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渋谷系を掘り下げる Vol.5 “裏番”會田茂一が語るアナザーストーリー

會田茂一
6年近く前2019年12月19日 10:04

1990年代に日本の音楽シーンで起きた“渋谷系”ムーブメントを複数の記事で多角的に掘り下げていく本連載。第5回は、木村カエラをはじめとする数多くのアーティストへの楽曲提供やプロデュースを手がけるギタリスト、會田茂一へのインタビューを掲載する。かつて“渋谷系の裏番”の異名を取った2人組がいた。柚木隆一郎と會田によって結成されたEL-MALO(エルマロ)のことだ。1993年にメジャーデビューを果たし、小山田圭吾をプロデューサーに迎えたアルバムで注目を集めることになった彼らは、なぜ“裏番”と呼ばれるようになったのだろうか。渋谷系前夜にバンド活動をスタートし、ロックシーンが変容してゆく怒濤の90年代を駆け抜けたアイゴンこと會田は、「あの頃はどこからもはみ出そうとしていた」と振り返る。その反骨精神と天の邪鬼ぶりはEL-MALOの一筋縄ではいかない面白さでもあった。ここでは彼の音楽的変遷と人脈をたどりながら、混沌と乱調の中で新たな価値観を見つけようとしていたアイゴンの視点から見た渋谷系のアナザーストーリーをお届けしたい。

モッズ~ネオGSシーンとの出会い

──會田さんのミュージシャンとしてのキャリアはいつから、どのように始まったのでしょうか?

僕は高校時代にTHE BARRETTというバンドにいて、新宿LOFTに出たり、「YAMAHA EAST WEST 86'」のジュニア部門のグランプリとベストギタリスト賞をもらったりしたんですが、好きな音楽がMUTE BEATや「TOKYO SOY SOURCE」(JAGATARAやMUTE BEAT、TOMATOS、s-ken & hot bombomsらが出演していたライブイベント)周辺に変わってきたこともあり、大学1年のときにやめちゃったんです。ちなみに僕がやめたあとにギタリストとして加入したのが現The Birthdayのフジイケンジ(藤井謙二)くんでした。で、その頃から僕は、お茶の水の楽器店で知り合ったTHE COLLECTORSの(古市)コータローくんとのつながりでネオGS界隈に出入りするようになったんです。

──かといって東京モッズ~ネオGSシーンにどっぷりというわけではなかった?

そうなんですよ。その中にはGREAT3の片寄(明人)くんもいたし、モッズの音楽もファッションも好きでしたけど、僕はもっとユルかったから、その時点でもう道を外れていたとも言えるんですよね(笑)。それにネオGSの中核をなすバンドは僕より少し上の世代で、ワウ・ワウ・ヒッピーズにいた(高桑)圭くんなんて、すごく年上だと思っていたら、1歳しか違わなかったとあとでわかるんですけどね。ただ、これから音楽をやっていくなら、今までのロックバンドとは違う方向に進みたいと思って、メンバーを探したり、いろんなイベントに顔を出したりしていました。コータローくんとの縁で、GO-BANG'Sのオーディションを受けて、そこでプロデューサーだったMUTE BEATの朝本浩文さんに出会うことができたのも大きかった。

──朝本さんがMUTE BEATを経て、Ram Jam Worldを結成する前ですね。

朝本さんには音楽的にもシンパシーを感じていたんですよ。僕もバンド一辺倒から、いろんなジャンルの音楽がどんどん面白くなってきて。あれもやりたい、これもやりたいという欲求が高まっていたんですが、80年代後半は、イカ天・ホコ天の時代で、なかなか同じ志向の仲間を見つけられなくて。大学にはTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTやフィッシュマンズのメンバーも同じ時期にいたみたいなんですけど。のちに仲よくなるウエノ(コウジ)くんや欣ちゃん(茂木欣一)は、キャンパスですれ違っていたような気がしないでもないけど、僕はサークルに入っていなかったし、高校から上がってきたので、なんとなく環境が違ったんですよ。

ギタリストとしてクラブカルチャーに接近

──ようやく仲間を見つけて、自分の目指す音楽で活動するようになったのはLOW IQ 01さんも在籍していたバンド、APOLLO'Sからですか?

そうですね。いっちゃん(LOW IQ 01)とは高校時代から地元の仲間で、APOLLO'SにはのちにGREAT3や小沢健二さんのバックでパーカッション奏者として活躍する高校の同級生のおいちゃん(及川浩志)もいたんです。初めは2トーン系だったんですが、Fishboneの影響もあって、ミクスチャースタイルのバンドになっていった。ライブは代々木チョコレートシティでやることが多かったかな。代チョコには、ヒップホップやレゲエ界隈の人たちも出演していて、エマーソン北村さんがPAをやっていたり、いわゆる邦楽のロックとは違う志向の人たちが集まっていましたね。

──80年代後半から90年代初頭のアンダーグラウンドシーンでは、従来の邦楽とは違う音楽が生まれつつあったと?

