伝説のヒップホップイベント「さんピンCAMP」の全貌に迫るべく、当時の関係者や出演アーティスへのインタビューなど、さまざまなコンテンツをお送りする連載企画「『さんピンCAMP』とその時代」。第1回の前編ではエイベックスの担当ディレクターとしてECDをサポートし、プロジェクトの実現に尽力した本根誠氏、スーパーバイザーとして出演者の人選やイベントの構成に携わった荏開津広氏、映像監督として当日の模様を記録した光嶋崇氏に、プロジェクト立ち上げの経緯や、ECDという1人のラッパーが「さんピンCAMP」を通して表現したかったことは何かを語ってもらった。
中編となる今回は、今も語り継がれるそうそうたる出演アーティストのラインナップはどのように決まったのか、当時3000人弱のヘッズだけが目撃した伝説のステージの舞台裏などについて振り返ってもらった。土砂降りの野音で何が起きていたのか?
取材:高木“JET”晋一郎+猪又孝 文:高木“JET”晋一郎 撮影:沼田学 制作協力:本根誠
「さんピンCAMP」のラインナップは“ロックっぽい”と思った
荏開津広 「さんピンCAMP」の人選は、基本的にはECDの当時の視点やセンスが反映されてると思うな。
本根誠 僕は「さんピンCAMP」のラインナップをすごく“ロックっぽい”と思っていて。実際、石田さん(ECD)も僕も灰野敬二とか好きだし、Throbbing Gristleを聴いて育ってるから、そういう背景があってヒップホップにたどり着いた痕跡がラインナップに残ってると感じます。
荏開津 原則的には「もっと幅広いラッパーを入れたらいいじゃん」と思ったりしてました。
本根 石田さんは、当時のシーンの先端にいるラッパーに比べて、自分が歳上だということにコンプレックスを持っていたと思うんですよ。ユースカルチャーに身を置きながら、自分は30過ぎのオッサンなんだということに複雑な感情があったと思う。だから「石田さんはちゃんと自分の足でストリートを歩いてるから大丈夫ですよ」と僕が言ったら、すごくうれしいと言っていて。あの頃の石田さんって社交的だったじゃないですか? 自分から積極的にシーンの中に入って行ってたし、そのうえでの人選だったと思います。僕は石田さんが考えるベストキャストとして受け取りましたね。
荏開津 「さんピンCAMP」のステージに石田さんがアディダスのトラックスーツで登場したとき、石田さんは自分をオールドスクーラーとして捉えているんだ、と思いました。それは自分の崇拝するブロンクス原理主義(笑)とも言えるからうれしくはあったし、実際、次のECDのアルバム「BIG YOUTH」は自分にはわかりやすかった。
──「私たちが熱狂した90年代ジャパニーズヒップホップ」(辰巳出版)に掲載されているKダブシャインとDJ MASTERKEYの対談中にKダブシャインが、「さんピン」はもともとcutting edgeのショーケースという話で、ブッダを主役にして、YOU THE ROCK★、SHAKKAZOMBIE、ECD、Kダブシャインといったレーベルの所属ラッパーが中心になる予定だった。だけど、せっかくヒップホップが盛り上がってきているんだから、他レーベルのラッパーも混ぜて大きなイベントにしたほうがいいんじゃないかと自分とYOUちゃんで提案した。自分はキングギドラで出たいし、YOUちゃんは雷も出したい。だからあの人選になっていったし、自分とYOU THE ROCK★が中心になって他レーベルのラッパーに声をかけたと話しています。
本根 ああ、そうかもしれないですね。ただ、やっぱり最終的なオファーはcutting edgeのスタッフがしたんだと思う。そしてその段階で「ECDをスケールアップしたいから、それを手伝ってください」とアーティストには伝えていたんですよね。
荏開津 それぞれのアクトにね。
本根 そう。「ECDを助けるイベントだと思って出てくれないですか?」って。結局、各ラッパーには事前に石田さんが声をかけていたし、みんな理解があったから、全員「OKっす」ってなったんです。こじれた人は1人もいない。ただ、声をかけたけど出られなかった人もいる。それがキミドリ。
荏開津 ECDはキミドリが好きでしたからね。
──しかもシングル「オ・ワ・ラ・ナ・イ (OH, WHAT A NIGHT!)」はcutting edgeからのリリースですからね。
本根 だから声をかけてたんだけど、クボタ(タケシ)がDJの仕事ですでに予定が入ってると。こちらも食い下がったんだけど、「本根さん、悪いけどさ、みんなでラップやるのは楽しいかもしれないけど、俺のDJの現場は仕事だから」って。そう言われたら「そうですか」としか言えない。
光嶋崇 でも翌週の「大LB夏まつり」にキミドリは出ましたよね。
──もしキミドリが出てたら、「さんピンCAMP」と「大LB夏まつり」の両方に出ていたのは四街道ネイチャー、MC JOE、キミドリだったということですね(注:一方でECDは雑誌「Invictus ~日本のヒップホップ リアルな今~」掲載の「渦の記憶」というエッセイで、「キミドリには声をかけなかった」と書いている)。
荏開津 仕事としてDJが入っていたのは本当でしょうし、キミドリはラストライブをライブハウスでやってますが、それも先に決まっていたからで、やはりあとからオファーがあった大型フェスの出演を断ったと聞いています。
光嶋 スチャダラパーも「さんピンCAMP」の現場には来てましたよね。
──「さんピンCAMP」にスチャダラパーが出てたら歴史は大きく違ったでしょうね。
光嶋 ちなみに、「さんピンCAMP」のコンピレーションアルバムのメンツや収録曲もECDが決めたんですか?
