3年前の2018年1月24日、がんの闘病中だったECDが57歳で亡くなった。1987年にラッパーとしての活動を開始し、1996年に伝説的なヒップホップイベント「さんピンCAMP」を主催した彼は、文筆家、社会運動家としても活動し、ヒップホップシーンの枠を超えて強烈な存在感を放った。
そんなECDへのリスペクトを表明する1人のラッパーが今、大きな注目を浴びている。韓国出身、大阪在住の“移民者”としてラップするMoment Joonだ。2020年3月リリースのアルバム「Passport&Garcon」で日本の音楽シーンに衝撃を与えた彼は、アルバム収録曲「TENO HIRA」で自分を変えた存在であるECDへの思いを言葉にしつつ、「BAKA」という曲ではECDの声をサンプリングしている。この記事では、没後3年の命日にあわせて、Moment JoonにECDへの追悼文をつづってもらった。
文 / Moment Joon 写真提供 / 植本一子
私は日本のヒップホップのラッパーだから
私にECDさんの追悼文を書く資格があるでしょうか。この依頼を受けて彼の音楽・著作・映像などを何本も鑑賞し直したのですが、いや、これは私にはできないものだと思いました。彼を覚えている記憶の数と大きさ、その熱さを考えると、きっと私よりふさわしい人が何人もいるだろうと思いました。生前のECDさんをより近くで見ていた人、彼の本音を彼の生々しい言葉で直接聞いた人、もっと正確に彼の業績を評価できる影響力のある人、ご家族、友達や仲間、せめてもっと前から彼の音楽を楽しんでいたファン……私は、これらのどれにも当てはまりません。私が彼について語ることで、人々が覚えているECDさんと彼のレガシーに対する不遜になるのではないか、と思ったのです。
それでも勇気を出してこの文章を書いたのは、私はラッパーだからです。それもただのラッパーではなく、日本のヒップホップのラッパーです。ECDさん、そしてECDさんと一緒に多くの方々が作り上げたヒップホップの土壌の上で歌っている私が、またヒップホップを使ってECDさんを記憶して蘇らせていることを、世の中に伝えなければならないと思いました。
「誰も聞いてくれないだろう」と思っていた自分の物語を聞いてくれた
私はECDさんに一度しかお会いしておりません。韓国の兵役を終えて日本に帰ってきたばかりの2014年の冬、青臭かった私のライブを観に新宿のある小さい箱に来てくださったのが、私とECDさんの直接的な関係のすべてです。もちろん以前からお名前は知っていましたし、彼が日本のヒップホップでどのような存在だったのかは大学のヒップホップサークルの先輩たちから教えてもらっていましたが、80年代末と90年代という時代を、日本という空間で過ごしていない私にとってECDさんの業績は文字通り「歴史」であるだけでした。
私にとってECDさんが特別な存在になったのは、彼が亡くなってからでした。彼の死が世の中に知られた2018年の1月25日の朝。2014年の私のライブにお越しくださったときのことを思い出す内容の文章をオンラインに投稿したら、その日にECDさんと一緒に私のライブを観ていた磯部涼さんから、一生忘れられない返事をいただきました。磯部さんが伝えてくれたのは、一時期ラップを休んでいたECDさんが、その日の私のライブを観て、もう一度ラップにちゃんと取り組むことを決めたということでした。
その返事を読んで私が感じたのは、誇りとか感謝ではなく、罪悪感でした。「彼を死なせてしまった」という罪悪感ではありません。もっと前から自分の力に気付いていなかったことに対する罪悪感でした。2018年1月のラッパーMoment Joon、そして人間キム・ボムジュンは、迷っていました。やりたいことや進みたい方向は見えず、手元にあるのは絶望と痛みだけ。自分の唯一の愛で導きであった音楽が、いつの間にか自分の劣等感と絶望の根になっていて、自分の狭い部屋で毎日少しずつ死んでいました。こんな自分の話をしたって誰も聞いてくれないだろうと、世の中から逃げて自分の洞窟に引きこもっていました。そんなときに、ECDさんの死と向き合ったのです。
彼が亡くなって、私は自分と彼の間にあった糸にやっと気付きました。孤立していた自分、小さい自分、「外人」の自分、情けなくて一人ぼっちの自分が、ある人の人生を変えたかも知れないということ。日本のヒップホップを始めた伝説的なアーティストの人生、いや、もしかしたら自分の音楽を聴いてくれた名前も知らない誰かの人生が、自分の言葉によって変わったかも知れないこと。自分が持っていた力にやっと気付いたその朝にこぼした涙を手がかりにして、私は再び世の中に出ました。「誰も聴いてくれないだろう」と思っていた自分の物語を、「理解してくれないだろう」と思っていた「移民」というキーワードで世の中に伝え始めました。誰かは聴いてくれるだろう、ECDさんみたいに、と。
「今を生きる音楽」こそがヒップホップ
そうやって世に出た私の音楽を愛してくれる方々の中に、またECDさんを愛している方々が多いのは、きっと偶然ではないと思います。スタイルも、ラップのやり方も、扱っているテーマや作法も全然違う私の音楽からECDさんの影響を見出す人々。私も彼みたいな「社会派ラッパー」、いや、「パヨク」だからでしょうか。
いや、それはきっと「今を生きる音楽」を作っているからだと思います。多くの人々からの共感を得るために抽象的でぼかした言葉を選ぶのではなく、極めて具体的で個人的な歌詞。体・考え・環境の変化を恐れずに素直に歌う勇気。時代の出来事と自分の関係を常に問いかけてその会話を止めない態度。過去のノスタルジアや栄光に頼ったり、皆が期待してなじんでいるものを繰り返すのではなく、常に「今」と会話をしながら生まれた音楽。
ECDさんが「今を生きる音楽」を作っていたのは、彼を覚えている人々と話してみるとすぐにわかります。生前のECDさんを愛していた人々、彼の音楽を愛していた人々から「ECDさんが今生きていたらどうしたんだろうな」「ECDさんならなんと言っただろうな」という言葉を聞くのは決して珍しくありません。「そのときはよかったよな」と過去のある瞬間のノスタルジアの額で彼を閉じるのではなく、「今の日本」を生きながら常にECDさんを蘇らせる人々。
「今を生きる音楽」。それこそが私が知っているヒップホップです。ほかのどのジャンルよりも「今」に敏感で、常に変化してアップデートし、それを素直に世の中に発信する音楽。生前のECDさんと長い時間を過ごしたわけでもない私がこの追悼文を書いたのも、私はヒップホップの中で生きているからです。私はECDさんを過去の人物として記念したくないです。今の自分、今のヒップホップ、今の日本から、ECDさんを考えたいのです。歌詞の引用から、曲のサンプリングから、トークや文章やライブから、私は彼を蘇らせます。それは、死人を過去の領域に置いておいて安らかにお休みになることを願う人々からすると、無礼に見えるかも知れません。しかし、ECDさんが始めた日本のヒップホップの土壌の上で歌って生きている私に、彼はただの「歴史」ではありません。「外人」「韓国人」「よそ者」ではなく、「移民」として堂々と歌うMoment Joonを芽生えさせてくれた人。日本のヒップホップの始まりだけではなく、その心臓でもあったラッパー。ECDさんの音楽は、彼を覚えて蘇らせる人々を通して、今日も今を生きています。