伝説のヒップホップイベント「さんピンCAMP」の全貌に迫るべく、当時の関係者や出演アーティストへのインタビューなど、さまざまなコンテンツをお送りする連載企画「『さんピンCAMP』とその時代」。第2回はNIPPS&CQ(BUDDHA BRAND)とIGNITION MAN aka ヒデボウイ(SHAKKAZOMBIE)による鼎談をお届けする。BUDDHA BRANDとSHAKKAZOMBIEからなる伝説のユニット大神の結成にまつわる経緯を聞いた前回に続き、後編では3人に「さんピンCAMP」出演時のエピソードを中心に振り返ってもらった。
取材 / 猪又孝、高木“JET”晋一郎 文 / 猪又孝 撮影 / 相澤心也 取材協力 / 北千住JUICE BAR ROCKET 制作協力 / 本根誠
「人間発電所」は「さんピンCAMP」のテーマ曲だった
──大神は「さんピンCAMP」に実質トップバッターとして登場し、「大怪我(ILL JOINT STINKBOX)」を披露しました。「さんピンCAMP」の企画は誰からどのように耳にしたんでしょうか?
NIPPS 俺は石田さん(ECD)から聞いたかな。そのために「さんぴんCAMP」のアルバムを作りたいとか言ってて。
──コンピレーションCDの「さんピンCAMP ECD PRESENTS THE ORIGINAL MOTION PICTURE SOUNDTRACK」ですね。
NIPPS そのために「人間発電所」を作ったんですよ。
ヒデボウイ えっ、そうなんだ!?
CQ そう。「人間発電所」は「さんピンCAMP」のテーマ曲。「さんピンCAMP」ってBUDDHA BRANDありきで進んでいたと思うんだよね。それは石田さんから聞いたのかな。俺は「Wild Style」がどうのこうのとか、そういうことは知らなくてドキュメンタリー映画を作るのかなって思ってたから、そんなに音楽中心の内容だと思ってなくて。ライブがメインの映画なんだって、あとからわかったんだよ。だから、cutting edgeからの1発目の12inchシングルが「Illson / Funky Methodist」でいいんじゃないかっていうのはレーベル側が判断したんだと思う。
──SHAKKAZOMBIE側は、「さんピンCAMP」の話をどのように聞いていたんですか?
ヒデボウイ こういう企画ができたらいいなって石田さんから聞いたと思います。僕らはNatural Foundationで1曲出したはいいけど、なかなか曲が広がっていかなくて。OSUMIと僕は当時アンダーグラウンドとかハードコアな方向に行きたかったんです。それがうまくいかないなと思っている中で、石田さんとすごく親密になってきて、「cutting edgeに来ちゃえば?」って言ってくれて、本根さんに顔を通してもらってみたいな流れだったと思います。それで、まずは1曲録ってみようよっていうので「手のひらを太陽に」を録った。で、1曲録ったらマキシシングルを作ろうかっていう話になって、すでにブッダと仲よくなっていたから「大怪我」ができたっていう流れなんですよね。
──そのレールの延長線上に「さんぴんCAMP」の話があった。
ヒデボウイ そう。石田さんとシャカの3人と、四街道ネイチャー、キミドリのイシグロくんで毎日のように遊んでいる時期があって。中目黒の石田さんの家に行ったりとか、そういうときに「さんぴんCAMP」の話を聞いたと思うんです。「こういうイベントをやるから協力してよ」って。「さんぴんCAMP」は石田さんが引っ張ってるから僕らはついていこうという感じでした。
NIPPS 石田さんにはホント頭が上がらないよね。
ヒデボウイ そうですよ。俺たちが世に出ることができたのは石田さんのおかげだから。
キャロルと同じステージに立てるんだ!
──大神がトップバッターと決めたのは石田さんですか?