本根 そうですね。cutting edgeに所属してたアーティストを中心にして。所属じゃなかったのはDJ HAZU(刃頭)とTWIGYのユニット、Beat Kicksかな。
荏開津 石田さんはBeat Kicksが好きだったんだよね。スカとかのバックトラックでラップやってたから、そこからもう、レゲエをやってた石田さんは感じるところはあったと思います。
光嶋 でもTWIGYさんは「さんピンCAMP」には乗ってくれなかった。
──TWIGYの著書「十六小節」によると、ニューヨークでレコーディングがあるということで断られたようですね。その流れでDJ HAZUは、同じ名古屋で活動を始めていたTOKONA-Xとコンビを組んで、ILLMARIACHIで登場することになったという。ILLMARIACHIに関しては、のちほど伺います。
「ダビングすんじゃねえよ!?」
光嶋 当日は満員だったんですよね。
本根 そうですね。当時の日比谷野音って、場内に3300人までしか入れちゃいけなかったんですよ。消防法で。
荏開津 スタッフも含めて?
本根 係員や売店の人も含めて。だから3000人弱が観客の上限なんです。それでもかなりの規模だから、満席になるかどうかは読めなかったんだけど、初週でチケットが1800枚売れたんだよね。それで「え! これやっぱりイケるんじゃん!?」と。そのへんからエイベックスの社員がバーッと動き出してくれたし、結果、満員になった。
光嶋 その意味では、これだけ影響力が強いイベントなのに、生で「さんピンCAMP」を観たのは3000人弱しかいない。会場の外で音漏れを聴いたり、RIZEのジェシーさんのように木に登って観てたっていう人もいるだろうけど(笑)、イベントの全貌は会場にいた3000人しか観ていない。ほとんどの人は2時間に編集された映像しか知らないんです。エディットされた映像が「さんピンCAMP」だと思われてるけど、実はそんなことないんですよね。現場では、もっといろんなことが起きてた。
本根 そうだね。
光嶋 でも、映像化することによって、観客数以上に広がりが生まれたと思うんです。嵐の櫻井翔さんが「さんピンCAMP」の映像を観てラップを始めたとか、そうやって次の世代が生まれた。「毎年7月7日には必ず通しで『さんピンCAMP』の映像を観てます」って人もいるし、上映会をやるとYOU THE ROCK★のコスプレで来てくれる50歳もいたりする(笑)。しかも、ダビングした映像で観たという人も多くて。
──最初にリリースされたVHSはコピーガードがかかってないんですよね。
光嶋 オープニングでYOU THE ROCK★がタグで書いた名言「ダビングすんじゃねえよ!?」は、もちろん「ちゃんと買え」って意味もあるけど、「みんなで観ろ」、もっと言えば「ダビングして友達に見せろ」って意味も込められてたと思うんですよね。
──アビー・ホフマンの「この本を盗め」のような、逆説的な意味もあったというか。
光嶋 買ってくれた人はもちろん、先輩に見せてもらった、ダビングしたVHSを借りたとか、そういう流れで影響を受けた人がどんどん生まれていったのは本当にうれしいことです。
いろんなタイプの人が、ヒップホップの引力に呼び寄せられて集まった
──映像を編集するとき、どんな視聴者を想定していましたか?
本根 今観るとゴリゴリにコアな層を狙ってるような感じがするけど、実際どうだった?
