合も印象的でした。

歌詞については、やっぱりフリッパーズ・ギターの2人が大きな存在でした。Corneliusも小沢健二くんの音楽もすごく大好きだし、やっぱり2人がやっていることはいつも気にしていたので影響も受けてきました。でも、Corneliusと同じことをやってもCorneliusよりは売れないだろうし、どこかに自分らしさがないとなと思ったときに……スピッツのよさに気が付いたんです。「空も飛べるはず」「ロビンソン」とか。「スピッツって、UKのネオアコとかギターポップの持つあの感じを、日本語で一番うまく表現できてるバンドなんじゃないか」と思うようになったんです。

──その気付きがカジさんの作詞にもつながった。

草野マサムネくんの歌詞はストレートなよさに、ちょっといろいろツイストしてる部分もあってすごくいいなと思いました。自分も結局UKロックが好きなわけだし、ああいう感じの音楽を本当はやりたいんじゃないかなと。ソロ1stアルバムの「MINI SKIRT」(1997年1月)を作るときは、スピッツからの影響がすごくありました。あとは大滝詠一さんの「A LONG VACATION」みたいなカラッとしたポップスアルバムを作りたいという気持ちもありました。

──「ロンバケ」も、大滝さんにとって70年代ずっとナイアガラ・レーベルで好き勝手にやってきた路線が頓挫して、1年間ぐらい沈黙してからの大転換、大成功ですもんね。そこの突き抜け方も通じているかもしれないです。

そうですね。実際はソロデビューEP「マスカットe.p.」(1996年8月)をレコーディングした頃も、まだ引き続き悶々としていたんですけど。

──そこの乗り越えは、まだ簡単じゃなかった(笑)。

「これでいいのかな?」「こんな曲がウケるのかな?」ってすごく不安でした。でも、堀江(博久)くんが全曲でキーボードを弾いてくれることになったのが、すごくよかったんです。強い味方が現れた感じがした。で、その後、「MINI SKIRT」のレコーディングのためにタンバリンスタジオに行ったんです。

──ようやく(笑)。

ようやくです。レコーディングが始まったのは96年の9月でしたね。Eggstoneのメンバーに自分が持っていったデモを聴いてもらって、バンドでセッションして。そのときに、何かすごく「見えた」感じがした。そのセッションを2週間やって、1回日本に帰って国内で2週間録って、またスウェーデンに戻ってトーレ・ヨハンソンとのセッションがあって。ついに「これだ!」という手応えをつかんだんです。

──堀江さんやEggstoneやトーレが、「すごくいいよね」とか、言葉にして伝えてくれたことも大きかったのかもしれませんね。

僕はEggstoneが本当に大好きだったんです。渋谷のレコード店、ZESTでバイトしていた時期に、彼らのレコードが新入荷して、初めて聴いたときに「あ、これが自分のやりたいことだ」って思いました。やっとそのバンドと一緒にレコーディングできることになった。それが本当に幸せで。みんな性格もよかったし、才能もすごくあったし、決してすごく演奏がうまいわけじゃないんだけど、アイデアがすごくいいし、僕がやりたいことをどんどん一緒に具現化してくれる。トーレの場合は、僕が作った曲をアレンジとかミックスの仕方で自分では思ってもいなかった方向に持っていってくれました。やっぱりThe Cardigansをあれだけ売った人だけあるなと思います。

ジョナサン・リッチマンのような存在になりたい

──今年はソロデビュー30周年です。やっぱりデビュー前後に感じたことや経験したことが、その後の活動につながった部分も絶対にありますよね。

そうですね。自分がソロアーティストになるときに、「この人たちとやりたい」と思った人たちと1stアルバムを作ることができた。その人たちのことがすごく僕は好きなんです。一緒にやってない時期があったりしても、やっぱりずっと堀江くんやEggstoneに助けられてきた感じはすごくする。小山田くんもそう。あのときみんながいてくれたから、30年も続けられたのかなという気がすごくします。

──長年のファンだけでなく、「カジヒデキ」というキャラクターの持続性にびっくりしてる人も多いと思います。もはやジョナサン・リッチマン(75歳)とかポール・マッカートニー(83歳)に匹敵するような永遠に不変のキャラクター!

いやあ……僕なんか、どこかで「やめる」と言ってしまえばそれで終わりという感じの活動だったと思うんです。しつこかっただけなのかもしれない(笑)。でも、こうやって活動を続けてくることができたのは、みんなのおかげです。本当にいい友達を持ったなと思います。そして、そうですね、ジョナサン・リッチマンのような存在になりたいなと本当に思いますね。

プロフィール

カジヒデキ

1967年千葉県出身のシンガーソングライター。1989年結成のバンド・bridgeでベースを担当し、1993年3月に1stアルバム「Spring Hill Fair」をリリース。1995年のバンド解散を経て、1996年8月に「マスカットe.p.」でソロデビューを果たす。そのポップな音楽性とキャラクターが幅広い支持を受け、一躍“渋谷系”シーンの中心的存在に。また2008年公開の映画「デトロイト・メタル・シティ」に提供した「甘い恋人」はスマッシュヒットを記録した。2012年3月に自身のレーベル「BLUE BOYS CLUB」を立ち上げ、以降コンスタントにアルバムを発表。最新アルバムは2024年発表の「BEING PURE AT HEART~ありのままでいいんじゃない」。2026年8月24日に、カヒミ・カリィ、小西康陽(DJ)をゲストに迎え、ソロデビュー30周年を記念したワンマンライブ「MY FAVOURITE BLUE~カジヒデキ、ネオアコを歌う。」を東京・渋谷 CLUB QUATTROにて、10月1日にはソロデビュー30周年記念ライブ第2弾「カジヒデキ、渋谷系を歌う」をビルボードライブ東京にて行う。

ライブ情報

「MY FAVOURITE BLUE ~ カジヒデキ、ネオアコを歌う。」

2026年8月24日(月)東京都 渋谷CLUB QUATTRO
<出演者>
カジヒデキ
バンドメンバー:イケミズマユミ(ex. bridge、three berry icecream) / アイコ(advantage Lucy) / 奥田健介(NONA REEVES) / 熊谷慶知(cambelle) / 原GEN秀樹 / 國見智子(Wack Wack Rhythm Band)
ゲスト : カヒミ・カリィ / 小西康陽(DJ)

カジヒデキ ソロデビュー30周年記念ライブ 第2弾「カジヒデキ、渋谷系を歌う」

2026年10月1日(木)東京都 ビルボードライブ東京
[1stステージ]OPEN 16:30 / START 17:30
[2ndステージ]OPEN 19:30 / START 20:30
<出演者>
カジヒデキ
バンドメンバー:堀江博久(Key)/ 牛尾健太(G)/ 原GEN秀樹(Dr)/ 勝原大策(B)
ゲスト:野宮真貴
DJ:橋本徹(SUBURBIA)

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