そうだと思います。当時はそんな新しい流れの中にいたバンドやアーティストをコンパイルしたアルバムがたくさんリリースされて、APOLLO'Sも「See Ya! MUSICA SERIES#1」(1991年)や「A TRIBUTE TO GODZILLA」(1991年)という作品に参加したんですよ。

──その「A TRIBUTE TO GODZILLA」にはAPOLLO'Sと並んで、すでにEL-MALO with Ska Flames名義での曲も収録されています。

柚木(隆一郎)さんとはもう知り合いだったんですけど、そのアルバムのレコーディングで、レコ社の人が「ゴジラのテーマをスカでやってほしい」的なことを言ったんで、2人で作ったのが最初でした。

──そのコンピのために決めたユニット名がEL-MALOだった?

そうなんです。ただ、僕はAPOLLO'Sから発展したバンド、ACROBAT BUNCHでも活動していたし、Ram Jam WorldやCutemenにも参加していたから、同時期にいろんなところに首を突っ込んでいた感じだったんですよ。どこからがプロかという線引きは微妙ですが、僕の場合は90年頃からなんとなく始まった感じですね。

──バンドをやりつつ、會田さんはセッションギタリストとしてクラブミュージックにも接近していったわけですね。

サンプリング全盛時代に、ギタリストとして呼ばれる機会が増えていったんですよ。朝本さんがプロデュースをしていた縁で電気グルーヴのレコーディングに遊びに行ったり、「Dance 2 Noise 003」(1992年)というコンピに収録された石野卓球さんと渡辺省二郎さんの変名ユニット・Jamaican Zamuraiの曲(「恋のダイヤル0990」)にも呼ばれたりして。そういう新しい音楽シーンにいるのは僕もすごく楽しかったし、そこで自分にしかできないことを探っていこうとしていましたね。

ジャンルを超えたミクスチャーな交流

──1991、92年頃は、フリッパーズ・ギターに端を発する渋谷系の動きが活性化していく時期ですが、會田さんはそれをどう捉えていましたか?

フリッパーズ・ギターとは同世代なんですけど、当時は接点がなかったですね。The Smithsは好きでしたけど、フリッパーズのネオアコは違って聞こえたし、Fishboneの影響で、イキがってバンダナを巻いたりしてたんで(笑)。自分がボーダーのカットソーを着てベレー帽を被るのは小っ恥ずかしいというか、僕のいた場所からはネオアコシーンは見えてこなかった。でも、「DOCTOR HEAD'S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔-」(1991年)は、当時聴いて衝撃を受けましたけどね。あのブレイクビーツやサンプリングのセンスは引っかかりました。

──のちにThe Cornelius Group、Neil and Iraizaで活躍する堀江博久さんもACROBAT BUNCHに参加していたそうですね。

堀江くんは黒田マナブさん率いるモッズバンド・THE I-SPYにいたんだけど、ACROBAT BUNCHでは正式メンバーというより、「今度こんなライブがあるから来れたら来て」みたいなユルい感じで。ちょうどBeastie Boysの「Check Your Head」がリリースされた頃だったから、「マニー・マークみたいな鍵盤弾いてよ」なんて言って呼んでましたね(笑)。僕や堀江くんは当時からシーンをまたいで、いろんなセッションに参加するタイプでした。

──ACROBAT BUNCHが参加したコンピレーション「OMNIBUS#1~玄人はだし」(1993年)はロック×ヒップホップの先駆けとなった作品ですね。

90年代に入ると、ジャンルを超えたライブやイベントが増えて、僕らもCOKEHEAD HIPSTERS、Hi-STANDARDと対バンする一方で、ヒップホップのECDやキミドリとも一緒にライブをして刺激を受けていたんですよ。それで、ACROBAT BUNCHにラップアーティストをフィーチャーしてアルバムを作ってみようということになった。何か新しい音楽の流れが生まれつつあって、それがどうなっていくのか誰もよくわからない、演奏はかなり荒っぽいけど、その混沌とした感じがよく出ていましたね。「SHAKE A MOVE」(1992年)というコンピには僕らとHi-STANDARDやシアターブルックも入っていたし、90年代前半に恒ちゃん(恒岡章 / Hi-STANDARD)とかその後つながってゆく人たちと出会っているんですよね。