光嶋 僕が当時、実際に知っていたのは、MUROさんやユウちゃん、BUDDHA BRANDの観客ですね。あとはSHAKKAZOMBIE。そういう人たちや、彼らの現場にいる子たちを想定してたと思う。余談だけど、シャカのOSUMI(BIG-O)くんは僕が働いていたCISCOというレコード店のお客さんだったんですね。働いてる側として「すごいお客さんが来た!」と思うわけです(笑)。
本根 デケえのが来た!って(笑)。
光嶋 それで「メシ誘おうぜ」って、一緒に働いていたキミドリのクボタくんと一緒にナンパしたんですよ(笑)。
(一同爆笑)
光嶋 「ラップ好きなの?」って一緒に昼メシ食いに行って。そしたら、数日後にOSUMIくんがSHAKKAZOMBIEのデモテープを持ってきてくれたんです。
荏開津 マジで!? その話、初めて聞いた。
光嶋 そのデモテープを聴いて、「OSUMIくん、俺たち下北沢のSLITSでイベントやってるから、よかったら出てよ」って声をかけて。確か最初はウッドベースのメンバーがいました。
荏開津 へー。
光嶋 だから自分が出演してたSLITSのイベントの客層はわかる。MUROくんとも一緒にDJをしていたことがあるから、ペイジャーも含めた客層は当然わかる。ユウちゃんは昔から仲良しなのでわかる。でも、SOUL SCREAMやZeebraさんの客層はわかってなかった。
──なるほど。
光嶋 ちなみに「さんピンCAMP」のライブシーンって、パッケージに収録した以外に使える映像がほとんどないんですよ。当日はカメラを9台回したんだけど、撮影した映像素材をギリギリまで使って、あの構成になってる。
──それはなぜですか?
光嶋 雨の影響が大きいですね。水没してしまったカメラもあるし、ステージ下や煽りで録った映像は水滴で使えなかったり。特に僕が撮りたかったのは、お客さん越しの目線の映像なんだけど、それも数カットしか使えなかった。
荏開津 9台のカメラはどこに置いていたんですか?
光嶋 会場後方に3つ、ステージ上に2つ、あとは客席です。お客さんとして観に来ていた高校時代のサイプレス上野くんが客席にいて、彼が偶然写っているシーンが使われて、それが今につながっているというのはすごくうれしい話で。あとECD「銭の花」は、1分間ワンカメの長回しで撮影しているシーンがあって。
──ステージセンターでラップするECDさんを煽りで撮ってるシーンですね。
光嶋 あれは“日比谷野音の特等席”というイメージですね。
──イベントは7月7日に開催、VHSは12月4日にリリースされています。
本根 けっこうなスケジュールですよね(笑)。
光嶋 ひどいスケジュールでしたよ(笑)。僕も映画を監督した経験はないし、スタッフにキレられながら作っていますから。あと、何かのリストの提出が遅れたら、エイベックスのスタッフから「光嶋ちゃん、キミ、消しちゃうよ⁉」って言われて。
荏開津 ガラ良くないですね。
光嶋 「僕、消されちゃうんだ! うわー、ヤバい!」って(笑)。
本根 すみません。エイベックスは当時、アーティストは神様なんだけど、映像監督とかは下請け業者だと思ってるようなやつもいたので……。
光嶋 30年越しに言いたいですけど、「僕が消えたらこんな画は絶対撮れてないぞ!」って思ってましたよ(笑)。
本根 もちろんですよ。
荏開津 映像監督以前に、タカちゃんもラッパーでありアーティストだし。そう考えると、主催者も監督もラッパー、構成を担当しているのもDJという。だから、いろんなタイプの人がヒップホップの引力に呼び寄せられて集まったプロジェクトなんですよね。それはラッパーの人たちやDJたちにも言えて、本当に異なるバックグラウンドの人たちがヒップホップが好きで集まっていたんだと思います。それ以外に共通点はないぐらい。
光嶋 それ以外ないですね。僕に関して言えば、荏開津さんにはずっと仲よくしてもらってるし、ECDも大好きだし、その2人がいるからこそ、何がOKで何がダメかを監督として理解できる。だから、エイベックスのめっちゃ売れてるアーティストを担当してる映像チームの人とかに「お前なんか」みたいに思われてもどうでもいいや、と。もちろん悔しいけど(笑)。でも、本根さん、ECDさん、荏開津さんという先輩方が「いいよ」と言ってくれるし、その「いいよ」のツボが共有できてたことが一番大きかったと思いますね。
予想外のことばかり起こって、舞台監督はもちろん、映像クルーも全員キレてた(笑)
──映像ではILLMARIACHIの映像がすべてカットされています。これは出演者の中で唯一ですが、その部分はECDさんと共有できていましたか?