CQ 石田さんとDEV LARGEで、大神をトップバッターで出すことを周到に考えていたのかも。石田さんは「大怪我」のあのイントロパートがあったからよかったんだよ。あれで始まるのが正解だったんだと思う。で、「J-RAPは死んだ。俺が殺した」でしょ。
ヒデボウイ あんなこと言うと思わなかったもんね(笑)。
CQ すげえ気合い入ってるなと思った(笑)。
──大神の出番がトップバッターと聞いたときは、どう思いましたか?
CQ 「やったぜ!」って感じ。それまでデカいところでやったことなかったし。
NIPPS ずっと夢見てたよね。ニューヨークにいた頃から、いつかデカいところでやりたいって言ってて。俺は日本語ラップをまったく聴いてなかったから、最初に話を聞いたときは一緒に出るのが誰が誰だかわからなかったけど、とりあえず野音でやるんだ、すごいじゃんと思って。それはデカかったよね。イベントがどうのこうのよりも野音でできることがうれしかった。
ヒデボウイ 僕も野音っていうのがデカかったですね。ヒップホップに関係ない話だけどキャロルが野音でラストライブやったりとか、RCサクセションが4DAYSをやったりとか、いろんな伝説のライブがあるじゃないですか。子供の頃からそういうのを観てきたんで、野音に立てるというのは本当にうれしかった。「キャロルと同じステージに立てるんだ!」みたいな。ヒップホップバリバリのときだったけど、僕は1人だけ心の中で「おー、永ちゃんが立った場所だ!」みたいな気持ちがあった。
──いざ大神としてステージに出て約3000人の観客を目の当たりにした感想は?
NIPPS それに対しては意外とね、すごいと思わなかった。「こんなに人が来てるんだ」っていう認識だけ。驚きはなかった。だってわかんないじゃん、自分たちがどれだけウケてるのか。逆に言えば、「なんで俺たちのこと知ってるの?」って感じだったから。
ヒデボウイ 僕は、お客さんがあんなに入るとは思ってなかった。ちょっと前に渋谷CLUB QUATTROで「さんピンCAMP」の前夜祭みたいなイベントやったときはお客さんが全然入ってなかったんですよ。ガラッガラだったから。
──CQさんは、どんな気持ちでステージに出ましたか?
CQ 野音のステージに立ったときは「自分のところだけがんばろ」って感じで(笑)。じわーってくるものも少しはあったかもしれないね。まあ、でも、1人だったら緊張するけど、みんないるしね。ごちゃごちゃやってる感じだから。
ヒデボウイ ステージに向かって両サイドにやぐらがあったんですよ。ブッダで前に出ていくのはコンちゃんじゃないですか。シャカで前に出るのは僕だったんですよ。僕もまだ23、24歳とかで若かったから調子に乗って、そのやぐらに登っちゃったんです。あの日、雨降ってたじゃないですか? それでカッコつけて飛び降りたら、床が濡れてたから滑って思いっきりケツから転んじゃったんですよ。「うわ、ダセー!」って思ってたら、デミさん(NIPPS)が僕の前にスライディングしてくれたんです(笑)。そしたらお客さんが「ウォー!」ってなって、僕もそれに合わせて逆側にスライディングしてなんとかごまかせた。あれはうれしかったです(笑)。
──NIPPSさん、ナイスフォローじゃないですか(笑)。
NIPPS あれをほっとくわけにはいかない(笑)。
レコード2枚使いの真相
──そもそも出演にあたって、大神としてリハーサルは行ったんですか?
CQ 俺はエイベックスの会議室みたいなところで練習した記憶がある。
ヒデボウイ それは覚えてないな。ブッダだけでやったんじゃないですか? 僕は用賀のでっかいスタジオに集まって出演者全員でゲネプロを1回やったのは覚えてます。
CQ それ、全員でやった?