アシッドジャズシーンに図らずも参入

──同時期にEL-MALOも本格的に動き始めていますね。柚木さんは、ラテンユニットの東京リズムキングスの周辺にいたとか。

柚木さんは当時、ウィリー柚木と名乗って、トロンボーンで参加していたんです。東京リズムキングスは僕らより世代も上で、イラストレーターやクリエイターを擁した大人のクラブ系の人たちという感じがしましたね。柚木さんの家にはもう録音機材があったし、持ってるレコードの量も僕らとは比べものにならないくらい多くて、それまで自分の周りにいた先輩たちとも違う、まあ年齢不詳の不思議な大人でした。

──S-KENさんプロデュースのアシッドジャズ系のコンピレーション「Jazz Hip Jap」(1992年)にMonday満ちる、DJ KRUSH、DJ タケムラ(竹村延和)と並んでEL-MALOが参加しているのも興味深いです。

あれは柚木さんが持って来てくれた話だったんですけど、僕も柚木さんもクールなアシッドジャズコンピっていうのがどうにも落ち着かなくて。そのイメージからはみ出たくて、いきなりギターのフィードバックから始めてみたりして、そのときからけっこうひねくれていました。

──でも、その作品が93年には「Jazz Hip Jap Project」としてイギリスのMo'Waxレーベルより海外でもリリースされて、トイズファクトリーが設立したレーベル・bellissima!に発展してゆくわけですね。

SILENT POETS、Spiritual Vibesと共になぜかEL-MALOにもbellissima!から声がかかったんです。90年代前半はメジャーのレコード会社も新しいレーベルを立ち上げて、クラブ系の音楽の可能性を探っていたんでしょうね。でもコンピに参加したとはいえ、自分たちが日本のアシッドジャズシーンにいるつもりも全然なくて。それに、bellissima!と聞いて思い浮かぶのは、やっぱりピチカート・ファイヴだったから、俺らみたいなのが入っていいのかなって。

──柚木さんは、「メジャーのレコード会社と契約したら1億くらいもらえるかと思っていた」そうですが(笑)。

それは残念ながら(笑)。レーベルに所属してもアーティスト契約という形ではなかったし、EL-MALOとして本格的に活動していくことはあまり考えていなかったんですが、アルバムを作ることには興味があったんです。堀江くん、おいちゃん、ベースのキタダマキくんが結成したSTUDIO APESのメンバーと一緒に新しい音を作ってみたい気持ちも強かった。

──1stアルバム「STARSHIP IN WORSHIP」(1993年)は、日本国内より海外での評価が高かったそうですね。

日本でも一部のクラブミュージック好きには受けたんですけど、ダブ、ラテン、ロックといろんな音楽の要素を詰め込んだもんだから、レコード店でもモンドミュージックのコーナーに置かれたりして(笑)。よく言えばエクスペリメンタルではあったんだけど、わかりやすいジャンルには入れてもらえなかったし、自分たちでそうしたところもあったんですよね。

──簡単にはカテゴライズされない音楽をやろうとしていた。

そういうことですよね。1stアルバムをリリースしたあとだったかな? レーベル主催のイベント「bellissima! night」があったんですけど、EL-MALOはライブを想定していなかったから困っちゃって、開き直ってThe Rolling Stonesやフランク・ザッパのカバーをやったんですよ。しかもSonic YouthのTシャツを着て(笑)。

──最初から、人を喰ったようなことをしていたんですね(笑)。

ずいぶんフザけたことをやってましたね。自分たちの柄とは相容れないおしゃれなレーベルカラーが照れ臭かったというのもあったし、先のことはまったく考えていなかったんですよ。

小山田圭吾との出会い

──ところが、94年には小山田圭吾さんをプロデューサーに迎え、ミニアルバム「Blind」、2ndアルバム「THE WORST UNIVERSAL JET SET」をリリース。暫定的なユニットではなく、本格的に活動していくようになります。

1stアルバムがわりと好評だったので、2枚目も作ることになったんですが、次のステージに進むためには、インストではなく歌の入った記名性のある音楽のほうが可能性があるんじゃないかって。それで小山田くんなら、日本語で歌うときにアドバイスをもらえるかもしれないし、お互いに面白がれる部分もありそうだと。ただ、プロデューサーが小山田くんだと聞いて、レコード会社の方は驚いていましたね。