光嶋 そうですね。しっかり言っておきたいんですがILLMARIACHIのパフォーマンスを全カットしているし、カットしようと決めたのは監督である僕です。それはあのときのTOKONA-Xのライブのクオリティが、ほかのアーティストとは釣り合っていなかったから。
本根 石田さんはそれを了承した?
光嶋 相談したら「いいよ」と。その後、刃頭さんに会ってその事情を話したら「俺も今はわかるから」と言ってくれて。でもTOKONA-Xさんは亡くなってしまっているから、それを直接説明することもできなくなってしまったし、TOKONAさんからもそのときの話を直接聞くことができない。それをすごく後悔してる。だからこそ、これからも悩むと思う。
──当時のTOKONA-Xはまだ17歳ですね。しかも東京に活動拠点を置くアーティストがほとんどの中、名古屋から参加するというアウェイでもあった。
光嶋 そんなアーティストが大規模なイベントに出て、映像化されたら自分のシーンだけが全カットされていたという心境を慮ると、本当に申し訳ない。でも、あのときの彼のライブは、みんなの知ってるTOKONA-Xじゃなかった。Zeebra、MURO、YOU THE ROCK★というメンツのパフォーマンスと比べると、映像的に収録するのは難しかった。その話をZeebraさんにしたら、「あの挫折があるから、その後のTOKONA-Xがあるんでしょ」って言ってくれて。
──のちにリリースされるILLMARIACHIの楽曲「NAGOYA QUEENS」など、TOKONA-Xが「親名古屋 / 対東京」のスタンスを明確にしたきっかけでもあるだろうし、それが“TOKONA-Xを中心にした名古屋シーンの確立”へとつながる部分はありますね。
光嶋 もう1つカットしたかったのがHACちゃん(笑)。彼女とは一緒にレコード屋さんで働いてたし、曲も好きだし、仲もいいし、人間として大好きです。でも「さんピン」でのパフォーマンスはあんまりよくなかった。これはHACちゃん自身にも言ってる。それで石田さんに「カットさせてください」って言ったら、「ダメだ」って。当たり前ですよね(笑)。
荏開津 コンピレーションにも入ってるし。
光嶋 でも、今は結果としてHACちゃんを入れてよかったと思うし、Zeebraさんも「男が会場でみんな歌ってたよ、野太い声で」って言ってくれて(笑)。
──その意味でも、光嶋さんはライブのクオリティを重視していたんですね。
光嶋 あとはメッセージとライブならではの流れですよね。Mummy-Dさんの「まだだぞ」のパートもカットしようとすればできるんだけど、カットしてない。あれは入れなきゃいけないんです。
本根 生々しくていいよね。
光嶋 そう。あと、Kダブさんの厚生省のくだりとか。熱い人たちを撮っているけど、僕自身は出演者と共有するような熱は持っていないから、すごく客観的に見てる部分があるんですよね。そのうえで興味深く感じたシーンを入れて作ったのが「さんピンCAMP」の映像です。
──いわゆる「通しリハ」ってやってるんですか?
本根 やりました。関わってたスタッフが誰もあの規模のコンサート制作をわかっていなかったんですよね。だから進行表には曲名と人名が書いてあるだけで、曲の時間や、舞台の入りと捌けのカミシモも書いてない。その状況を見かねて、舞台監督が「じゃあランスルーしましょう。それをまとめて進行表を作ります」と言ってくれたんだけど、みんな「……ランスルーってなんですか?」ってレベルで(笑)。
──すごい(笑)。
本根 いざランスルーをやることになったんですけど、MUROが当日リハスタに来なかったんです。それにRHYMESTERのMummy-Dがキレて「MUROは何やってんだよ!」って怒っちゃって。
──なんで怒ったんでしょうか。
本根 リハを見せるということは、自分の手の内を別のグループに明かすということですよね。だから「俺らは見せたのに、MUROはなんで隠してるんだ」ということだったと思う。
一同 あー。
──今のようにライブの映像や資料が豊富にあるわけじゃないし。
光嶋 それで当日になったら、MUROのステージにはあの人数が登る(笑)。
──のちのNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDにつながるメンツなど、10人近くがステージに上りましたね。
光嶋 そうやって予想外のことばかり起こって、舞台監督はもちろん、映像クルーも全員キレてた(笑)。進行表も資料も適当だから、「誰がどっちから出てくるの!?」「俺(光嶋)もわかんないです」「わかんないじゃねえだろ!」みたいな。しかも、あの日のHACはゼブラ柄の衣装だったじゃないですか。そうしたらインカムでカメラ担当者から「光嶋くん、あれがZeebra?」って(笑)。
一同 あははははは!