ヒデボウイ 全員来たかわからないけど、RHYMESTERとかMUROくんとか、みんないましたよ。よくあるような鏡張りのでっかいスタジオで、みんな集まってリハをやった記憶があるけどな。
NIPPS それ、覚えてないな。
ヒデボウイ じゃあ、ブッダは通しリハにいなかったのかな。
CQ 俺はいないと思う。それか行ったけど、何もしないで帰ってるか(笑)。
全員 あはははは!
CQ 絶対、俺ら練習してる姿とか、人に見せないもん。隠れて練習するタイプだから(笑)。
──前回の座談会での本根さんの発言によると、通しリハのあとにDEV LARGEが「俺たちはトリだから、あとには引けない」とピリピリしだして、「ライブは全部レコードの2枚使いでやる」と言いだしたそうですが、覚えていますか? そうなるとDJ MASTERKEYさんも困惑したと思いますが。
NIPPS MC陣はすぐ話がまとまったはずだよ。ただ、やっちゃん(DJ MASTERKEY)は技術に自信がなかっただけで。
CQ 活動を始めた当時は、他人のインストに乗せてラップすることが多かったからね。ラッパーとしてそれは簡単にできるけどって話だから。
──実際、BUDDHA BRANDはレコードの2枚使いでライブをしましたが、MC陣はそんなに苦じゃなかったんですか。
NIPPS 全然苦じゃないよ。だって自分で曲を選んだんだもん。俺はこれにするって。
CQ 例えばヴァースが3つあるとすると、BPMが同じで違うビートを選んで、ここでこういうふうにビートが変わって、とかって指示して。
NIPPS Run-D.M.C.の「My Adidas」、Public Enemy「Public Enemy No.1」は俺が選んだ。
──Jungle Brothersの「JB's Comin Through」は?
CQ Jungle Brothersは俺が選んだね。俺がこれがいいって言った。
──マーヴィン・ゲイ「After The Dance (Instrumental)」は?
NIPPS それはDEV LARGEだね。
──全員ネタを自分でチョイスしてたんですね。
CQ 当時はRHYMESTERとかも2枚使いでやってたよね。今だったら絶対自分のトラックで歌うだろうけど、当時はそれができて当たり前だった。
ヒデボウイ あと、当時はオリジナルのインストがなかったからっていうのもあるかも。
CQ そうだね。昔はターンテーブルでやってたから。自分たちの曲でもインストバージョンのアナログがないこともあるじゃないですか? 今だとデータでやれると思うけど、それがないから違う曲のインストでやってたの。今考えるとそれがカッコいいと思ってた。
NIPPS そうやってブッダらしさを出してた。
CQ 俺ら昔の人だからさ(笑)。今の人にはわかりづらいかもしれないけど。
NIPPS それで当日、MASTERKEYが針を飛ばしたんだよね。ド頭の「大怪我」でも飛ばしてるし、「人間発電所」のときも飛ばしてるし。
CQ 俺が歌ってるとき飛んでて「いつ戻すんだ?」って思っても全然戻さねえから(笑)。ずっと何小節かズレてて、すっげえ歌いづらいんですよ。けど、もう歌い続けるしかない。
NIPPS それでライブが終わったあと、DEV LARGEが激怒して。あいつよくライブ終わると反省会しようって言うんだよ。けど、クリちゃん(CQ)と俺は反省する気なんかまったくない。やったことはやったことでしょうがない。
CQ そんなこんなで「人間発電所」がテーマ曲なのに映画に入らなかったっていう(笑)。ミスしたのを入れちゃえばよかったかもしれないけど、絶対にそれはカッコがつかないし、汚点になるから嫌だったんだろうな。
ハプニング的にパフォーマンスした「魔物道」
──当日、BUDDHA BRANDは「Funky Methodist」「ILL伝道者」「人間発電所」「魔物道」の4曲を披露しましたが、選曲は誰が決めたんですか?
CQ DEV LARGEだと思う。けど、「魔物道」なんてやったっけ?