──小山田さんのプロデュースはレーベルサイドからの提案ではなく、お二人の考えだったんですね。

そうなんですよ。小山田くんは1stを聴いて、EL-MALOを面白いと思ってくれて、ライブを観に来てくれたんです。西麻布YELLOWのステージに全身迷彩の服で出たときに紹介されたのが最初だったかな。その頃からカヒミ・カリィの曲をEL-MALOでプロデュースしたり(1994年リリースの2ndシングル「GIRLY」に収録された「Lolita Go Home」)、渋谷系と呼ばれるミュージシャンの方々と距離が近くなっていったんです。

──小山田さんもCorneliusとしてデビューして、1stアルバム「THE FIRST QUESTION AWARD」(1994年)をリリースした頃ですね。

渋谷系がブームになったのって、その頃でしたよね? 僕らが渋谷系の枠でギリギリ語られるのは、小山田くんのプロデュースと、カヒミ・カリィの仕事、あとは2ndにラヴ・タンバリンズのELLIEちゃんがボーカルで参加していることくらいかなと思うんですけど……そういえば小山田くんがプロデュースすることになって、レコード会社の制作スタッフが邦楽セクションの人たちに変わって、「Blind」がいきなり大阪のFM802のヘビーローテーションに決まったんですよ。そこからですね、マネージメントオフィスにも入り、いろいろ動き出したのは。

“渋谷系の裏番”として快進撃

──「THE WORST UNIVERSAL JET SET」は、渋谷系の層にもアピールしたアルバムだったと思いますが、ジャケットからしていわゆる渋谷系とは違う気配が……?

ジャケットは自分たちでもまったくピンとこなくて。男2人組でもフリッパーズ・ギターとは似ても似つかない、自分がリスナーだったら笑っちゃうような感じにしたいと言ってた気がするんですけどね(笑)。ジャケットのインナーにもバスタブとかベッドで遊んでいる写真が載ってたり、ワケわかんないですよね。

──小山田さんを含めて、“ロックごっこ”をやっている感がありましたね。それがEL-MALOに付けられた“渋谷系の裏番”“裏渋谷系”というキャッチフレーズにつながっていった?

自分たちで名乗ったわけじゃないからいつどこで付けられたかはわからなかったんですけど、2008年にEL-MALOでひさしぶりにアルバムをリリースしたときに、ラジオ番組で吉田豪さんと対談させていただく機会があって、その中で豪さんが「裏番と付けたのは僕だったかもしれない」って言ったんですよ。どこかの雑誌で取材して書いたみたいで。

──それは新事実ですね! 

EL-MALOはスペイン語のワルという意味で、身内の流行言葉だったんです。「アイツ、超エルマロじゃん!」みたいな。“裏番”はそこからのイメージかもしれないし、僕もあの時期は髭に長髪で、ハーレーに乗っていると思われていましたからね(笑)。

──ただ、EL-MALOは、音楽的にもアチチュードとしても、新しい解釈と手法でロックを取り戻そうとしたところがありましたね。

そうですね。小山田くんもロックの文脈でやることに共鳴してくれた部分はあったし、Corneliusの2ndアルバム「69/96」(1995年)もそうだったんじゃないかと。僕、当時はものすごく邦楽への違和感があったんですよ。日本のバンドやアーティストでシンパシーを覚える人がホントにいなくて、それは渋谷系と呼ばれたアーティストにも少なからず感じていて、あのスノッブな雰囲気にはなじめなかった。それより僕はパンク由来のどこか破綻している音楽や人に惹かれていたんです。あと、電気グルーヴの影響もすごくあったと思います。

──會田さんは電気グルーヴの「富士山」や「N.O」にギタリストとして参加、EL-MALOとしても「虹」のリミックスを手がけるなど、親交が深かった。

そうなんですよ。当時は同じ事務所に田中フミヤくんや音楽雑誌「ele-king」の人たちもいたので、付き合う仲間も自然とそっちに変わっていって、渋谷系を意識することはなかった、というか元からなかったんですけど、いわゆるクラブ系でもなく、かといって邦楽ロックでもない……まあ、どこにも属さず好きにやってましたね。

──3rd アルバム「III」(1995年)になると、ツインドラムを採用するなどますます骨太のロックになっていきましたね。

自分たちなりのロック観を体現したかったんですよ。ツインドラムにしても「今どきこういうバンドっていないよな」という発想だったし、とにかくほかの人がやっていないことをやることに燃えていましたね。その頃、デビューしたばかりのGREAT3、PLAGUES、EL-MALOの3組でライブをしたんですが、その中にいても何か違う気がしたんですよね。うまくは言えないんだけど。