DEV LARGEが「ライブは全部レコードの2枚使いでやるから」と突然言い出した
本根 話をランスルーに戻すと、舞台監督に叱られながらランスルーが終わったら、今度はBUDDHA BRANDの反省会が始まっちゃったんです。「俺たちはトリだから、あとには引けないぞ」とDEV LARGEがピリピリしてて。しかも、ランスルーかリハのあとに「ライブは全部レコードの2枚使いでやるから」って言い出したんだよね。ビデオ化するのが決まってるのに、オリジナルトラックじゃない「人間発電所」が入るライブなんて商品価値がなくなるな……と頭を抱えた。しかも、それがほかのスタッフや上長にバレたら「絶対阻止しろ!」と言われるのがわかりきってるから、見て見ぬふりをしなくちゃいけないし、もうなるようになれ、と(笑)。
──Run D.M.C.やPublic Enemyといったヒップホップ曲のトラック使いはもちろん、マーヴィン・ゲイの「After The Dance (Instrumental)」から、The Whole Darn Family「Seven Minutes of Funk」へとつなぐ展開は、今観てもスリリングですよね。
光嶋 そう! あそこでDEV LARGEが被せる「ワンツー! ワンツー!」がめちゃめちゃカッコいい。
本根 でもマーヴィン・ゲイが流れた瞬間に「あ……もう著作権的にも映像化は完全にダメだ」と思いましたよ。結果知らんぷりしましたけど(笑)。
荏開津 RINOさんが口笛でパフォーマンスを始めるのもランスルーでやってましたっけ?
本根 あれはやってなかったと思う。だから、よくあの位置(ターンテーブルの裏側)にカメラがあったよね。
光嶋 ステージ裏のカメラは無事だったので。
本根 タカちゃんの演出で好きなのは、出演者が会場入りするシーンを撮影しているところ。あれは僕が思うに、ラッパーが化けていく瞬間じゃん? 会場に入るときと、イベントが終わったときで、アーティストとして、社会的なステータスまでも変わっていくという、人生の分岐点の瞬間を捉えてるというか。本当に素晴らしい演出だと思う。
光嶋 ただ、僕は「さんピンCAMP」を納品して、その日から10年近く、ラップを聴かなかったんですよ。もちろんカッコ悪いとか嫌いになったとかはまったく思ってない。YOU THE ROCK★をはじめ、出てる人全員カッコいいと思ってる。だけどもうヒップホップはご馳走様という感じで、別の方向に進むようになった。それくらい作業はしんどかった。
荏開津 同時代のアメリカのヒップホップのメインストリームはディディ(ショーン・“ディディ”・コムズ)が帝王のような存在となって時代を築き、すさまじいお金をかけて映画みたいなミュージックビデオを撮影するようになるわけじゃん。ほんの数年でヒップホップがガラッと変わった。だからその頃タカちゃんが「もうラップを聴くのはいいかな」って離れた気持ちはすごくよくわかる。
光嶋 もちろん、デザインや制作でヒップホップには関わるんだけど、積極的にコミットしようとは思わなくなりましたね。特に最先端と呼ばれるものには。
<後編に続く>
本根誠
1961年大田区生まれ。WAVE、ヴァージンメガストアなどCDショップ勤務を経て、1994年、エイベックスに入社。cutting edgeにてディレクターとしてECD、東京スカパラダイスオーケストラ、BUDDHA BRAND、SHAKKAZOMBIE、キミドリ、Fantastic Plastic Machineなど、さまざまなアーティストを手がける。「さんピンCAMP」では、主催者であるECDを担当ディレクターとしてサポートした。独立~東洋化成を経て現在、再びエイベックス勤務。
本根誠 Sell Our Music _ good friends, hard times Vol.9 - FNMNL
荏開津広
東京生まれ。執筆家 / DJ / 立教大学兼任講師。東京の黎明期のクラブ、P.PICASSO、MIX、YELLOWなどでDJを、以後主にストリートカルチャーの領域で国内外にて活動。2010年以後はキュレーションワークも手がける。「さんピンCAMP」では、スーパーバイザーとしてコンセプトや構成に携わった。
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光嶋崇
岡山県出身。アートディレクター / 大学講師。桑沢デザイン研究所卒業後、スペースシャワーTV、レコードショップCISCO勤務を経て、ドキュメンタリー映画「さんピンCAMP」を監督。のちにデザイン事務所設立。スチャダラパー、MURO、クボタタケシ、かせきさいだぁ、BMSG POSSEなどのデザインを手がける。
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光嶋 崇(@takashikoshima) | X
光嶋 崇(@takashikoshima) | Instagram
※文中のアーティスト表記は、原則的に「さんピンCAMP」開催当時に沿っています。