──映像には収められていませんが、当時のセットリストを見ると最後にやってます。
CQ じゃあムキになってやったんだ。「人間発電所」で針飛ばしちゃってるから「これじゃ納得できない!」となって、それで始まったんだと思う。最初はやる予定なかったもん。
ヒデボウイ へえーっ!
CQ 出番は10分くらいだもんね。時間が決まってて。だから「魔物道」はいきなりやったんじゃないかな。それで結局締まりが効かないからYOU THE ROCK★が出てきてシャウトアウトして丸く収めてくれたけど、締まらなかったんですよ、「人間発電所」で。
NIPPS それ、YOU THE ROCK★が俺の名前だけ言ってくれなかったんだよ(笑)。
CQ 俺もたぶん言われてないと思う(笑)。
ヒデボウイ 確かイベントが時間いっぱいでマイクも切られてたんですよ。それでユウちゃんがいつもの感じで熱く語って締めてくれて。
──SHAKKAZOMBIEは、大神のパフォーマンスのあと、そのままステージに残って、「手のひらを太陽に」「SHAKKATTACK」「無限のスペース」を披露しました。
ヒデボウイ 大神でパーンって出たから、もう緊張も取れてて、それほどアップアップした感じではなかった記憶はありますね。
NIPPS うん、観ててもそういう感じだった。シャカはバッチリだったよ。
ヒデボウイ 僕は1回ずっこけちゃってるし、恥もかいてるから大丈夫で(笑)。
──当日の選曲はどういう意図で?
ヒデボウイ 僕たちは「SHAKKATTACK」を出して、次に「太陽」を出したくらいだから、曲があんまりないんですよ。数曲しかない中でライブに適している曲を3曲やったって感じだと思います。
──「無限のスペース」はDouble X「Money Talks」使いでしたが、誰のアイデアだったんですか?
ヒデボウイ OSUMI主体だったと思います。うちらは大概みんなでネタを選んでて、あの頃はけっこう新譜から選ぶことが多かったですね。あのときはOSUMIと僕が好きな新譜から選ぼうみたいな感じで、Double Xにしたんだと思う。
「さんピンCAMP」出演を経て
──ちなみにお三方は「さんピンCAMP」の映像は観返したことがありますか?
NIPPS 俺はある。ビデオを観て初めて「(さんピンCAMPって)こういう感じだったんだ」って思った。
CQ 僕はずっと怖くて観れなかった。そういうのあるでしょ? 失敗してるから怖くて観れない。10年くらいして、何かのきっかけで自分のところだけ観た。
ヒデボウイ 僕も、「大怪我」で針が飛んでるでしょ? あれ、リリックが飛んだってすごい言われたから、あんまり観たくないよね(笑)。
CQ トチったのがラッパーのせいになっちゃってるんだ。
ヒデボウイ スタジオで「さんピン」の編集をしてるところに、みんなで行ったんですよ。そこにコンちゃんもいて、MASTERKEYもいたんです。それで「大怪我」の針飛びのシーンを見てコンちゃんがすごい怒っちゃって。「これ一生残るんだぞ。ヒデボウイに謝れ」って。MASTERKEYに「全然いいよ」って言いました(笑)。世の中には僕のリリックが飛んだと思われてますけど、ああいうハプニングはあることだから。
──「さんピンCAMP」のあと、自分たちの活動にどんな変化を感じましたか?
CQ 特に何もなかったような気がする。だって、いきなりそれで売れるわけでもないもん。
ヒデボウイ でも注目度は上がりましたよね。
NIPPS 俺は「ブッダって、ちょっとだけ知られてるのかな?」っていう感覚はあった。どれくらいの人が知ってるのかわからないけど、「なんで知ってるの?」っていう感じにはなったから。
──地方でのライブが増えたりは?