オルタナ化していった渋谷系

──渋谷系以降のバンドが次々出てきたのもこの頃でした。

そうですね。サニーデイ・サービスやGREAT3は同じように洋楽を聴いてきたバンドだなと感じたし、あの頃はみんなレコードやCDをめちゃくちゃ買いまくっていたじゃないですか? そうやっていろんな音楽を貪欲に吸収しながら、それぞれが自分たちの価値観でカッコいいと思える音楽を模索していたんだと思うんですよ。僕らの場合は、その集大成が「SUPER HEART GNOME」(1997年)だったんですけど、さすがに2枚組はレコード会社に猛反対されて。

──でしょうね(笑)。

アルバム1枚を作る予算で2枚作れるならといいと言われたんですが、結局のところ予算ガン無視(笑)。CDを食材で作れないかとか、CDにアナログの溝を削れないかとか、ジャケットをヒロ・ヤマガタかクリスチャン・ラッセンに頼みたいとか、そんなことばっかり言ってました(笑)。

──冗談とも本気ともつかないムチャぶりは“裏番”らしい(笑)。

そういう豪快な遊びをやってこそEL-MALOだ、なんてうそぶいて。レコード会社も最初は「EL-MALOが売れたら面白いじゃん」みたいなところがあったし、余裕があったんですよね。たぶん当時すごく売れていたバンドのお金が僕らにも回ってきたんですよ(笑)。

──EL-MALOが“裏番”なら、“デス渋谷系”と呼ばれた人たちも現れ、ますます渋谷系のオルタナティブ化が進んでいきますが、96年に開催された「NATURAL HIGH!!!」という野外イベントは、まさにその象徴だったような印象があります。

そうでしたね。ライブアクトが僕ら、HOODRUM、フィッシュマンズ、Cornelius、トリが絶好調のBOREDOMSでしたからね。そうかと思えば、ヒックスヴィルやかせきさいだぁも出ていたし、DJは、石野卓球、KEN ISHII、中原昌也……。

──今思えば、豪華で面白いラインナップでしたね。

ACROBAT BUNCHの頃、山塚EYEさんの別ユニット、コンクリート・オクトパスと大阪で対バンしたこともあるんですけど、EYEちゃんの「自分はニューウェイヴだから、プラスチックを食べていた」という冗談かホントかわからない話を雑誌か何かで読んだりして(笑)、ホンモノにはとてもじゃないけど敵わないと思ったのを覚えてます。BOREDOMSの90年代半ばからの快進撃は痛快でした。

──「NATURAL HIGH!!!」の翌年に「FUJI ROCK FESTIVAL」が始まったことも時代の必然を感じますね。

たぶん、あの頃が僕らもシーンもちょうど切り替わる時期だったんですよね。EL-MALOはその時期から活動の流れが止まったんですけど、ユニットみたいな形態で音楽を作ることに飽きたというのはありました。その後、僕がbloodthirsty butchersやeastern youthに惹かれていったのも、もともとバンドマンだということも大きいんだけど、EL-MALOで突っ走ってきて、少し冷静になったとき、ようやく本来の自分が見えてきたからだと思うんです。EL-MALOで過ごした90年代の数年間は、ものすごく濃かったけれど、僕にとってはある意味、イレギュラーな活動だったとも言えるんですよ。

90年代以降の會田茂一は、FOE、LOSALIOS、ATHENS、DUBFORCEなど複数のバンドで精力的に活動を続けながら、木村カエラをはじめ多くのアーティストへの楽曲提供やプロデュースを手がけている。また今回のインタビューに登場したミュージシャンたちの活躍ぶりも枚挙にいとまがない。ACROBAT BUNCH時代からの盟友、堀江博久は、The Cornelius Groupを筆頭に、高橋幸宏からHi-STANDARDまで多くのミュージシャンに信頼される鍵盤奏者として名を馳せ、かつて會田と同じくネオGSシーン界隈にいた片寄明人は、Chocolat & Akitoでの活動に加え、近年ではDAOKOのプロデュースでも注目を集め、片寄と共にGREAT3に在籍していた高桑圭は、Curly Giraffeで7枚のアルバムを発表、ハナレグミ、藤原さくらの楽曲プロデュースや佐野元春&ザ・コヨーテバンドでの活動も知られている。90年代の渋谷系とその周辺で揉まれながら、世紀をまたいでストーリーを紡いでいった彼らは、今のシーンに欠かせないアーティストとなっている。

會田茂一

1968年生まれ。大学在学中にギタリストとしての活動をスタートする。現在はFOE、LOSALIOS、ATHENS、DUBFORCEなど、さまざまなバンドで活躍。また映画 / CM音楽の制作や、木村カエラをはじめとする数多くのアーティストへの楽曲提供やプロデュースを手がけており幅広い音楽活動を展開している。

取材・文・編集 / 佐野郷子(Do The Monkey) 撮影 / 相澤心也

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