NIPPS そもそもマネージャーがいなかったから。ブッキングとかも満足にできなかったし。
CQ でもさ、「さんピン」後に、地方にもヒップホップのクラブとかできたりしたんじゃないの? そこでDJも増えて、ラッパーも増えてっていう。
NIPPS 当時DJブームだったもんね。
CQ うん。それで憧れの人を呼んでみようっていうのは増えてきたんじゃないかな。
ヒデボウイ シャカとブッダに限って言えば、全員呼ぶと人数が多いから一緒に行く機会がなかなかなかったんですよ。だからあんまり大神でライブをやってないんだと思う。大神のライブがあまり記憶にないもん。
NIPPS 「さんピン」後の変化でいうと、俺はキンチョールによくサインしてくれって言われるようになった(笑)。
全員 あはははは!
NIPPS 俺が「さんピンCAMP」でキンチョール持ってステージに出たのを今もお客さんが覚えてて。キンチョールをわざわざ持ってきて、それにサインしてる。けど、うれしいね。そういうことがあって、だんだん自分たちが認知されてきてるんだなって感覚はあったけど、でもそれでどうしようっていうのはあんまり考えてなかった。
CQ それまでラップで食えるのかどうかわからなかったけど、「さんピンCAMP」が盛り上がったことで、みんなで盛り上げられるところまでいけるのかなっていうのはあったと思う。金にはならないけど露出は増えたから。逆に「あなたたちのせいで人生狂いました」っていうファンもいっぱいいると思うけど、それはそれですげえいいことだなって、いい意味で捉えてた。
ヒデボウイ 僕らにとって「さんピン」は大きかったですね。シャカは世に出るのが遅かったから、「さんピン」をきっかけに知ってもらえるようになったし。あとは「さんピン」以降、日本のヒップホップのファン層が広がったと思います。地方に呼んでもらったときには、こんなに喜ばれるんだっていう実感がありましたから。
ファッション面でのヒップホップの影響
──ファッション面で日本語ラップに興味を持った層も増えたような気がします。
ヒデボウイ ヒップホップファッションとかニューヨークのスタイルが広がったんじゃないですかね。MUROくんがいたSTILL DIGGIN'とかも含めて、ファッションを求めるお客さんが増えたと思う。
NIPPS おしゃれなB-BOYが増えたよね。「さんピン」が注目されたことによってヒップホップを聴かない人たちが聴くようになった。「ブッダを聴いてヒップホップを好きになりました」って、よく言われたし。
CQ それまではクラブで日本語ラップが絶対にかからない時代だったからね。クラブに遊びに行ってるやつらが、ニューヨークなファッションになるのはわかるけど、それがなぜ日本で広まったのかというと、「さんピン」の盛り上がりがあったからだと思う。地方も含めて、普段クラブに行かないような人たちがヒップホップを聴いてくれるようになったんじゃないかな。当時、アメリカもヒップホップが盛り上がってきてたよね?
ヒデボウイ 「さんピン」から2000年に入るまでの4年間くらいが、なかなか渋い、いい時代だったんですよ。お客さんも含めて、ファッションも、いい感じにシーンが広がったと思う。2000年代に入るとなんか下品じゃないですか(笑)。
──金満主義というか、拝金主義というか、セレブ感が出てくる。
ヒデボウイ そう。90年代のほうがファッションとか、すごいがんばってた。人を牽制するじゃないけど、自分のファッションが一番カッコいいみたいな意識が高かったんじゃないですかね。
──みんなとそろいの物をあまり着ないとか?
ヒデボウイ 着こなし的にはルールみたいなものがあって、あの頃はアースカラーが流行ってて、アメリカントラッドみたいなものをどう気崩すかみたいな感じだったと思うけど、人によって雰囲気が変わるじゃないですか。それが面白かった。2000年代からはヒップホップのファッションがユニフォームみたいな感じになっちゃったんですよ。僕はそれが嫌いだった。僕、ブッダが日本に帰って来て初めて見たとき、デミさんとクリちゃんのおしゃれさに引きましたから。
NIPPS クリちゃんはおしゃれだった。
ヒデボウイ いや、デミさんのファッションも超影響受けましたもん。2人はホントおしゃれだった。
CQ うちらはKURIUS(※プエルトリコとキューバの血を引くニューヨーク出身のラッパー)とか好きだったから。プエルトリカンとかのファッションが好きだったんだよね。
NIPPS ニューヨークは当時プエルトリカンとかチャイニーズがおしゃれだった。
ひさびさに「大怪我」を披露した夜
──結局、今振り返ると「さんピンCAMP」とは、どんなイベントだったと思いますか?
ヒデボウイ 「さんピンCAMP」っていうイベントがあっただけで、あのあと、あそこに出てた人たちが一緒に活動したかっていうと別にしてないんですよね。「さんピンCAMP」はいろんなきっかけにはなったんですけど、またみんなで集まって何かをやったとかではないから、クリちゃんがさっき話したように、「さんピンCAMP」っていうワードに対する印象が薄いんだと思う。だから変な話になっちゃうけど、コンちゃんが亡くなったあとに渋谷でやったイベント。
NIPPS ハスラーズコンベンション。
──2015年6月25日に渋谷VISIONで開催されたDEV LARGE追悼イベント「D.L PRESENTS HUSTLERS CONVENTION NIGHT」ですね。
ヒデボウイ あれが、あの時代のやつらがみんな集まった現場でしたよね。
NIPPS あれすごかったよね。人の数が半端なかった。
ヒデボウイ 90年代ヒップホップの人、大集合みたいな。
CQ あのイベントで「大怪我」をやったんだよね。ヒデボウイはあんまりラップしてない時期だったから「やったら面白いんじゃない?」って話になって。
ヒデボウイ コンちゃんが亡くなって、「大怪我」の話が来そうだなと思ってて。でもOSUMIが「やる」って言うわけないと思ってたんですよ。ちょこちょこライブの話とかあったんだけど全部断ってたから。
CQ OSUMIが?
ヒデボウイ 僕が断ることもあるし、僕とOSUMIの足並みがそろうことなんてまずなかったんです。でもDEV LARGEの追悼公演だから、僕は「大怪我」の話が来たら絶対にやろうと思ってたんですよ。そしたらOSUMIから連絡が来て「やってくれって言われたんだけど、やらない?」って言ってきた。「みんなリハとかやらないだろうし、サビとか怖いからヒデボウイ、サビ覚えておいて。俺も覚えておくから」って。OSUMIが珍しく前向きだったんです。
NIPPS あれからちょうど10年だね。
ヒデボウイ その後、マキさん(MAKI THE MAGIC / CQとIllicit Tsuboiとともにキエるマキュウとして活動していた)も亡くなって、その後に石田さんもいなくなり。OSUMIですら亡くなってもう4年経ってるんですよね。
CQ でも確かに。あれが「さんピンCAMP」の続きだったのかもしれないね。
プロフィール
CQ(シーキュー)
BUDDHA BRANDのMC。ニックネームは「赤目の達磨の叔父貴」「クーリーシャン」など。1998年以降は、MAKI THE MAGIC(MC)、ILLICIT TSUBOIとのユニットキエるマキュウのメンバーとして活動。2015年、NIPPSとヒップホップユニットBUDDHA MAFIAを結成した。
NIPPS(ニップス)
BUDDHA BRANDのMC。ニックネームは「HIBAHIHI(飛葉飛火)」や「緑の5本指」など。2007年以降は、TETRAD THE GANG OF FOUR、The Sexorcistのメンバーとして活動を展開している。2015年、CQとヒップホップユニットBUDDHA MAFIAを結成。
IGNITION MAN aka ヒデボウイ(イグニッションマンアズノウアズヒデボウイ)
SHAKKAZOMBIEのMC。1993年にOSUMI(MC)、TSUTCHIE(DJ)とグループ結成。1995年、1st EP「SHAKKATTACK」をNatural Foundationよりリリースする。翌96年、cutting edgeから「手のひらを太陽に」でメジャーデビューを果たす。


